城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年八月二六日             関根弘興牧師
                 ヨハネ一章一九節ー三四節

ヨハネの福音書連続説教4
   「見よ、神の小羊」


19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません」と言明した。21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」22 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」24 彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。25 彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
  29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(新改訳聖書)



私たちは、今、ヨハネの福音書を最初から少しずつ読みながら、イエス様がどのような方なのか、どれほど恵みとまことに満ちあふれているお方なのか、ということを学んでいます。
 毎回お話ししていますが、この福音書の著者ヨハネは、まず、1章の最初に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」と記しました。そして、「これから紹介するイエス様こそ、世界を創造し、この宇宙に秩序を与え、すべての人に知恵を得させる『神のことば』なる方である」と言います。また、14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記し、「イエス様こそ神そのものなる方であり、その方が、私たちと同じ人となって来てくださったのだ」と宣言しています。つまり、私たちは、イエス様を知ることによって、神様を知ることが出来るというのです。

そして、今回の箇所からは、イエス様の御生涯の具体的な記録が記されていきます。今回登場するのは、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物です。ヨハネの福音書を書いた使徒ヨハネとは別人ですので、お間違いのないように。
 この福音書には、大切なキーワードがいくつかありますが、その一つは「証言=あかし」という言葉です。
 ある人が誰であるかを証明するためには、証言が必要です。たとえば、私が牧師であるということを証明するためには、教会のメンバーである皆さんが「確かに、この人は城山教会の牧師です」と証言してくださればいいわけですね。また、他のいろいろな立場の人たちも証言をしてくれるなら、私が牧師であることは、ますます確実なものとなることでしょう。
 この福音書を書いたヨハネは、イエス様が確かに「神が人となって来てくださった方」であり「本当の救い主」であることを証明するために、様々な証言者を紹介していくのですが、まず、最初の証言者としてバプテスマのヨハネを登場させました。34節で、バプテスマのヨハネが「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」と言っていますね。今日は、このバプテスマのヨハネの証言を通して、イエス様がどのようなお方であるのかを学んでいきましょう。

1 バプテスマのヨハネ
 
 他の福音書を読むと、このバプテスマのヨハネは、荒野に住み、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていたと書かれています。「ワイルドだろう」って感じの人ですね。
 そのヨハネが「罪を悔い改めてバプテスマ(洗礼)を受けなさい」と説くと、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川ぞいの全地域の人々が集まってきて、ヨハネからバプテスマを受けるようになりました。

