城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年八月一九日            関根弘興牧師
                 ヨハネ一章一四節ー一八節
ヨハネの福音書連続説教3
   「恵みとまことに満ちた方」


14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(新改訳聖書)


この福音書の最初の1節ー2節にこう書かれています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」
 前々回学んだように、ここに記されている「ことば」(ギリシャ語で「ロゴス」)とは、私たちが書いたり話したりする単なる「ことば」ではありません。
 ユダヤ人たちは、「神のことば」とは「神様御自身」の意味であると理解していました。また、「ことば」と「知恵」とは同一のものである、という概念も持っていました。ですから、ヨハネは、ユダヤ人たちに対して、「世界を創造し、すべての人に知恵を与える『神のことば』、つまり『神御自身』を見たいなら、イエスを見なさい。『神のことば』、つまり『神御自身』は、イエスにおいてあなたがたの間に来られたのです」と宣言しているわけです。
 また、ヨハネは、ユダヤ人以外のギリシャ的な考え方を持った人たちにも福音を説き明かす必要を感じていました。ギリシャ人たちは、「万物は流転している」と考えていました。その流転は、でたらめに起こっているのではなく、常に秩序があり、パターンがあるというのです。そして、その秩序を与え、この宇宙全体を動かし、支配しているのが「ロゴス」、つまり「神のことば」「神の理性」であると考えていました。また、人に理性や真理の知識や善悪の判断力や識別力を与えるのも「ロゴス」であると考えたわけです。そういうギリシャ的な考えをもつ人たちに対して、ヨハネは、「世界を造り、世界の秩序を保っている『ことば=ロゴス』があります。それは、あなたがたが神様を知るために必要な理性や思考や認識力を与えるものです。あなたがたは何世紀もの間、この『ロゴス』を探り求めてきましたね。イエス・キリストこそ、天から来られた『ロゴス』なのです」と語っているわけです。

 そして、今日の箇所では、その「ことば」について、ヨハネは、14節で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記しているわけです。
「ことばが人となった!」これは、なんとセンセーショナルな内容でしょう。ここで「人」と訳されているギリシヤ語は「サルクス(肉)」という言葉です。つまり、「ことば」は「肉」になったというのです。当時の人々は、「肉」は弱く朽ち果てていくものであり、悪の性質を持っているものだと考えていました。「ことば」が卓越した秩序や理性を表すものとして考えられていた一方で、「肉」は最も弱いものの代名詞のように考えられていたわけです。ですから、「神のことばである方が、私たちと同じようなこの肉体をとって来るなどあり得ない」と考える人も多かったことでしょう。
 けれども、ヨハネは、イエス様の生涯を記すにあたって、まず、「イエス様こそ神のことばであり、神が人となって来られた方だ!」と宣言したのです。
神なるイエス様が人として肉体をとって来られたということによって、私たちは、すばらしい事実を知ることが出来ます。

1 イエス様は、私たちを理解してくださる

 新約聖書のヘブル人への手紙には、イエス様が、私たちと同じ立場に立って、私たちのために神様に取り成しをしてくださる大祭司のような方であることが書かれています。例えば、ペブル2章17節には、こう書かれています。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」また、ヘブル4章15節には、こう書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
 イエス様は、神であられる方なのに私たちと同じ人間として来てくださいました。そして、人が味わうあらゆる苦しみや試みを経験なさったのです。
 私たちは、自分で修行や努力をして神様に近づいていかなければならないのではありません。神様が私たちのもとに来てくださり、私たちとの接点をもってくださったのです。

2 イエス様を通して神様を知ることができる

 18節を見ると「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とありますね。
 私たちは、どのように神様を知ることが出来るのでしょう。大自然を見て、その背後に何か偉大な存在を感じることはあるでしょう。でも、漠然としていて、神様がどのような方を詳しく知ることは出来ませんね。
 ヨハネは、「いまだかつて神を見た者はいない」と書いていますね。私たちは、太陽の光が照らす場所を見ることはできますが、太陽そのものを見ようとしても眩しくて直視することができませんね。同じように、神様は全き聖なるお方ですから、私たちは、神様の栄光の照らすところを見ることは出来ても、神様ご自身を見ることが出来ないのです。ですから、私たちがどんなに頑張って考えても、神様を解き明かすことはできないのです。哲学の限界がここにあります。
 しかし、「神様を解き明かす方が来てくださった」とヨハネは書きました。「父のふところにおられるひとり子の神」、つまり、イエス様が神様を明らかに示してくださるというのです。「ふところにいる」という表現は、もっとも親密な関わりを指す言葉です。また、ヨハネは、イエス様を「ひとり子の神」と紹介していますが、これは、「イエス様は、性質においても、思いにおいても、働きにおいても、父なる神様と一つの方である」ということなんです。ですから、そのイエス様を知ることによって、私たちは、神様がどのような方であるかを知ることができるのです。また、逆に、イエス様を知らなければ、神様の漠然とした存在はわかっても、神様の本当の姿を知ることは出来ないのです。

