城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年一一月一八日            関根弘興牧師
                 ヨハネ四章四三節ー五四節

ヨハネの福音書連続説教12
   「第二のしるし」


43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言しておられたからである。45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。
46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。(新改訳聖書)



イエス様はエルサレムからサマリヤを通って、ガリラヤに行かれました。途中のサマリヤでは、一人の女性がイエス様に出会ったことをきっかけに、多くのサマリヤ人たちがイエス様を信じるようになり、イエス様にしばらく滞在していただきたいと願いました。そこで、イエス様は、二日間サマリヤに滞在してからガリラヤへ行かれたわけです。今日の箇所には、そのガリラヤでの出来事が書かれています。

一 預言者は自分の故郷では尊ばれない

 まず、44節を読むと、イエス様ご自身が「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言っておられたことが書かれていますね。しかし、次の45節では、イエス様がガリラヤに行かれると「そういうわけで、ガリラヤ人はイエスを歓迎した」と書かれているのです。ガリラヤは、イエス様がお育ちになった場所ですから、イエス様の故郷と言ってもいい場所ですね。44節では「故郷では尊ばれない」と書かれているのに、45節では「ガリラヤ人はイエスを歓迎した」と書かれているので、少し頭がこんがらがってしまいますね。
 実は、44節の「預言者は自分の故郷では尊ばれない」という言葉には、いくつかの意味が込められていると考えられます。

@エルサレムの人々

 イエス様は、エルサレムにおられるとき、神殿を「わたしの父の家」と言われました。つまり、エルサレムがイエス様の故郷であるとも言えますね。ユダヤ人たちは、エルサレムの神殿で神様を礼拝していましたから、神様のひとり子であり、神様から遣わされた方であり、神そのものであられるイエス様も、エルサレムであがめられ、尊ばれていいはずです。
 しかし、エルサレムでは、イエス様はまったく歓迎されませんでした。それどころか、ユダヤ当局者たちはイエス様に敵意を抱くほどだったのです。そういう意味で、本当の預言者、つまり、神様のことばをあますことなく人々に伝えることのできるイエス様が、ご自分の故郷で尊ばれない、ということになっていたわけです。残念なことに、旧約聖書が与えられ、救い主が来られるという神様の約束を知っていたユダヤ人たちが、イエス様を受け入れませんでした。本来、真っ先にイエス様を救い主として礼拝すべきエルサレムの人々が、イエス様を憎み、受け入れなかったので、「そういうわけで」、イエス様はエルサレムを去ってガリラヤに行かれたというのです。
 しかし、皮肉なことに、ユダヤ人たちが軽蔑しているサマリヤ地方やガリラヤ地方では、多くの人がイエス様を歓迎し、信じる人たちが起こされたのです。
 
Aガリラヤの人々

 ただし、ガリラヤにおいても、すべての人がイエス様を歓迎したわけではありませんでした。
他の福音書を読むと、イエス様がガリラヤのナザレに帰られたとき、人々は、「あれは大工のせがれじゃないか。母親はあのマリヤだし、おれたちはイエスの弟たちも妹たちもよく知っている。普通の人間じゃないか」、そう言って、イエス様につまずいたと書かれています。イエス様のことをよく知っているはずの人々が、イエス様を神から遣わされた方として認めることができなかったというのです。

B世の人々

 また、ヨハネの福音書1章10節-11節には、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と書かれていますね。つまり、この世自体がイエス様の故郷であり、イエス様が自分の故郷に来られたのに、受け入れない人々がいるというのです。
 これは、ユダヤ人に限らず、私たちの姿に重ね合わせてもいいでしょう。私たちも、イエス様を尊ぼうなどとは考えていませんでしたね。一人一人が神様の姿に似せてかたち造られているのにもかかわらずです。

 つまり、エルサレムでも、ガリラヤでも、この世のどこにおいても、イエス様を受け入れようとしない人々がたくさんいました。今も多くの人がイエス様を無視したり拒絶したままで生活しています。
 しかし、黙示録3章20節には、このようなイエス様の言葉がかかれています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」イエス様は、一人一人の心の扉をノックしてくださっています。そして、私たちが戸を開けるなら、イエス様が入ってきてくださり、ともに食事をしてくださるというのです。「ともに食事をする」という言葉には、象徴的な意味があります。「最も親密で肩の凝らない自由な交わりをしながら共に歩んでいこう」という意味が込められているのです。
 イエス様は、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言われましたが、私たちは、イエス様がそう言って悲しまれることのないように、イエス様を受け入れ、主としてあがめ尊んでいきたいですね。

