城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一月六日              関根弘興牧師
                  ヨハネ五章九節-一八節

ヨハネの福音書連続説教14
   「今も働かれる主」


 9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。(新改訳聖書)


今日からまた、ヨハネの福音書の連続説教を再開します。
 前回は、イエス様がベテスダの池に行き、三十八年もの間、病に苦しんでいた人を癒されたという記事を読みましたね。今回は、その続きですが、まず、前回の内容を振り返ってみましょう。
 まず、5章1節に、「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた」と書かれています。イエス様は、祭りの時にエルサレムに行かれたのです。この「祭り」とは、ユダヤ人にとって、どんな意味があったのでしょうか。かつて、彼らの先祖たちはエジプトで奴隷生活を強いられていましたが、神様がエジプトから脱出させ、約束の地にまで導いてくださいました。その神様の恵みのみわざを思い起こすために、彼らは毎年祭りを行っていたのです。祭りの時には、多くの人たちが、神様を礼拝するためにエルサレムの神殿に上っていきました。 ところが、イエス様は、神殿ではなく、ベテスダと呼ばれる池のほうに行かれたのです。そこには、大勢の病む人たちがいました。
 その日は、安息日でした。安息日は、ユダヤの人たちにとっては一週間の中で一番大切な日です。しかも、イエス様がベテスダの池に行かれた時の安息日は、「祭り」が行われている特別な聖なる日でもあったわけです。ですから、人々は、しきたりに従って身を清め、様々な準備をし、この日を過ごしていたわけですね。そういう時に、わざわざ「汚れている」と見なされている人々のところに近づこうなどと考える人は普通はいません。
 当時のユダヤ社会では、病人は非常に弱い立場の人たちでした。病人に対して偏った見方をする人たちも多かったのです。ヨハネの福音書9章には、イエス様が道の途中で生まれつきの盲人を見られた、という記事が出てきます。その時、弟子たちは、イエス様にこんな質問しました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」何と心ない言葉でしょう。しかし、弟子たちのこの言葉は、当時の人々の病に対する考え方を示しています。しかし、イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と、お答えになったのです。
今回の「祭り」においても、多くの人たちが感謝の礼拝をささげに神殿に上って行く時に、イエス様は、その反対に、病に伏せり、人々の偏見によって追いやられている人々と向き合うためにベテスダの池に降りていかれたのです。そして、三十八年もの間、病に伏せっていた人をいやされたわけです。
 今日はその続きで、この病人のいやしをきっかけに起こった論争が記されています。
 イエス様が、病人に「床を取り上げて歩け」と言われると、病人はすぐに直って歩き出しました。自分の簡易型移動ベットを収納して歩き出していったわけです。しかし、その日は、安息日でした。そこで、ユダヤ人たちは、彼の姿を見て、「今日は安息日だ。床を取り上げてはいけない」と彼を非難し始めたのです。すると、いやされた人は、「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです」と答えました。「いったい誰がそんなことを言ったのだ」とユダヤ人たちが問いただすと、彼は、「誰なのか知らない」と答えたのですね。
 その人は、その後、神殿に行ったようです。14節を読むと、「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた」と書かれていますね。イエス様は、「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」と言われました。この言葉の意味は、後ほど説明いたしますが、いやされた人は、自分をいやしてくれたのがイエス様であることを知り、そして、ユダヤ人たちにそのことを報告したのです。
 ユダヤ人たちは、病人がいやされたことには関心がありませんでした。そのことを一緒に喜ぶ気持ちなどまったくありませんでした。病人のことなど、どうでもいいわけです。彼らにとっては、「安息日にしてはならないことを行った!」「決まりを破った!」ということが、どうにも赦せない一大事であり、それで、イエス様を激しく非難したのです。それだけでなく、イエス様が神様を「わたしの父」と呼び、ご自分が神と等しい存在だと言われたので、「イエスは、神を冒涜している」と激怒して、イエスを亡き者にしようと考えるようになっていったわけですね。
 ここで、少し、安息日について理解しておきましょう。
 神様は、モーセを通してイスラエル人に十戒をお与えになりました(出エジプト記20章)。その十戒の中に、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」という戒めがあります。これは、人が週の一日は必ず安息を得ることができるようにするための戒めです。すばらしいことですね。遥か彼方の昔から、そう定められているのです。
 ところが、旧約聖書の学者たちは、この「どんな仕事もしてはならない」という言葉にこだわりました。「どんな仕事もしてはいけない」という、その仕事とは何だろうかと考えて、「してはいけない仕事」の細かいリストを作り上げていったのです。例えば、安息日には、何メートル以上歩いてはいけないとか、火を使って調理してはいけないとか、仕事を三十九種類に分類して、それぞれに「してはいけない」リストを作ったのです。医療行為も、安息日にできることはかなり限定されていたそうです。命に危険がない場合には、安息日に医療行為をしてはいけないことになっていました。しかし、大きなおなかを抱えたお母さんが、今にも産まれそうという時には、これは命にかかわることですから、手助けすることができたわけですね。では、もし安息日に壁が倒れて人が下敷になった場合はどうするかと言いますと、まず、下敷きになった人の状態を見るのです。そして、「ああ、これはもう駄目だ。死んでいる」となったら、命に別条どころか、もう死んでしまっているのですから、その人を引き出すこともできません。「明日にしましょう」となるのです。なぜなら、遺体の運搬は仕事になるからです。
 ベテスダの池でいやされた人が、安息日に床を取り上げて歩いたというのも、「荷物を運搬する」という仕事にあたるわけで、ユダヤ人たちは、それを非難したわけです。
 しかし、皆さん、そもそも「安息日を守る」とは、どういう意味があるのでしょうか。神様はなぜ安息日をお定めになったのでしょうか。 
 創世記に書かれているとおり、神様は六日間で天と地と生き物すべてを造られました。それは「非常に良かった」と書かれています。最後に、人間が造られました。そして、神様はすべての創造のわざを終え、第七日目に安息されたのです(創世記1・31ー2・3)。人が創造されたのは六日目ですから、次の日が安息日になるわけですね。人の生活は、どこから始まったかというと、安息日に安息することから始まったわけです。人が創造されて、朝、目が覚めると、「ああ、今日は安息日だ」というわけで、まず休息することから始まったというのです。
どういうことかといいますと、人は、まず最初に神様の創造のみわざを覚え、心安らぐ時を持つことが大切だということです。「ああ、神様。あなたはこんなに素晴らしい世界を私たちのために造ってくださったんですね。そして、今もこの世界を支え、動かし、保っておられるのですね。」こういうことを覚えて休息する時が安息日なわけです。
 ですから、安息日は、決して束縛の時ではありません。「さあ、これから出発するぞ。でも、その前に、神様、あなたの素晴らしい世界を眺めて、あなたがどれほど麗しい世界を私たちのために創造してくださったのかをあらためて覚え、感謝します。ありがとうございます。あなたを礼拝し、あなたの偉大さを味わい、安息を持って生きています」という生き方をするように人は造られたわけです。
 詩篇121篇の作者は、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」と言っています(1ー2節)。「創造者なる神様が私の助け手だ」と告白しているんです。これが安息日にいつも確認することなんですね。
 今、私たちは、毎週日曜日に礼拝をささげていますが、神様の前で静まり、神様に信頼し、心と体の休息の時を持つことが安息日の本来の姿です。安息日を持つことは、人としての生きるサイクルなんですね。もちろん、人によって休みの日は違いますね。日曜日が仕事でお休みできない方もいます。イエス様の復活が日曜日だったので、それを記念して日曜日に礼拝をささげているわけですが、イエス様は、日曜日の主でもあり、月曜日の主でもあるわけです。毎日が主が作られた日です。ですから、安息日は、日曜日でないとだめだというわけではありません。いつであれ、私たちが生きていくサイクルの中で安息日を覚えることを大切にしていくなら、人としての歩みが確かなものとなっていくのです。

