城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年九月二日              関根弘興牧師
                 ヨハネ一章三五節ー五一節

ヨハネの福音書連続説教5
   「キリストに出会った!」

35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
  43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(新改訳聖書)


 先週は、イエス様が救い主であることを証言する最初の人物として、バプテスマのヨハネの姿を学びました。バプテスマのヨハネは、この福音書を書いたヨハネとは別人で、人々に「罪を悔い改めてバプテスマ(洗礼)を受けなさい」と教えていたので「バプテスマのヨハネ」と呼ばれています。彼は、イエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。それは、「このイエス様こそ、私たちの罪を代わりに負って苦しみを受け、私たちに罪の赦しと救いといのちを与えてくださるキリスト(救い主)だ」ということなのです。
 このヨハネが指し示した救い主イエス様が、何を語り、何をなさったかということが、今日の箇所から記されていきます。 私は、よくいろいろな集まりの司会をするのですが、バプテスマのヨハネは、ちょうど司会者のような人です。「皆さん、これから登場するお方は、『世の罪を取り除く神の小羊』、つまり『救い主』です。では、イエス様、どうぞ!」というような感じですね。そして、今日の箇所から、いよいよイエス様が登場するわけです。
 ところで、教会の指導者に向けて書かれた本の中に、こんなことが書かれていました。「もしある人が自分の弟子を持つことを喜んだり、あるいは、弟子になりたいという申し出を許可するのを見たならば、そういう人は常に怪しいと警戒する必要があるだろう。歴史上これまで弟子をもつに値した人物はただおひとりだけである。多くの宗教的指導者が自分の崇拝者たちのおべっかに乗せられて破滅の運命をたどってしまった。・・・ 広告宣伝で名前を売り、そのファンがさらなる売り込みに利用されるような時代には、その危険性はさらに顕著である。」まさに、そのとおりだと思いますね。
 荒野にいたバプテスマのヨハネのもとには各地から多くの人々が集まってきて洗礼を受けるようになっていました。それで、当時の宗教指導者たちが調査に来るほどでした。そのヨハネには何人かの弟子がいたようですが、今日の箇所では、二人の弟子がヨハネと一緒にいました。その時、イエス様が歩いていかれるのを見たヨハネは、前回と同じように、「見よ、神の小羊」と言いました。すると、ヨハネの二人の弟子は、イエス様についていってしまったというのですね。
 バプテスマのヨハネは、当時の宗教覚醒運動の指導者であり、彼のもとには多くの弟子が集まってきていたことでしょう。普通、人は、強力な地位を得ると、それ以下の地位に降りるのが難しくなります。考えてみてください。自分の弟子たちが自分を離れて他の人物のところに行ってしまったら、心穏やかではいられなくなりますよね。しかし、このヨハネは、弟子たちにイエス様こそ「世の罪を取り除く神の小羊」だと教え、弟子たちがイエス様のもとへ行ってしまっても何の憤りも不満も示しませんでした。むしろ弟子たちがイエス様のもとに行くことを願っていたのです。イエス様こそ唯一の救い主であり自分より遙かに優れた方であること、そして、自分はイエス様を指し示す者にすぎないということを十分自覚していたのです。
 皆さん。私たちは、このヨハネの態度を見習いたいですね。自分に従う人々ではなく、イエス様に従う人々が起こされることを常に求めていくのです。また、どの教会であれ、一人一人がしっかりとイエス様を信頼し、キリストのからだに属する者とされているなら、それで良い、という思いを常に持っていきたいですね。
さて、今日の箇所では、このヨハネの二人の弟子をはじめとして、イエス様と出会いイエス様の弟子になっていく五人の人物の様子が記されています。今日は、その彼らとイエス様の出会いの記事を通して、共に学んで生きましょう。

