城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年八月五日             関根弘興牧師
                  ヨハネ一章一節ー五節

ヨハネの福音書連続説教1
   「初めに、ことばがあった」


1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 (新改訳聖書)


 今週から、新約聖書の「ヨハネの福音書」を読み進めていきます。この福音書を通して、私たちが信じ従っているイエス・キリストがどのようなお方であるのかをあらためて学び、心に深く刻み込み、この方の豊かな恵みと真実の中に憩うことができるようにと願っています。
 まず、ヨハネの福音書の著者について、また、この福音書が書かれた事情について少しご説明しておきましょう。

A 著者について

 この福音書の最後の部分、21章20節ー24節を見ると、この福音書の著者は「イエスが愛された弟子」であると書かれています。それが誰なのか、固有名詞は記されていませんが、イエス様と共に歩んだ弟子たちの中の一人であり、イエス様の言葉や行動を実際に間近で見聞きした目撃証言者であり、「イエスが愛された弟子」でした。
 この「イエスが愛された弟子」として考えられるのは、十二弟子の中のペテロとヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネは兄弟です。イエス様は、特にこの三人だけを選んで特別な場所に連れて行かれることが時々あったのです。三人の中で、ヤコブは、使徒12章に記載されているとおり、教会がスタートしてまもなく早い時期に殉教しています。また、ペテロは、この福音書を読むとわかるとおり、「愛された弟子」とは区別して記されています。そうすると、ヨハネがこの福音書の著者ということになります。そのことは、二世紀以降に登場した初期の教会の指導者たちも認めているのです。ですから、この福音書の著者はヨハネであると考えてほぼ間違いないでしょう。

B 執筆事情について

@社会的な背景

それでは、ヨハネがこの福音書を記した時代は、どのような時代だったのでしょうか。
 この福音書が書かれたのは、だいだい紀元八〇-九〇年頃と言われています。ちょうどローマ帝国が栄えていた時代です。帝国は、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカにまで広がり、それぞれの地域にはローマの軍団が配置され、「ローマの平和」と言われる時代を迎えていました。産業と交通が発達し、経済も文化も豊かになり、数多くの宗教が氾濫していました。
 そんな中で、紀元六四年にローマの大火が起こりました。当時のローマ皇帝であるネロが自分で放火したのだという風評がたつと、ネロは、責任をクリスチャンたちに負わせ、クリスチャンへの大迫害が始まったのです。この時、パウロもペテロも殉教したと言われています。しかし、その後、ネロは自殺してしまい、約三十年間は大きな迫害が起こることはなく、教会は、大きく発展し広がっていきました。
 一方、ユダヤのエルサレムの状況はどうだったでしょうか。 エルサレムには神殿がありました。当時の神殿は、紀元前二〇年にヘロデ大王によって大規模な改築工事が開始され、紀元六四年にやっと完成しました。約八十年以上も工事に費やされたわけです。大規模な公共工事みたいなものだったわけですが、この神殿が完成すると、今度は、ユダヤの地は経済的に大変不安定な状態になってしまったと言われています。
 そんなときに、ローマから派遣されていた総督フロルスという人物が、神殿の宝物倉から略奪を始めました。この横暴な振る舞いに対して、ユダヤ人たちは激怒して立ち上がるのですが、総督フロルスは、逆に、大勢のユダヤ人たちを処刑してしまいました。それで、ユダヤ人たちは、無謀にも対ローマ戦争を始めてしまうのです。これが紀元六六年のことです。もちろん大ローマ帝国に刃向かって勝てるはずがありません。紀元七〇年にエルサレムはローマ軍によって破壊され、なんと八十年以上かけて再建された神殿も再建後わずか数年で無惨にも破壊されてしまったのです。そして、エルサレムはローマ皇帝の所有地と化し、多くのユダヤ人たちがさらに世界中に散らされることになったのです。
ですから、このヨハネの福音書は、ユダヤ人たちにとってはすべての希望や望みが奪われ、断たれてしまったかのような中で書かれたと言ってもよいと思います。また、著者であるヨハネ自身も多くの苦しみや痛みをすでに経験していました。兄弟のヤコブは斬首され、ペテロもパウロもネロの迫害の時に殉教し、そして、エルサレムも破壊されてしまったのです。いったいこの地上のどこに希望があるのかというような状況です。
 しかし、ヨハネには、失われることのない希望がありました。それは、死を打ち破って復活されたイエス・キリストが共にいてくださり、そのイエス様を信じる一人一人に「永遠のいのち」が与えられるという希望です。
 ヨハネの福音書の特徴の一つは、「永遠のいのち」という言葉がたくさん出てくることです。ですから、この福音書を読みながら、「永遠のいのちとは何か」ということも学び味わっていきたいと思っています。ヨハネは、混沌とした希望を見いだすことの出来ないような時代にあって、だからこそ、なおさら「永遠のいのち」を与えることのできる唯一の方イエス・キリストを知ってもらいたい、伝えたいと心から願ってこの福音書を書いたのです。ヨハネは、20章31節に、この福音書を書いた目的をこう記しています。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」
 ですから、私たちは、この福音を読み、イエス様がまことの神の子、救い主であること、また、私たちを照らす光であり、決して消えることのない永遠のいのちを得させてくださる方であることをこの福音書から学んでいきましょう。

