城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一二年一一月二五日     関根弘興牧師
                  ヨハネ五章一節ー九節

ヨハネの福音書連続説教13
    「よくなりたいか」


1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。(新改訳聖書)


前回は、イエス様がガリラヤのカナに滞在されていたときの出来事について学びましたが、今日は、イエス様が再びエルサレムに上ってこられたときの出来事が記されています。
 イエス様は、ベテスダと呼ばれる池に行かれました。この「ベテスダ」は、「あわれみの家」という意味です。そこには、病人、盲人、足のなえた人、やせ衰えた人々がたくさん伏せっていました。
 ちょうどユダヤの祭りの時ですから、大勢の人たちがエルサレムに集まって、喜び祝いながら、列をなして神殿に向かって行ったことでしょう。しかし、このベテスダと呼ばれる池の周りには、病み疲れて、自分では動くことすらできない人たちがたくさんいたのです。
 その中に、三十八年もの間、病気を患っている人がいました。彼は、最初は自分の努力で解決を考えたはずです。いろいろな医者にかかったでしょう。いろいろな薬も飲んでみたかもしれません。しかし、病気は直りませんでした。人間の努力では解決できないことを彼は知りました。そして、このベテスダの池にやって来たのです。
 この池は、地下水が湧いたようです。それも、間欠泉のように、ときどき湧き上がるのです。水が湧き出るときに、あぶくが出ますね。人々は、あぶくが出るのは、天使がこの池をかき回しているからだと考えました。そして、水がかき回されてあぶくが出た時に最初に池に飛び込んだ人は、病気が治ると考えられていたのです。ですから、病気の人々は、我先にとその池に飛び込むわけですね。
 でも、この三十八年も病んでいる人には、問題がありました。彼は寝たきりでしたから、どう見ても自分がいちばん最初に池に飛び込むことなど不可能だったのです。
 そんな彼のもとに、イエス様が来られました。イエス様は、彼を見て、癒してくださいました。それが、今日の内容です。そして、この癒しの出来事は、ヨハネの福音書の中でイエス様が行われた第三番目のしるしとして紹介されているのです。
 そこで、今日は、この第三番目のしるしが私たちに何を教えようとしているのかを、ご一緒に考えていきましょう。

1 イエス様の問いかけ

 イエス様は、この病人を見て、まず、「よくなりたいか」と質問されました。イエス様は、この人が長い間、病んでいることを知っておられました。知った上で、「よくなりたいか」と尋ねられたのです。
 三十八年も伏せっているのですから、聞くまでもなく、「よくなりたい」に決まっているじゃないかと思いますね。それなのに、イエス様は、どうして、「よくなりたいか」と声を掛けられたのでしょう。
 人は、失望や絶望が続くと、希望の言葉がまやかしのようにしか聞こえなくなってしまうことがあるものです。彼は三十八年も病んでいました。その間には、彼のところにやってきて、「こうすればよくなるぞ」とか「これが足りないんだ」とか、あれこれ助言する人はたくさんいたことでしょう。そのたびに希望を抱いては失望し、また希望を抱いては失望の連続だったのかもしれません。ですから、「もう私の人生に良いことなど起こるはずがない」「このままで人生は終わってしまうんだ」と諦めてしまっていたかもしれませんね。
 私たちは、どうでしょうか。「よくなりたいか」と問われると、「無理無理、駄目駄目、もう何十年もこの状態ですから」、そんな反応することがありますね。
 私は、以前、離婚の調停をしている夫婦の相談を受けたことがありました。私が「こうしてみたらどうですか」と提案しても、すべての返事が「無理です。駄目です」なんですね。「解決を願わないのですか」と尋ねると、「解決なんて無理ですから」と言われるのです。「よくなりたいか?」「いや、無理ですよ!」という答えですね。
 もうしばらく前になりますが、あるホテルの支配人から、クリスマスの催しを行うので手伝ってほしいと言われ、お手伝いしたことがありました。その支配人が「今年のクリスマスは、少しはキリスト教の要素を取り入れようと思うんですよ」と言われたので、私はこう答えました。「クリスマスに、キリスト教の要素を取り入れる、というのはちょっと変ですね。クリスマスは、もともとイエス・キリストの降誕を祝うものですから、クリスマスにキリスト教以外の要素が入ってくるほうがおかしいのですよ」と。すると、その支配人が、「いやー、私などは、迷える小羊ですからね」とおっしゃるのです。「そうですか。迷っているなら、ちゃんと、いるべき場所に戻ったらいいですよ」と私が言うと、「いや、私は迷ったままがいいんですよ」と言われたのです。
 イエス様は、私たち一人一人に素晴らしい永遠の救いを差し出してくださっています。それなのに、「結構です」と言う方がたくさんいるのですね。
 さて、三十八年も病に苦しんでいた人は、イエス様に「よくなりたいか」と問われると、こう言いました。「池の中に私を入れてくれる人がいません」と。この病人は、「私は、よくなりたくても自分ではどうすることもできないのですよ。願いはあっても、もう解決の道がないんです。この私を助けてくれる人なんて誰もいません。見てください、みんな我先にと池に飛び込んでいくのです。私は孤独なんです」と訴えているようですね。よくなりたいけど、無理ですよ。自分ではできないし、助けてくれる人もいないし、病気で孤独なままで人生を終えるしかないんですよ、というような思いだったのでしょう。