1 アンデレともう一人の弟子

 まず最初は、バプテスマのヨハネの二人の弟子です。一人は「シモン・ペテロの兄弟アンデレ」で、もう一人は名前が書かれていませんが、おそらくこの福音書を書いたヨハネであろうと考えられています。二人は、バプテスマのヨハネが「見よ、神の小羊」と言うのを聞くと、イエス様に声をかけるでもなく、ただイエス様について行きました。すると、イエス様のほうで振り向いて、二人に声をかけられたのです。この言葉が、この福音書の中でのイエス様の第一声です。「あなたがたは何を求めているのですか。」この福音書を書いたヨハネは、これをイエス様の語られた最初の言葉として紹介しているんです。
 「あなたは何を求めているのですか。」皆さんは、この質問にどう答えますか。当時の律法学者やパリサイ人なら、律法について議論したいと求めたでしょう。祭司やサドカイ人たちなら、地位と権力を求めたでしょう。熱心党の人々は、ローマ帝国の支配を打ち砕くことを求めたでしょう。もちろん、罪や苦しみや病気から救われたいと求める人もいたでしょう。皆さんなら、何を求めますか。
 この二人の弟子たちは、イエス様の質問に対して、意外な答え方をしました。「今どこにお泊まりですか」と言ったのです。「あなたの滞在しておられる所を教えてください」と求めたわけです。もっと良いものを求めたほうがよかったのではないでしょうか? しかし、よく考えると、これほど大切な求めはありません。彼らが求めたのは、イエス様とただ一回だけ出会って「ハイ、さようなら」というような関わりでなく、イエス様のおられる場所を知って、イエス様のもとに留まり、イエス様と深い交わりを持ち続けたいということだったからです。居場所がわかれば、いつも会うことが出来ますからね。
 すると、イエス様は、こう言われました。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、二人はイエス様の泊まっておられる所に行ってイエス様と共に過ごしました。「時は十時ごろであった」と書かれていますが、これは朝六時から数えて十時間目という意味で、午後四時ごろでした。ですから、彼らはこの日の夕方から次の朝まで、イエス様と語り明かしたのかもしれませんね。そして、二人のうちの一人であるアンデレは、イエス様と語り明かした翌朝、すぐに自分の兄弟シモンのところに行って「私たちはメシヤ(キリスト)に会った」と知らせたのです。イエス様のもとに行って留まるとき、私たちはすばらしい発見をします。「キリストに出会った」という発見です。アンデレは、「ついに救い主を発見したぞ!」と喜んで、兄弟のペテロもイエス様のもとに連れてきたんです。
 イエス様の弟子となったこのアンデレは、ほとんど表舞台に出てこない人です。弟子たちの中では目立たない、単純で素朴な人物です。自分が最初にイエス様に従った弟子であるにもかかわらず、また、自分がペテロをイエス様のもとに導いたにもかかわらず、そのことを自慢したり威張ったりするようすは見られません。ペテロや他の弟子のほうが目立っても決して不満を持たなかったようです。
 アンデレは、人をイエス様のもとに連れて来ることに熱心だったようです。よくわからないけれど、ともかくイエス様に紹介しよう、そうすればイエス様が最善を行ってくださる、と信じていたのでしょう。
 私たちも、イエス様のもとにいつも最善な答えがある、とにかく、イエス様のもとに連れて行けば大丈夫だという単純な信仰をもって歩んでいきたいですね。
 それでは、今、イエス様はどこにいらっしゃるのでしょう。マタイの福音書18章20節には、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいます」というイエス様の約束があります。イエス様を信じる私たちが集まって心を合わせ祈るところにイエス様はいてくださるのです。それだけではありません。ガラテヤ2章20節で、パウロはこう書いています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」イエス様を信じ受け入れた一人一人の内にイエス様がいてくださるのです。
 皆さん。イエス様は、この集まりの真ん中にいてくださいます。そして、一人一人の内に住んでくださっているのです。イエス様は、「わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださいました。私たちは、いつもイエス様がおられる場所に留まることができるのです。

