城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一月二七日             関根弘興牧師
                  ヨハネ六章一節ー一五節

ヨハネの福音書連続説教17
   「十二かごがいっぱいに」

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(新改訳聖書)

今日から六章に入りました。今日の出来事は、四つの福音書すべてに記されている大切なものです。このヨハネの福音書の中では、この出来事は、イエス様の行われた第四番目のしるしとして記録されています。
 この出来事は、どこで起こったのでしょうか。1節に書かれているように、「テベリヤの湖の向こう岸」です。このテベリヤの湖というのは、初めは「ゲネサレの湖」と呼ばれていましたが、後に「ガリラヤの湖」と呼ばれるようになり、その後、紀元二十二年に湖の西岸にテベリヤという町ができてからは、「テベリヤの湖」と呼ばれるようになりました。ですから、「ガリラヤ湖」「ゲネサレ湖」「テベリヤ湖」という名称は、どれも同じ湖を指しているのです。
 この出来事が起こった時期は、いつかといいますと、4節に、「過越が間近になっていた」とわざわざ記されています。ですから、青草が絨毯のように敷き詰められた春の季節であったことがわかります。
 さて、イエス様は、ガリラヤ湖を見渡す小高い丘に登り、弟子たちとともに座られました。弟子たちは、町の人混みから離れて湖の向こう岸までやってきたので、ゆっくりイエス様の話が聞けると思っていたでしょう。しかし、その思いは叶いませんでした。なぜなら、大勢の群衆が自分たちの方に向かって来たからです。「その数はおよそ五千人であった」と書かれていますが、これは、男性だけの数ですから、女、子どもを入れると一万人以上いたかもしれませんね。イエス様は、この大群衆をご覧になって、ピリポに、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と言われました。イエス様は、「ご自分では、しようとしていることを知っておられた」、つまり、ご自分で人々に食べ物を与えようとしておられたのに、「ピリポをためしてこう言われた」というのです。
 すると、ピリポは、とても合理的な答えをしました。「イエス様、めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りませんよ。」たいへん説得力がありますね。ピリポの答えは、「どうみても、この人たち全員に食料を与えるなんて無理ですよ」というものでした。
 ピリポにしてみれば、この景色の良い丘で、イエス様と仲間とでゆっくりと話が出来ると思ったのに、大勢の群衆が押し寄せてきたわけですから、せっかくの休息を邪魔されたような感覚だったのかもしれません。「どうぜ、この人たちは、イエス様が行うしるしや不思議を見たいだけの群衆じゃないか。俺たちのように真剣に従っているわけではなく、ただの烏合の衆にすぎないではないか。なんでこんな連中の食事の世話までしなければならないんだ。」きっと、そんなふうに思ったにちがいありません。
 また、この群衆にパンを与えるとなれば、二百デナリ(二百日分の労賃に相当する金額)でも足りません。そんなにたくさんのお金はありませんし、もしあったとしても、わざわざパンを買って群衆に与えるなど、無駄使いになるだけで意味がない、とピリポは考えたのではないでしょうか。「なぜ私たちがこの人たちに食べ物を与えなければならないのか。群衆は勝手について来たのだから、自分たちで勝手に食べ物をさがせばいいじゃないか。いや、むしろ、彼らのほうから食べ物や贈り物を持って来てもいいはずだ。それが礼儀というものだろう・・・」、ピリポの脳裏には、そのような思いが錯綜したはずです。
 その時でした。弟子のひとりのアンデレがイエス様のもとに来て、弁当を持った少年のことを報告しました。「イエス様、少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。」大麦のパン五つと干した小魚二匹というのは、当時のもっとも粗末な食事でした。皆さん、あなたなら、その弁当を見て、イエス様に報告しますか。こんなものは何にもならない、と無視したのではないでしょうか。アンデレ自身、イエス様に報告した後、何となくバツが悪くなったのか、「しかし、こんなわずかなものでは、何の役にもたちませんよね」と言っています。
 しかし、この一人の少年の弁当が差し出され時、イエス様のすばらしいみわざが行われたのです。イエス様は、そのパンを裂き、そこにいた五千人以上の人たちに分け与えられました。人々は十分に食べ、そして、余ったパン切れを集めると、十二のかごが一杯になったというのです。
 今日、私たちは、この出来事から、四つの大切なことを心に留めていきましょう。

