城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年九月三〇日             関根弘興牧師
                 ヨハネ三章一節ー一五節

ヨハネの福音書連続説教8
   「風は思いのままに」

1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(新改訳聖書)

 前回は、イエス様がエルサレムの神殿に行き、そこにいた両替人たちやいけにえの動物を売る商売人たちを追い散らされた出来事を読みました。当時、神殿に行って礼拝する人々は、神殿専用の通貨に両替して神殿に税を納めていました。また、神殿で売っている検査済みの動物買っていけにえとして捧げる人が多かったのです。ですから、両替人や動物を売る商人は、当時の神殿の礼拝のために必要なものだと考えられていました。しかし、イエス様は、彼らの台をひっくり返し、神殿から追い払ってしまわれたのです。なぜでしょうか。
 一つは、彼らが神殿を自分たちの利益をむさぼる商売の場にしてしまっていたからです。イエス様は、その姿を激しく怒り、「神の家を商売の家にしてはならない」とはっきり宣言なさいました。
 また、イエス様は、この出来事を通して、これからは、今までのような形式的な礼拝ではなく、もっと新しい形の礼拝が始まるのだということを示そうとなさったのです。そして、「この神殿を壊してみなさい、わたしは三日で神殿を建てよう」と言われました。不思議な言葉ですね。「三日で神殿を建てる」とはどういうことでしょうか。それは、イエス様が十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活することを意味していました。神殿とは、神様がおられる場所です。神様にお会いできる場所ですが、イエス様こそ神そのものの方であり、イエス様の内に神様の本質が満ち満ちています。ですから、イエス様こそ、本当の意味で神殿なのです。ですから、イエス様が来てくださった今、私たちは、いつでもどこでも礼拝ができます。また、イエス様が御自身のからだをいけにえとしてささげてくださったので、私たちはもはや動物のいけにえをささげる必要はありません。神の子とされた私たちは、税を払う必要もありません。ですから、動物を売る商人も両替人もエルサレムの神殿ももはや必要ないのです。
 さて、しかし、イエス様のこうした姿は、エルサレム神殿の当局者たちにとっては、看過できないものでした。神殿の中で絶大な権益を握っていたサドカイ派と呼ばれるユダヤ教の一派の人々は、神殿の権威が傷つけられたわけですから、激怒しました。また、律法を厳格に守っていたパリサイ派の人々は、さまざまな戒めを無視するようなイエス様の態度に大きな反感を持ちました。ですから、このサドカイ派とパリサイ派という当時のユダヤ教の二大勢力の人々が、なんとかしてイエスを亡き者にしようと考えるようになっていくわけですね。そして、イエス様ご自身だけでなく、イエス様を賞賛したり、弁護したりする人々に対しても、容赦ない攻撃が加えられていくわけです。
 
