城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年一月二二日             関根弘興牧師
              第一サムエル二五章一節〜一九節
 サムエル記連続説教9
   「怒りと復讐」
 
1 サムエルが死んだとき、イスラエル人はみな集まって、彼のためにいたみ悲しみ、ラマにある彼の屋敷に葬った。ダビデはそこを立ってパランの荒野に下って行った。2 マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。3 この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。4 ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。5 それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、6 わが同胞に、こうあいさつしなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。7 私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。8 あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」9 ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」12 それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。13 ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。14 そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。「ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。15 あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。16 私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。17 今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」18 そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、19 自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。(新改訳聖書第三版)
 
 先ほど司会者に第一サムエル記25章の前半を読んでいただきましたが、今日は、24章のエン・ゲディでの出来事と25章のカルメルでの出来事を見ていきましょう。
 サウル王はダビデを激しく妬み、ダビデが謀反を企んでいるという口実でダビデの命を狙っていました。そのため、ダビデは六百人の部下たちと共に逃亡生活を強いられ、各地を転々としていました。前回の23章では、ダビデは、ケイラの町にペリシテ人の略奪隊がやってきたことを知り、逃亡中の身であるのにもかかわらず、ケイラに行って見事に略奪隊を撃破し、ケイラを救い出しましたね。しかし、ダビデがケイラにいることを知ったサウル王が討伐隊を差し向けてきました。ケイラの民は風見鶏のようで、簡単にダビデをサウル王に引き渡そうとするような人々でした。そこで、ダビデはケイラを脱出し、荒野での逃亡生活を続けたのです。サウルは、たびたびダビデを捕らえるために討伐隊を派遣するのですが、23章14節にこうかかれています。「サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」
 
1 エン・ゲディでの出来事
 
 そして、24章には、ダビデがエン・ゲディという場所にやってきた時のことが書かれています。そこは荒涼として起伏が激しく、あちこちに洞穴がありましたから、身を隠すにはちょうど良い場所でした。ダビデがエン・ゲディに潜伏していることを知ったサウル王は、総勢三千人の精鋭部隊を自ら率いてやって来ました。ダビデを捜しまわっているとき、サウルは用をたすために近くの洞穴に入りました。その洞穴の奥には、なんとダビデとその部下が隠れていたのです。しかし、サウルは気づかずに用を足していました。ダビデの部下は言いました。「神様が敵をあなたの手に与えてくださったのです。サウルを討ち取るチャンスですよ。」ダビデはどうしたでしょうか。24章4節-6節にこう記されています。「そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方なのだから。』」
 自分を妬み殺そうとしているサウルに対して、ダビデは自ら手を下そうとはしませんでした。「サウルを王に任命し、サウルが王位に留まらせているのは神様なのだから、その神様に逆らうことはしない」「サウルをさばくとしても、それは自分ではなく、神様がなさることだ」と考えていたのですね。ですから、サウルの上着のすそを切り取ったことにさえも心の痛みを覚えたのです。
 サウルが洞穴から出ていくと、ダビデも洞穴から出てサウルを呼び止めました。そして、地にひれ伏して礼をし、自分が切り取った上着のすそを見せてこう言いました。「私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。」つまり、「あなたが私を殺そうとしても、私はあなたに復讐などしません。すべて神様にゆだねます」とダビデはサウルに言ったわけです。
 すると、サウルは声を上げて泣き、こう言いました。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。」そして、サウルは自分の家へ帰っていきました。
 これでダビデの長い逃亡生活にもついに終止符が打てるのかというと、そうではありませんでした。サウルは、感情の起伏が非常に激しかったようです。この後、すぐに気が変わって、またダビデを殺そうと追いかけてくるようになるのです。ダビデは、そのことがわかっていたのでしょう。サウルと一緒に帰ることはせず、荒野にとどまっていました。
 
