城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年十月十四日             関根弘興牧師
                 ヨハネ三章一六節ー二一節

ヨハネの福音書連続説教9
   「いのちへの招き」


16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(新改訳聖書)


今日の箇所、特に3章16節は、聖書の中でも最も有名な箇所です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」マルチン・ルターは、この言葉を「世界中の人に見えるように、大空に掲げたい」と言いました。なぜなら、これは、イエス・キリストがどのような方で、なぜこの世に来られたのかということを非常に端的に表しているからです。ですから、この16節の言葉は、「聖書中の聖書」「万人の聖句」と呼ばれているほどです。

 前回までの内容を振り返ってみますと、まず、1章では、イエス・キリストが世の光として来てくださったこと、しかし、世の人々はイエス様を受け入れようとしなかった、と書かれていましたね。主人が自分の家に帰ってきたのに、家に入れず追い出されてしまうような状態です。
 また、2章では、当時の礼拝の中心であるエルサレムの神殿が、商売人たちによってまるで強盗の巣のような状態になっていたことが記されていました。イエス様は、本来なら「祈りの家」であるべき場所が、暴利を貪る場所になっているのを見て、激しく怒り、商売人たちの台をひっくり返し、追い散らされました。しかし、それは、当時のユダヤ議会や神殿当局者たちから猛烈な反発をうけることにつながっていったのです。
 しかし、前回学んだ3章の最初の箇所では、ユダヤ議会の議員の一人であるニコデモが、夜こっそりイエス様を訪ねて来たことが書かれていましたね。
 今日の箇所は、その続きです。実は、原文では、16節の最初に「すなわち」とか「というのは」という言葉が入っています。神様を心から礼拝すべき神殿を自分たちの暴利をむさぼる場所にしてしまい、神様から使わされた方を受け入れるどころか、敵視している人々に対して、聖書は、「すなわち、神は世をさばかれた」ではなく、「すなわち、神は世を愛された」と記しているのです。神様に敵対しているような一人一人を神様は愛してくださっているというのですね。その神様の愛のみわざについて学んでいきましょう。


1 神は、世を愛された

まず、16節に「神は世を愛された」と書かれていますが、この「世」というのは、この世の中に住む私たち一人一人のことです。ですから、「世」という言葉を自分の名前に置き換えて16節を読んでみてください。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、関根弘興を愛された。それは御子を信じる私、関根弘興が滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神様は、この私を愛してくださっているというのです。
 そして、神様の愛は、決して漠然としたものではありません。神様は「ひとり子をお与えになる」という具体的な行為によって愛を示してくださいました。
 物の価値は、差し出されたものによって決まります。たとえば、この目の前のマイクは、一万円くらいしたんです。一万円を払って買ったわけですが、買った人にとってはそれだけの価値があるわけです。
 では、神様は、私たちの価値をどのように見ておられるのでしょうか。神は、私たちを「そのひとり子をお与えになったほどに愛された」と書かれていますね。つまり、私たち一人一人は、神がひとり子をお与えになるほどの価値があるというのです。
 それでは、「ひとり子をお与えになる」とは、どういうことでしょうか。
1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と書かれていましたね。神のことばである方、つまり、神そのものである方、そして、神の栄光と恵みとまことに満ちた方であるイエス様が私たちのもとに来てくださいました。それによって、私たちは、神様がどんな方であるかを知ることができるようになったのです。イエス様を通して、私たちは神様の愛の大きさ、恵みの素晴らしさを知ることができるのです。
 そして、「ひとり子をお与えになる」ことのもう一つの意味は、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったということです。私たちの罪の解決のためには、いのちの贖いが必要です。本来なら、私たちは、自分の罪のために死んで滅びるべき存在でした。しかし、イエス様が私たちの代わりにご自分のいのちを差し出してくださったのです。
 私たちが神様を無視して、自分勝手な生き方をしていたのにもかかわらず、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかり、罪の罰を受けてくださった、神様は、それほどまでに私たちを愛してくださっている、私たちはそれほどもでに価値があるのだというのです。
 私は、高校生の時にバイブル・キャンプに行って、牧師が「キリストは、あなたのためにいのちを捨ててくださった」と語る言葉を聞いて、こう考えました。「もしそれが本当なら、この方に背を向けていることはとても卑怯な生き方だ」と。そして、「私は誰かのためにいのちを差し出すことが出来るだろうか」と考えたとき、「できない」と思いました。でも、イエス様は、イエス様に背を向け、受け入れようともしなかった私のためにいのちを捨ててくださったというのです。「それほどの愛を示してくださるお方なら、この方を信頼し生きていこう」と私は思いました。
 ローマ人への手紙5章7節ー8節には、こう書かれています。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
 「罪人である私たちのためにいのちを捨てるまでに愛を示してくださる方がおられる!」、これが聖書の中心なんです。

