城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二二年一一月二七日 関根弘興牧師
第一サムエル一八章六節〜一二節
サムエル記連続説教7
「妬みと疑い」
6 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。11 サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。12 サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」(新改訳聖書第三版)
キリスト教会の教会暦では、今日からアドベント(待降節)に入ります。イエス様が救い主として来てくださったクリスマスを待ち望む期間です。この期間に、クリスマスの意味をあらためて深く味わうことができたらいいですね。
さて、前々回と前回は、サウルが、神様によってイスラエルの初代の王に選ばれたのにもかかわらず、いくつもの失敗をしてしまったという出来事を見ましたね。
でも、失敗を犯さない人はひとりもいません。大切なのは、失敗をした時、どのような態度を取るかということです。自分の姿を正直に見つめ、反省し、あらためて神様に信頼し、謙虚に聞き従っていこうとすることが大切なのですね。それによって、失敗をも益となっていくでしょう。
しかし、サウルは、預言者サムエルに厳しく指摘されても、真摯に反省しようとせず、言い訳や他人への責任転嫁をするだけでした。王は人を従わせる立場ですから、誰かに従うのは嫌だ、自分より優れた者がいるとは認めたくない、排除したい、と思ってしまう誘惑があるのですね。サウロの内にも、神様を遠ざけようとする自己中心的な思いや神様への不信感が少しずつ大きくなっていったのです。
そんなサウルに対して、サムエルは「主はあなたを王位から退けた」と宣言しました。といっても、すぐに別の王に代わったわけではありません。その後も、サウルの王としての権力と地位は次第に強固になっていきました。
しかし、その背後で、預言者サムエルは、神様の命令に従って、ひそかに別の人物を王に選び、油を注いだのです。油を注ぐ儀式は、その人が神様から任命されたことを示すものでした。ただ、油が注がれたらすぐに王位に就くわけではありません。サウルもそうでしたね。油注がれた後、その人が王にふさわしいことが具体的に証明され、民の承認のもとに正式な即位式を行って王になるわけです。
しかし、考えてみてください。すでにサウル王がいるのですから、サムエルが別の人物に油を注ぐということは、一歩間違えれば、王に敵対し、クーデターで国の転覆をたくらむ反逆者というレッテルを貼られ、命が狙われる危険がありました。それでも、サムエルは神様の命令に従い、新しい王となるべき人物に油を注いだのです。その経緯が16章に書かれています。
1 ダビデの登場
16章1節で神様はサムエルにこう言われました。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」しかし、サウルに知られると命の危険がありました。そこで、神様はサムエルに「『主にいけにえをささげに行く』と言ってベツレヘムに行き、いけにえをささげるときに、エッサイと息子たちを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう」と言われたのです。サムエルは、そのとおりにしました。
このエッサイは、ルツ記に出てくるルツとその夫ボアズの孫にあたる人物です。ルツ記には、イスラエルにまだ王がいなかった時代の出来事が書かれています。飢饉が起こったため、ベツレヘムにいたナオミは、夫と息子二人と共にモアブの地に移りました。息子たちはそれぞれモアブ人の妻をめとりますが、兄息子の妻になったのがルツです。ところが、夫と息子たちが次々とモアブの地で死んでしまったのです。失意のナオミは、二人の嫁をモアブの実家に帰し、自分一人で故郷のベツレヘムに戻ることにしました。しかし、ルツは「私はあなたから離れません。あなたの神は私の神です」と言って、ベツレヘムに一緒にやってきたのです。その町で、ルツは、ナオミの親戚のボアズと出会い結婚しました。このボアズとルツの夫婦の息子がオベデ、オベデの息子がエッサイというわけです。
エッサイはサムエルのもとに七人の息子を連れてやってきました。長男のエリアブを見て、サムエルは「この人こそ王にふさわしい」と思いました。しかし、主は言われました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(16章7節)
