城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一月一三日             関根弘興牧師
                 ヨハネ五章一九節ー二九節

ヨハネの福音書連続説教15
   「救い主ー三つのキーワード」

 19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。(新改訳聖書)


 まず、5章前半の内容を振り返って見ましょう。
 イエス様は、ベテスダの池に行き、三十八年もの間、病に伏せっていた人に「床を取り上げて歩け」と言われました。すると、彼は、床を取り上げて歩き出したのです。
 ところが、それを見たユダヤ人たちは、彼を非難し始めました。「今日は、安息日なのだから、床を取り上げてはいけない」というのです。「安息日には、どんな仕事もしてはならない。それなのに、床を取り上げて運搬するという仕事をするなんて、けしからん」というわけですね。しかし、安息日を守りなさいという戒めは、本来は、神様への礼拝と休息のために備えられたものです。ですから、三十八年もの間病んでいた人が健康を回復し、起き上がって、神殿に行って礼拝することが出来るようになったということは、律法に違反するどころか、安息日の精神にもっともふさわしい姿でした。しかし、ユダヤの人たちは、「仕事をしてはいけない」という言葉だけにこだわり、その背後にある神様の心を忘れてしまっていたわけです。
そして、彼らは、いやされた人を責めただけでなく、その人をいやしたイエス様に対しても、安息日を破る不届きな奴だと攻撃をしてきました。イエス様は、そのユダヤ人たちに、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」と言われました。イエス様は、神様をご自分の父と呼び、ご自分が神様と等しい存在であると言われたのです。そこで、ユダヤ人たちはますます激しく怒り、イエス様を殺そうと考えるようになりました。

 そうした中で、イエス様は、さらに、ご自分と父なる神様との関係について、彼らに語り始めました。それが、今日の箇所の内容です。
 皆さん、「あなたと神様とは、どういう関係ですか?」と問われたら、何と答えますか。
 私たちは、今日も「主の祈り」を祈りました。「天にまします我らの父よ」と祈りましたね。天地を創造された神様にむかって、大胆にも「お父さん」と呼ぶことができる関係です。私たちは、この父なる神様にどんなことでも祈ることができ、この方に人生を委ねて生きていけるわけですね。しかし、誰かが、「父なる神様と私は同じです。父なる神様が行うことは、わたしも同じように行うことができるのです」と言ったら、どうでしょう。「おいおい、あいつ、頭がおかしくなったぞ。自分で言っていることがわかっていないのではないか?」、そんなふうに思うのではないでしょうか。
 ところが、イエス様は、19節で、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行う事ができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです」と言われました。イエス様は、「私は、すべて、父なる神様と同じことをする。違うことはいっさいしない」とおっしゃるのです。父なる神様のなさることとイエス様のなさることの間に矛盾などは一つもないというのです。ですから、イエス様がなさることを見れば神様のなさることがわかるし、神様を知りたければイエス様を見ればいいということになります。
 ここで、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません」というのは、イエス様の能力に限界があるという意味ではありません。この言葉は、三位一体の神様の中における秩序を表しているんです。
 私たちの神様は、三位一体の神様です。三位一体とはどういうことかといいますと、「神様は、唯一の方だけれども、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格を持っておられる。そして、その父、子、聖霊は、同じ本質、同じ意志、同じ思いをもち、いつも共に働いておられる。それで、本当の意味で一体なのである」ということです。私たちの神様は、ご自身の内に父、子、聖霊の完全な愛と調和と交わりを持っておられるのです。イエス様が父に服従なさるのは、強制や恐れのためではありません。20節に書かれているように、父は、子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになります。そして、子は、父を愛するがゆえに、自らすすんで父に従われ、父と同様に行われるのです。父と子は、愛によって親密に結ばれているのです。ですから、私たちが、天地を創造された神様を信じるというのは、私たちの身代わりに十字架について罪を贖い、死を打ち破って復活されたイエス様を信じることであり、また、信じる私たちといつも共にいてくださる聖霊なる神様を信じるということでもあるのです。
 その三位一体の神様を信じる信仰から、何が生まれてくるでしょうか。豊かな愛と調和の中に存在されている方を信じるのですから、信じる私たちの中にも愛と調和が生まれてくるのです。そして、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するという生き方をすることが少しずつできるようになっていくのです。

さて、前回の箇所の最後の所で、イエス様は、ご自分を父なる神様と等しい存在だと言われました。そして、今日の箇所では、イエス様は、さらに、当時のユダヤ人たちがあっけにとられてしまうようなことをお語りになっています。イエス様は、ここで、ご自分が救い主、メシヤであるということを主張されているのです。イエス様が救い主であることを示すキーワードは、三つです。一つは「いのち」、二つ目は「さばき」、三つ目は「敬う」という言葉です。一つ一つ見ていきましょう。