2 「滅びる」とは

 次に、「御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく」と書かれていますね。
 聖書は、「人は皆、罪人であって、滅びの中にある」と教えています。「罪人」というのは、本来は、神様との関係がずれてしまった人、神様とのつながりを失ってしまっている人のことです。そういう人は、「滅びの中にある」というのです。では、「滅びの中にある」とは、どのような状態なのでしょうか。

@「失っている」状態

 神様との親しく麗しい関係を失った状態です。そのために、人として大切なものを失っています。人生の本当の意味や目的を失い、自分の本来の価値や姿を見失い、本当の喜びや満足や真実な愛を失っているのです。

A「迷っている」状態

 神様と離れてしまった人は、迷子のような状態です。どこから来て、どこへ行くのかわからない、どこに向かって行けばいいのかわからない。安心できる場所を見いだすことができない、不安な状態にあるのです。

B「浪費している」状態

 神様に与えられた人生を、十分に生かして用いることができない状態です。自分勝手でなげやりな空しい生き方によって自分の人生を浪費しているのです。自分の価値がわからず、まるで自分を使い捨ての商品のように扱っているのです。

C「破壊している」状態

 自分を嫌い、自分自身を傷つけたり、他人を傷つけたり、自分の欲望のために周りを破壊していくような状態です。

 一人一人をこよなく愛しておられる神様は、私たちがそうした滅びの状態にあることを黙って見てはおられません。神様は愛なる方なので、私たちに無関心ではいられないのです。滅びの状態にある私たちをさばくためではなく救うために、神様は御子イエス・キリストを与えてくださったのです。

3 「永遠のいのちを持つ」とは

 「御子を信じる者が、・・・永遠のいのちを持つためである」と書かれていますね。イエス様を信じる人は、「永遠のいのち」を持つというのです。この「永遠のいのち」というのは、単なる長生きのことではありません。聖書の中で、「永遠のいのち」というのは、何を意味しているのでしょうか。
 ヨハネの福音書17章には「永遠のいのちとは彼らが唯一のまことの神であるあなたとあなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」と書かれています。ヨハネの手紙第一の5章12節には「御子を持つ者はいのちを持っている」とあります。つまり、まことの神様を知り、神様が与えてくださった御子イエスを受け入れた人は、永遠のいのちを持っているというのです。神様とのつながりが切れて滅びの状態にあった人が、イエス様によって神様の愛を知り、神様との関係を回復し、神様のいのちを受けて生きることができるようになるのです。イエス様との出会いは、いのちとの出会いです。イエス様を人生の主として心に受け入れて歩むということは、永遠のいのちに生かされているということなのです。
 「永遠のいのちを持つ」とは、「滅びる」とは正反対の状態です。失う人生ではなく、見いだす人生が始まるのです。迷子の人生ではなく、愛に満ちた羊飼いに見守られる人生が始まるのです。浪費の人生ではなく、自分を大切にし、愛されている者として生きていこうとする人生が始まっていくのです。
 また、この「永遠のいのち」は、この地上のいのちが尽きても決して終わることがありません。
この十一月でもう十八年になりますが、私の母は肝臓癌で召されました。癌の末期の末期の状態で入院したとき、母は、自分がもう回復する見込みがないことにすでに気づいていました。でも、私たち家族は、皆で一緒に集まって母に具体的な病状を説明することにしたのです。そして、母に、末期の癌であることと、この地上の残された時間はそう長くはないことを告げました。母は、突然家族全員が病室に来たものですから、うれしいやら、びっくりするやら、涙と笑みを浮かべてこう言いました。「死は怖くないよ。天に帰るんだから。でも、痛みだけはつらいので、痛みをできるだけ押さえるように薬を使ってくれるように頼んでね」と。
その日の母の日記には、こんな風に書かれていました。「点滴が終わり寝ていると牧子が来た。周太も一緒に連れてきた。それから少しすると子供たちがみな集まってきた。これは私の思っていたことが起こったことを悟った。一夫が口を開き『お母さん、辛いけれど知ってほしい』といい、癌の末期であることを知らされた。しかし、わたしは自分でもそれをすでにそうではないかと思っていたので、心に動揺はなかった。これからは、主にすべてをゆだねていこうと決心した。でも子供たちは、私のことを親身になっていることを知り、私は本当に幸せだとそのとき感じました。そして、一夫が詩篇23篇を開き、祈ってくれた。『たとい、死の影の谷を歩んでも、わざわいをおそれません。あなたがわたしとともにおられますから。』」
母は、この日記を書いたちょうどひと月後に天に帰りました。 私は、病院で母を看病しながら母と昔の思い出話をたくさんしました。母は、私が牧師としてやっていけるかを一番心配し、一番祈っていてくれた人でした。母にとっては、私はいつまでも子供ですからね。とても心配していました。ですから、教会の話もたくさんしました。母も牧師夫人として苦労したことを話してくれました。また、城山教会の成長を自分のことのように喜んでくれたのも母でした。私の毎週の礼拝説教をカセットテープで聞くことを唯一の楽しみにしていました。枕元には、わたしの説教のカセットテープが山積みされていました。
 私は、母が召される前日、日立の教会の特別伝道集会に出席し、ちょうど帰りに母の病院に寄って病室に泊まりました。それが母との最後の晩になりました。母と一緒に、大好きな寿司を食べ、翌日、母は、家族が見守る中、天に帰っていきました。静かな死でしたが、天国を確信し、まるで、ふすまをあけて隣の部屋にいくように、天に召されたのです。
 葬儀は、私が前夜式の司式を行い、長男の一夫が告別式の司式を行い、妹が奏楽を担当し、すぐ上の声楽家の兄が独唱をしました。
 母の病は癒されませんでした。苦労の多かった母だったと思います。六十六歳の生涯でした。私たちは死別の寂しさや悲しみを味わいました。涙を流しました。しかし、それは、決して絶望の涙ではありません。しばしばの別れの涙です。なぜなら、死は、決してイエス・キリストが与えてくださったいのちを奪うことはできないからです。永遠のいのち、それは、決して変わることのない希望なんです。
 ときどき、いろいろなつらい現実に直面して、「死んだ方がましだ」とか「生きていてもしようがない」「生きる意味なんてどうでもいい」と考えてしまうこともあります。虚無感や虚しさや絶望に取り囲まれてしまうことの多い時代です。
 でも、知ってください。神様は、ひとり子イエス様を、私たちの救いのために、私たちに永遠のいのちを与えるために、この世に遣わしてくださったのです。
 では、私たちは、いったい何をすればよいのでしょうか。「御子を信じる者は、永遠のいのちを得る」と約束されています。ですから、単純に、イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れればいいのです。イエス様は、一人一人の心のとびらをノックしておられます。私たちはただ、「どうぞ、お入りください」と言って、イエス様を心の中心にお迎えするだけでいいのです。
 イエス様を信じて永遠のいのちに生かされているクリスチャンは、一人一人がこのいのちに生かされていることを喜び楽しみ、賛美しながら人生を歩んでいきましょう。

