城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年一一月四日            関根弘興牧師
                ヨハネ四章二七節ー四二節

ヨハネの福音書連続説教11
   「目を上げて畑を見よ」


 27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
  39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(新改訳聖書)



 先週は、イエス様が南のユダヤ地方から北のガリラヤ地方へ向かう途中のサマリヤで起こった出来事についてお話しました。 通常、ユダヤからガリラヤに行くには、中間にあるサマリヤ地方を通るのが一番の近道です。しかし、ユダヤ人たちは、サマリヤ地方を避けて、わざわざ回り道をしていました。なぜかといいますと、サマリヤ人は、異民族の血が混じってユダヤ人としての純粋性を失ってしまっていたので、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、互いに反目し合うようになっていたからです。
 しかし、イエス様は、サマリヤ人に対して、そのような偏見を持ってはおられませんでした。ガリラヤに行くのに、サマリヤを通る道を選ばれたのです。そして、サマリヤのスカルという町のはずれにある「ヤコブの井戸」のかたわらに腰をおろしておられました。すると、真っ昼間、一人のサマリヤの女が水を汲みにやってきました。わざわざ人気のない時間を選んで、人目を避けるようにして水を汲みに来たわけです。
 すると、イエス様は、その女性にご自分のほうから話しかけ、「もしあなたが求めるなら、わたしはあなたに生ける水を与えます。その水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と言われたのです。しかし、この女性は、イエス様の言葉の意味を悟ることができません。「そんな水があれば便利ですよね。もうのどが渇かなくなるなら、ここまで水を汲みにくる手間が省けるから助かります。私にもください」と答えたのです。
 すると、イエス様は、突然、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。そして、女性が「私には夫はありません」と答えると、「そのとおりですね。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではありませんね」と言われたのです。イエス様は、水の話題から一転して、この女性にとっての一番の問題、悩みの核心をずばりと指摘されたのです。彼女は結婚生活や人間関係に大きな問題を抱えていました。その理由は書かれていないのでわかりませんが、本当の愛とか誠実さというものを知ることができずに渇きを覚えていたのでしょう。そして、周りの人々からは、ふしだらな女だと見られ、自分の価値を見いだすことが出来ずにいたのでしょう。
 彼女は、イエス様が自分の問題を見抜いておられることを知って、「このお方が与える水とは、私の心の渇きを癒す水のことではないか」と少しずつわかってきたようです。そこで、問題の解決の方法について質問をしました。それは、「どこで礼拝したらいいのですか」という質問でした。彼女は、人生の問題の解決のためには、神様を礼拝すること、つまり、神様との正しい関係を築いて生きることが大切だということを知っていたのです。しかし、問題がありました。サマリヤ人はゲリジム山にある神殿で礼拝していました。一方、ユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝していました。そして、それぞれ自分たちの礼拝のほうが正しいのだと主張していたわけですね。そこで、この女性は、「どこで礼拝すべきでしょうか」と質問したのです。
 すると、イエス様は、こう言われました。「あなたがたが神様を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。真の礼拝者たちが霊とまことによって神様を礼拝する時が来ます。今がその時です」と。イエス様は、「特定の場所に限定されず、世界中どこにおいても礼拝できる時が来ます。今がその時です。信じる人々が、聖霊の助けを受けて心から神様を礼拝するようになるのです」と言われたのです。そして、イエス様は、この女性に、「このわたしが救い主キリスト(メシヤ)です」と告げられました。
 今日の箇所は、その続きです。