2 信仰の一歩

 しかし、イエス様は、驚くべきことを言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」とお命じになったのです。
 病人は、イエス様の命令を聞いて驚いたでしょうね。でも「そんなことはできません」とは言いませんでした。また、「あなたが私を池まで運んでくださらなければ直りません」とも言いませんでした。ただ、イエス様の言葉の通りに、自分の足に力を入れたのです。今まで決して踏み出そうとしなかった、力を入れようともしなかったのに、一歩踏み出したのです。すると、どうでしょう。彼は、すぐに直って、床を取り上げて歩き出したのです。
聖書学者のウイリアム・バークレーは、この箇所について、こう書いています。「イエスは、その男に、起き上がるように命じた。あたかもイエスはその男にこう言ったかのようである。『男よ、起き上がることに心を集中しなさい。懸命に努力しなさい。そして、あなたと私とで、いっしょにこのことをやって行こう。』と。」
もし、私たちがイエス様の言葉をただ聞くだけで終わりにしてしまうなら、何も始まりません。起こりません。その言葉に従って生きること、行動することが大切なのです。
旧約聖書のヨシュア記三章には、不思議な出来事が記されています。イスラエルの民は、長い間、エジプトで奴隷生活を強いられていました。しかし、神様に遣わされたモーセに導かれてエジプトから脱出することができました。そして、四十年間、荒野で生活した後、遂に、約束の地を目前にする場所にやってきたのです。これから、モーセの後継者であるヨシュアが民を率いて約束の地に入っていくことになったのですが、そのためには、まず、ヨルダン川を渡らなければなりません。その時期のヨルダン川は、水かさが増して、岸にあふれんばかりでした。老人や女性や子供もいます。ヨルダン川を渡るのは、とても困難なことでした。
 しかし、神様は、ヨシュアとイスラエルの民にこう言われたのです。「主の箱をかつぐ祭司たちを先頭に進ませなさい。その祭司たちの足がヨルダン川の水に浸ると、ヨルダン川の水は、せき止められる」と。彼らは、神様の言葉の通りにヨルダン川に一歩踏み出しました。すると、水がせき止められ、イスラエルの民は、全員、かわいた地を通って川を渡ることができたというのです。
彼らが一歩踏み出したとき、ヨルダン川の流れが止まりました。神様は、まず流れを止めてから、「はい、渡りなさい」と言われたのではありません。彼らが、神様の言葉を信じて一歩踏み出したとき、神様が素晴らしいみわざを行ってくださったのです。
神様は全てを整えて、私たちが安心して前進していくことが出来るようにしてくださるお方です。私たちが神様の約束の言葉を信頼して、勇気をもって生きていこうと一歩踏み出すとき、不思議なように道が開かれていく、そういう神様のみわざを見ることができるのです。
 イエス様に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた病人は、その言葉通りに、一歩踏み出しました。すると、病が癒されました。新しい出発です。今までとは、まったく違う生き方をしていかなければなりません。今までは、他の人から施しを受けて生活してきました。しかし、今度は、働かなければなりません。本当に社会復帰ができるだろうか。働く場所があるだろうか。長い間社会生活から離れていて、これから大丈夫だろうか。よくなったが故にもたらされる心配事がいろいろとあったでしょう。でも、彼は一歩踏み出したのです。
 時々、礼拝でお話しすることですが、クリスチャン生活には、ちょっとした冒険と勇気が必要ですね。私たちもイエス様の言葉によって信仰の一歩を踏み出すとき、これからどうなるのだろうと不安や心配を感じることがありますね。「クリスチャンになるのはいいけれど、お墓はどうしよう」とか「今まで聖書のような厚い書物を読んだことがないけど、これから大丈夫かな?」とか「いろいろ厳しく命令されたらどうしよう。クリスチャンとして本当に歩んでいけるだろうか」とか、いろいろな心配が出てくるかもしれません。また、信じてすぐに試練の波が襲うかもしれません。こんなはずではなかった、という現実に出くわすかもしれません。
 しかし、安心してください。だからこそ、イエス様は「わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない」と約束してくださったのです。主はあなたを癒しっぱなし、救いっぱなしにして、あとは放っておくような方ではありません。詩篇23篇にはこう書かれています。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」と。私たちを見守っていてくださる方、私たちをすべてのことから守ることのできる方がいつもそばにいてくださる、だから、私たちは、勇気をもって一歩踏み出すことができるのです。