3 イエス様の栄光を見ることができる

 14節に「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」とあります。この「イエス様の栄光」とは、どのようなものだったのでしょうか。
皆さん、「栄光」という響きに何を感じますか。ちょうど先週までオリンピックが開かれていましたが、「栄光」という言葉が使われるのは、メダルを獲得したときですね。拍手喝采、称賛の嵐。栄光と言えば、普通は、そのような華々しいものですね。
 人は、上に上にと上りたがる癖を持っています。あの人より私のほうが上!。名前の順番さえも、人より先がいいと考える人はたくさんいます。「どうしてあの人より私の名前が後になっているんですか」と怒り出す人もいるでしょう。オリンピックでも、「表彰式で自分の国の国旗が他の国より下に掲揚されて屈辱を感じた。侮辱された」とネットに書き込む人が急増したというニュースがありました。一位と二位、三位では、掲揚される国旗の高さが違いますが、それは、どの国であっても関係ありませんね。それなのに憤りを感じるというのですね。
 ともかく、人は、名誉、権力、富を手に入れ、自分が最も高い地位に就くことが栄光だと考えるのです。
 しかし、イエス様は、そのような私たちが考える栄光とは全く無縁でした。イエス様の生涯は、どう見ても、栄光とはかけ離れているように思えますね。
 イエス様は、神であられる方なのに、ベツレヘムの粗末な家畜小屋で生まれました。その後、エルサレムから遠く離れたナザレの田舎で育ち、約三年半の間、弟子たちと共にユダヤの地方を中心に旅をして回りましたが、立派な家も着物も財産もなく、権力の座につくこともありませんでした。旧約聖書の預言者イザヤは、この救い主イエス様について、「この方は私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもなかった」と預言しています(イザヤ53章参照)。そして、最後には、捕らえられ、鞭打たれ、むごたらしい十字架につけられたのです。いったいどこに栄光があるのでしょう。
実は、イエス様を通して見ることの出来る栄光は、私たちの考えている栄耀栄華とは違うのです。それでは、いったいどんな栄光なのでしょう。それは、「恵み」と「まこと」に満ちた栄光です。人を愛することから生まれる栄光です。人を赦すときに現される栄光です、人を癒すときにもたらされる栄光です。そして、救いの道を完成させるという栄光、すなわち、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられた救いこそ、イエス様の栄光そのものなのです。
 ピリピ人への手紙2章6節ー11節には、こう書かれています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