1 救い主は、いのちを与えることができる方である。

まず、21節で、イエス様は、「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」と言っておられます。
 ヨハネの福音書は、最初から、イエス・キリストこそいのちそのものの方であることを紹介しています。1章4節に、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」と書かれていますね。また、3章16節は、聖書中の聖書と言われるほど有名な箇所ですが、こう書かれています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここにも、イエス様がいのちを与える方であることを記されていますね。また、14章6節では、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とイエス様ご自身が言っておられます。
 しかし、旧約聖書を熟知していた当時のユダヤ人たちは、イエス様がいのちを与えることができる、という言葉に憤慨しました。なぜなら、旧約聖書には、人を殺したり、生かしたりすることのできるのは神様だけだと書かれているからです。
 たとえば、旧約聖書の列王記の中に、アラムの将軍であったナアマンが、重い皮膚病をいやしてもらうためにイスラエルの預言者のもとに行ったことが書かれています。そのとき、ナアマンの主君であるアラムの王が、イスラエルの王に手紙を書きました。「私の家臣が病気なので、直してください。よろしく」というわけです。しかし、その手紙をもらったイスラエルの王はびっくりです。「病気を直してくれと言われても、そんなことができるわけがないじゃないか。きっとアラムの王は私に言いがかりをつけるためにこんな手紙を送ってきたのだ」と動転しました。その時、イスラエルの王は、こう言っているのです。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか」と。
 また、申命記32章39節では、神様がこう言われました。「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす」と。
 つまり、人のいのちを握っておられるのは神様ご自身だというのが、聖書が教えていることです。ですから、ユダヤ人たちは、イエス様がいのちを与えることができるという言葉に猛反発をしました。「イエスは人にすぎないのに、自分を神とするのか。神を冒涜している!」というわけです。
 しかし、考えてみてください。もしイエス様がいのちを与えることが出来なければ、まことの救い主ではありません。ただの大言壮語のお騒がせの人にすぎませんね。
 イエス様は、ご自分が、本当にいのちを与えることのできる救い主であることを言葉によって主張し、また、実際にみわざを行ってお示しになりました。
 福音書の中には、イエス様が死人を生き返らせた記事が三つ載っています。会堂管理者のヤイロの娘、ナインのやもめの息子、そして、ラザロをよみがえらせた記事です。この三つの出来事は、イエス様が本当にいのちを与える力を持っておられることを示す象徴的な出来事でした。しかし、この三人は、そのあとずっと生き続けたわけではありません。やがて死んでしまいましたね。ですから、イエス様がいのちを与えるとおっしゃる「いのち」とは、もちろん肉体のいのちも含まれていますが、それだけではないのです。
 24節にイエス様の言葉を聞いて神様を信じる人は「永遠のいのち」を持つと書かれています。この「永遠のいのち」とは肉体が長生きすることではありません。「神様のいのちを受けて、神様と共に生きることのできるいのち」です。神様から離れているということは、神様のいのちを持つことができず、死んだ状態にある、と聖書は教えています。25節に「死人が神の子の声を聞くときがきます」と書かれていますが、この「死人」とは、神様に対して死んでいる人、神様の声に応答せず、神様に背を向けている人、つまり、霊的に死んだ状態の人のことを表しています。でもその死んだ状態の人々がイエス様の声を聞いて信じるなら、永遠のいのちによって生かされ、神様との関係を回復し、神様と共に神様に応答しながら生きていけるようになる、というのです。ですから、イエス様がいのちを与えてくださるというのは、神様との関係を回復させ、神様と共に歩むことができるようにしてくださる、ということを意味しているのです。神様から離れ、霊的に死んでいる状態の人が、神様のいのちを受けて神様と共に生きるようになる、それこそ、イエス様のすばらしいみわざなのです。イエス様は、神様から離れ、迷い、滅びに向かっている一人一人を捜し出して、いのちを与えるために来てくださったのです。
 25節に「死人が神の声を聞く時がきます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」と書かれています。イエス様の福音の届かない所はありません。私たちにとっては絶望だと思われることの中にも、イエス様の声は届きます。そして、イエス様の声を聞いた人は生きると約束されているのです。