4 さばくためではなく救われるため

 さて、17節には、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」と書かれていますね。
 「救われる」とは、先ほどお話ししましたように、イエス様を信じ、永遠のいのちを与えられて生きていくことです。神様は、私たちが皆このいのちを持つことを望んでおられます。
 しかし、その一方で、18節には、「信じない者は、すでにさばかれている」と記されていますね。これは、いったいどういうことでしょうか。それは、「イエス様の与えるいのちを拒否するなら、そのいのちに生きることができない」ということです。
 ある人が砂漠を歩いていたとしましょう。のどがカラカラに渇いています。そのとき、無償で水が差し出されたとします。それを飲めば、渇きが癒されますね。でも、その水を拒否するなら、渇きはそのままです。水を信じて受け取れば、渇きが癒されますが、疑って受け取らないなら、渇いたまま、ということになりますね。
 「信じない者は、すでにさばかれている」というのは、イエス様の恵みとまことに満ちた約束を受け取らない人は、その恵みやまことを共有することができないといういことなんです。
 イエス様は、「信じれば救われるが、信じなければ地獄行きだぞ」と二者択一を迫って脅かすようなことは、決してなさいませんでした。ただ、滅びの中にいる人々、つまり、迷って人生の意味を見失っている一人一人が永遠のいのちを得ることができるように、と願われているのです。
 それから、19節、20節には、さばきの中にいる人々の特徴が書かれています。それは、「光よりも闇を愛する」という特徴です。光とはイエス・キリストのことです。人は自分の悪い行いが明るみに出されることを恐れて、光を避け、闇の中に隠れようとする習性があるというわけですね。すべてを隠そう隠そうとする癖です。暗闇へ暗闇へと向かう傾向があるんです。かくれんぼが好きなんですね。また、自分の本当の姿から目をそらしたり、自分を実際よりも良く見せようとして「自分はあの人よりましだ」と自己正当化したりもします。
 しかし、皆さん、闇を愛し、光なるイエス様を避ける生活の中には、すでにさばきの結果が表れているのです。暗闇の中を光なしで歩き続けることは、とても危険なことですね。
 先週お話ししましたように、私たちは、真実に直面する勇気を持ちたいものですね。光なるイエスのもとに行くためには、自分の心が照らされて、自分の心の汚さを直視しなければならないかもしれません。隠していたものがさらけ出されてしまうかもしれません。でも、イエス・キリストの前になら自分のありのままをさらけ出してもいいという勇気が必要です。そして、ひとたびイエス様の光に照らされたら、イエス様が私たちの心をきよめ、新しく造り替えてくださるのです。
イエス様は、すべてを照らすまことの光です。この光に照らされながら、聖書の約束の言葉をしっかりと受け取り、この週も歩んでいきましょう。