次に次男、三男、四男、と順に息子たちがサムエルの前に進み出たのですが、七人の息子の誰も主に選ばれていませんでした。そこで、サムエルがエッサイに「子どもたちはこれで全部ですか」と尋ねると、エッサイは答えました。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルは、その子を連れて来させました。それがダビデです。「その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった」と書かれています。主は「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ」と言われました。主は、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われましたが、ダビデは容姿端麗でもあったのですね。
サムエルは、ダビデに油を注ぎ終えると、すぐ自分の家に帰っていきました。ダビデに何かをするように指図したわけではありません。油を注いだときに「主はあなたを新しい王に選ばれた」と言ったわけでもなさそうです。その場にいたダビデも父や兄弟たちも、サムエルがなぜダビデに油をそそいだのかよくわからなかったでしょう。ただ何かの目的のために神様がお選びになったということしかわかっていなかったのではないかと思います。ただ、「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」と書かれています。この時から、神様がダビデを王位へと導き始められたのです。
2 王位への道の始まり
(1)サウル王の道具持ちになる
一方、サウル王はどうだったでしょうか。16章14節にこう書かれています。「主の霊はサウルを離れ、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。」サウルが神様に背を向けた結果、神様との麗しい関係が失われ、彼の心は次第に罪悪感、不信感、恐れ、怒り、猜疑心などに苛まれていきました。そのため、精神的に不安定になり、突然暴力を振るうなど、病的な状態に陥ることが頻繁に起こるようになっていたのです。家来たちは、王に「立琴の美しい音色を聴けば落ち着くでしょう」と提案して、ダビデを推薦しました。ダビデは羊飼いでしたが、立琴の名手でもありました。その上、分別もあり、勇敢でもある、ということで、王の道具持ちとして仕えるようになったのです。サウルの状態が悪くなるたびにダビデが呼ばれて立琴をひくと、サウルは元気を回復しました。音楽療法のはしりですね。
こうしてダビデは王のそばで仕えることになりましたが、必要のないときは、家に帰って羊の番を続けていました。
(2)資質を証明する
当時、イスラエルの最大の敵はペリシテ人でした。以前、サウル王率いるイスラエル軍に敗れたペリシテ軍が、再び戦いを仕掛けてきたのです。谷を挟んでペリシテ軍は向こう側の山の上に、イスラエル軍はこちら側の山の上に陣を構えました。
両軍が睨み合っている時、ペリシテ軍からゴリヤテという戦士が出てきました。彼は、身長が約二メートル八十センチの巨人でした。鎧の重さは約五十七キロ、槍は、穂先だけで約七キロもあったのです。当時は、全員で戦う代わりに、代表戦士が戦って勝敗を決めることがありました。そこで、ゴリヤテはこう叫びました。「おまえたちの中からひとりが出てきて俺と勝負しろ。俺が負けたら、俺たちはおまえたちの奴隷になる。もし俺が勝ったら、おまえたちが俺たちの奴隷になるのだ。」
サウル王もイスラエル軍の戦士たちも非常に恐れました。誰も出て行こうとしません。戦意消失状態です。ゴリヤテは、その様子を見てますますふてぶてしくなって、四十日間、朝と夕に出て来ては、イスラエル軍を嘲り、挑発し続けたのです。
ところで、イスラエル軍には、ダビデの兄三人が従軍していました。父のエッサイは、家で羊の番をしていたダビデに「陣営に差し入れを持って行って、兄さんたちの安否を確かめてきてくれ」と頼みました。そこで、ダビデが陣営に行くと、ちょうどその時、ゴリヤテが出て来て、いつもと同じ文句をくり返したのです。恐れているまわりの人々に向かって、ダビデは言いました。「神様を信じていない奴に、あんな好き勝手なことを言わせていいんですか。生ける神の陣をなぶるとは、とんでもないことだ。」ダビデの言葉を伝え聞いたサウル王は、ダビデを呼び寄せました。ダビデはサウル王に言いました。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」これは考えてみると、おかしな話ですね。一介の羊飼いが王様の前に出て行って、「気を落としてはなりません」と言っているのですから。