4 イエス様を通して恵みとまことを知ることができる
 
 1章14節に「この方は恵みとまことに満ちておられた」と書かれていますね。
私は、今まで三十年間牧師をしてきましたが、その間に何回か牧師としての大きな転機がありました。
 最初の転機は、牧師になって三年目でした。何をやっても思うようにいかない現実に直面していたのです。その頃、「御手の中で」という賛美をよく礼拝で歌っていましたが、その歌詞がなかなか信じられないわけです。「御手の中で、すべては変わる賛美に」「御手の中で、すべては変わる感謝に」と歌っているのですが、そのようにはまったく感じられない現実を味わっていたのです。もう牧師を辞めよう、と考えました。辞めるなら早いうちがいい、と思っていたのです。
 そんなとき、旧約聖書のエレミヤ書の言葉が、私の心を捕らえました。エレミヤ30章18節ー19節に、こう書かれています。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはヤコブの天幕の繁栄を元どおりにし、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。』」また、31章3節ー4節には、こう書かれています。「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』」
もちろん、これは、バビロンに捕囚となって連れて行かれたイスラエルの民が、将来、自分の国に戻ってきて再び繁栄することができるようになるという預言の言葉なのですが、私にとっては、「神様がこの教会を建て直してくださる」という約束として心に響いてきたのです。「教会を建てあげるのは、私ではなく、神様ご自身だ」ということを三年目に学んだわけですね。
 そして、二回目の大きな転機は、牧師をして十年目の時でした。その頃、私は、自分が語っている説教について、「これでいいのだろうか」と迷っていたんです。また、時期を同じくして、教会から何人かの方が出て行かれて、余計に説教について「このままでいいのだろうか」と考えてしまったのです。そのとき、今日読んだヨハネの福音書1章14節が私に大きな変化を与えてくれたのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 「イエス様は恵みとまことに満ちておられた」とありますね。この箇所を読んで、私は、「今までどれだけ恵みとまことに満ちたイエス様を語ってきただろうか」と考えてしまったのです。「イエス様が恵みとまことに満ちておられるとするなら、私が語らせていただく説教の中に、イエス様の恵みとまことに満ち満ちた姿がどれだけあらわされていただろうか」と深く考えてしまったのです。
考えてみれば、パウロはどうだったでしょうか。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれます」と語りましたね。パウロは、イエス様の十字架によってもたらされる驚くばかりの恵みの世界を語り続けました。ですから、それを聞いて、「罪が増すところに恵みも増し加わるなら、どんどん罪を犯したほうが恵みがよくわかるんじゃないんですか?」と誤解した人々もいたほどだったのです。
 私も、そんな誤解が出るほどイエス様の恵みとまことを聖書全体から語らせていただこうと決断しました。そして、その時から連続講解説教を始めていくことになったのです。
皆さん。この「恵み」と「まこと」とは、いったい何でしょう。
「恵み」とは、私たち自身がそれを受け取るにふさわしいものではないにもかかわらず与えられる神様の愛の行為です。箴言16章6節に「恵みとまことによって咎は贖われる」とあります。人間の不自由さや虚しさやうしろめたさの根本にある罪と咎の解決のためには、神様の恵みとまことが不可欠なんです。
 先週もお話しましたが、ルカの福音書15章の放蕩息子の話を思いだしてください。放蕩三昧をして惨めな姿で帰ってきた息子をそのまま受け入れた父の姿を学びましたね。
 この放蕩息子の話をすると、私にこう言ってきた方がいました。「関根さん、そりゃ父親が甘すぎるよ。そんな父親は失格だ。俺だったら、そんな息子、帰ってきてもすぐには、家に入れないね。まず、雇い人の一人として働かせて、行状がよくなったかどうか見極めてから、家に入れるよ。それが息子のためだよ。」確かに、それも一理あるかも知れません。多くの人は、そう考えるでしょうね。簡単に受け入れたら、甘やかすことになる、という発想を私たちはしますからね。
でも、この放蕩息子は、すでに自分の愚かさを十分自覚していました。もう息子と呼ばれる資格などない、とわかっていました。だから、雇い人の一人にしてもらおうと思って帰ってきたのです。
 ところが、父親は、この息子を無条件に受け入れたのです。本来、受け入れるに値しない者であるにもかかわらず、父親は受け入れたのです。
人は、ありのままを受容されて初めて成長することが出来るものです。私たちをありのまま受け入れてくださる圧倒的な神様の愛と赦しの恵みを知れば知るほど、私たちは以前のように罪の中を歩み続けようなどとは思わなくなるのです。「ありのままを受け入れられたなら、もはやありのままでいられなくなる」と私は思うのです。私たちは、イエス様を通して示された愛と赦しの恵みを知れば知るほど、イエス様を愛していこうという方向に進むようになるのです。
そして、イエス様は「まこと」、つまり、真理に満ちておられます。真理そのものなるお方です。ヨハネの福音書14章6節で、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃいました。イエスは、真理に満ちた方です。真理とは何かを知りたいなら、イエス様を見、イエス様の言葉を聞けばいいのです。また、イエス様がまことなる方であるということは、イエス様には、嘘偽りが全くないということです。私たちはイエスの人格にも言葉にも行動にも全き信頼を置くことができるということです。
 ヨハネの福音書6章32節では、イエス様は「真理はあなたがたを自由にします」とおっしゃいました。私たちが真理を知れば、様々な束縛から解放されます。
 小さい子供が夜中にトイレにいくのを怖がりました。「おばけが出るかもしれない!」というのです。でも、父親が灯りをつけてやって、「ほら、おばけなんかいないよ。お父さんがここにいてあげるから大丈夫だよ」と言えば安心しますね。
 私たちは、真理を知れば恐怖から解放されます。また、正しい情報を知っていれば、間違った情報に惑わされることはありません。混乱から解放されるのです。多くの人が、迷信や占いや先祖のたたりへの恐れとか、様々なものに束縛されていますね。それらが人々を縛り付けて自由に生きることを妨げてしまうのです。
しかし、イエス様は恵みとまことに満ちておられる方です。イエス様の恵みとまことは、私たちを自由にし、救い、癒し、赦し、神様との関わりを新しく回復させてくださるのです。そして、私たちは、イエス様に信頼し、尽きることのない恵みの中に生きていくことが出来るのです。
 16節に「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」とありますね。この「満ち満ちた」という語は、ギリシヤ語の「プレローマ」という言葉で、「すべてのものを全部合わせたもの」という意味があります。イエス様は、神の本質、神の性質のすべてが満ちている方です。神の愛、聖さ、恵み、まこと、知恵、力があふれている方です。すべてのものを合わせ持っている方がイエス様です。
 そして、このイエス様を信じて生きる一人一人は、このイエス様の満ち満ちた豊かさの中に歩む者とされているのです。ですから、パウロは「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」と語りました(コロサイ2・10)。また、 詩篇23篇6節には、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と書かれています。私たちの人生は、神様のいつくしみと恵みに追いかけれらる人生なのです。
今週も、恵みとまことに満ちた栄光の主イエス様と共に歩む幸いを感謝していきましょう。そして、私たちを通して、恵みとまことに満ちたイエス様が分かち合われていくことを願いつつ歩んでいきましょう。