T サマリヤの女とサマリヤ人たち

 まず、28ー30節を見てください。イエス様が「このわたしがキリスト(メシヤ)です」とおっしゃると、女は、すぐに水がめを置いて、町へ行き、人々にこのことを知らせました。
 イエス様との出会いは、人生に確かに大きな変化をもたらしますね。イエス様と出会う前のこの女性は、人目を避ける生活を送っていました。人々からのけ者にされ、孤独な生活を強いられていた女性でした。ところが、今度は、自分から人前に出ていって、多くの人に呼びかけ始めたのです。
 女性は、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか」と呼びかけました。「来て、自分の目で見て、この方が本当にキリストなのかどうか確かめてください」というわけですね。
 そういえば、この「来て、見てください」という言葉は、前にも出て来ましたね。1章43節で、ピリポという人がイエス様に出会ってイエス様に従うようになりました。ピリポは、その後、友人のナタナエルに出会い、こう言いましたね。「私たちは、キリストに出会ったんだよ。ナザレのイエスという方なんだ。」しかし、ナタナエルは、「ナザレから良きものなど出るはずがない」と反発しました。すると、ピリポは、「来て、そして、見なさい」と言ったのです。それで、ナタナエルは自分で直接イエス様のもとに行き、イエス様が本当にキリストであることを知るようになったのです。
ピリポもサマリヤの女も、「難しいことはわからないけど、ともかく、このイエス様のもとに来てごらんなさい。自分の目で確かめてごらんなさい」と言ったわけです。サマリヤの女は、難しい神学などとは無縁の人でしたが、自分が出会ったこのイエスという方は、私のことを全部ご存じの特別の方だ、ということがわかったのです。
 皆さん、知られているというのは、不安の源にもなるし、安息の源になりますね。誰に知られているかによって変わるわけです。意地悪な人に自分の心の中も過去もすべて知られていたら、不安になるでしょう。しかし、愛と恵みに満ちた方があなたのすべてをご存じで、「それでもあなたを愛そう」と言われるなら、知られて安心なんです。
 さて、この女性が「来て、見てください」と人々に呼びかけると、町の人たちが、イエス様のほうにやってきました。
 39節には、町の人たちの多くが「その女の言葉によって信じた」と書かれています。この女性の女のひと言から、サマリヤに福音が広がっていったのですね。
 神様は、人の正直な証言(あかし)を用いてくださいます。私は、イエス様の方法は本当にすばらしいと思います。コリント人への手紙第一の1章27節には「神はこの世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選ばれた」とあります。もし、私たちがサマリヤの町にイエス様の福音を届けようとするなら、どうしますか。「町の有力者がクリスチャンになり、市長と議員がクリスチャンになれば、説得力があるな・・・」、そう考えるかもしれませんね。しかし、主は、無に等しいような者を用いてご自分の働きをなさるのです。町で一番信頼されている人が用いられるなら、皆、すぐにでもついていくかもしれません。しかし、町でもっとも信頼されていなさそうなこの女性の言葉によって、人々はイエス様の元にやってきたわけです。主の方法は、なんとくすしいことでしょう。
皆さん、今もイエス様の方法は同じです。イエス様を救い主と知り告白する私たちの言葉を用いてくださるのです。「とんでもない、私なんて!」と思っている方がいますか。そう思う方は、喜んでください。主は、そのあなたを用いようとされているんです。
 そして、このことがきっかけになり、サマリヤの人たちは、イエス様に自分たちのところに滞在してくださるように願いました。そして、彼らは、自分自身で直接イエス様の言葉を聞いて信じました。そして、42節には、こう書いてあります。「そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」つまり、「私たちは、イエス様こそほんとうに世の救い主だということを、イエス様ご自身から聞いて信じているのです」と告げたのです。
 今日、私たちは、クリスチャン達の証しを通してイエス様を知ることが出来ます。それと共に、イエス様から聞く、つまり、聖書から聞くということが大切なのです。

U イエス様と弟子たちとの会話

 さて、このサマリヤでの出来事の中に、イエス様と弟子たちの会話が挿入されています。
まず、27節を見ると、イエス様がサマリヤの女と話しておられるところに弟子たちが帰って来ました。弟子たちは、その光景を見て、不思議に思いました。
 前回も少し触れましたが、ラビと呼ばれるユダヤ人の教師たちは、「男は路上で女と語るべきではない。たといそれが自分の妻であっても」というおきてを持っていたほどでした。また、「女どもと多く語る者は、自分に災いを招き、律法の学びを怠り、ついにゲヘナに落とされることになる」「律法の言葉は、婦人に語るよりは焼き捨てたほうがまだよい」と言って女性を蔑み、「女性はいかなる真実の教えも受ける能力がない」と考える極端な人たちもいたのです。
 ですから、イエス様が女に話しかけられたことは、当時の慣習に反する行為でした。しかも、ユダヤ人と敵対関係にあるサマリヤ人の女だったのですから、弟子たちは、かなり驚いたことでしょう。
 しかし、それまでのイエス様の行動を見てきた弟子たちは、イエス様が慣習や偏見にとらわれないで行動される方だということに、少しずつ気が付き始めていたのでしょう。何も言わずに眺めていました。

1 イエス様の食物

 さて、弟子たちは、女が立ち去ると、町で買ってきた食物をイエス様に勧めました。すると、イエス様は、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と言われたんです。弟子たちは、ちょっとムッとしたのではないでしょうか。「せっかく買ってきたのに、誰かがもう食べ物を差し上げてしまったに違いない」「そんな食べ物があるなら、早く言ってくださればいいのに」「わざわざ買い出しにいかなくてもよかったじゃないか」、などと思ったのかもしれません。
 そこでイエス様は、ご自分の言葉の意味を説明なさいました。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」と。イエス様が言われた食物とは、パンとかお米とかいうような物資的な食物のことではありませんでした。魂の糧、と言ってもよいと思います。それは、神のみこころを行い、神のみわざを成し遂げることだ、と言われるのです。それは、どういう意味でしょうか。