A異端の問題

 ヨハネがこの福音書を書いた大切な理由がもう一つあります。当時、教会の中に誤った教えが入り込んできていたのです。  それは、「グノーシス主義」というものですが、その教えは、イエス・キリストの福音を歪め、人々を間違った方向に向かわせるものでした。ヨハネは、そのグノーシス主義の間違った教えに対抗し、人々にイエス様の福音を正しく理解させるために、あらためてイエス様の真実の姿を書き記す必要があったのです。
 では、グノーシス主義の教えがどのようなものだったのでしょうか。「グノーシス」とは「知識」という意味です。そして、グノーシス主義の人々は、「精神は本質的に善であり、物質は本質的に悪である」という二元論を主張したのです。彼らは、その二元論ですべてのことを考えようとしました。
 たとえば、創世記で「初めに、神が天と地を造られた」とありますね。でも、グノーシス主義の人々に取っては、「物質は本質的に悪」なんですから、天地を造られた神様は、「悪しき物質を生み出したレベルの低い神様」ということになってしまうわけです。
 イエス様についても、彼らは奇妙な説を唱えました。たとえば、「イエスは、神ではなく、神から少し離れた一種の半神にすぎない」という説を唱える者がいました。また、「イエスが神なら、悪しき肉体を取るはずがない。肉体を持って来たかのように見えたけれど、それは本当の肉体ではなくて幻だったのだ。イエスが歩いても足跡はなかったはずだ」と言い出す者もいました。これを仮現説といいますが、とにかく、とても奇妙なことをいろいろと言い出したわけです。しかも、その教えが教会の中にまで入り込んできました。
 それに対して、ヨハネは、人々がイエス・キリストについて正しく理解できるように、この福音を記したのです。
 ヨハネがこの福音書ではっきりと主張していることは何でしょうか。それは、「イエス・キリストは、人として来てくださったまことの神である」ということです。つまり、イエス・キリストは、「まことの神」である方なのに、私たちに救いをもたらすために私たちと同じ「人」として来てくださった方なのです。イエス様は、神であり、また、人である、そのどちらが欠けても私たちの本当の救いはないのです。
 聖書の教えと異端の教えを区別するための大切なチェックポイントが二つあります。一つは、今、ご説明したようにイエス様が「人として来てくださったまことの神」であるということをきちんと教えているかということです。異端の場合は、「イエスは神だが人ではない」とか「イエスは人だが神ではない」ということを言います。
 もう一つは、「三位一体」を認めているかどうかです。「三位一体」という言葉は、その言葉自体は聖書の中では使われていないのですが、聖書の神様がどのようなお方かを説明するために用いられる神学用語です。聖書を読むと、私たちの神様が「三位一体」の方であることがわかります。どういうことかといいますと、私たちは「唯一のまことの神様」を信じていますが、この唯一の神様は、「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊」という三つの位格(人間の人格に相当するもの)をもっておられます。そして、この三者は、それぞれ同じ本質をもっておられ、いつも同じ意志と目的をもって、愛においても、聖なることにおいても、常に協同して同じ働きをなさるので、本当の意味で一体なる方なのです。この三位一体の神様は、ご自身の中で完全な調和のとれた唯一の方です。この三位一体の神様だけが唯一の神様であり、永遠に存在し、全知全能で、天地の造り主であり、救い主であられる、というのが聖書の主張です。
ヨハネの福音書は、そのことをあらためて私たちに教えてくれるのです。
前置きが少し長くなりましたが、これからご一緒にヨハネの福音書を読んでいくことにしましょう。