 さて、今日の箇所を通して、私たちは、三つのことを覚えていきたいと思います。

1 神の心を忘れた戒めの危険

 さきほどお話ししましたように、安息日を守るという戒めは、神様への礼拝と休息のために備えられたものです。ですから、三十八年もの間病んでいた人が、健康を回復し、起き上がって、神殿に行くことが出来るようになったということは、律法に違反するどころか、安息日の精神にもっともふさわしいことでした。一方、ユダヤ人たちの戒めは、文字だけにこだわり、その背後にある神様の心を理解していないものだったので、窮屈な不自由なものとなっていました。ただ人を束縛し苦しめるものになっていたのです。
当時のユダヤ人指導者たちは、長い間積み重ねられてきた安息日の細かい規定を大切にするあまり、それがいつしか伝統となり、その伝統を守ることが「信仰的な生き方」だと錯覚するようになったのです。自分たちの作った規則が、神の言葉にとって代わるほどの権威を持つものになってしまっていたのです。そして、その結果、戒め自体が、とても冷たい、心が忘れられたものとなっていました。
 伝統があることは、悪いことではありません。守るべき伝統がたくさんあってもいいと思います。しかし、それは、決して神の言葉に代わるものではありません。
 マタイの福音書15章6節で、イエス様は、当時のユダヤの指導者たちにこう言われました。「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」と。
 マルコの福音書12章28節ー31節では、イエス様のもとに律法学者がやって来て、こう尋ねました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」すると、イエス様はこうお答えになりました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
 神を愛すること、そして、隣人を自分自身のように愛すること、それが、神様の戒めの基本となる心です。この心から離れてしまうとき、戒めは、人を非難し、苦しめ、抹殺するものとなっていくのです。
ラインホルド・ニーバー(1892-1971)という米国の神学者の祈りを紹介しましょう。ニーバーが米国マサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で一九四三年の夏に説教したときの祈りです。
 「神よ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