しかし、もしダビデがゴリヤテに負けたら、それは、イスラエル軍の敗北を意味します。サウル王は「あなたは若くて戦士の経験がないから、あの百戦錬磨のゴリヤテと戦うのは無理だ」と懸念を示しました。するとダビデは自信満々にこう答えました。「私は、羊の群れを襲ってくる獅子や熊を打ち殺したことが何度もあります。獅子や熊から私を救い出してくださった主は、あのゴリヤテからも私を救い出してくださいます。」
ダビデの確信に満ちた姿を見て、サウルはダビデを戦わせることにし、自分の鎧と兜を着させ、自分の剣を持たせました。しかし、ダビデはその格好に慣れていないので自由に歩くこともできません。そこで、ダビデは、サウルの武具は使わず、自分の使い慣れた道具を使うことにしたのです。川でなめらかな石を五つ拾って袋に入れ、羊を飼うときにいつも使っている石投げと杖を持ってゴリヤテに向かっていったのです。
ゴリヤテはダビデの姿を見てあざ笑い、「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と嘲りました。そのゴリヤテにダビデは宣言しました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
ダビデは、袋の中から石を一つ取り、石投げでそれを放ちました。その石が見事にゴリヤテの眉間に命中し、ゴリヤテはうつ伏せに倒れました。すると、ダビデは、すばやく走って行き、ゴリヤテの剣を奪ってとどめを刺したのです。あまりにもあっけない幕切れでした。それを見たペリシテ軍は逃げ出しました。イスラエル軍は、ときの声をあげてペリシテ軍を追いかけました。そして、大勝利を収めたのです。
ダビデは、羊飼いの生活の中で積み重ねてきた経験と技術、そして、自分の持っているものを使って勝つことができました。私たちも同じです。神様は、私たちの今までの経験や今持っているものを用いて、みわざを行わせてくださるのです。
3 サウルの妬みと疑い
勝利の立役者となったダビデは、サウル王に戦士として召し抱えられることになりました。すると、ダビデはどこに行っても勝利を収め、戦士たちの長となりました。人々は彗星のごとく現れた凄腕の戦士に拍手喝采を浴びせました。ダビデは一躍有名になりました。まさに時の人になったわけです。
イスラエル軍が戦いに勝利して帰ってくると、すべての町々の女性たちが喜び迎えました。そして、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と繰り返し歌い、踊ったのです。
これは、サウルよりダビデのほうが優れているという意味ではありません。「サウルとダビデが、千人、万人の敵をやっつけた」ということで、つまり、「この国にサウル王と勇士ダビデがいれば、鬼に金棒、安心だ。万歳!」という意味ですね。サウルも、ダビデという優れた戦士が部下となったことを素直に喜んでもよかったはずです。もしサウルが、「主よ、感謝です。この国にダビデという戦士が誕生しました。みんなも喜んでくれ」、こう叫んだら歴史は変わりましたよ。
しかし、今日読んだ18章8節ー9節にこう書かれています。「サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。『ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。』その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。」
問題は予期せぬ時に起こるものですね。国中が勝利の喜びの絶頂にあったときに、サウル王の心の中には激しい妬みが生じ、疑念の雲が湧き上がっていたのです。
サウルは、自分自身の過ちが原因で、神様から「あなたを王位から退けた」という宣告を受けていました。それなのに、心から悔い改めることもせず、神様の宣告を謙虚に受け入れることせず、自分の王座にしがみつき、自分の王位を脅かしかねない存在、自分より優れているように見える存在に対して恐れ、疑い、妬みを抱いたのです。
ダビデが何か悪いことをしたわけではありません。ただ、国のために命をかけて戦っただけです。それに、ダビデ自身は、自分がサウルに代わって王になろうなどとは少しも思っていませんでした。しかし、サウルは、ダビデを妬み、王位を狙っているのではないかと疑い、恐れ、殺意まで抱くようになっていくのです。ダビデにとっては割の合わない仕打ちですね。サウルは、こうして徐々に精神を病み、自らに滅びを招くことになっていきます。
4 私たちが学ぶべきこと