1 イエス様の方法
 
 まず、少年が差し出した弁当のことを考えてみましょう。この少年は、自分の弁当を、イエス様に食べていただこうと思って、弟子たちに差し出したのではないかと思います。まさか、アンデレが少年の弁当を無理矢理奪い取るはずはありませんからね。粗末な弁当です。しかし、少年にとっては大切なものでした。それを差し出せば、自分は空腹のまま我慢しなければならないのですから。しかし、このわずかなものが差し出れたときに、イエス様はそれを豊かに用いてくださいました。
 もちろん、イエス様は、何も無いところからでも、あらゆるものを生み出すことがお出来になります。イエス様は、無から有を生じさせることが出来る方なのです。しかし、イエス様は、私たちが差し出したもの、ささげたものを用いて、すばらしいみわざを行うという方法をとられるのです。私たちが勇気を出して、行動を起こす時、一歩踏み出す時、ささげる時、それがわずかな小さなものであっても、主は用いて、すばらしいみわざを見せてくださいます。
 この少年に大きな信仰があったわけではありません。神の声を聞いて行動したとか、特別な啓示を受けてイエス様の元に行ったというわけでもありません。まして、自分のわずかな弁当が五千人を養うために用いられるなどとは夢にも思わなかったでしょう。ただ、単純に自分の持ってきたものをイエス様に食べていただきたい、と願っただけだったと思います。
皆さん、今日、私たちは大切なことを学びましょう。私たちが単純に主を愛する思いを持って行動するなら、主は、その行動の一つ一つを心に留め、そのことを通して、ご自分の働きを進めてくださるのです。主のみわざは、主を愛する心をもってささげられる小さなもの、小さな行為を通して進められていくのです。それがどんなに小さな些細な粗末なものであっても、主はそれを用いてくださるのです。

2 イエス様の与えるパン

 5節ー6節を見ると、イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と言われましたが、それは、ピリポを試して言われたのだ、と書かれていますね。
 以前、4章で、イエス様がサマリヤに行かれた時、弟子たちがわざわざ町に行ってパンを買ってきたのに、イエス様は、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と言われたことがありました。すると、弟子たちは、「誰かがイエス様にパンを差し上げたのだろうか?」と思ったのですが、イエス様は、「わたしを遣わした父なる神のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」と言われましたね。 弟子たちは、すでにそういうイエス様のことばを聞いていたのです。ですから、イエス様が「この人々にどのようにしてパンを食べさせようか」と問われる時には、何か単に即物的な計算で答えを出す以上の何かがあると考えることが求められていたのです。しかし、ピリポは、「二百デナリのお金でパンを買っても足りません。無理です!」と答えることしか出来ませんでした。しかし、だからといって、だれがピリポを責めることができるでしょう。私たちもきっと、ピリポと同じ答えをするのではないかと思います。常識的に考えればピリポの答えは、もっともですからね。
 しかし、イエス様は、まったく違うことを考えておられました。それは、父なる神のみこころを行うことです。父なる神のみこころとは何でしょうか。それは、人々にいのちを与えることです。イエス様の言われる「パン」とは、イエス様がお与えになるいのちを意味していました。一人一人が尽きることのないいのちのパンの養いを受けること、それが、イエス様のみこころなのです。この後の6章35節で、イエス様は、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と語っておられます。イエス様ご自身が「いのちのパン」だと言われるのです。ですから、今日の箇所の、パンを一人一人に分け与え、養い、満腹にしてくださったという出来事は、イエス様が十字架と復活によって「救い」のみわざを成し遂げてくださり、イエス様のもとに来る一人一人にいのちを豊かに与えてくださる、という大きな恵みのみわざを象徴的に示すしるしなのです。
 11節を見ると、イエス様は、パンを取り、感謝をささげてから、人々に分け与えられたと書かれていますね。この表現は、どこかで聞いたことがありませんか。そう、最後の晩餐の時にイエス様は同じようにして、弟子たちにパンを分け与えられましたね。聖餐式の時にいつも読む第一コリント11章23節ー24節にこう書かれています。「主イエスは、渡される夜、パンを取り、
感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」
 最後の晩餐の時、弟子たちはイエス様が分け与えてくださった同じパンを共に食しました。今日の箇所で人々はイエス様が分け与えてくださったパンを食べました。私たちも、聖餐式の時に共にパンを食します。それは、イエス様という「いのちのパン」を共に食し、イエス様のいのちに満たされることを象徴的に表しているのです。
 大麦のパンは、大変粗末なパンです。イエス様も世の富や名声とは縁のない方として来られました。しかし、大麦のパンが群衆の一人一人を満腹にしてなお余ったように、イエス様は人々に豊かないのち、あふれるばかりのいのちを与えることのできる方なのです。そして、私たちは、いのちのパンであるイエス様を共に食する者として、つまり、イエス様を受け入れ、信じ、いのちを与えられた者として集っているのです。その一人一人にイエス様の恵みが行き渡っているのです。