二 イエス様を歓迎する人々

さて、45節に「ガリラヤ人はイエスを歓迎した」とありますが、なぜイエス様を歓迎したのでしょうか。その理由は、「イエス様が祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたから」だと書かれていますね。
 彼らは、エルサレムに行って、イエスのすばらしいみわざを見て感嘆したのかもしれません。また、ガリラヤ人は、元来、血気盛んですし、ユダヤ地方の人々から蔑まれていたので、イエス様が神殿から商売人や両替人たちを追い出されるのを見て、この人は何か大きな事をしてくれるのかもしれないぞ、と期待していたのかもしれません。しかし、彼らが、本当にイエス様のことを理解していたかどうかは疑問ですね。
 今でも、同じようなことがありますね。クリスチャンでない人の中にも、イエス・キリストを尊敬するという人はたくさんいるそうです。イエス・キリストは、偉大な道徳家であり、すばらしい教えを説いた人だから尊敬します、というわけです。
 しかし、イエス様が私たちに望んでおられるのは、イエス様を単なる道徳家として迎えることではなく、奇跡を行う不思議な人として迎えることでもなく、イエス様こそ本当の救い主であると認めて、イエス様の約束の言葉を信頼して生きることなのです。

三 第二のしるし

 そこで、ヨハネは、イエス様の言葉を信頼して生きることの大切さを示すために、イエス様の行った第二のしるしとして、イエス様が王室の役人の息子をいやされたという出来事を46節から記しています。
 どんなことが起こったのか見ていきましょう。
 まず、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた」と書かれていますが、イエス様が以前、最初にカナに行かれたのは、結婚式に出席するためでした。その結婚式でぶどう酒が足りなくなった時、イエス様が水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたのでしたね。そのことは、2章に書かれていました。
 今回の出来事は、イエス様がまたカナに行かれたときに起こりました。王室の役人が病気の息子をいやしていただこうとイエス様のもとにやってきたのです。
 この人は、どんな人物だったのでしょう。「王室の役人」というのは、ガリラヤの国王ヘロデ・アンティパスに仕える役人で、社会的地位のある人でした。ユダヤ人ではなく異邦人だったかもしれません。彼は、カナから約三〇キロのところにあるカペナウムに住んでいました。
 彼の息子が病気で死にかかっていました。彼は、何とか息子を助けたい一心で、いろいろなところに行って相談したのかもしれません。そして、ある時、イエス様の噂を聞きました。しかも、イエス様がガリラヤに来られたという情報が入ってきたのです。彼は、藁にもすがる思いだったでしょう、イエス様のもとにやって来ました。そして、イエス様に「家まで来て、息子をいやしてください」と懇願したのです。
 すると、イエス様は、一見冷淡な答えをなさいました。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と。これは、どういう意味でしょうか。
 イエス様は、ここで「あなたがたは」と言っておられますね。つまり、王室の役人に向かって答えながら、周りにいる群衆に対して言われた言葉でもあるのです。群衆は、「イエスが何か不思議なことをするのではないか」と興味半分で眺めていました。しかし、イエス様は、私たちの雑役係ではありません。何でも安易に解決してくれる魔法のランプでもありません。イエス様は、しばしば、私たちがどれだけ真剣に求めているかをお試しになるのです。
 旧約聖書の列王記の中に、ナアマンという将軍の話があります。アラムの将軍ナアマンは、皮膚の病になりました。そして、いやしてもらおうと、イスラエルの預言者エリシャのもとにやってきました。ナアマンは一国の将軍です。自分が行けば、預言者エリシャが出て来て、主の御名を呼んで、患部の上に手をあて、病をいやしてくれるだろう、と期待していたのです。しかし、エリシャは、自分の部屋から出てこようともせず、しもべを遣わして、「ヨルダン川で七たび身を洗いなさい。そうすれば、いやされます」と伝えただけでした。ナアマンの期待を裏切る対応です。ナアマンは、「ヨルダン川のようなちっぽけな川で身を洗えとは、なんて失敬なことをいうやつだ。そんなことをするだけで、いやされるはずがない。俺は帰る」と腹を立てて、そのまま帰ろうとしますが、部下に説得されて、ともかくエリシャの言葉通りにやってみることにしました。すると、病は完全にいやされたのです。不思議なことでした。
 この出来事を通して、ナアマンは、病がいやされただけではありませんでした。うわべだけの華々しいパフォーマンスではなく、ただ神様の言葉を信じ、それに従って生きることの大切さを学んだのです。
