城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年一月八日              関根弘興牧師
              第一サムエル二三章一節〜一四節
 サムエル記連続説教8
   「ケイラを救え」
 
 1 その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」2 そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」3 しかし、ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」4 ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」5 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を連れ去り、ペリシテ人を打って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。6 アヒメレクの子エブヤタルがケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエポデを携えていた。7 一方、ダビデがケイラに行ったことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。ダビデはとびらとかんぬきのある町に入って、自分自身を閉じ込めてしまったからだ」と言った。8 そこでサウルは民をみな呼び集め、ケイラへ下って行き、ダビデとその部下を攻めて封じ込めようとした。9 ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」10 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。あなたのしもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。11 ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、あなたのしもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、あなたのしもべにお告げください。」主は仰せられた。「彼は下って来る。」12 ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は仰せられた。「彼らは引き渡す。」13 そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラからのがれたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。14 ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。(新改訳聖書第三版)
 
 今週から、再び旧約聖書のサムエル記を読んでいきましょう。まず、前回までのことを思い出してください。
 イスラエルの民は、周りの国と同じように王様が欲しいと願いました。そこで、民の指導者であった預言者サムエルは、ベニヤミン族のサウルに油を注ぎ、初代の王に任命しました。
 王を持つこと自体は、決して悪いことではありません。しかし、良い王になるためには、神様の前にいつも謙遜であることが大切でした。サウルは、どうだったでしょうか。最初は謙虚でしたが、次第に神様の命令にそむき、自分勝手な行動を取るようになっていきました。そのことを預言者サムエルに厳しく指摘されても、言い訳をしたり、他人に責任転嫁して、心から反省しようとはしなかったのです。失敗を犯さない人など一人もいません。大切なのは、失敗をした時、どのような態度を取るかということです。もしサウルがサムエルに叱責されたとき、自分の姿を正直に見つめ、反省し、あらためて神様に信頼し、謙虚に聞き従っていこうとしたなら、歴史は変わっていたでしょう。しかし、サウルは、神様に対して心から悔い改めることをせず、自分の王位にしがみつき、心の中は利己的な欲望や神様への罪悪感や人々への猜疑心や恐れでいっぱいになり、次第に心の平安を失っていったのです。
 ちょうどその頃、ペリシテの軍隊が攻めてきました。ペリシテ軍とイスラエル軍は向かい合って陣を敷きましたが、ペリシテの陣営からゴリヤテという大男の代表戦士が朝に晩に出て来てはイスラエル軍をなじり、こう挑発したのです。「おまえたちの中からひとりが出てきて俺と勝負しろ。俺が負けたら、俺たちはおまえたちの奴隷になる。もし俺が勝ったら、おまえたちが俺たちの奴隷になるのだ。」サウル王もイスラエル軍の戦士たちも非常に恐れました。誰も出て行こうとしません。戦意消失状態です。ところが、たまたま兵士である兄たちに面会に来ていたダビデが、神様を侮るゴリヤテの言葉に腹を立て、自分が戦うことを決意しました。ダビデは、羊飼いが使う杖と石と石投げ器だけを持ってゴリヤテに向かっていきました。そして、石投げ器で石を放つと、それが見事にゴリヤテの眉間に命中したので、ゴリヤテはうつ伏せに倒れてしまいました。それを見たペリシテ軍は逃げ出し、イスラエル軍は大勝利を収めたのです。
 勝利の立役者となったダビデは、すぐにサウル王に戦士として召し抱えられました。そして、どこに行っても勝利を収め、戦士たちの長となりました。ダビデは一躍有名になり、人々の人気の的となって拍手喝采を浴びたのです。
 イスラエル軍が戦いに勝利して帰ってくると、すべての町々の女性たちが喜び迎え、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と繰り返し歌い踊りました。これは、サウルよりダビデのほうが優れているという意味ではありません。「サウルとダビデが、千人、万人の敵をやっつけた」ということで、つまり、「この国にサウル王と勇士ダビデがいれば、鬼に金棒、安心だ。万歳!」という意味です。サウルも、ダビデという優れた戦士が部下となったことを素直に喜んでもよかったはずです。しかし、サウルは、ダビデを妬み、ダビデが王位を狙っているのではないかと疑いました。そして、何とかしてダビデを亡き者にしたいと強く思うようになっていったのです。
 
