城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年二月五日              関根弘興牧師
      第一サムエル二八章四〜一一節、三一章一〜六節
 サムエル記連続説教11
   「サウルの最期」
 
 28:4 ペリシテ人が集まって、シュネムに来て陣を敷いたので、サウルは全イスラエルを召集して、ギルボアに陣を敷いた。5 サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。6 それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、7 サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」8 サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。」9 すると、この女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわなをかけて、私を殺そうとするのですか。」10 サウルは主にかけて彼女に誓って言った。「主は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」11 すると、女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び出してもらいたい。」
 31:1 ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。2 ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。3 攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひどい傷を負った。4 サウルは、道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」しかし、道具持ちは、非常に恐れて、とてもその気になれなかった。そこで、サウルは剣を取り、その上にうつぶせに倒れた。5 道具持ちも、サウルの死んだのを見届けると、自分の剣の上にうつぶせに倒れて、サウルのそばで死んだ。6 こうしてその日、サウルと彼の三人の息子、道具持ち、それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。(新改訳聖書第三版)
 
 今日は、第一サムエル記の最後になりますので、まず、これまでの内容を振り返ってみましょう。
 第一サムエル記には、まず、預言者サムエルが誕生したことが書かれていましたね。
 イスラエルが神様に導かれて約束の地に定住するようになってから、イスラエルにはしばらく王がいませんでした。神様御自身が王ですから、神様に与えられた律法や戒めを守り、祭司を通して神様を礼拝し、預言者を通して語られた神様の言葉に聞き従うことによって、神様の守りや恵みを受け取ることができたのです。しかし、イスラエルの民は、律法や礼拝を表面的に守るだけで、心から神様に従うことができず、すぐに自分勝手な道にそれていきました。そこで、神様は、たびたび敵国を攻め込ませて、イスラエルの民に神様を信頼することの大切さを教えようとなさいました。彼らが苦境に陥って叫び求めると、そのたびに、士師(さばきつかさ)と呼ばれるリーダーを起こして救ってくださったのです。その士師の時代の出来事は士師記に記録されています。
 預言者サムエルは、士師の時代の最後に登場したリーダーでした。神様がサムエルが語る預言の言葉をすべて実現させてくださったので、人々はサムエルに絶大な信頼を寄せていました。しかし、サムエルが年老いてくると、人々は、サムエルの死後に自分たちを導いてくれる強力なリーダーを求めて「私たちも他の国と同じように王が欲しい」と言い出しました。神様が王としておられるのに、それだけでは満足できないと言い出したわけです。そんな彼らに対し、神様は、人間の王を持つことによって起こる問題や苦難を警告した上で、彼らに王を与えることになさいました。預言者サムエルは、神様に命じられて、ベニヤミン部族出身のサウルを王に任命しました。第一サムエル記の後半には、そのサウルが王になってから今日の箇所で戦死するまでの出来事が書かれています。
 今日はサウルの最期の姿を見るとともに、サウルの生涯を振り返ってみることにしましょう。
 