 さて、そうした状況の中で、ニコデモという人が、夜こっそりとイエス様のもとを訪ねてきました。
 彼は、パリサイ派に属していたので、律法の細部まで厳格に守ることを誓い、普通の人々とは違う宗教的に高度な生活をしていました。また、彼は、「ユダヤ人の指導者であった」と書かれていますが、これは、ユダヤの最高議会であるサンヘドリンのメンバーであったという意味です。サンヘドリンは、七十人の議員によって構成されており、ユダヤ社会の裁判、行政、宗教生活、教育を支配する機関でした。ですから、ニコデモは、政治的にも宗教的にも実力者だったわけです。また、彼は、裕福だったようです。ヨハネ19章には、イエス様の埋葬のときに、「ニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た」と書かれていますが、これらは大変高価なものでした。
 つまり、ニコデモは、あらゆる点で恵まれた人物といっても過言ではありません。地位があり、名誉があり、知識があり、権力があり、財産がある、まるで人の欲するすべてのものを手に入れたかのような老人です。ニコデモという名前は、「征服者」という意味があるそうですが、確かに名前の通り、彼はいろいろなものを手に入れ、年を重ねていったわけです。
 そのニコデモが「夜」イエス様のもとにこっそりやってきました。どうして「夜」だったのでしょうか。理由は書いてないのでわかりませんが、ニコデモが真っ昼間にイエス様の元に行ったら、周りはどう思うでしょう。すぐに井戸端会議の主役になるかもしれません。「ニコデモ先生があのナザレのイエスのもとに行ったらしいよ」「イエスって、田舎の貧しい大工の息子だろう」「いったい何を考えているだ。ニコデモともあろう人がね」、そんな風に思う人たちもいたでしょう。イエス様には、権威も地位も財産もありません。立派な肩書もありません。それなのに、すべてを備えているニコデモがわざわざ面会に行くことは、奇妙に思われて当然だったでしょう。それに、ニコデモが属しているパリサイ派の人々は、イエス様に対して敵意むき出しなわけです。もし、ニコデモがイエス様に会いに行ったと知れたら、どんな非難を受けるかわかりません。それにもかかわらず、イエス様のもとに来たわけですから、ニコデモにとっては一大決心であったでしょうね。大変勇気の要ることです。
 でも、この勇気は大切な勇気です。 先日ある本を読んでいましたら、「共に生きる」ために必要なのは、「真実に直面する勇気」そして「重荷を負い合う責任と誠実さ」だと記されていました。私たちは、真実を知ろうとする勇気がなかなか持てないことがあります。すべてをあやふやにして、ごまかそうとしてしまうのです。また、「いつかまたね」と棚上げしてしまうこともあります。人生に問題が起こっても、その問題に直面することを避けてしまうのです。「時間が解決するだろう」と、そこから逃げてしまうのです。しかし、お互いに、本当に真実に直面する勇気を持ちたいですね。
 それでは、この世の成功者と思われるニコデモが直面していた問題とは何だったのでしょう。

1 ニコデモの問題

 ニコデモはまずイエス様に賛辞を送ることから始めました。何と言ったでしょう。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」すばらしい賛辞ですね。
 ところが、イエス様は、その賛辞とはまったく関係のないことをお答えになりました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われたのです。
 イエス様は、ニコデモが抱えている真の問題を見抜いておられました。それは、「どうしたら神の国を見ることができるのか」という大きな人生の問題でした。「どうしたら消えることのない、尽きることのない神の国の一員として歩んでいくことが出来るのか」ということについての答えをニコデモはずっと探し続けていたのです。ニコデモは、当時のリーダーでした。人々に道を示すべき者でした。それなのに、自分がどこから来てどこへ行くのかわからない、のです。彼は最高の教育を受け、厳格な宗教生活を送り、政治的な力も持っていました。しかし、自分の心を見るとき、「神の国はあるのだろうか」「神様が私の人生を本当に支配してくださっているのだろうか」「私のこの命が尽きたら、いったい私はどうなるのだろうか」、そんな疑問が年齢を積み重ねたニコデモの心にふつふつと湧いてきたのです。皆さん、これは私たちが人生を正直に見つめたときに出てくる疑問だと思いませんか。
 それでは、イエス様は、何と答えられたのでしょう。

2 イエス様の答え

 イエス様は、ニコデモに対して「まことに、まことに、あなたに告げます」と三回も繰り返して言われました。これは、「これから話すことは、とても大切で重要なことです。決して聞き逃してはいけない内容ですよ」という意図が込められている言葉です。では、イエス様が語られた大切なこととは、何でしょうか。

@「新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」

 イエス様は、まず、3節で明快にこう言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 この「新しく生まれる」とは、どういう意味でしょうか。
 ここで「新しく」と訳されたギリシヤ語には少なくとも三つの意味があります。第一は、「根本的に」とか「完全に」という意味、第二は、「もう一度」「ふたたび」という意味、第三は、「上から(神から)」という意味です。
 それから「生まれる」という言葉にも、三つの要素が含まれています。人は生まれると三つのものを得るのです。第一に、人は生まれると「いのち」を得ます。第二に、「子としての立場」を得ます。そして第三に、「生まれた国の国民としての権利」を得るのです。
 ですから、「新しく生まれる」というのは、「もう一度、完全に根本的に生まれ、神様からの変わることのないいのちに生かされ、神の子とされ、神の国の民としての権利が与えられる」という状態を指しているのです。私たちは、皆、母の胎から生まれ、いのちを持って生きていますが、イエス様は、それとは別のもう一つの大切な誕生があると言われたのです。それは、神の子どもとしての誕生、神の国の一員とされる誕生です。
 ところが、これを聴いたニコデモは考えてしまいました。「新しく生まれるなんて、そんなことができるだろうか? 私はもう老人なのに、もう一度、母の胎に戻って生まれなおすなんて不可能じゃないか」と思ったのです。イエス様の言われた「新しく生まれる」とはどういうことなのか、ニコデモにはまだよくわかっていなかったのですね。そこで、イエス様はさらに続けて説明をなさいました。