2 ペテロ

さて、アンデレとこの福音書の著者ヨハネが最初にイエス様の弟子となり、続いて、アンデレが兄弟のシモン・ペテロをイエス様の元に連れてきました。
 すると、イエス様は、ペテロに目をとめてこう言われました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」と。イエス様は、初対面のシモンに、「あなたをケパと呼ぶことにします」と言われたのです。
 この「ケパ」というのは「岩」を意味するアラム語です。アラム語はヘブル語によく似た言語で、国際語として広い地域で使われていました。そして、イエス様の時代には、ユダヤ人たちは日常会話にアラム語を使っていたのです。(ヘブル語は、宗教用語として使われるだけでした。)
 それから、「ペテロ」というのは、「ケパ(岩)」をギリシャ語に訳したものです。ギリシャ語はイエス様の時代の国際語で新約聖書もギリシャ語で書かれています。ですから、私たちがいつも「ペテロ」と呼んでいる名前は、イエス様が名付けた「岩」という意味の名前なんですね。
 ペテロのもともとの名前は、「ヨハネの子シモン」です。別の箇所では、「バルヨナ・シモン」と紹介されています。「バルヨナ」とは「ヨハネの子(または、ヨナの子)」という意味です。そして、イエス様は、「あなたをケパと呼ぶことにします」とおっしゃいました。ですから、ペテロに関しては、聖書の中で、「ヨハネの子シモン」「バルヨナ・シモン」「ケパ」「ペテロ」と四つの呼び方で記されているんです。一般には、本来のシモンという名前より、イエス様がつけられたケパ(ペテロ)いう名前のほうがよく知られていますね。
 ところで、イエス様は、ヨハネの子シモンに対して、わざわざ「あなたをケパ(ペテロ)、すなわち岩と呼ぶよ」と言われました。イエス様は、初めからペテロのすべてをご存知でした。このペテロがこれからどのような人物になっていくのか、どのような働きをしていくのかを表す意味で「ケパ(ペテロ)」と呼ばれたのでしょう。
 ペテロは、こうしてイエス様に初めてお会いした日から、イエス様の弟子となりました。他の福音書を読むとわかりますが、その後しばらくの間は、ペテロはガリラヤ湖で漁師の仕事を続けていましたが、まもなくガリラヤ湖畔でイエス様に招かれ、網もそれまでの生活も捨てて、イエス様に直接従っていく者となりました。そして、イエス様の証言者として、また、教会を建て上げる基礎を築いた一人として、大切な働きをするようになったのです。

