城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一月二〇日             関根弘興牧師
                 ヨハネ五章三〇節ー四七節

ヨハネの福音書連続説教16
   「聖書の証言」

30 「わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。41 わたしは人からの栄誉は受けません。42 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。43 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

 今日は、5章の最後の段落を読みました。
 この5章は、イエス様がベテスダの池に行って、三十八年もの間、病に伏せっていた人を癒された、という出来事から始まっています。イエス様がこの病人に「床を取り上げて歩け」と言われると、彼は、なんと、自分の床を取り上げて歩き出したのです。ところが、それを見たユダヤ人たちが彼を非難し始めました。「今日は、安息日なのだから、床を取り上げてはいけない」というのです。「安息日には、どんな仕事もしてはならない。床を取り上げて運ぶのは、運搬という仕事をすることだ。けしからん」というわけですね。
 しかし、前回お話ししましたように、「安息日を守りなさい」という戒めは、本来は、神様への礼拝と休息のために備えられたものです。ですから、三十八年もの間病んでいた人が健康を回復し、起き上がって、神殿に行って礼拝することが出来るようになったということは、律法に違反するどころか、安息日の精神にもっともふさわしいものでした。
 ところが、ユダヤ人たちは、「仕事をしてはいけない」という言葉だけにこだわり、その背後にある神様の心を忘れてしまっていたわけです。そして、彼らは、癒された人を責めただけでなく、その人をお癒しになったイエス様に対しても「安息日を破る不届きな奴だ」と攻撃をし始めたのです。
 このユダヤ人たちとは、当時の宗教指導者や律法を厳格に守っていたパリサイ派の人たちだと思いますが、イエス様は、彼らの攻撃に対して、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」とお答えになりました。すると、ユダヤ人たちは、ますます激しく怒り出し、イエス様を殺そうと考えるようになりました。
 しかし、イエス様は、さらに続けてこう言われました。「父がなさることは何でも、子も同様に行うのです」と。イエス様は、「私は、すべて、父なる神様と同じことをする。違うことはいっさいしない」とおっしゃたのです。また、さらに、ユダヤ人たちがあっけにとられてしまうようなことを言われました。ご自分が、「いのち」を与えることができ、正しい「さばき」を行う権威を持ち、神様と同じように敬われるべき救い主だ、と主張されたのです。イエス様によって、私たちは永遠のいのちを与えられ、神様と共に生きることができます。また、正しいさばきを行ってくださるイエス様がおられるので、私たちは安心して、与えられた人生を思い切って自分らしく生きることができます。そして、そのイエス様をまことの救い主としてあがめ、敬い、礼拝していくことによって、幸いな人生を送ることができるのです。
 これは、信じる私たちにとっては、福音ですね。しかし、ユダヤ人たちは、そのイエス様の言葉の一つ一つに憤慨しました。イエス様が「わたしは神と同等の存在で、神のわざを行う、まことの救い主である」と主張されたわけですから、ユダヤ人の宗教家たちとしては、当然、「何を根拠にそんなことを言うのか!」「お前が救い主だという証拠があるのか!」と猛反発するわけです。それに対して、イエス様がお答えになったのが、今日の箇所です。

 イエス様は、まず、31節ー32節でこう言われました。「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。」
 ユダヤの社会では、一つの物事が確証されるためには、少なくとも二人の証人がいなければならないことになっていました。それは、旧約聖書の申命記19章15節にこう書かれているからです。「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」ただ自分ひとりで主張しているだけでは、確かなものとは認められない、ふたり以上の証言が必要である、というのがユダヤの社会の掟なのです。
 このヨハネの福音書を読み始めたとき、大切なキーワードがいくつかあるというお話をしましたが、その一つは「証言=あかし」という言葉です。
 ある人が誰であるかを証明するためには、証言が必要です。たとえば、私が牧師であるということを証明するためには、教会のメンバーである皆さんが「確かに、この人は城山教会の牧師です」と証言してくださればいいわけですね。また、他のいろいろな立場の人たちも証言をしてくださるなら、私が牧師であることは、ますます確実なものとなることでしょう。
 ですから、イエス様に対してどのような証言が積み重ねられるかによって、イエス様が救い主であるかないかの証明を得ることが出来るということなんです。そこで、今日の箇所では、イエス様が救い主であることを証明する五つの証言が示されているのです。

1 バプテスマのヨハネの証言

まず、33節に「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました」と書かれていますね。このヨハネというのは、この福音書を書いたヨハネではなくて、バプテスマのヨハネのことです。
 皆さんは、バプテスマのヨハネの証言を覚えていますか。彼は、イエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証言しましたね。ヨハネのもとには、大勢の人たちが悔い改めの洗礼を受けるためにやってきました。ヨハネは、荒れ地に道を備える預言者、つまり、救い主をお迎えする準備をする預言者として働いたのです。そのヨハネが、「イエス様こそ私たちを罪から救ってくださる救い主である」と証言したわけです。
 イエス様は、このヨハネに関して、「彼は燃えて輝くともしびである」と言われました。どういうことでしょうか? それは、ヨハネが、人々を救い主のもとに導くために、道を照らすともしびとしての役割を果たしたということです。しかし、ともしびは、最初から自分の内に光があったわけではありません。点火されてはじめて輝くことができるのです。また、ともしびはいつかは消えていくわけですね。ともしびは、明るいので、多くの人が明るいともしびのもとに集まって来ましたが、大切なのは、ともしびそのものではなく、そのともしびが照らし、示している救い主なのです。人々は、ヨハネを預言者と認めていたわけですから、そのヨハネが指し示すイエス様を救い主と認めていいはずでした。しかし、ヨハネのともしびをしばらくの間楽しむだけで、イエス様を救い主として認めない人々がたくさんいたのです。
 そこで、イエス様は、さらにすぐれた証言をお示しになりました。