3 律法の限界

ヨハネの福音書では、イエス様のしるしを記録する時に、それと対比して旧約聖書の律法に従って生きることの限界が象徴的に示されています。
 第一のしるしのときは、どうだったでしょうか。イエス様がカナの婚礼に出席された時、水をぶどう酒に変えてくださいましたね。あの水は、ユダヤの社会では「きよめの水」として宗教的に用いられていたものです。水で洗うことによって汚れをきよめるという儀式を行うわけです。でも、いくら水で洗っても、完全にきよくなるわけではありませんし、またすぐに汚れてしまいます。ですから、きよめられたという確信を得ることは出来ません。しかし、イエス様は、その水をぶどう酒に変えられましたね。ぶどう酒は、後にイエス様が十字架上で流される血を象徴するものでした。つまり、水ではなく、イエス様が十字架で流された血こそ、私たちをすべての罪からきよめるものだ、ということを示していたわけです。
 では、今日の箇所では、どうでしょうか。
 ベテスダの池には、五つの回廊がありました。この五つの回廊は、モーセの五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つの書、つまり、旧約の律法を象徴していると言われています。その五つの回廊に、たくさんの病んでいる人たち、救いを求める人たちが集まっていました。そして、何とかしてベテスダの池、つまり「あわれみの家」「恵みの家」に入ろうとして待っていたわけです。でも、その人々は皆、こう思うのです。「ああ、私の先に他の人が入ってしまった」と。戒めを一生懸命守ろうとしても神様のあわれみをいただくことができない、というのが、このベテスダの池の光景です。旧約の律法は、人間の罪や弱さを暴露することはあっても、決して救いを与えることはできない、ということを教えている場所なのです。
 そんな場所に、イエス様は来られました。そして、イエス様は、「よくなりたいか」と言われました。イエス様は、私たちが求めるなら、あわれみの家、恵みの家に入ることが出来るようにしてくださるお方です。
 また、イエス様は、「起きて、床を取り上げて歩け」と言われましたね。私たちがイエス様の言葉に信頼して一歩踏み出すとき、そこに神のあわれみ、恵みが伴ってくるのです。

 イエス様は今日、一人一人に「よくなりたいか」と声をかけてくださっています。あなたは今、現状を諦めていませんか。無理無理、だめだめ、と考えていませんか。また、たくさん立派なことをことすれば、ベテスダの池(あわれみの家)に入れるかもしれないと考えているのではありませんか。
 イエス様は、あなたの今の場所から立ち上がって、歩き回れと言われるのです。主は私たちの羊飼いです。いつも私たちと共にいてくださいます。この方を信頼し、共に歩んでいける幸いを味わっていきましょう。