3 ピリポとナタナエル

 続いて43節を見ると、イエス様がピリポを招かれた記事がでてきます。ピリポは、アンデレやペテロと同じく、ガリラヤのベツサイダという町の出身でした。エルサレムから見れば、かなりの田舎です。ピリポは、イエス様から「わたしに従ってきなさい」と言われてイエス様の弟子になりました。そして、その後すぐにアンデレと同じ様な行動を取ったのです。
 ピリポは友人のナタナエルを見つけ、イエス様のことを話しました。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」つまり、ピリポは、「旧約聖書の中で預言されている救い主についに出会うことができた! それは、ナザレの人で、ヨセフの子イエスという方だ」と言ったのです。
 すると、ナタナエルは、「馬鹿なことを言うな。救い主がナザレから出るはずがない」と即座に懐疑的な反応を示したのです。今でもイエス様のことを聞いて懐疑的な反応をする人はいますね。「イエス? そんな外国の人が何で私に関係あるんですか?十字架について復活した?信じれば救われる?そんなこと信じられませんね」というような反応です。
 しかし、ピリポは、ナタナエルの懐疑的な言葉に言い返そうとせずに、ただ「来て、そして、見なさい」と言って、ナタナエルをイエス様のもとに連れて行ったのです。
 これは大変賢明な方法ですね。いくら議論をしても、もし議論に勝ったとしても、議論ではキリストを信じさせることはできないのです。トウザーという神学者は、こう言いました。「もしもあなたが説得されてキリスト教に入ったのならば、だれか賢い人に説得されてキリスト教から離れることもあるだろう。しかし、聖霊が内側を照らし明らかにするなら、だれもあなたを説得してキリストから離れさせることはできない。」
 私たちは、イエス様についてうまく説明できずに落ち込むことがあるかもしれません。しかし、それは重要ではありません。ピリポは、ともかくイエスのもとに連れて行ったのです。議論を吹きかけられたとき、よくわからないのに反論しようとするよりも、「ともかく、来て、見てごらんなさい。今度、教会に一緒に行ってみませんか。一緒に礼拝に行きましょう」、そう誘えばよいではありませんか。
 ナタナエルは、ピリポに言われて、とにかくイエス様のもとに行ってみることにしました。
 すると、イエス様は、このナタナエルに二つのことをおっしゃいました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」これは、ほめすぎではありませんか?ピリポを馬鹿にした男に対して、イエス様はちょっと評価が高すぎるのではないでしょうか?もし、私がピリポなら、文句を言ったかもしれません。「イエス様、彼はそれほどたいした男ではありませんよ。頭の固い、疑い深い男ですよ。私が話しても素直に聞かないんですから」と言ったかもしれません。しかし、イエス様は、ナタナエルが本当に心から真実を求めている求道者であることを知っておられたのです。
 そして、イエス様は、「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と言われました。すると、ナタナエルは、「あなたこそ神の子です」と告白したのです。
 これは、不思議な会話ですね。たとえば、私が「私は、あなたが教会に来る前に、小田原城の松の木陰に座っているのを見ました」と言っても、感激してイエス様を信じる人がいるでしょうか?
どうも、ナタナエルに言われたイエス様の言葉には、何か意味がありそうですね。
 実は、いちじくの木は、ユダヤ人にとって、平和と静けさの象徴でした。また、いちじくの木は葉が繁って日陰をつくるので、その木の下に座って黙想する習慣があったそうです。ですから、ナタナエルも、いちじくの木の下で人生の意味や救い主のことについて思いをはせ、祈っていたのかもしれません。イエス様が「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」とおっしゃったのは、いちじくの木の下で昼寝したり休んでいるナタナエルの姿を見たということではなくて、ナタナエルが熱心に真理を探し求めていることを知っているということなんです。 ナタナエルは、そのイエス様の言葉を聞いて、「この方は、私の真理を求める思いや願いをすべて読み取り、理解しておられる方だ」と悟りました。「私の心の願いを理解する人がいるとは! 私の心の奥底にあることを見抜いている人がいるとは! 言葉では言い表せない私の魂のうめきを聞き取ることのできる人がいるとは! この人こそメシヤに違いない」と思ったのです。そこで、彼はすぐに「あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白して弟子となりました。このナタナエルは、十二使徒の一人のバルトロマイと同一人物だと考えられています。
 イエス様は、求める者を決してそのままにしておく方ではありません。「あなたは、さらに大きなことを見ることになります」と言われました。そして、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」と言われたのです。とても不思議なことを言われましたね。これは、イエス様のこれからの働きを象徴する言葉なんです。
 ユダヤ人ならだれでも知っている一つの出来事があります。それは、創世記28章に出てくる「ヤコブの夢」です。ヤコブは、旅の途中、野宿をしている時に夢を見ました。天と地の間にひとつのはしごが立てられていて、神の使いたちがそのはしごを上り下りしているという夢です。イエス様は、その有名なヤコブの夢を引用し、「わたしこそが、天と地、神と人との間にかけられた『はしご』なのだ」とおっしゃったのです。イエス様こそ神様のみもとに至る唯一の「はしご」であり、人と永遠なる神様の間の架け橋となってくださるまことの救い主だということです。イエス様は、「わたしが道であり、真理あり、いのちなのです」と言われました。そして、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました。イエス様がというはしごによってのみ、私たちは神様のみもとに近づくことができるのです。
 アンデレもヨハネもペテロもピリポもナタナエルもイエス様と出会ってイエス様に従う者となりました。イエス様は、一人一人をそれぞれにふさわしい方法でご自分のもとに導いてくださいます。そして、イエス様御自身が神様と私たちを結ぶ「はしご」、天のみ国に至る「はしご」となってくださるのです。 あなたは、この救い主に出会っていますか。