1 初めに、「ことば」があった。

ヨハネは、まず、この福音書の中心であるイエス・キリストを紹介することから始めます。イエス・キリストがどのようなお方であるかということをまず最初に説明しようとしたのです。
1章1節ー2節にこう書かれています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」
このヨハネの福音書もそうですが、新約聖書は、当時の共通語であったギリシャ語で書かれています。ここで「ことば」と訳されているのは、ギリシャ語の「ロゴス」という言葉です。先週、バベルの塔の出来事の中でも考えましたが、言葉というのはコミュニケーションの大切な手段ですね。言葉によって自分の考えを表現したり、説明したり、私もこうして言葉を用いて説教しているわけです。「言葉なんて必要ありません。目が語っています」なんて言う人がときどきいますが、目だけで説教できたらいいでしょうね。準備は鏡の前だけですみますね。でも、それでは多少の気持ちは伝わっても、その人の考えなどは伝わりません。
 「ことば」は、コミュニケーションの大切な手段ですが、それだけではありません。言葉によって人々に大きな影響を与えることができますし、また、言葉は、創造する力さえ持っています。創世記1章3節に、「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった」と書かれていますね。また、詩篇33篇6節には「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」とあります。「ことば」には、創造する力があることを聖書は教えているのです。ヨハネも「すべては、この方によって造られた」と書いていますね。
 ところで、ユダヤ人たちは、決して神様の御名をみだりに唱えることをしませんでした。旧約聖書で「神」(ヤーウェ)と書かれているところは、そのまま「神」と発音するのではなく、「主」という言葉に置き換えて読むようにしたのです。また、「神」を「御名」とか「神のことば」という言い方に換えたりもしていました。ですから、当時のユダヤ人たちは、「神のことば」とは「神様ご自身」の意味であると理解していたわけです。また、ユダヤ人には、「ことば」と「知恵」とは同一のものである、という概念がありました。
 ですから、ヨハネは、ユダヤ人たちに対して、「世界を創造し、すべての人に知恵を与える『神のことば』、つまり『神御自身』を見たいなら、イエスを見なさい、『神のことば』、つまり『神御自身』は、イエスにおいてあなたがたの間に来られたのです」と宣言しているわけです。
 ヨハネは、また、ユダヤ人以外のギリシャ的な考え方を持った人たちにも福音を説き明かす必要を感じていました。
 ギリシャ人たちは、「万物は流転している」と考えていました。その流転は、でたらめに起こっているのではなく、常に秩序があり、パターンがあるというのです。そして、その秩序をあたえ、この宇宙全体を動かし支配しているのが「ロゴス」、つまり「神のことば」「神の理性」であると考えていました。また、人に理性や真理の知識や善悪の判断力や識別力を与えるのも「ロゴス」であると考えたわけです。
 そういうギリシャ的な考えをもつ人たちに対して、ヨハネはこう言っているのです。「世界を造り、世界の秩序を保っている『ことば=ロゴス』があります。それは、あなたがたが神様を知るために必要な理性や思考や認識力を与えるものです。あなたがたは何世紀もの間、この『ロゴス』を探り求めてきましたね。イエス・キリストこそ、地上に降りてこられたその『ロゴス』なのです。」ヨハネは、このように語っているわけです。
 つまり、このヨハネ福音書は、最初の一行から、「ユダヤ人たちが求め、ギリシャ人たちが求めていた『ことば=ロゴス』とはイエス・キリストである」ということを知らせているのです。
 そして、ヨハネは、続けて、この「ことば」の権威の源について記しました。「ことばは、神と共にあった」、そして、「ことばは神であった」と書いていますね。「これから紹介するイエス様は、神様とまったく同じ本質、性質、特徴を備えておられる神そのものなるお方だ」と記しているのです。ということは、私たちは、このイエス様を知るとき、神様がどのようなお方であるかを知ることができるということでもあるのです。
 一八三二年十月に、鳥羽港を江戸へ向けて出航した千石船「宝順丸」が途中の遠州灘で遭難し、十四ヶ月間の漂流の後、北米西海岸に漂着しました。生き残ったのは、船員十四名中、岩吉(推定二十八才)、久吉(同十五才)、音吉(同十四才)の3名だけだったそうです。
 彼らは、アメリカ原住民に捕らえられ、奴隷のように酷使されていましたが、ハドソン湾会社の支配人に助けられ、日本に送り返されるために、ロンドン、喜望峰を経て、一八三五年十二月にマカオに到着するんです。三名は、英国商務庁の保護のもとにおかれ、主席通訳官であったオランダ伝道協会の宣教師のカール・ギュツラフの家に滞在することになりました。ギュツラフは宣教師でしたから、何とかして、まだ見ぬ日本の人々に聖書を自分たちの国の言葉で読んでもらいたい、と日頃から願っていました。ギュツラフは、三名の遭難した日本人がマカオに来た時、その祈りが聞かれたと感じ、彼らから日本語を学び、彼らの助けを借りて、翻訳作業を開始しました。そして、ついに、約一年かけて、「ヨハネ伝」と「ヨハネ書簡」が翻訳されたのです。この現存する最初の日本語聖書は、ギュツラフ訳聖書と呼ばれていますが、ヨハネ伝、つまり、ヨハネの福音書の1章1節と2節は、こう訳されています。
「はじまりに かしこいものござる/このかしこいもの ごくらくともにござる/このかしこいものは ごくらく/はじまりに このかしこいもの ごくらくともにござる」
「初めに、ことばがあった」という文章が、「はじまりに かしこいものござる」となっていますね。「ことば」を「かしこいもの」と訳したのです。この一行を翻訳するにも相当苦労したのではないかと思います。でも、なんだか難しい哲学的な用語や神学的な用語で説明されるより、イエス様こそ「かしこいものでござる」と説明されると、不思議に心に入ってきますね。
 ヨハネは、まず最初に、「イエス様こそ神様であり、あなたがたが求めている『ことば=ロゴス』そのものなのです」と記しましたが、これは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にとっても、びっくりするニュースだったわけです。