1 サウルの愚行
 
 サウルは、ダビデを殺したいと思っていましたが、ダビデは人々にも家臣たちにも人気があるので、おおっぴらに手を下すわけにはいきません。そこで、サウルは、一つの策略を立てました。第一サムエル18章17節にこう書かれています。「あるとき、サウルはダビデに言った。『これは、私の上の娘メラブだ。これをあなたの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。』サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。」サウルは、ダビデに激しい戦いをさせて戦死させようとしたのです。「主の戦い」を口実にして人を殺そうとするのですから、サウルの心はすでに神様から遠く離れてしまっていたのですね。ダビデは、もちろん勇敢に戦いましたが、戦死することなく、勝利を重ねていきました。ですから、サウルは約束通りメラブをダビデに与えるべきだったのですが、いざという時になって、別の人に妻として与えてしまったのです。
 次にサウルは、もう一人の娘ミカルがダビデを愛していることを知ると それを利用してダビデを殺そうと考えました。まず、ダビデに「ミカルと結婚して私の婿になりなさい」と言い、そして、家来たちには、ダビデに対して王の婿となることを勧めるよう命令したのです。家来たちは、ダビデが「私は貧しく、身分の低い者だ」と言って躊躇していることを伝えました。すると、サウルは、またダビデのところにやってこう言わせたのです。「王は花嫁料(結納金)を望んでいない。ただ、ペリシテの兵隊百人を討ち取った証拠を持ってくることだけを望んでいる」と。サウルは、これでダビデはペリシテの兵隊に殺されてしまうだろうと考えたわけです。しかし、どうでしょう。なんとダビデは百人どころか二百人を討ち取ってきたのです。今回は、家来たちも約束のことを知っていますから、サウルは仕方なく娘ミカルをダビデの妻として与えることになりました。
 サウルは、自分の思い通りに進まず、ダビデが成功し続けるのを見て、ますますダビデを恐れるようになっていきました。そして、ついに、「ダビデは王位を狙う謀反を企んでいるから、殺さなければならない」と公に宣言し、討伐隊を出動させたのです。
 
2 ダビデの逃亡生活
 
 しかし、サウルの息子ヨナタンは、ダビデを友として心から愛していました。サウルがダビデを殺そうとしていることを知ると、サウルをいさめ、止めようとしたのですが、サウルは聞く耳を持ちません。そこで、ヨナタンは、ダビデに危険を知らせ、逃亡の手助けをしたのです。
 ダビデは、何も持たず身一つで逃れなければなりませんでした。彼は、まず、ノブの祭司アヒメレクの所にいきました。
 以前は、シロという町に幕屋(出エジプトの時に作られた仮設の神殿)が置かれていましたが、サウル王の時代には、ノブに幕屋が移され、多くの祭司たちが住んでいたようです。
 ダビデは、食糧をもっていなかったので、祭司アヒメレクが主の前から取り下げてきたパンをもらいました。また、ダビデは、武器を何も持っていませんでしたが、ちょうど、そこに、以前ダビデが倒したゴリヤテの剣が記念に保存されていたので、それをもらい、サウル王から逃れるために、敵国ペリシテのガテの町に向かったのです。
 しかし、ガテの王アキシュの家来たちは、やってきた男があの有名なダビデではないかと疑い始めました。そこで、ダビデは、気が違ったふりをしてそこから逃れ、アドラムという場所の洞穴に避難しました。すると、第一サムエル22章1節ー2節にこう書かれています。「彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」
 ダビデが追われるということは、ダビデだけの問題ではありませんでした。ダビデの家族、父の家の者すべての命が狙われることになったのです。そこで、ダビデは、両親をモアブの王のもとに連れて行って保護してもらうことにしました。ダビデの曾祖母であるルツはモアブ出身の女性だったので交流があったのかもしれません。そして、この時から、ダビデは仲間や部下たちと行動を共にすることになりました。
 サウル王は、執拗にダビデを追いかけました。そして、ますます愚かで残虐なことを行ない始めました。サウルは、ダビデがノブのアヒメレクのもとに行ったこと、そして、アヒメレクがダビデにパンと剣を与えたことを知ると、アヒメレクとその一族八十五人を呼び寄せ、「あまえたちはダビデと共に謀反を企て、ダビデの逃亡に手を貸した」と責め、アヒメレクの弁明に一切耳を貸さず、その場で全員を虐殺したのです。それだけでなく、祭司の町ノブに住む男も女も子どもも乳飲み子も家畜もすべて皆殺しにしてしまいました。祭司を殺すということは、神様に従うことを放棄することと同じでした。信仰決別宣言のようなものですね。
 この災難を免れた祭司が一人だけいました。アヒメレクの子エブヤタルです。祭司たちが王に呼び出されたとき、幕屋の番をしていたのでしょう。エブヤタルはダビデのもとに逃げてきて一部始終を報告しました。ダビデの心は引き裂かれるような大きな痛みを感じたことでしょう。自分が祭司たちの虐殺のきっかけとなってしまったからです。ただ、大祭司を引き継ぐエブヤタルは無事でした。大祭司が神様に仕えるときに身に付けるエポデも持って来ました。ダビデは、エブヤタルを守ることを約束し、この時から、神様に使える大祭司もダビデと行動を共にすることになったのです。
 