@神のみこころを行うこと

 まず、「神のみこころ」とは何でしょうか。第1テモテ2章4節には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書かれています。神様は、すべての人が、自分の問題に気づき、解決を見いだし、罪赦され、癒され、最善の人生を歩む者へと変えられていくこと望んでおられる、それが「神のみこころ」だというのです。そのみこころを実現させるために、神が人となった方、つまり、イエス様が来てくださったわけです。

A神のみわざを成し遂げること

 イエス様はまた、「神のみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」とも言われました。イエス様が成し遂げようとしておられる「神のみわざ」とは何でしょうか。
 ヨハネの福音書17章4節で、イエス様は、父なる神様に向かってこのように祈っておられます。「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」ここで「父なる神様がイエス様に行わせるためにお与えになったわざ」とは、私たちの罪をあがなうための十字架上の死を意味しています。つまり、イエス様が、十字架において私たちの罪の問題を解決し、神の救いをもたらしてくださる、それが「神のみわざ」だというのです。その救いのみわざを成し遂げることが、イエス様の食物だというわけですね。人のために十字架でいのちを捨てるほどの愛を最後の最後まで注ぎ出し、人の救いの道を整えていく働きが、イエス様の糧であったのです。

 では、私たちの食物はなんでしょうか。魂の充足のために、どんな食物をいただいているのでしょう。主の祈りで「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈っていますが、それは、いったいどんな糧なのでしょうか。
 ヨハネの福音書6章28ー29節にはこう書かれています。「すると彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。』 イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』」
 私たちが神様が使わした方、つまり、イエス様を信じて生きること、それが「神のわざ」を行うことであり、私たちの糧となるということなのです。
 イエス様は、私たちが魂の充足を得て生きていくことができるように、大きな愛を持って十字架のみわざを成し遂げてくださいました。それによって、私たちは、罪赦され、神の愛を受けつつ、神の子どもとして生かされています。そのことを信頼して毎日を歩んでいくこと、それが私たちの食物なのです。
 人生には困難もありますし、苦しみ、悲しみ、試練も起こります。しかし、私たちは、こうして主にある仲間として集い、お互いの最善を願い求めながら、共に祈り、どんな中でも、「主よ、あなたを信頼し生きていきます!」と告白して歩むこと、それが神様のわざであり、そこに神様の具体的な働きを見ることができ、魂の糧を受けることができるのです。
 
2 刈り入れの時

 さて、次に、イエス様は、弟子たちに「刈り入れ時がくるまでに、まだ四か月あると言ってはいませんか。目をあげて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言われました。
 でも、畑を見ると、穀物はまだ色づいていないのですよ。収穫までに四ヶ月あるのですから。辺り一面、まだ青い畑が広がっていたことでしょう。
 しかし、主は、「目を上げて畑を見なさい。もう色づいている」と言われたのです。麦を育てる場合、種蒔きから刈り入れまで数ヶ月が必要です。しかし、神の言葉の種が蒔かれると、すぐに刈り入れが始まるのだ、とイエス様は言われたのです。
 あのサマリヤの女の知らせは、あっという間に人々に伝わり、多くの人が主を信じるようになりました。それは、「永遠のいのちに入れられる実」を集めるという喜びに満ちた刈り入れの時でもあったのです。

 私たちは、今日の箇所から、「人生は、出会いによって大きく変わる」ということを教えられます。このサマリヤの女も、イエス様と出会い、人目を避ける生涯から、大通りに出ていくことのできる生涯に変えられました。そして、弱く、人から後ろ指をさされるような女性でしたが、福音の種を蒔く者として用いられていきました。彼女は、決して難しい言葉を語ったわけではありません。自分の経験したことをありのまま伝えていったのです。
 私たちは、別に、わかったふりをして伝える必要はありません。ただ、自分自身の人生の中で経験したイエス様の恵みを分かち合っていこうではありませんか。それがイエス様の方法なのですから。主は私たちを用いてくださり、また、福音の種が蒔かれ、刈り取ることができるということの中に、喜びを与えてくださるのです。種蒔きと刈り取りの喜びを味わわせていただきましょう。
 周りを見ると、まったく色づいていないように見えるかもしれません。特に、日本ではクリスチャンが少ないですから、余計にそう感じるかもしれません。しかし、イエス様は、「目を上げて畑を見よ。すでに色づいている」と言われるのです。この確信を持って歩んでいきましょう。パウロが言うとおり、「今は恵みの時、救いの時」なのですから。