@三つの質問

 すると、このヨハネの活動を調査するために、二種類の人々が派遣されてきました。祭司とレビ人です。
 祭司とレビ人は、エルサレムの神殿で奉仕をする人々です。旧約聖書のモーセの時代に、神殿の様々な奉仕をするためにレビ部族が選ばれましたが、そのレビ部族の中でも特にアロンの家の者たちは神様にいけにえを捧げる祭司に選ばれました。それ以来ずっと、祭司と神殿の奉仕者は世襲制でした。神殿の奉仕ができるのはレビ部族だけで、祭司になれるのはアロンの子孫だけだったのです。
 ところで、バプテスマのヨハネは、祭司のザカリヤと言う人の息子でした。ですから、ヨハネも本来なら祭司になるはずでした。ところが、ヨハネは、神殿で奉仕をせず、荒野で叫んでいるのです。祭司の家に生まれたにしては異常な姿でした。ですから、祭司やレビ人たちが調査をしにくるのは当然ですね。
 また、彼らは、パリサイ人たちからの要請もあって遣わされたようです。パリサイ人というのは、神様の律法を厳格に守ることに誇りを持っている人々でしたから、もしバプテスマのヨハネが偽預言者であるなら、きちんと取り締ってほしいと考えたのかもしれません。そこで、彼らは、バプテスマのヨハネが本当の預言者かどうかを調べに来たのです。
 彼らは、ヨハネが何者かということについて、ヨハネに三つの質問をしました。
 第一の質問は、「あなたはどなたですか」(「あなたはキリストですか」)というものです。
 「キリスト」とは「救い主」の意味で、ヘブル語では「メシヤ」といいます。当時のユダヤ人たちは、キリスト(メシヤ)を待望していました。当時のユダヤを支配しているローマ帝国を打ち破って独立国家をつくるメシヤ、全地に正義と平和をもたすメシヤ、神から直接遣わされる超自然的なメシヤなど、様々なメシヤ像がありましたが、ともかく自分たちを苦しみや束縛から解放してくれる政治的、国家的メシヤの到来を待ち望んでいたのです。
 しかし、いつの時代でも、「自分こそメシヤだ!キリストだ!」と称する者は出てきます。そして、不要な騒乱を引き起こすことも度々ありました。ですから、彼らは、まずヨハネがキリスト(メシヤ)なのかと質問したのです。ヨハネの答えは、「私はキリストではありません」という、きっぱりとした否定でした。
 第二の質問は、「あなたはエリヤですか」というものです。
 エリヤというのは、旧約聖書の時代に活躍した偉大な預言者です。エリヤが祈ると何年も雨が降らなくなったり、天から火が下ったり、また、死んだ子供が生き返ったりもしたのです。
 ユダヤ人たちは、その預言者エリヤが終末の時代によみがえって再び登場すると考えていました。なぜかといいますと、旧約聖書の一番最後の書物であるマラキ書の4章5節ー6節に、次のような預言が書かれてるからです。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
ユダヤ人たちは、このマラキ書の預言に様々な尾ひれを付けてエリヤの姿を想像していました。「終末の時代がくると、預言者エリヤがよみがえってきて、この世界にメシヤの到来を知らせ、メシヤを迎える準備をさせ、反対者を一掃し、すべての物事や人物に判定をくだして決着をつけ、そして、ついにメシヤに油を注いで王とするだろう」と考えていたのです。
 確かに、旧約聖書の中に「救い主の到来を知らせて、道を整える預言者が登場する」ということは記されているのですが、当時のユダヤ人たちは、そのほかにもいろいろと目ざましい働きをする華やかな預言者のイメージを勝手に作り上げていたのです。
 さて、マラキ書の預言から四百年ほどたった後に、バプテスマのヨハネが登場しました。久しぶりに登場した預言者でした。そこで、ユダヤ人たちは「もしかしたら、この人がマラキ書に預言されているエリヤかもしれない」と思って、「あなたはエリヤですか」と質問したのです。
 ヨハネは、「キリストの到来を知らせて、道を整える者」という意味では、確かにエリヤの役割を果たした人物でした。マタイ11章14節を見ると、イエス様も、このヨハネについて、「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」と言っておられます。
 しかし、ヨハネは、当時のユダヤ人たちが考えているような華々しい活躍をする預言者という意味でのエリヤではありませんでした。ですから、「私はエリヤではありません」と答えたのです。それは、「私は、あなた方が考えているような目ざましいわざを行って脚光をあびるエリヤのイメージとは全く関係がありません」という意味なのです。
 祭司とレビ人がヨハネにした第三の質問は、「あなたはあの預言者ですか」というものです。
 「あの預言者」とは、何かといいますと、旧約聖書の中に次のようなモーセの預言があります。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記18章15節) モーセは、「将来、私のような預言者が現れるから、その人に従いなさい」と言ったわけです。モーセは、神様と直接語り合い、神様の命令によって様々な奇跡を行い、イスラエル民族をエジプトの奴隷状態から脱出させ、約束の地まで導いた人物です。そのモーセのような最も卓越した預言者が現れるというのですから、ユダヤ人たちは、その預言者の登場を待ち望んでいました。つまり、「あなたはあの預言者ですか」という質問は、「あなたはモーセのような預言者なのですか」という意味なのですね。しかし、ヨハネは「私はそのような栄誉ある預言者でもありません」と否定しました。