2 今に至るまで働かれる神

 イエス様は、「安息日を破った」と糾弾するユダヤ人たちに、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」と言われました。
 「今に至るまで」とは、「初めからずっと」ということです。神様は、ずっと休まずに働いておられるというわけですね。「えっ、神様は七日目に休まれたのでしょう。ずっと働いているのですか。イエス様の言葉と創世記の言葉とは矛盾しないのですか」と思われるかもしれませんね。
 もちろん、矛盾はしません。創世記2章3節に「その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」と書いてあるように、神様は「創造のわざ」は休まれました。しかし、この世界を支え、守り、治め、人間を愛し、あわれみ、恵みを与えるみわざは、一日たりとも決して休まれることはないのです。
 神様がときどきみわざを休まれたらどうでしょう。「今日は、ちょっと太陽から光を送るのをやめよう」、これだけで私たちは生きていくことができません。詩篇121・4にも「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」とありますね。みなさん、神様は、一睡もすることなく働いておられるんです。ですから、私たちは安心して睡眠をとることができるのです。
 そして、イエス様も、「ですからわたしも働いているのです」と言われました。父なる神様が常に愛とあわれみのみわざをなさり、この世界を保たれているように、イエス様も、愛とあわれみのみわざを、曜日に関係なく、一人一人にしてくださっているのだということです。
安息日は、私たちのために備えられているものです。しかし、人の安息を奪ってしまうものがあります。何でしょうか。もちろん、病もそうでしょう。悲しい出来事、辛い出来事がたくさんありますね。でも、人から安息を奪ってしまう最も根源的な問題は、罪の問題です。人は、罪のために、神様との関係が絶たれ、不安を感じ 迷い、死を恐れながら生きています。罪の問題を解決し、神様との関係を回復し、神様の愛と恵みの中で生きるようになるまで、本当の安息を得ることはできないのです。人間にとって、罪の解決の問題は安息と直結しているのです。
 イエス様がご自分の命をかけて成し遂げられたことは何だったでしょうか。私たちのすべての罪を背負って、十字架につけられ、私たちに罪の赦しを与えるということです。イエス様は、私たちの罪を背負い、ご自分が私達の身代わりに十字架の死を受けてくださったのです。それによって、私たちの罪は赦され、神様との関係が回復し、神様のもとで安息することができるようになりました。
そして、イエス様は、今も一人一人が罪の赦しと永遠のいのちを受け取って生きていくことができるように、私たちのために祈り、導き、働いてくださっているのです。

3 安息の中に生きることの幸い

 14節で、イエス様は、いやされた人を宮の中で見つけてこう言われました。「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」最後に、この言葉について考えてみましょう。
病気の原因については、いくつかの原因があります。食べ過ぎ、疲労、気候の変化によって体調がくずれる、ということがありますね。また、ストレスが続くとか、憎しみ、怒り、失望などによって体調不良になることもあります。「赦せない」という思いが体の不調の原因になることもあります。ですから、健康ということを考えるとき、肉体の栄養だけでは不十分です。憎しみ、敵意、怒り、自分勝手な生活など、一つ一つ点検して、心も体も健康を願っていくべきですね。
 さて、今日の三十八年間、病気であった人はどうでしょう。同時の人々は、「この人が何か大きな罪を犯したから、こんな病気になったのだ」と考えていたことでしょう。しかし、イエス様は、この人の病の原因に関しては、ひとことも言及されませんでした。罪を犯したからこんな病気になったとか、先祖が悪いから病気になったとか、そんなことはひとこともおっしゃいませんでした。イエス様は、ただこの人をいやされたのです。
 そして、こう言われました。「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」
 いったい、これは、どういう意味なのでしょう。イエス様は、この人を脅して言われたのでしょうか?そうではありません。
 この人は、三十八年間、大変つらい生活をしていたはずです。やっと病がいやされて、これからはまったく違った生活を始めることができるでしょう。しかし、もし、これから神様を無視し、神様に背を向けて生活をしていこうとするなら、三十八年のつらさ以上に大変なことになる、大切な生き方そのものさえも失うことになる、とイエス様は言われたのです。イエス様は、この人に、「これから、神様なしの人生を歩んでは駄目ですよ」「神様を無視して離れてしまう生活をしてはいけません。それは、あなたの中から安息を失うことになりますよ」と言われたのです。今日の箇所の話の中心は何だったでしょうか。「安息日」についてでしたね。神様を無視し、神様に背を向ける生き方の中からは本当の安息は生まれないということを、イエス様は、この人に強く諭されたのです。
 私たちの態度はどうでしょう。イエス様に助けられても、「もう良くなったから、イエス様は必要ではない。困ったら、またイエス様に助けてもらえばいい」と考えて自分勝手な生活を送ろうとするなら、大切な神様が与える安息を失ってしまうことがあるのです。それは、神様の痛みです。
 イエス様は、私たちに代わって十字架についてくださいました。イエス様が十字架で苦しみを受けてくださったがゆえに、私たちは神様から罪の赦しといやしを受け取ることができたのです。ですから、そのことを覚え、イエス様のゆるしといやしの恵みを味わいながら、今週も主が与えてくださる安息の中で、新しい週をスタートいたしましょう。