2 カルメルでの出来事
 
 そんな時、預言者サムエルが死んだという知らせが入ってきました。イスラエルの霊的指導者であったサムエルが死んだということは、一つの時代が終わったことを意味していました。ダビデはこの知らせを聞いてサムエルの死を悼み悲しんだことでしょう。理由はわかりませんが、ダビデたちは、その後、パレスチナ南方に下っていきました。
 すると、その近くに、ナバルという事業家がいました。彼はたいへん裕福で、羊三千頭、やぎ一千頭を持っていました。ダビデたち一行は、ナバルに頼まれたわけではありませんでしたが、その地域にいることによって、当時あちこちにいた山賊や略奪隊からナバルの羊や山羊を守る城壁のような役目を自然に果たしていたようです。
 そのころ、ナバルは、羊の刈り取りの祝いをしました。皆に料理が振る舞われ、御祝儀も出る恒例の行事です。ダビデは約六百名の部下と一緒ですから、食糧確保は最優先の課題でした。そこで、ナバルに食糧を分けてもらおうと考えたのです。それは当然でしょう。自分たちがナバルの羊ややぎを守っていたわけですから、このお祝いの時に食べ物を分けてもらってもいいではありませんか。しかし、ダビデの思いと裏腹に、冷たい返答が返ってきました。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」このナバルの言葉を聞いたダビデは激怒し、ただちに剣を身に付けて四百人の部下とナバルのもとに向かい、こう言いました。「私が荒野で、あの男が持っていた物をみな守ってやったので、その持ち物は何一つなくならなかったが、それは全くむだだった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」ナバルの家の者を皆殺しだ!というのです。ダビデがこれほどまで怒る姿を見せるのはとても珍しいことです。
 ところで、ナバルの妻であるアビガイルは、大変聡明な婦人でした。ナバルがダビデの使者たちに対してののしったことを知ったアビガイルは、急いで多くの食糧を用意してダビデのもとに向かいました。そして、ダビデに出会うと、ダビデの足もとにひれ伏して夫の無礼をわび、こう語ったのです。「ナバルのような愚か者のことなど、気にかけないでください。私が代わりに食糧を持って来ました。ナバルはいつか報いを受けるでしょう。あなたは、主の戦いを戦っておられます。主は、あなたを敵やわざわいから守り、あなたのために長く続く家をお建てになるでしょう。あなたがイスラエルに君主に任じられたとき、ナバルのような愚か者に復讐したことが、あなたのつまずきや心の妨げになりませんように。」それを聞いたダビデは、言いました。「今日、あなたを私のもとに送ってくださった神様がほめたたえられますように。また、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。」ダビデは怒りを鎮め、復讐を思いとどまって帰って行きました。
 翌朝、酔いがさめたナバルに、アビガイルが一部始終を告げると、ナバルは大きなショックを受けました。そして「十日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ」と書かれています。ダビデは、ナバルが死んだことを聞いてこう言いました。「私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった主が、ほめたたえられますように。主はナバルの悪を、その頭上に返された。」そして、後に残された妻アビガイルを自分の妻として迎えたのです。
 さて、私たちはこの出来事から何を学べるでしょうか。
 
(1)富への執着の愚かさ
 
 ナバルの名前の意味は「愚か者」です。よくもこんな名前を付けたものですね。彼は、この世においては事業家として成功しましたが、自分の得た富の背後にたくさんの支えや守りがあることをすっかり忘れていました。今のこの富は自分の力で手に入れたのだから、自分の好きなように、自分のためにだけ用いようと考えたのです。とてもけちな人生ですね。
 ルカ12章16節ー21節のイエス様のたとえ話の中に、同じような人物が登場します。ある金持ちの畑が豊作でした。彼は倉庫の中に何年分もの食糧をため込み、これで自分はずっと安心して暮らせると思っていました。しかし、神様はこう言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」数年先の計画はできるのに、永遠の視野を持って生きようとしないのは「愚か者」だと神様は言われたのです。
 私は、もっと多くのクリスチャン・ビジネスマンが成功してほしいと思います。クリスチャンが社会の第一線で活躍している姿をもっともっと見たいですね。たくさんの実業家が起こされていくことを期待します。そして、その人たちが、成功すればするほど謙遜を身につけて、その働きが人々の幸いのために用いられていくことを期待しているのです。
 