2 イエス様のみわざによる証言

 36節にこう書かれています。 「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」
イエス様は、「わたしの行っているわざを見れば、わたしがまことの救い主であることがわかるはずだ」と言われたのです。
これは、考えれば、すぐにわかることです。たとえば、ここにすばらしいギターリストがいたとしましょう。この人がギターリストであることを証明するためにはどうしますか?誰かがその人のことを証言することも出来ますね。でも、もっと確かな証明は、その人がギターを弾いてみせればいいわけです。
 ヨハネの福音書には、イエス様の七つのみわざが記録されています。水をぶどう酒に変えることから始まり、人々を癒したり、わずかなパンとさかなで五千人以上の人を養ったり、死んだラザロをよみがえらせたりと、人にはとてもできないみわざを行われました。ヨハネは、そのようなイエス様の奇跡的なみわざを記録する時に、「しるし」という言葉を用いています。それは、イエス様の行われるみわざは、イエス様がまことの救い主であることを示す証拠であり、救い主がどのような働きをなさるのかを象徴的に示すしるしなのだということなのです。
さらに、イエス様は、十字架にかかり、三日目に復活されました。そして、五百人以上の弟子たちの前に現れ、ご自分が復活したことをお示しになりました。この十字架と復活の事実こそ、イエス様がまことの救い主であることに太鼓判を押すものなのです。

3 父なる神の証言

次に、37節を見ると、「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます」とあります。
先ほどお話ししたバプテスマのヨハネの証言は、実際に聞くことができますね。また、イエス様が行われるみわざは、見ることができます。しかし、父なる神ご自身が証言しているということは、どのようにして知ることが出来るのでしょう。目に見えませんし、耳で聞くこともできませんね。
 37節途中から38節で、イエス様はこう言っておられます。「あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」 イエス様は、「父の証言があるのだけれど、あなたがたがわたしを信じないので、父の証言がわからないのだ」と言われたのです。どういうことでしょうか。
 少し考えてください。私が「私は、牧師の関根弘興です」と自己紹介した時に、疑い深い人がいて、「あれはうそだ。私は信じない。牧師のような顔をしていないではないか」と言い張ったとしましょう。そこで、関根弘興の父親を呼んできて証言させるとしたらどうでしょうか。父親を呼んできても、肝心の関根弘興の言うことを信じないのであれば、どうして父親の言葉を信じるでしょうか。
 イエス様は、「あなたがたが心を開いてわたしを信頼し、受け入れるなら、父ご自身がわたしについて証言しておられることがわかる」と言われるのです。信仰、信頼がなければ、どんなにいろいろな証言が差し出されても、その人の心には届かないのですね。どんなに美しい景色も、かたくなに見ることを拒み、目を閉じてしまうなら、見ることは出来ないのと同じです。 ヘブル人への手紙4章7節に、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」という言葉が記されています。神様の声が語りかけられていても、心をかたくなにしているなら、聞くことができないのです。