A「水と御霊によって生まれなければならない」

5節で、イエス様はこう言われました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」これは、どういう意味でしょうか。
 まず、「水によって生まれる」とはどういうことでしょうか。「水」と聞いて、すぐ連想することが二つあります。
 一つは、ユダヤ人のきよめの儀式に使われていた水です。水は、汚れを洗いきよめるためのものです。ですから、「水によって生まれる」というのは、「人間の罪の汚れをきよめなければ新しく生まれることは出来ない」、つまり、「罪の問題の解決なくしては新しく生まれることはできない」という意味があると考えることができます。
 もう一つ連想するのは、あのバプテスマのヨハネの洗礼です。ヨハネは、人々に「悔い改めて、洗礼を受けなさい」と語り、ヨルダン川で水の洗礼を授けていました。つまり、水の洗礼は、悔い改めのしるしだったのです。「悔い改め」とは、「方向を変える」ことです。神様に背を向けていた人が神様の方に向きを変えること、「神様なしの人生」から「神ありの人生」への大転換です。ですから、「水によって生まれる」とは、人生の方向転換、悔い改めて神様の方に向きを変えることを教えているのです。新しく生まれるためには、神様の方を向くことが大切なのです。
 では、「御霊によって生まれる」とは、どういうことでしょうか。人は、悔い改めて神様の方に向きを変えることはできますが、自分の意欲や努力では新しく生まれることはできません。新しく生まれるためには、聖霊なる神様の働きが必要なのです。 聖霊は、父なる神様と、子なるイエス・キリストと同じ本質を持った方であり、私たちに罪を自覚させ、救い主イエスを示し、正しい信仰を持つことができるように助けてくださるお方です。私たちが救い主イエス様を受け入れる時、聖霊が私たちの内に宿ってくださり、私たちを神のいのちによって生きる者として生まれさせ、成長させてくださるのです。この聖霊の働きがなければ「新しく生まれる」ことはできないのです。
 そして、イエス様は、8節で、この聖霊についてこう言われました。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 実は、ここで「風」と訳された言葉と「御霊」と訳された言葉はまったく同じものです。ですから、「風はその思いのままに吹く」と言う言葉は、「御霊はその思いのままに吹く」とも訳せるのです。
 私たちは、風を直接見ることは出来ません。しかし、木々がゆれ、雲が動き、肌で感じることによって風が吹いていることを知ることができますね。でも、風がどこから来てどこへ行くのかは誰も知りません。風はその思いのままに吹くわけです。
 イエス様は、私たちの人生に働いてくださる聖霊の働きも同じようなものだ、と言われたのです。私たちは、聖霊なる神様をこの目で見ることが出来ません。しかし、聖霊がお互いの人生に豊かに働いてくださっている結果を私たちは体験することができるのです。ちょうど風が吹くと木々が揺れるように、聖霊の思いのままの働きの中に、私たちは、慰めや平安が与えられ、勇気や希望が与えられて生きていくことが出来るのです。私たちは、以前はイエス様を全く知りませんでした。しかし、今は、こうしてイエス様を賛美しているのです。「イエス様、感謝します!」と礼拝を捧げているのです。お互いに聖書の言葉をもって励まし支えられているのです。どうしてですか。風が吹いているからです。聖霊のさわやかな風が吹いているからこそ、私たちは主イエス様を信じ、礼拝の民として生かされているのです。
 時々、「私の人生には神様は何のみわざもなさっていないのではないだろうか」と考える人がいるかもしれません。決してそうではありません。聖霊は、いつもご自分の思いのままに自由に働かれておられるのです。どのように働かれるかを決めるのは私たちではなく、聖霊です。でも、それは、聖霊が私たちに関係なく気ままに自分勝手に働かれるということではありません。神様の本質は愛なのですから、私たちにとって、最もよい風を吹かせてくだいます。私たちが期待する以上の豊かな恵みの風を吹かせてくださるのです。しかし、もし私たちが風を遮る壁を四方八方に作ってしまうなら、どうしてその働きを知ることが出来るでしょう。自分の考えや理性が全て、という壁を作ってしまう人がいます。自分の力がすべてという壁を作る人もいます。また不信の思いで強固な壁を作る人もいます。自分の思い込みで壁を作ってしまう人もいます。皆さん、私たちは、そうした壁を取り除き、いつも聖霊の風を感じられるように、「主よ、ご自由にお働きください」と心を解放しようではありませんか。