3 ケイラを救え
 
 さて、ダビデが逃亡生活をしている最中に、「今、ペリシテ人がケイラという町を攻めて、打ち場を略奪している」という知らせが届きました。打ち場とは、収穫直後の穀物が積まれている場所です。ダビデは考えました。「逃亡の身である自分がペリシテ人と戦うことなどできるだろうか。それに、それは自分が本来やるべきことなのだろうか。」彼は葛藤しました。しかし、ダビデはいつも神様に聞くという姿勢を持っていました。ダビデは祈りました。「私が行って、ペリシテ人を打つべきでしょうか。」すると、主は「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え」と言われたのです。ダビデは躊躇しました。ダビデの部下たちも逃亡中の自分たちがペリシテ人に勝てるのかという不安の声をあげました。ダビデはもう一度祈りました。主は、やはり「行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡す」と言われました。神様はダビデの心の中に志しを立てさせ、励ましのことばを語ってくださいました。ダビデの内に次第に確信が生まれてきたようです。そこで、ダビデは部下たちとケイラに行ってペリシテ人を打ち、ケイラの住民を救ったのです。
 
4 ケイラ脱出
 
 ケイラの人々はダビデたちに感謝し、ダビデたちはしばらくケイラに滞在することになりました。しかし、こんどは、サウル王の軍勢がケイラにいるダビデたちを封じ込めるために下ってくるという情報が入りました。サウル軍に包囲されたとき鍵となるのはケイラの住民です。ダビデの中には「自分たちがケイラの人々を救ったのだから、彼らが裏切ることはないだろう」という思いや「いや、彼らは何だか信用できない」という思いがあったのかもしれませんね。ダビデは祈りました。「この町の人々は私をサウルの手に引き渡すでしょうか」と。すると、神様は「彼らはあなたがたを引き渡す」と言われたのです。
 
(1)ケイラの民の風見鶏的な姿
 
 ケイラの住民は、状況に応じてすぐに向きを変えてしまう人たちでした。助けてもらって喜んでいても、風向きが変わればすぐに裏切ってしまう人たちだったのです。
 コウモリが出てくるこんな寓話がありましたね。ある時、獣と鳥が戦いました。コウモリはどっちに味方しようか考えました。「俺は体は獣みたいだけど、羽があるから鳥のようでもあるし。強そうな方に味方したほうがいいな。」コウモリは、獣が優勢になると獣側に付きました。鳥が優勢になると鳥側に付きました。それをくり返していたのです。ところが、最後に、獣と鳥は仲直りをしました。さあ大変です。コウモリは、両方からつまはじきにされて、結局、洞窟の奥深いところで生活しなければならなくなってしまったというお話です。
 新約聖書には、イエス・キリストの周りに多くの群衆が集まってきたことが書かれています。彼らは喜んでイエス様の話を聞きました。多くの病人が癒やされました。しかし、自分たちに都合が悪くなると、一人去り、二人去り、皆いなくなってしまったのです。誰も自分で犠牲を払おうとはしませんでした。 ケイラの民に象徴される姿は、いつの時代にも、どの場所にもあるのですね。都合のよい時だけ神様を持ち上げて、都合が悪くなると「信仰はもういいです」というふうになってしまうのです。私たちはケイラの住民を「恩知らずな人たちだ」と思うかもしれません。しかし、私たちも似たり寄ったりなのです。私たちのために命を捨ててまで救おうとしてくださるイエス様に対して、ケイラの民と同じような反応をしていることはないでしょうか。都合の良いときだけ神様を賛美し、都合が悪くなると目を背けてしまうということはないでしょうか。
 
