城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年九月九日              関根弘興牧師
                  ヨハネ二章一節ー一一節

ヨハネの福音書連続説教6
   「最初のしるし」

  1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(新改訳聖書

さて、先週は、ヨハネの福音書の中で、イエス様が最初に語られた言葉を中心に考えましたね。それは、1章38節の「あなたがたは何を求めているですか」という問いかけの言葉でした。それに対して、バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレたちは、「先生、今どこにお泊まりですか」と尋ねたのです。イエス様がおられる場所がわかれば、一回限りではなく、いつでもお会いすることができるからです。彼らは、イエス様が泊まっておられる場所にいって、イエス様と共に過ごしました。そして、次に、自分の兄弟や友人をイエス様に紹介していったのです。
 皆さん、今、イエス様はどこにおられますか。イエス様は、黙示録の3章20節で、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」と約束しておられます。また、マタイ18章20節では、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」とおっしゃいました。ですから、イエス様は、一人一人の傍らにいて心の扉をノックしてくださっていますし、その音を聞いてイエス様を信じて迎え入れた人の内にいつも共にいてくださいますし、また、私たちがイエス様のみ名のもとに集まるとき、その真ん中にいてくださるのです。

 さて、このヨハネの福音書の中には、イエス様の行われた「しるし」が七つ記されていますが、その中の最初のしるし、水がぶどう酒に変わるというしるしが、今日の箇所で紹介されています。
 この福音書では、イエス様の行った奇跡的なみわざを「奇跡」と呼ばずに、「しるし」と呼んでいます。イエス様が行われた数々の奇跡的なみわざの中から、特に、イエス様がどのような方であり、どのような目的で来てくださったのかを示すものを選んで、「しるし」として紹介しているのです。
 ですから、今日のカナの婚礼での出来事も、「イエス様は、水をぶどう酒に変えることだって出来るんだぞ。すごいだろう!」とイエス様の力を誇示するために記されたのではなく、イエス様が私たちのもとに来てくださった本来の目的が何であるかを示すための「しるし」として記録されているということを心に留めていただきたいと思います。
 では、今日の「最初のしるし」がイエス様についてどのようなことを示しているのかを。ご一緒に学んでいきましょう。

1 婚礼で起こった問題

 イエス様は、エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方のナザレで育ちました。そのすぐ近くのカナという町で、婚礼の祝宴が開かれたのです。
 当時の婚礼では、家を解放して一週間祝宴を催したそうです。このときだけは、新郎新婦は王と王妃のように扱われます。貧困と重労働の連続である人生において、本人たちにとっても、列席の人々にとっても、婚礼の席は喜びの時だったわけです。 その婚礼に、イエス様の母マリヤもイエス様も弟子たちも出席しました。
 もしかすると、婚礼の世話係は、イエス様の弟子たちを人数に加えていなかったかもしれませんね。そして、彼らは大酒飲みだったのかもしれませんね。予期せぬ出来事が起こってしまいました。その婚礼の祝いの最中に、ぶどう酒がなくなってしまったのです。ぶどう酒がなくなるということは、この祝宴が台無しになるだけでなく、喜びに沸く新郎新婦に恥をかかせることになってしまうのです。
 そのことに気づいたマリヤは、すぐイエス様に向かって「ぶどう酒がありません」と言いました。おそらくマリヤは、新郎新婦のどちらかの親戚だったのでしょう。一般の招待客なら接待に気をつかう必要はありませんからね。また、ここには、マリヤの夫のヨセフは出てきませんね。ヨセフは若くして死んでしまったと言われています。ですから、マリヤは、困ったときにはいつでも長男であるイエス様に相談し、頼っていたのでしょう。

2 イエス様の返答

 しかし、イエス様はここで、何ともぶっきらぼうな、冷たく聞こえる不思議な返事をなさいました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
 まるで「そんなの関係ねぇ」って感じにも聞こえてくるではありませんか。それに、母親に向かって「女の方」というのは、随分そっけなく聞こえますね。
 しかし、それは、文化の違いと翻訳の問題です。この「女の方」というのは、当時、敬意をもって女性に呼びかけるときに用いられた言葉です。イエス様は、マリヤに丁寧に呼びかけられたのです。
 では、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。ここには、ふたつの大切な意味が含まれています。