3 ニコデモの応答

 イエス様が「御霊によって生まれる」と言われたのを聞いて、ニコデモは「どうして、そのようなことがありうるのでしょう」と尋ねました。御霊によって新しく生まれることができる、ということがよく理解できなかったのです。
 そこで、イエス様は旧約聖書の民数記21章に記されている大変有名な出来事を引用して説明なさいました。それは、ニコデモもよく知っている出来事でした。とても不思議なことが起こったのです。
 モーセに導かれてエジプトから脱出したイスラエルの民が荒野に宿営している時のことです。毒蛇があちこちにあらわれて人々に噛みつきました。多くの人が死んでいきました。毒が身体にまわり、苦しんでいる人もいます。その時、神様は、モーセに言われました。「青銅で蛇を作り、旗ざおの上につけなさい。そして、『すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる』と民に告げなさい。」モーセは、すぐに青銅で蛇を作り、旗ざおにつけ、「皆さん、この蛇を仰ぎ見る者は救われます!」と叫びました。そして、蛇にかまれて苦しんでいた人々がその青銅の蛇を見上げると、毒が消えて、いのちが助かったのです。
 これは、どう考えても理屈では理解できないことですね。青銅の蛇を仰ぎ見ることと、死ぬべき身体が生かされることに何の関係があるでしょう。しかし、理解できなくても、ただ語られた神様の言葉を信じて、その通りに青銅の蛇を仰ぎ見た者は、生きることができたのです。
 これは、旧約聖書の大変有名な話です。もちろん、ニコデモも暗記するくらいによく知っていた内容です。イエス様は、そのニコデモに「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」と言われたのです。
 イエス様は、ご自分のことを「天から下った人の子」であると言われました。つまり、「神が人となってあなたがたのもとに下ってきた。それがわたしだ」と言われたのです。そして、「人の子もまた上げられなければなりません」と言われました。それは、青銅の蛇が旗ざおの上につけられたように、イエス様も私たちのすべての罪を背負って、十字架につけられなければならないということを意味しているのです。そして、「青銅の蛇を仰ぎ見た人が皆、生きることができたように、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る人は皆、永遠のいのちをもって生きることができるようになる」ということなのです。
 皆さん、どうして十字架を見上げることが、新しい人生の出発になるのですか? 説明せよと言われても難しいですね。でも、なぜなのかは理解できなくても、神様に言われたとおりに十字架につけられたイエス様を仰ぎ見るなら、私たちは新しく生まれ、永遠のいのちを持つことができるのです。それは、聖霊の働きによるのです。私たちが、すべきことは、十字架のイエス様を見上げることだけです。あとは聖霊がしてくださいます。
 
 新しく生まれてからも、成長には時間がかかりますから、私たちは失敗したりつまずいたりします。自分に絶望するときもあります。しかし、以前とは違うのです。私たちは、今、神の国の一員とされているからです。姿形は以前と変わらないかもしれませんが、神様の目から見たら、私たち主にある一人一人は新しく生まれ、根本から新しくされた者として生かされているのです。
 だれでもキリストにあるなら古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくされるのです。今週もイエス様を見上げて歩んでいきましょう。