このサウルの姿から、私たちはいろいろと学ぶことができます。私たちもサウルと同じような弱さを持っているからです。
(1)妬みの原因
サウルは、自分とダビデを比べて妬みにかられました。しかし、比べる必要などなかったのです。神様は、一人一人を愛し、それぞれに賜物を与え、役割を与えてくださっているからです。自分が神様に愛されている価値ある存在だとうなずける人は、人と比べて自分の価値を測ろうとはしません。自分も人もそれぞれ価値ある存在だと認めることができるからです。
しかし、サウルは、自分が神様に従わなかったという罪悪感を持っていました。神様が自分を王にふさわしくない人間だと見なされたことに怒りも感じていました。そこで、ダビデを妬み、憎んだのです。
創世記の最初に出てくるアダムの息子カインも、自分の神様に対する姿勢に問題があったのにもかかわらず、神様が弟のささげ物だけを受け入れ、自分のささげ物を受け入れてくださらなかったことで、弟を妬み、殺してしまいましたね。
私たちも、つい人を妬んでしまうことがありますね。でも、もし自分の中に妬みがあることに気づいたら、神様との関係を思い起こすといいですね。神様が自分を尊い者であると見なし、愛してくださっていること、必要な恵みを十分に与え、自分のために最善をなしてくださることを思い起こせば、人を妬む必要などないことに気づくでしょう。
ローマ12章10節にこう書かれています。「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
自分が愛されていることを確信できるなら、他の人々も神様に愛され祝福されていることを喜べるようになります。そして、お互いに相手が自分よりまさっているところを認め合うことができたら、そこには励ましと慰めがあふれることでしょう。
バークレーはこう書いています。「人間にとって最も尊い義務のひとつは、励ましを与えるという義務である。人々の理想を笑ってけなすのは簡単だ。その熱心さに冷水をかけるのはたやすい。他の人達を失望させるのは実に簡単である。私たちクリスチャンの義務は互いに励まし合うことである。誉め言葉や、感謝や、好ましい評価、励ましの一言によって多くの場合、人は守り支えられる。そのような一言を語り得る者に、祝福があるように。」
(2)疑いへの対処
サウルはダビデが王位を狙っているのではないかと疑い始めました。いったん疑い始めると、何もかもが疑わしく見えてきて、疑いの泥沼にはまりこんでいくことが多いですね。
私たちにもそういうことがないでしょうか。「あの人が挨拶してくれなかった。きっと私のことを嫌っているんだ」と思ってしまうことがありますね。でも、もしかしたら、その人が近視でよく見えなかっただけかもしれません。あるいは、その人が何かの考えに没頭していただけかもしれません。また、誰かが善意でアドバイスしてくれたのに、「私のやり方に不満があるんだ」と思い込んでしまうこともありますね。例を挙げたらきりがありませんが、誰かに対して疑いを持ったときに、自分の色眼鏡や偏見で思い込んでしまわないように気を付けなければなりません。疑いを持ったとき、その疑いが本当に根拠のあるものなのかどうか、落ち着いて考えてみる必要がありますね。
(3)誤解は避けられないという現実
ただし、私たちは、人から誤解されることがあり、その誤解を解くことが難しい時があることも知っておく必要があります。 ダビデは国のために勇敢に戦っただけで、自分がサウルを退けて王座に就こうなどとはまったく考えていませんでした。それなのに、サウルに疑われ、執拗に命を狙われ、長い間、逃亡生活を送ることになります。ダビデは、サウルの誤解を解こうと何度か試みるのですが無駄でした。結局、サウルがペリシテとの戦いで戦死するまで、ダビデの逃亡生活は続くのです。
しかし、ダビデは自分からサウルに害を加えようとは決してしませんでした。自分が主の前に正しく生きていれば、主が共にいて守ってくださると確信していたからです。そして、実際に困難の中で主の守りと支えを経験し、多くの詩を書き記しました。
私たちも、あらぬ誤解を受けて苦しい状況に置かれることがあるかもしれません。心ならずもそこから離れざるをえない事態になることもあるでしょう。しかし、そんな苦しい状況の中にも主が共にいてくださり、すべてのことを益としてくださることを信頼することができるのです。主が「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださっているからです。その主にゆだねつつ、人のすぐれたところを認めながら、主の恵みを味わい、分かち合う者とされていきたいですね。