1 サウルの愚行
 
 この時代、イスラエルの最大の敵はペリシテ人でした。そのペリシテ軍との戦いがまた始まろうとしていました。
 前回お話ししましたように、この時、ダビデはペリシテの地にいました。ダビデは、以前、イスラエル軍のリーダーとしてペリシテ軍を何度も撃退していたのですが、サウル王はダビデを激しく妬み、反逆者の汚名を着せて殺してしまおうと追い回し始めました。そこで、ダビデは、敵国であるペリシテに逃げ込み、ガテの領主アキシュのもとに行き、ペリシテの味方になった振りをして、ツィケラグという町で生活していたのです。しかし、困ったことが起こりました。ダビデの嘘を信じたアキシュが、ダビデをイスラエルとの戦いに出陣させようとしたのです。ダビデは、自分の同胞と戦わなくてはならないというジレンマに立たされました。しかし、ほかの領主たちが反対したので、ダビデはペリシテ軍に参加せずにツィケラグに戻ることができました。ところが、ツィケラグはアマレク人に襲われて焼き払われ、妻も子どもも財産もすべて奪われていたのです。ダビデは嘆き悲しみましたが、改めて、主を見上げ、主によって奮い立ち、アマレク人を追撃して、奪われたすべてを取り戻すことができました。ダビデは、ペリシテの地では偽りとごまかしの生活をし、ほかの国の町を略奪したり住民を皆殺しにするなど疑問の多い生活を送っていました。しかし、重大な危機に直面して、もう一度主に立ち帰り、主の助けを受ける必要を痛感したことでしょう。そして、主が祈り求める者に豊かに働いてくださることを改めて知ることになったのです。
 一方、サウル王はどうだったでしょうか。ペリシテ軍が沿岸平野を北に行軍し、シュネムに陣を敷いたので、サウルは、防衛に適したギルボア山に陣を敷きました。サウルはこれまでペリシテ軍を何度も撃退してきました。しかし、今回は「サウルの心はひどくわなないた」と書かれていますね。ペリシテ軍の規模が大きかったからということもあるでしょうし、ダビデが敵軍に加わっているのではないかという疑いが恐れを増幅していたかもしれません。
 そこで主に助けを求めました。しかし、「主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった」と書かれていますね。ウリムとは、祭司が神意をうかがうために用いたくじのようなものです。夢でもくじでも預言者を通してでも主は何も答えてくださらなかったというのです。
 サウルは、王になってから、主の命令に背いて自分勝手なことをすることが多くありました。また、ダビデの逃亡を助けたという疑いをかけて、主に仕える祭司たちを虐殺し、祭司の町ノブの住民を皆殺しにしてしまったこともありました。それを反省することもなく、困ったときだけ主に頼ろうとしたのですから、主が答えてくださらなくても当然ですね。
 主がだめなら、次に頼りになるのは、預言者サムエルです。しかし、サムエルはすでに亡くなっていました。そこで、サウルは、霊媒を使ってサムエルを呼び出そうと考えたのです。
 霊媒や口寄せというのは、死者を呼び出し、死者から未来のことを教えてもらう術を使う者とされていました。
 サウルは、以前、国内から霊媒や口寄せを追い出していました。なぜなら、聖書で厳しく禁じられているからです。「あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記19章31節)「あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。」(申命記18章10ー12節)占いや霊媒や口寄せは、人を神様から引き離し、束縛し、自由な判断を奪い、恐れによって支配しようとする力があります。だから、神様はそのようなものに頼ることを厳しく禁じておられるのです。
 それなのに、サウルは、家来に命じて霊媒をする女を捜し出させ、夜、こっそりその女を尋ねました。ただ、霊媒師は皆、サウル王に見つかれば殺されると恐れていましたから、サウル本人が来たとわかれば何もしてくれないでしょう。そこで、サウルは変装して別人の振りをして行ったのです。
 サウルは、霊媒師に死んだサムエルを呼び出させました。現れたサムエルは、サウルにそっけなく言いました。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは、懇願しました。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」すると、サムエルはこう答えたのです。「なぜ、私に尋ねるのか。あなたが主の御声に聞き従わなかったから、主はあなたから去り、あなたの敵になられたのだ。私もあなたにそう預言したではないか。主は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。あす、イスラエルはペリシテ軍に敗北し、あなたも、あなたの息子たちも死ぬ。」
 それを聞いたサウルは、恐れのあまり、倒れて、棒のように硬直してしまいました。サウルは、自分がこれから何をすべきで、どのようにしたら災いを避けることができるかを知りたかったのに、「災いが必ず来る」という宣告を受けてしまったのです。 ここで注意していただきたいことがあります。サウルは霊媒師によって預言者サムエルを呼び出してもらいました。主の預言者の言葉を聞くのだから、霊媒という手段を使ってもかまわないではないかと思ったのかも知れません。しかし、この箇所を読んで、「私たちも、目的が良ければ霊媒師や占いに頼ってもよいのだ」と誤解しないでください。今回のサウルの行為は聖書がはっきりと禁じていることです。現れたのが本当に預言者サムエルであったのかもわかりません。しかし、主はサウルの誤った行動を通して、サウルの最期を宣告なさったのです。霊媒師や口寄せに頼って未来を知りたいと願うことは、その人の人生に決して益となることはない、ということを心にとめておきましょう。私たちには、明日のことはわかりません。しかし、わからなくていいのです。明日を知っておられるイエス様が共にいてくださるのですから、それで十分なのです。
 
2 サウルの最期
 
 さて、主が宣告なさったとおり、イスラエルは大敗北を喫しました。ペリシテ人は、ギルボア山でサウルと息子たちに追い迫り、息子たちを次々と打ち殺しました。サウルの息子でダビデの親友であったヨナタンも戦死してしまったのです。そして、敵の集中攻撃を受けて負傷したサウルは、道具持ちに「私を刺し殺してくれ」と頼むのですが、道具持ちにはそれができません。そこで、サウルは自ら自害したのです。翌日、ペリシテ人たちは、戦死したイスラエルの兵士たちの身につけているものを剥ぎ取ろうとギルボア山にやってきました。そして、サウルと息子たちの遺体を見つけると、サウルの首を切り、武具を剥ぎ取り、サウルと息子たちの遺体をベテ・シャンという町の城壁にさらしたのです。サウルの最期はこのように悲惨なものとなりました。その光景はイスラエルの人たちにどれほどの恐れを与えたことでしょう。
 ところで、ベテ・シャンから十五キロほど離れたヨルダン川の東にヤベシュ・ギルアデという町があります。以前、サウルが王に選ばれたとき、最初に敵から救い出した町です。その町の住民は、サウルに対する恩義を忘れてはいませんでした。31章11節ー13節にこう書かれています。「ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。それから、その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した。」
 第一サムエル記はここで終わっています。私たちはサウルの生涯から何を学ぶことができるでしょうか。
 