(2)ダビデの姿
 
 私は今日の箇所を読むと、よくぞダビデはつまずかなかったなあと思います。振り返れば、ゴリヤテとの戦いに勝利して熱狂的な歓迎を受け、一躍スターの地位に踊り出ましたね。しかし、今は一転して命を狙われ、逃亡生活です。また、ケイラの町を救ったのに、その町の人々は自分たちの保身のためにすぐにダビデを裏切るというのです。神様もひどいじゃありませんか。恩人を簡単に敵に売るような人々を、ダビデはどうして助けなくちゃいけなかったんでしょうか。骨折り損のくたびれもうけではありませんか。神様が「行け」と言われたから、行ってケイラの人々を救ったのではありませんか。それなのに、何の見返りもないわけですね。神様を信じているのに、こんなことが起こるなんて理不尽ではありませんか。
 私たちは「信仰があれば、いつも勝利と喜びがあって、何も問題がなくなる」というような勝手なイメージを持ちやすいですね。しかし、ダビデの人生を見ると、理不尽なことが次々と起こっています。それなのに、どうして彼はつまずかなかったのでしょうか。それは、「人は理解してくれないときもあるし、風見鶏のように豹変して裏切ることもある。しかし、神様は百パーセント私を理解してくださり、決して私を裏切ることはない」という確信があったからではないかと思うのです。
 元日の礼拝でも引用しましたが、ダビデは逃亡生活の困難の中で、詩篇34篇1節にこう記しています。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」また、「逆境の中での祈り詩篇」と呼ばれる31篇の14節にはこう記しています。「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』」
 イエス様が二匹の魚と五つのパンを用いて五千人の空腹を満たしたとき、熱狂した群衆は、イエス様を王に担ぎ上げようとしました。その時、イエス様は弟子たちを舟に乗せて、ガリラヤ湖の向こう岸に向かわせました。「この熱狂的な群衆から離れなさい」と言われたのです。弟子たちはそこに残っていたかったのですけれど、イエス様に命じられたとおり舟に乗って、向こう岸にこぎ出しました。ところが漕げども漕げども、舟は前に進みません。激しい向かい風が吹いていたからです。イエス様の言葉に従って舟を出したら、行き詰まってしまったわけですね。
 私たちは、イエス様に従えば、すべて順調に進むと思ってしまいますよね。自分勝手な公式を作って、信仰があれば、神様に従ってさえすれば、すべて都合のいいように物事が進んでいくと勝手に思い込んでしまっていることがあるのです。ですから、もし思うようにいかず、困難や苦しみが襲うと、その公式に当てはめて、「自分の信仰が駄目だからだ」と自分を責めたり、「神様、おかしいじゃないですか」と神様に文句を言ったりしてしまうわけです。でも、本来の信仰の姿は、たとえ何があっても、自分には理解できないことがあっても、「私は神様を信頼します。神様は私に最善のことをしてくださいます」と告白して生きることなのです。
 もしダビデが、「もう神様なんか信頼できません。信頼しても無駄です」と言ったらどうでしょう。他に誰を信頼することができるでしょう。神様が信頼できないのに、人を信頼することなどできませんね。王も部下も家族も信頼できない、信頼できない中にいるならいったいどのような解決があるのでしょう。 しかし、ダビデは、「神様、あなたをどんな中にあっても信頼していきます」と告白していくことこそ最善の道であることを具体的に味わっていたのです。
 ローマ人9章33節に「主に信頼する者は、失望させられることがない」と書いてあります。私がよく引用する聖書の言葉です。これが今年もお互いの確信でありたいですね。口語訳では「失望に終わることがない」と訳されています。主を信頼していても失望することはあります。しかし、失望のまま終わることはないのです。「失望があるから信仰を持っても空しい」のではありません。失望があっても失望で終わらないところに、私たちの信仰生活のダイナミックさ、力強さがあるのです。
 簡単に裏切ってしまうようなケイラの人々をダビデが救ったように、イエス様は、弱く心変わりしやすい私たちのためにいのちをかけて救いの道を開いてくださいました。そのイエス様が私たちと共にいてくださるのです。
 今日も人生の試練があるかもしれません。信仰を持ったことの意味を考えさせられることもあるでしょう。でも、状況はどうあれ、私たちは主に向かって祈りと賛美と感謝をもって心から礼拝をささげながら、この一年を歩んでいきましょう。