 今も同じように、イエス様に対して的はずれな期待をして失望し、去ってしまう人がいます。自分の思い通りにならないと去っていく場合もあります。劇的なパフォーマンスを見せてくれなければ去っていく場合もあるでしょう。自分の気に入らないことを言われてすぐ腹をたてたり、自分のプライドに固執する人もいます。しかし、本当に謙遜になって求め続け、イエス様の言葉に耳を傾け、従っていこうとするなら、必ず答えが与えられるのです。
 マタイ7章7節の有名な言葉がありますが、原文に忠実に訳すと、次のようになります。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます。」自分の期待や予想と違っても、なお求め続けるときに、本当の解決を見いだすことができるのですね。
 王室の役人は、どうしたでしょう。あきらめずに求め続けました。すると、イエス様は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われたのです。
 イエス様は、役人の家に出向こうとはなさいませんでした。神秘的な呪文を唱えたり、特別な儀式をしたりもなさいませんでした。病気がいやされる布とか、飲めば病気がなおる水とかを与えてくださったわけでもありませんでした。短い祈りさえなさいませんでした。ただ一言、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言われたのです。
 私たちは、とかく目に見える物に頼ろうとする傾向がありますね。奇跡や不思議を求めたり、何か頼れる品物を所有していたいと思いがちです。聖地旅行にいくと、ヨルダン川で洗礼式ができる場所があるんですね。そこの水をペットボトルにいれて持ち帰ろうとする人もいます。不思議な光景です。酒匂川の水のほうがよっぽどきれいです。しかし、ヨルダン川の水だと何か違うのでしょうか? 私たちは、すぐに何か目に見えるものを求め、頼ろうとしやすいのです。
 しかし、ヘブル人への手紙11章1節には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と書かれています。イエス様が約束された言葉なら、それは、見えても見えなくても、語られたとおりになる、だから、その言葉を信頼して生きることが大切だというのです。信仰とは、単純にイエス様の言葉にうなずき、その言葉に人生を委ねて生きていくことなのですね。イエス様をお迎えして生きるとは、イエス様の約束の言葉を信頼して生きることなんです。
 さてどうでしょう。この役人は、イエス様が語られた言葉だけを握って帰っていきました。彼のおみやげは、イエス様の言葉だけです。しかし、それは、最も大切なおみやげなんです。
 彼が帰ってみると、どうでしょう。イエス様が「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と、子どもが直った時刻が同じであることを知ったのです。そして、役人と彼の家の者がみなイエス様を信じたのです。
 もちろん、このことは、いろいろな説明をすることができるでしょう。「時刻が同じだったのは偶然の一致にすぎない。この息子は快方に向かっていたので、この役人が出かけてから数時間でよくなったのだよ。イエス様の言葉と病気が直ったこととは全然関係がないさ」と考える人もいるでしょう。
 私たちも、イエス様の恵みによって生かされているにもかかわらず、「それは偶然さ」と考えたり、イエス様の働きを認めようとしないことがあるかもしれません。認めなければ、決して神様への感謝は生まれません。しかし、一度限りの人生ですよ。感謝あふれる人生でありたいですね。「それは偶然だよ」「それは当たり前だよ」とくくってしまう人生は、つまらないものです。感動もありません。しかし、こうして生かされていること、導かれていること、主の支えの中で歩んでいること、それは、感謝してしすぎることはありません。
 この役人の家の者たちはみな、実際にはイエス様に会うことはありませんでしたが、主人が持ち帰ったイエス様の言葉と主人の行動によって、信仰が伝えられていったのです。 
 皆さん、私たちは、毎週この場所からイエス様の約束の言葉をおみやげとして持ち帰ることができるのです。その言葉を信頼して生きることが、イエス様を歓迎することなのですね。
 そして、最後の54節には、「このことを第二のしるしとして行なわれた」と書かれていますね。「しるし」とは、「証拠としての奇跡」という意味で、何かを示しているものです。この「第二のしるし」は、何を示しているのでしょうか。
 もちろん、イエス様が病をいやす力を持っておられることを示していますが、それだけでなく、イエス様の約束の言葉は、必ずその通りに実現するということも示しているのです。イエス様の約束の言葉があれば、距離が離れていても、主の働きになんら支障をきたすことはないということです。
 ですから、私たちは、どこにいても互いのために祝福を祈ることができますし、どこにおいても聖書の約束の言葉を受け取り、勇気を持って生きていけるのです。
 私たちの主は、距離も空間も時差も関係のない方ですから、今週もこのイエス様に信頼し、イエス様の与えてくださる約束の言葉の中に歩んでいきましょう。