@イエス様は、血縁の絆に束縛されない

 ルカの福音書2章に記されていますが、イエス様は、十二歳になられた時、両親と一緒にエルサレムに行かれました。そして、両親と離れて、神殿で律法の教師たちに質問したり話をしたりしておられました。両親は、息子が迷子になったかと思って心配して捜し回り、やっと神殿でイエス様を見つけたのですが、イエス様は、こう言われましたね。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」と。「しかし両親には、イエスの話された言葉の意味がわからなかった」と書かれています。イエス様は、その後、ナザレに帰って、両親に仕えつつ成長なさいましたが、すでに子供の時から、ご自分が父なる神様から遣わされたということを明確に自覚しておられたのです。
 今日のカナの婚礼は、イエス様の親戚の婚礼だったのではないかと思われます。しかし、イエス様は、そうした血縁の絆に束縛されないという意味で、「ぶどう酒がなくなったことには、わたしは何の関係もない」とはっきりと告げられたのです。
 また、このカナでの出来事から少し経ってからですが、マルコの福音書3章31節ー35節を見ると、大勢の人がイエス様を取り囲んでいるところに、イエス様のお母さんと兄弟たちがたずねてきました。そのとき、イエス様は、こう言われました。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して、「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでもわたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われたのです。
 これは、母親であるマリヤにとってはショックを受ける言葉ですね。しかし、マリヤは、この事実を少しずつ受け入れなければなりませんでした。これは、マリヤにとっての子離れです。イエス様を自分の子どもとして見るのではなく、救い主として見つめていくという変化がマリヤには必要だったのです。
 そういう意味で、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」と言われたイエス様の言葉をマリヤは受けとめなければなりませんでした。
しかし、イエス様は、マリヤに冷たく接していたのでしょうか。いいえ違います。聖書を読むと、イエス様が母マリヤに最後の最後まで配慮されている姿を見ることができます。あの十字架に付けられた苦しみの中でさえ、イエス様は、マリヤを気遣い、弟子に世話を頼むほど、愛し、配慮を持って接しておられました。
 そして、イエス様の復活のあと、教会が誕生しましたが、その中に母マリヤも兄弟たちもいたのです。そこには、まさに、自分の子としてでなく、救い主としてイエス様を礼拝するマリヤの姿がありました。

Aマリヤへの配慮

さて、イエス様は、血縁に縛られないという関係をはっきりとマリヤに示されましたが、同時に、マリヤの願いを無視されることはありませんでした。
 「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」という言葉は、直訳すると「私にとって何か。そして、あなたにとって」という意味です。
 ぶどう酒がなくなったということは、イエス様にとっての関心、興味ではありません。しかし、マリヤの関心は、ぶどう酒がないということだけでした。ぶどう酒がなければ婚礼の祝いが台無しになってしまう、ということしか頭になかったのです。
 一方、イエス様が最も関心をもっておられたのは何でしょうか。イエス様は、不思議なことを言われましたね。「わたしの時はまだ来ていません」と。
 マリヤの関心事は、婚礼のぶどう酒です。しかし、イエス様が関心を持っておられたのは、将来、ご自分が人々の罪のために十字架で流す血のことでした。それは、ぶどう酒に象徴される血です。人々を罪から解放し、赦し、永遠の救いを与えるために流される血です。そのためにイエス様は来てくださったのです。その十字架の時のことを、イエス様は「わたしの時」と言われたのです。それは、まだ来ていませんでした。
 ですから、イエス様の言葉には、次のような内容が含まれていると考えることができます。「わたしの関心とあなたと関心とは少し違います。愛し尊敬するお母さん。わたしの本当の目的を成就するときはまだ来ていませんが、でも心配しないでください。この事態をわたしに任せてください。そうすれば、わたしのやり方で解決しましょう。」そんな意味が込められていたのです。
 マリヤはイエス様の言葉を聞くと、手伝いの人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言いました。ということは、イエス様を信頼し、とにかくイエス様に任せておけばいいのだと思ったのですね。
 そして、手伝いの者たちが水がめに水を満たし、それをくんで宴会に持って行くと、最高のぶどう酒に変わっていたのです。
 これがイエス様が行った「最初のしるし」です。それでは、このしるしは、何を示しているのでしょうか。私たちは、このしるしから何を学ことができるのでしょうか。

3 しるしの意味

@イエス様は小さな問題の中にも栄光を現してくださる

 舞台は田舎の新婚家庭です。大都会の有名人の結婚式でもなければ、何千人の集会でもありませんでした。そのときイエス様のみわざに気づいた人は、ほんのわずかでした。水をくんだ手伝いの者たちと、マリヤぐらいのものでした。
 ぶどう酒がないということは、この世界の問題に比べれば、取るに足りない問題のように思えませんか。しかし、イエス様は、若い夫婦が恥をかかないように、また、列席の人々の喜びが損なわれないように配慮してくださったのです。
 イエス様は、それぞれの小さな家庭の中に栄光を現してくださる、皆さんは、そのことを信じますか? 自分の家庭の問題を誰に向かって訴えますか?「イエス様。今、私の家庭はこういう状況です。助けてください」と訴えればいいのです。皆さん一人一人の人生の真ん中に、家庭の真ん中に、イエス様の座する場所がありますか? イエス様は、皆さんの小さな家庭の中で、ご自分の栄光を現そうとされているのです。