2 救い主は、さばきを行う権威を持っておられる方である。

22節には「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました」とありますね。また、27節には「また、父はさばきを行う権を子に与えられました」とあります。イエス様は、父なる神様からさばきを行う権威を与えられているのです。
 申命記1章17節にこう書かれています。「さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。」 人の判断は、時には間違えます。偏ることもあります。本当に正しいさばきができるのは、神様だけです。さばきは、最終的には、絶対的に正義であられる神様の領域にあるのです。その神様のさばきの権威が、イエス様に与えられています。それは、イエス様が神様と本質的に同じ方、神様と同じ判断、同じさばきをすることのできる方だからです。イエス様の判断は、いつも正しく、イエス様のさばきは、常に公正です。だから、私たちは、イエス様のさばきを信頼することができるのです。
 ところで、27節には「父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです」とありますね。この「子は人の子だからです」というのは、どういう意味でしょうか。
 イエス様は、ご自分を「人の子」と言われることがよくありました。それを聞いて、「ああそうね。イエス様もマリヤさんから生まれた人の子だからね」くらいにしか考えない人が多いかもしれません。しかし、この「人の子」というのは、実は、救い主の代名詞のような表現なのです。
 旧約聖書のダニエル書7章13節ー14節にこう記されています。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」人の子のような方が神様から永遠の主権を与えられ、永遠に滅びることのない国を治めるようになる、というのです。つまり、ダニエルは、救い主は人の子のような方として来られる、と預言したわけです。ダニエルは、その人の子のような方が来られる前に、この世界には、野蛮で残忍な野獣のような国々が次々に興るが、最後に、人の子のような方が来られて永遠の主権をもって治めるようになるのだと預言しました。「人の子」というのは、残忍な野獣と違って、柔和で、愛に満ち、平和をもたらす方の姿を表しています。救い主は愛と平和に満ちた方なのです。
 このダニエルの預言から、「人の子」という表現は、救い主を意味するようになりました。ですから、イエス様がご自分を「人の子」と言われる時には、ご自分が救い主であると言っておられたわけです。その救い主なるイエス様にさばきの権威がゆだねられているわけです。
みなさん、イエス様は、まことの救い主であり、さばき主でもあります。さばき主とは、審判者ということです。考えてください。いくらすばらしい選手が集まって野球やサッカーをしても、審判がいい加減なら、その試合はめちゃくちゃになります。しかし、審判が適切な審判をするなら、選手たちは自分の力を最大限に引き出し、よい試合をすることができるわけです。イエス様は、正しい判断と、愛に満ちた最高の審判者です。ですから、私たちは、この方のもとで思い切って人生の試合をしていくことができるのです。
 私たちは、この地上では、どうしても納得できないような不条理な出来事が起こったり悪が栄えるのを見て「どうして!」と叫びたくなることがたくさんあります。「神が愛なら、どうしてこんな悲惨なことがあるのか」と感じることもよくありますね。しかし、知ってください。私たちのイエス様こそ、すべての裁きの権を握っておられる方なのです。この地上では不正があるかもしれません。偏ったさばきがなされるかもしれません。しかし、最終的な審判は、イエス様がしてくださるのです。イエス様が私たちの人生の、また、世界の最終的な審判者であるなら、私たちは安心しておゆだねできると思いませんか。
しかし、今日の最後の箇所29節を読むと、少し考え込んでしまうかもしれませんね。「善を行った者は、いのちを受け、悪を行った者はさばきを受ける」と書かれているからです。「私は、悪いことをして、さばかれてしまうんじゃないか」と心配になる方もおられるのではないでしょうか。
 でも、安心してください。自分の力で善を行うことの出来る人は一人もいません。ローマ人への手紙3章12節には「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」と書かれています。また、ローマ人への手紙7章18節ー19節で、パウロはこう言っています。「 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」パウロでさえ、善を行うことができないで、悪を行っているというのです。それでは、私たちの中で、善を行っていのちを受けることのできる人など一人もいないのではないでしょうか。みんなさばかれるしかないのではないでしょうか。
 では、29節でイエス様が言われた「いのちを受けるために行う善」とは、どういうことなのでしょうか。24節で、イエス様はこう言っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」と。「わたしのことばを聞いてわたしを遣わした方を信じる者は、いのちを持つ」と言われたのです。つまり、愛をもってイエス様を私たちのもとに遣わしてくださった父なる神様を信頼して生きること、これこそ、私たちがなしうる最高の善であり、逆に、その神様を拒絶することは愚かなことなのだというわけです。
 親子関係について考えてみてください。親にとっての喜びは何ですか。「お父さん、ぼくはお父さんが大好きだよ。心から信頼しているし、いつも感謝しているよ。」こんなふうに言われたら涙を流して喜びますね。しかし、「お父さんなんか信用できないよ」と言われたら大きな痛みです。
 私たちは、愛と正しさに満ちた天のお父様に向かって、どんな良いことができるというのでしょう。「天のお父様、私は心からあなたを信頼し、愛します。あなたの遣わしてくださったイエス様を信じます。そのみわざのゆえに心から感謝と賛美をささげます」と告白しつつ歩んでいくこと以上に善なることはないのです。その善なることを行っていく人には、永遠のいのちが保証されているのです。

3 救い主は、敬われるべき方である。

 23節に「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです」とありますね。救い主は、敬われ、礼拝され、あがめられるべきお方です。ヨハネの黙示録5章12節には「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と書かれています。私たちがあがめるべき方をあがめ、敬うべき方を敬うこと、これは、人としての私たちの基本的なあり方であり、救い主に向けられるべき態度なのです。
 皆さん。イエス様は、敬われるべき方です。父なる神様と同じみわざを行うことのできる方であり、いのちを与え、すべてのさばきを行う権威を持つ方です。イエス様の福音の届かないところはありません。だから、私たちは、失望せずに、イエス様に期待して、信頼して、敬いつつ歩んでいきましょう。