3 サウルの生涯から学ぶこと
 
(1)主に聞き従うことの大切さ
 
 サウルは自分勝手に王になったわけではありません。神様に従う預言者サムエルを通して神様に選ばれたのです。神様に選ばれた王は、民を導くために何が大切なのかを神様に求め、神様に従う心を持つことが大切です。神様が定める王制は、いつも王に神様の言葉を伝える預言者がいて成り立つ制度でした。つまり、預言者が王の絶対的な権力にブレーキをかける役割を担っていてこそ健全に機能するのです。王が神様を無視して独裁的になり権力を乱用するのは、本来の王制の姿ではありません。こうした本来の姿を失うと、人々に不自由や苦しみをもたらすことになるのです。
 これは、国だけでなく、様々な組織や教会にとっても大切なことです。どんな立派な牧師であろうが、指導者であろうが、まず、神様が何を願い求めておられるのかを聖書からさぐり、聞き従うことが大切なのです。
 サウルも最初は、主に聞こうとする態度がありました。しかし、次第にその姿が失われていきました。自分の欲に惹かれ、人々の目を気にするだけで、主に心から従おうとしなくなっていったのです。彼は、自分のために戦勝記念碑を立てました。しかし、本当は、自分の力で勝利したのではなく、神様の支えと守りがあったから勝てたのです。しかし、連戦連勝が続いて、サウルの心に高慢の根が広がっていったのでしょう。高慢になると、主に聞き従わなくても、自分の力でどうにでもなるではないかと勘違いしてしまうのです。
 サムエルはこう言いました。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」主の御声に聞き従うことこそ何よりも大切だというのです。
 私たちは、「聞き従うことは、いけにえにまさる」という聖書の教えを大切にしていきたいですね。礼拝のスタイルやプログラムは変えてもいいのです。しかし、決して変えてはいけないのは、聖書を通して語られる主のことばに聞き従うということです。それは、決して重荷にはなりません。神様は私たちに無理強いして強制的に何かをさせようとはなさらないからです。神様は、私たちの最善を願い、私たちの最善となる言葉を語り、私たちが心から喜んで従うことを願っておられるのです。
 
(2)悔い改めことの大切さ
 
 しかし、私たちはだれでも、主に従わないで自分勝手なことをしてしまうことがありますね。でも、聖書にはこう約束されています。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55章7節)「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」(エレミヤ3章22節)「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。」(マラキ3章7節)
 主は「わたしのもとに帰れ」といつも呼びかけてくださっています。そして、私たちが悔い改めて、つまり、主のほうに向きを変えて帰っていくなら、主はいつでも喜んで迎えてくださるのです。
 サウルの生涯を見ると、残念ながら、この心から悔い改める態度、主のもとに帰ろうとする姿勢が欠けていました。預言者サムエルを通して自分の過ちを指摘されても、言い訳や責任転嫁をするだけでした。そのため、神様との正しい関係を回復することができず、神様の愛や真実や導きがわからなくなっていきました。その結果、ダビデへの妬みに駆られ、不安や恐れに脅かされ、平安や確信を失っていきました。そして、主に仕える祭司たちさえ疑い殺してしまうという暴挙に出たのです。そして、主に求めても答えがないと、霊媒にすがることさえしたのです。
 サウルは、「何をしても主が答えてくださらない」と言いましたが、イザヤ59章2節には「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」と記されています。ですから主が聞いてくださらないのではなく、主との関係が断線した状態になっているからなのです。そのことを考えもせず、サウルは、主が答えてくださらないのだから、霊媒師のところに行こうとしか思わなかったわけですね。
 
(3)感情を整理することの大切さ
 
  サウルの後半の生涯は、ダビデに対する異常な妬みに翻弄されていました。自分が神様に真摯に従っていないという罪責感や、神様に立派な王として認められていないという劣等感や自己憐憫、自分が王位に留まりたという執着心などをそのまま放置しておいた結果、サウルの妬みはエスカレートしていきました。そして、ダビデが王位を狙っているのではないかと疑い始めました。いったん疑い始めると、何もかもが疑わしく見えてきて、疑いの泥沼にはまりこんでいきました。そして、何としてもダビデを殺してしまおうと、多くのエネルギーを費やしたのです。しかし、それは、自らをすり減らす行為でしかありませんでした。
 私たちは、自分の心をコントロールすることを学ぶ必要がありますね。たとえば、誰かに対して疑いを持ったときに、自分の色眼鏡や偏見で思い込んでいるのではないか、その疑いは本当に根拠があるものなのか、と冷静に考えてみる必要があります。また、何かに対して怒りを感じたときに、まずその理由や原因をよく探り、正しい対処ができるようにすることも大切ですね。
 でも、私たちは、なかなかそれができません。自分の思い込みや感情に翻弄されてしまうことも多いですね。ですから、いつも主の前に静まる時間が必要なのです。
 イザヤ30章15節の「立ち帰って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」という聖句を私はよく引用しますが、この言葉には、続きがあります。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。」
 困難に襲われたとき、私たちは、つい自分の力で何とかしよう、その困難に立ち向かわないで逃げてしまおうとする傾向がありますね。でも、そんな時こそ、主に立ち返って静まり、落ち着いて、主に信頼することが大切なのです。
 第一サムエル記の最後に、このイザヤ30章15節の聖句を改めて覚えておきましょう。
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」