(2)怒りの危険性
 
@小さな積み重ねと小さなきっかけ
 
 ダビデも激しい感情の起伏があったようです。エン・ゲディの洞穴でサウルに遭遇したときは冷静な判断ができたのに、ナバルにののしられると激怒して徹底的に復讐しようとしました。本当なら、自分の命を狙うサウルのほうに復讐したいと思ってもいいように思いますね。しかし、実は、私たちは小さなことにつまずきやすいのです。私たちは、重要なことについては、あらかじめいろいろ考慮して慎重に自制することができるのですが、ほんのちょっとしたことでカッとなってしまいやすいですね。特に、小さなことを我慢し続けているうちに、最後の一滴で感情が爆発するということがあります。ダビデも、サウルに疑われ、逃亡生活に疲れ、ケイラの住民にも裏切られ、自分も仲間もお腹を空かせている、そういう一つ一つが積み重なっていたところにナバルのひどい言葉を聞いて、爆発してしまったのでしょう。特に男性は、空腹の時は怒りやすい傾向があるそうです。あるクリスチャンの精神科医の方が言っておられました。「イライラしていると感じた段階で、その原因を探り解消していくことが大切ですよ」と。小さなことを放っておくと、いつか爆発してしまう危険があるからです。
 
A勝手な思い込み
 
 また、ダビデが怒ったのは、自分の期待どおりに行かなかったからでした。自分たちがナバルの羊を守ったのだから、食糧をもらうのは当然だと思っていたのに、そうならなかったので、失望し怒ったのです。
 私たちも時々、同じような計算をしませんか。私がこれだけしたのだから、きっとあの人はこうしてくれるに違いない、と考えてしまうのです。自分勝手な思い込みで、こうあるべきだと結論づけてしまうのです。そして、結果がそうでないと怒り出すのですね。自分は正しいと思い込んで、相手が自分の期待通りに動かないと、怒ったり、極端な場合には、ダビデのように皆殺しにしてもかまわない思ってしまうほどエスカレートしてしまうことがあるのですね。
 
B怒りは判断を曇らせる
 
 箴言14章29節には、「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す」とあります。そのとおりですね。聖書は、怒り自体は罪だとは言いません。怒らない人などいません。怒りそのものは罪ではありません。しかし、怒りがその人の判断を鈍らせ、大きな罪を誘発することを教えています。ですから、エペソ4章26節には「怒っても罪をおかしてはなりません」と忠告されています。
 創世記4章のカインとアベルの出来事をご存じでしょう。ある時、二人は神さまにささげものを持ってきました。神様は、弟アベルのささげものを受け入れましたが、兄カインのささげものは受け入れてくださいませんでした。神様は、ささげものをする人の心をご覧になる方です。カインの心の姿勢に問題があったのでしょう。しかし、カインは非常に怒り、弟を妬みました。弟を見るたびに、むらむらと頭にくるのです。そんなカインに神様は警告なさいました。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは、自分の怒りの原因が自分自身の内にあることを見ようとせず、怒りを治めることができずに、弟アベルを殺してしまいました。そして、その結果、自らも、神や人を恐れながらさまようさすらい人となってしまったのです。
 ガラガラ蛇は追いつめられると、非常に怒って自分の身を噛んでしまうそうです。同じように、憎しみや恨みや怒りを持ち続けると、自分自身を傷つけてしまう結果になってしまうことがあるのですね。
 今の時代は、いつもイライラしている怒りっぽい時代ですね。すべてがイライラしている時代だと感じることがよくあります。しかし、怒りにまかせて判断を誤り、人や自分を傷つけることがないように、私たちは、怒りを治めることを学んでいく必要があるのですね。
 
(3)復讐は神様にお任せする
 
 ローマ12章19節に、こう書かれています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」神様は、すべてをご存じで、最終的に正しいさばきを行ってくださいます。それを忘れ、怒りに任せて自分勝手な復讐をすることは、人を傷つけるだけでなく、自分の人生にも大きな傷となり、つまずきとなってしまいます。ダビデも怒りにまかせて復讐したら、ナバルと同じ愚か者となってしまったことでしょう。
 
 神様と私たちとの関係を考えてみてください。詩篇86篇15節には「あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます」とあります。また、エペソ2章3節にはこう書かれています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです── 」
 私たちは皆、神様の怒りで滅ぼされても文句の言えない者たちです。しかし、神様は怒るのにおそく、恵み深いお方です。身勝手な私たちを愛し、罪を赦し、救いに導いてくださるお方なのです。
 ですから、私たちは、最終的に義なる神様が適切な判断を下さしてくださることを信頼し、すべてを神様におゆだねしながら歩んでいきましょう。