2 「ことば」なる方

 それでは、ヨハネは、この「ことば」、「かしこいおかた」、すなわちイエス様は、どのような方であると言っているのでしょうか。

@すべてのものは、この方によって造られた。

1章3節に「すべてのものは、この方によって造られた」と書いてありますね。ヨハネは、「イエス・キリストは、この世界を創造された方だ」と語っているのです。
 何かを作り出すときには、知恵が必要です。論理的な理性が必要です。たとえば、テレビを作るのに、電気の知識がなければ決して作れません。「電圧なんて関係ないよ、適当に電気を流しておけば大丈夫」なんてことは決してないわけですね。論理的な理性の構築があってはじめて物事は生み出されていくわけです。
 ヨハネは、イエス様は「ことば=ロゴス」そのものだと記しました。では、ロゴスの究極はどこにあるのでしょう。それはこの世界の創造にまでさかのぼるわけです。この世界を生み出したお方こそ、正真正銘の「ことば=ロゴス」そのものだからです。まさに、イエス様こそ「かしこいもの」そのものだと、ヨハネは語っているのですね。
このお方を私たちは信頼し生きるのですから、なんと心強いことでしょう。
 コロサイ人への手紙2章3節には、こう書かれています。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」 また、ヤコブの手紙1章5節には、こう書かれています。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」
 神のことばであるイエス様は、知恵と知識に満ちた方です。その知恵は、この世界を生み出すほどの知恵です。ですから、私たちがこの方に生きる知恵を求めていくことができるのは、なんと幸いなことでしょう。

Aこの方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 ヨハネは、続けて、4節に「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」と記しています。「ロゴス」なるイエス様は、いのちの源なる方だというのです。また、そのイエス様の内にあるいのちこそ、人の光となるのだと記しているわけです。
 「いのち」と「光」は、ヨハネの福音書のキー・ワードです。これからこの福音書を読んでいくとき、この二つの言葉がよく出てきます。この二つについて学んでいくのが、ヨハネの福音書の学びの中心であると言ってもよいと思います。
 皆さん、「いのち」とは一体何でしょう。私たちは、普通、「いのち」というと、この心臓の鼓動がある間の肉体のいのち、この息が続くまでの状態を考えますね。でも、イエス様の「いのち」は、それとは違います。イエス様は、創造の初めからおられた方です。イエス様の「いのち」は、決して絶えることのない「永遠のいのち」です。
 そして、ヨハネは、この「いのち」のことを「人の光」であったと言い換えています。つまり、イエス様のいのちは、私たちの人生に欠くことのできない光のようなものとして注がれているということです。
 「光」は注がれるとどうなるでしょうか。光は、暗闇を消し去っていきますね。同じように、イエス様は、私たちの暗闇を取り去るお方として来てくださいました。また、光は、隠れていたものを明らかにしますね。部屋が汚くても、照明をつけなければわかりません。しかし、照明をつけると、その部屋の汚さがはっきり表されるわけですね。イエス様を知り、信じて生きていくとき、私たちは、自分の心が照らされます。その汚さに愕然とするかもしれません。自分の醜さを思い知らされるかもしれません。しかし、イエス様御自身が私たちの心の中に来てくださって、心を新しく変えてくださるのです。また、光は、暗闇の中で道を照らしてくれる「導きの光」でもあります。光によって進むべき道がわかるのです。
 そして、5節には「やみはこれに打ち勝たなかった」とはっきり書かれていますね。これは、勝利宣言です。どんな暗闇が襲ってもキリストの光を消し去ることはできないのです。
 
 今日学んだ1章1節ー5節でヨハネは、こう宣言しています。、「イエス様は、神ご自身であり、知恵に富み、この世界の創造者です。また、この方のいのちこそ、人の光であり、それは、決して奪われることのないものです。」
 そして、今、私たちの生活のまっただ中にもイエス様のいのちの光が注がれています。「光は闇の中に輝いている」のです。この方と共に歩む生涯とされていることを誇り、かしこさの源がイエス様にあることを覚え、イエス様から学びつつ歩んでいきましょう。