Aバプテスマのヨハネの自己紹介

 そして、ヨハネは、自分について、「私は、荒野で叫んでいる者の声です」と説明しました。
 皆さん、この福音書の最初に、「ことば」なるキリストが紹介されましたね。そして、今日の箇所には、「声」に過ぎないヨハネが登場しました。ここに、人がわきまえなければならない区別があるのです。ヨハネは、「私は王なるキリストを指し示す声にすぎない。大切なのは私ではなく、神のことばなるキリストだ」と言っているのです。
こんな詩があります。「私でなくキリストが、崇められ、愛され、高められるように/私でなくキリストが、見られ、知られ、聞かれるように/私でなくキリストが、すべての行動の中におられるように/私でなくキリストが、すべての思いと言葉の中におられるように/私でなくキリストが、謙遜で静かな働きの中におられるように/私でなくキリストが、つつましく熱心な労苦の中におられるように/キリスト、キリストだけです!/見栄や見せびらかしがあってはいけない/キリスト、キリストだけが、魂を集めてくださる方です/キリスト、キリストだけが、まもなく私の幻を満たしてくださる/すばらしい栄光を、私はまもなく見るでしょう/キリスト、キリストだけが、私のすべての願いを満たしてくださる/キリスト、キリストだけが、私のすべてのすべてとなられる」
 私たちは、イエス様よりも自分が評価されることを求めていくことがしばしばあります。しかし、バプテスマのヨハネは、ただキリストだけがあがめられることを願い、実践した人物だったのです。

2 ヨハネの証言

 ヨハネは、自分は「声」に過ぎないといいましたね。ヨハネの使命は、イエス・キリストについて証言をすることでした。では、彼は、どのような証言をしたのでしょうか。

@偉大な権威を持つ方

 26ー27節で、ヨハネは「私は、水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」と言っています。つまり、「私よりもはるかに偉大な権威をもつ方があなたがたの中に来ておられる。私に権威があるのではなく、私は、ただその方の到来を知らせている声にすぎない。その方の王国に入れていただくために、あなたがたも身をきよめなさい」と語っていたのです。

A神の小羊なる方

 ヨハネが「私よりも遙かに偉大な権威を持つ方」と言ったのは誰のことでしょうか。それは、29節に書かれています。「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです』」 ヨハネは、「イエス様こそその方だ」と証言したのです。
 ここで、ヨハネは、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と叫んでいますね。いったいこれは、どういう意味があるのでしょう。なぜ「小羊」なんでしょうね。
 実は、当時のユダヤ人にとって、「小羊」には特別なイメージがあったのです。

A「過越の小羊」(出エジプト12章参照)
イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しんでいたとき、神はモーセを遣わして、イスラエル人をエジプトから脱出させようとなさいました。イスラエル人を行かせまいとするエジプトに対し、神は十の災いをお下しになりましたが、十番目の災いは、「人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子(最初に生まれた子)を殺す」というものでした。ただし、イスラエル人が小羊の血を二本の門柱とかもいに塗っておけば、主はその血を見て、通り越してくださる、というのです。
 エジプト王の初子から捕虜の初子にいたるまで、すべての家畜の初子まで死んでしまいましたが、神様が言われたとおり小羊の血を塗ったイスラエルの家はこの災害を免れました。それ以来、イスラエル人は毎年この出来事を記念するために小羊をほふって「過越の祭り」を祝うのです。ですから、「小羊」という言葉には、「死と滅びから救うもの」というイメージがあるのです。

B「いけにえの小羊」(出エジプト29章参照)
 ヨハネは祭司の子供でしたから、神殿での罪のために小羊がささげられていたことなどは熟知していました。ですから、「小羊」という言葉には、「罪をあがなうもの」というイメージに直結していました。神殿では毎日、小羊が人々の罪のためにささげられていました。しかし、このイエスこそ、人々を罪から解放することのできる神の小羊だ、告白したわけです。