4 聖書の証言

イエス様は、39節で「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」と言われました。心を開いて聖書を読めば、イエス様こそいのちを与える救い主であることがわかるはずだというのです。
 ここでイエス様が、「聖書」と言っておられるのは、旧約聖書のことです。当時のユダヤの宗教家たちは、聖書は神様の言葉であり、聖書の中に永遠のいのちを受ける教えが書かれていることを信じて、一生懸命聖書を読み、研究していました。その聖書自体が、イエス様が救い主であることを証言しているのに、彼らは、それが理解できなかったというのです。40節でイエス様は「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」と嘆いておられますね。なぜでしょうか。イエス様は、彼らにこう言われました。「あなたがたのうちには、神の愛がありません」「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません」「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」と。彼らは、聖書に書かれている言葉を暗記するほど読んではいましたが、神様の愛の本質を理解せず、自分を誇り、自分の罪を自覚せず、自分に救い主が必要であることがわかっていませんでした。それで、イエス様を受け入れようとせず、聖書が実はイエス様について証言しているのに、それを悟ることができなかったのです。
 私たちも、聖書を読むときに注意しなければならないことがあります。もし、聖書をただいろいろな人生訓が書かれた書物、戒めが書かれた書物のように読んだり、自分の教養を増すために読むとするなら、聖書の本質をとらえることができなくなってしまうでしょう。
 特に、旧約聖書を読むと、いろいろ戸惑うことがありますね。神様がなんだかとても厳しい方のように感じたり、たくさんの戒めを守るなんてとてもできないと思ったり、どこに救いがあるのだろうと考えてしまうことがあるかもしれません。
 でも、イエス様は、「その聖書がわたしについて証言しているのです」と言われましたね。聖書は、イエス様について何を証言しているのでしょうか。イエス様こそ、罪の赦しといのちを与えてくださる救い主だということを証言しているのです。これは、決して動かしてはいけない軸なんです。このイエス様の救いのみわざを通して読むときに、聖書を本当に理解することができるのです。
 たとえば、創世記の3章でアダムとエバが罪を犯してしまったとき、神様は、エバを誘惑した蛇にこう仰せられました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と。女の子孫が蛇の頭を踏み砕くというのですが、この「女の子孫」とは、イエス様のことを示しています。イエス様がサタンを踏み砕くというのですね。 また、エジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルの民が荒野の旅をしている時、神様の命令によって移動式の神殿(「会見の天幕」「幕屋」と呼ばれています)が作られ、そこで、人の罪を贖うために動物のいけにえが捧げられるようになりましたが、これは、イエス様ご自身が私たちの罪を贖ういけにえとなって十字架についてくださることをあらかじめ示す予型でした。そのほかにも、旧約聖書には、イエス様を暗示する物事や出来事がたくさん書かれているのです。
 また、旧約聖書にはたくさんの戒めが書かれていますね。神様がその戒めをお与えになったのは、人がどんなに頑張っても神様の戒めを完全に守ることなどできないことを教えるためでした。神様の戒めが与えられ、それが守れないことがわかって、人は初めて自分が罪人であることを自覚するのです。人は、どんなに努力しても自分の罪を自分で清めることはできません。そして、罪の報酬である死によって滅びるしかないのです。しかし、だからこそ、救い主が必要であることを知ることができるのです。
 そして、神様は、救い主を遣わすと約束してくださいました。旧約聖書の預言者たちは、その救い主がどのような方であり、どのようにして来られるか、どのようなみわざを行われるかを預言しました。そして、その旧約聖書に書かれている通りに、イエス様が来てくださいました。新約聖書は、その救い主イエス様の救いのみわざを記録しています。
 ですから、私たちは聖書を読む時、創世記から黙示録までの66巻すべての中心がイエス様であることを覚えながら読んでいくことが大切です。そのとき「聖書がわたしについて証言している」と言われたイエス様の言葉が本当であることを知ることができるのです。

5 モーセの証言

 そして、最後の46節ー47節で、イエス様は、当時のユダヤの宗教家たちが腰を抜かすようなことをお語りになりました。「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
 モーセは、神様の命令によって、イスラエルをエジプトから脱出させ、様々な奇跡を行い、神様と直接語り合い、十戒を授かった人物です。ですから、人々はモーセに最高の敬意を払っていました。旧約聖書の中の創世記から申命記までの五書は、このモーセが編纂したと考えられており、モーセの五書と呼ばれたり、律法と呼ばれています。イエス様は、このモーセの五書がイエス様について証言していると言われたわけです。
 そのモーセが申命記18章15節でこう語っています。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」
 イエス様は、そのモーセが書いた「私のようなひとりの預言者」とは、ご自分のことだと言われたのです。それは、モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出したように、イエス様は、すべての人を罪の奴隷の状態から救い出してくださるということなのです。
 モーセは「彼に聞き従わなければならない」と命令しました。つまり、イエス様に聞き従うことは、モーセが人々に求めていたことであり、モーセの願いそのものであるというわけです。ですから、逆に、イエス様に従わないことは、モーセを信じないと言うことだ、というわけです。当時の人々の驚いた顔が想像できますね。当時の宗教家はモーセを尊敬し、モーセを通して与えられた律法を守ることに熱心でした。しかし、そのモーセがイエス様を指し示して「彼に聞き従いなさい」と言っているというのですから。
 しかし、これは、人ごとではありません。私たちはどうでしょうか? 私たちは、イエス様が救い主であることをさらに強く確信して聞き従っていきたいですね。
 イエス様には、ヨハネの証言がありました。ご自身のみわざという証拠もありました。そして、父なる神様が、聖書自体が、そして、モーセ自身が証言しているというのです。
 聖書はおもしろい書物です。専門的な知識があればすべてがわかる、という書物ではありません。当時の宗教家たちは、専門的な知識は豊富に持っていたはずです。律法のすべてを暗記するほど、彼らはモーセの五書に慣れ親しんでいたはずです。そして、聖書はいのちを与える書物であることも知っていたのです。しかし、そのいのちを与えるために人として来てくださったイエス様のもとに来ようとせず、認めようともしませんでした。
 しかし、もし、私たちが、専門的な知識がなくても、イエス様を救い主として信頼し生きるとき、聖書から何が見えてくるのでしょう。いのちを与えてくださるお方がイエス様であるということを聖書の証言から見い出していくことができるのです。そして、見い出した私たちが、今度は、イエス様の証人として、与えられた場所で「燃えて輝くともしび」となって歩んでいく者となっていくのです。