A水がぶどう酒に

 このヨハネの福音書には、「人が律法に従って生きることには限界がある」ということを示すためのメッセージがたくさんちりばめられている、と言われます。今日の箇所にも、そのことが示されています。
 当時のユダヤの習慣として、各家庭には、きよめのために使う水がめが用意されていました。ユダヤの人たちは家に入るときや食事の前に汚れた身を清めるために水で手足を洗いました。それは、衛生的な理由よりも、宗教的な理由で行っていたのです。しかし、いくら水で洗っても、本当に清められたという確信を持つことができたでしょうか。人々は宗教的な儀式的な生活に限界を感じていたかもしれません。水で身を清めるということが単なる宗教的な習慣にすぎないものとなっていたのです。
しかし、今日の箇所では、そのユダヤのしきたりで用意されていたきよめの水が、ぶどう酒に変わったのです。
 人は、毎日のように手を洗い、身を清めようとしても、自分の汚れや罪を洗い流すことはできません。きよめの水は、決して喜びを与えるものではありませんでした。
 しかし、この水がぶどう酒に変えられ、そのぶどう酒が最上の香りを放ち、人々に大きな喜びを与えるものとなったのです。 つまり、イエス様がカナの婚礼の時に行われたしるしの意味は何かと言いますと、「人が一生懸命努力して律法による行いをしても、決して自分の身を清めることはできないし、喜びを味わうこともできない。しかし、イエス様が十字架で流してくださる血によって、罪が赦され、きよめられ、新しく造り変えられ、最上の喜びを味わうことができるようになる」ということなのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5・17)

Bしもべの喜び

 このカナの婚礼の中で、とても地味で、決して目立たない人たちがいます。それは、イエス様の言われた通りに水を水がめに満たした手伝いの者たちでした。この婚礼が行われた家には、水がめが六つ置いてありました。八十リットルから百二十リットルもの水が入る水がめです。その水がめ全部に水を満たすのは、井戸から水を汲んで運んでこなければなりませんから、大変な労力ですね。また、たいへん地味な作業でもあったでしょう。しかし、ともかく彼らはイエス様のおっしゃるとおりにしました。
 そして、その水をくんで宴会に持って行くと、何と、ぶどう酒に変わっているではありませんか。それも最高の香りを放つぶどう酒で、宴会の人々がびっくりするような最良のものだったのです。
9節にこう書かれています。「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──」
 「水を汲んだ手伝いの者たちは知っていた」とありますね。彼らは裏方でした。表舞台に出る人たちではありませんでした。でも、水がぶどう酒に変わったことを知ることができたのです。
 しもべの喜びは、ここにあります。イエス様のしもべとして生きるということは、イエス様のみわざの目撃者となり、いろいろな出来事の背後にイエス様の働きがあることを知る者とされていくということです。
 私たち一人一人もイエス様にあって「水をくむしもべ」とされていきたいですね。「水をくむ」とは、ある人にとっては、誰かに声を掛けることかもしれません。手紙を出すことかもしれません。誰かのために祈ることかもしれません。何をするにせよ、私たちはこのしもべの心を持って歩んでいきたいですね。

C満ちあふれる恵み

 イエス様は、水をぶどう酒に変えてくださいましたが、それはあり余るほどのものでした。イエス様が五千人以上の人々にパンと魚を分け与えられた時も、皆が満腹し、余ったパンくずが十二のかごにいっぱいになりました。キリストの与える恵みの豊かさは半端じゃないですね。「この方は恵みとまことに満ちておられた」とありますが、イエス様は、あふれる恵みを与えることのできる方です。
 パウロは、ローマのクリスチャンにあてた手紙の中でこう記しました。「あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。」(ローマ15・29)「キリストの満ちあふれる祝福」とありますね。また、ピリピ人への手紙4章19節では、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」と書いています。コリント人の手紙第二の9章8節には「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」と書かれています。
キリストの恵み、それは、赦しにあふれる恵みです。私たちは、キリストの愛の中に生かされている喜びを味わうことができます。イエス・キリストは、私たちの無味乾燥とした味けのない人生を香りあふれる人生へと変えてくださるお方なのです。