C「苦難の小羊」(イザヤ53章参照)
 イザヤ書53章には、私たちの病や傷みや罪やとがを身に負って苦しみを受け、ほふられる「小羊」の預言があります。この小羊が私たちの身代りとなることによって、私たちは罪を赦され、義と認められ、平安といやしを得ることができる、というのです。ここには、私たちの身代わりに苦難を味わう小羊の姿が映し出されているのです。

D「勝利の小羊」
 旧約聖書の終わりからイエス様の登場までには約四百年の期間がありますが、その期間には激しい動乱がありました。その頃、小羊、特に角をもつ小羊が、「偉大な勝利者」の象徴として用いられていました。ですから、ユダヤ人たちは、「小羊」に「勝利者」のイメージも持っていたのです。
 こうした背景があったので、新約聖書の一番最後の書物である黙示録には、勝利をおさめた「神の小羊」という言葉が何度も使われています。「神の小羊」なるイエス様が勝利者として称えられているわけです。

 バプテスマのヨハネは、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。それは、「イエス・キリストは、私たちを死と滅びから救い、罪から救い、私たちのために苦難を受け、最終的に圧倒的な勝利を収める、というすべてのわざを完全に行うことのできる方だ」ということを表明しているわけです。皆さんは、イエス様にどのような信仰の表明をなさいますか。私たちは「イエス様、あなたこそ、世の罪を取り除く神の小羊です」と信仰の告白をしていきましょう。

B聖霊によってバプテスマを授ける方

 33節ー34節で、ヨハネはこう叫びました。「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
 ヨハネは、聖霊がイエス様の上に下って、その上にとどまられるのを目撃しました。それで、イエス様こそ「神の子」であり、「聖霊によってバプテスマを授ける方」であるとわかったというのです。
 では、「聖霊によってバプテスマ(洗礼)を授ける」とはいったいどういうことでしょう。
 「聖霊」は、「三位一体の神」の一つの位格であられる方です。父なる神、子なるイエス、聖霊は、同じ本質をもち、常に同じ思いをもって共に働いておられます。
 バプテスマ(洗礼)とは、「浸す」という意味で、例えば、着物を染料液の中に浸したら、その染料の色に染まっていきますね。日本的な例を挙げれば、キュウリをぬかみそに漬けるようなものです。次第にぬかみその味が染み込んでおいしくなり、ぬかみその香りを放つようになりますね。
 バプテスマのヨハネが行っていた洗礼は、ただ水で洗い流すだけのものです。「罪を清める」という意味で洗礼を授けていたのです。しかし、イエス様が行われる洗礼は、罪を洗い清めるだけではなく、聖霊に浸すというものなのです。
 私たちがイエスキリストを信じ、救いを受けるとき、聖霊に浸されます。「聖霊漬け?」になるのです。私たちは、ずっと聖霊なる神様の中に浸され続けます。そして、次第に聖霊に満たされ、聖霊の香りがしみ込んでくるのです。そして、聖霊の香り、神様の愛の香りを放つようになっていくのです。
その結果、どうなるでしょうか。主が共にいてくださるという確信が生まれます。神のいのち、愛、喜び、平安を味わうようになります。神様に喜ばれる人生を生きる力を与えられます。聖霊の実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が実っていきます。そのような人生の変革をイエス様はもたらしてくださるのです。ヨハネは、ただ水で洗うだけでしたが、イエス様は、聖霊をもって私たちの人生をすばらしい味のついたものとしてくださるのです。
 ヨハネは、イエス様こそ聖霊によるバプテスマを授けてくださる方だと言いました。イエス様を信じ受け入れている生涯とは、聖霊の中に浸らせていただいている生涯だということなのです。感謝ですね。
 来週は、洗礼式を行います。聖霊に浸りながら、決して見捨てず離れることのない方と共に生きる生涯の出発式です。

 私たちは、この方と共に生かされていることを覚え、キリストがあがめられ高められることを求めて歩んでいきましょう。ヨハネの「声」が荒野に響き渡ったように、あなたの「声」があなたの周りにキリストの恵みの声となって響き渡っていきますように。