3 十二かごいっぱいのパン

さて、分け与えられたパンによって人々は満腹になりました。彼らは欲しいだけ、十分食べることができたのです。そして、余ったパン切れを集めると、なんと十二のかごがいっぱいになりました。
 当時、人々が宴会をするときには、必ず余り物を取っておく習慣があったそうです。それは、貧しい人々に施したり、宴会の給仕をしたしもべたちに振る舞うためでした。十二のかごがいっぱいになったということは、この時、給仕の仕事をしていた十二弟子を養うパンも、ちゃんといっぱいあったということですね。イエス様のために労する人々のために、イエス様は十分な配慮をし、恵みを与えてくださいます。弟子たちもまた、イエス様の恵みによって養われている者たちなのだということですね。
 最初にお話ししましたように、弟子たちの中には、「なんで、こんな群衆を養わなければならないのだ。この人たちは、ただ興味半分に来ているだけではないか」という批判の心があったと思います。そこには、「自分たちは、イエス様の弟子で特別だ。群衆とは違うのだ!」というおごりのような自負もあったでしょう。私たちも、時々、信仰者としての優越感というようなものを持ってしまうことがあります。「自分は、こんなにやっている。あの人たちとは違う・・・」というような思いが、時として、人々をさばく心へと変化していくことがあるのです。
 しかし、皆さん、十二かごいっぱいのパンが余ったということは、どういうことでしょう。給仕した弟子たちも、イエス様の恵みによって養われていく必要がある者だということです。皆さん、主のために生きるということは、主の養いを受けながら生きることでもあるのです。
 
4 群衆の反応

最後に14節ー15節を見ましょう。こう書かれています。「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」
人々は、パンの奇跡を行われたイエス様に驚いて、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました。この「世に来られるはずの預言者」というのは、どういうことかといいますと、前回も学びましたが、申命記18章15節でモーセがこう語っています。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」と。つまり、モーセは、「将来、わたしのような預言者が起こされる」と預言したのです。そこで、人々は、長い間、モーセのような預言者が現れるのを待ち望んでいました。
モーセは、イエスラエルの民をエジプトの奴隷生活から導き出した人物です。イスラエルの民がモーセに導かれて荒野を旅している間、神様は、毎日マナというパンを天から降らせて養ってくださいました。それは、ユダヤ人なら誰もが知っている有名な出来事です。
 今日のイエス様のパンの奇跡は、過越祭りが間近にせまった時期に起こりましたが、過越祭りは、まさにモーセによってイスラエルの民がエジプトから脱出できたことを記念する祭りですから、人々は、普段よりも余計にモーセのことを考えていたことでしょう。そして、目の前で、わずかなパンが尽きることなく増え続け、自分たちを養ってくれるという奇跡が起こったのです。ですから、「このイエスこそ、私たちが待ち望んでいたモーセのような預言者だ」と言い始めたのです。モーセがエジプトの支配からイスラエルを救ったように、今度は、このイエスがローマの支配から私たちを救い出してくれるだろう、と思ったのでしょう。そこで、イエス様を自分たちの王として担ごうとしたわけです。
 確かに、イエス様こそ、モーセが預言した方でした。人々を罪の奴隷状態から救い出して、いのちのパンで養ってくださる方です。ですから、人々が、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言ったのは、それ自体は、素晴らしい信仰の告白であるともいえます。しかし、イエス様は、彼らから離れていってしまわれたのです。なぜでしょうか。
 群衆がイエス様を熱心に支持したのは、イエス様が自分たちにとって都合のいい方に見えたからでした。自分たちの望んでいるものを与えてくださり、病をいやしてくださり、おまけに、パンも食べさせてくださる方としてしか見ていないのです。打算に基づく忠誠心です。これは、群衆の特徴です。困ったときには、イエス様に助けを求めますが、ひとたび、イエス様から自分の欲望を捨てることや行いを改めることや犠牲を払うことや十字架を負うことなどを求められると、すぐにイエス様から離れていってしまうのです。自分の思い描く理想の実現のために利用できる限りにおいてだけ従おうとするのです。ですから、自分に都合が悪くなれば、去ってしまうのですね。
 彼らは、イエス様を自分の夢や目的のためにただ利用しようとしました。群衆が求めていたのは、イスラエルをローマの支配から解放し、強国にしてくれる指導者でした。イエス様のみこころを受け入れて、それに従っていこうとするのではなく、自分勝手な願いや計画を実現するためにイエス様の力を利用しようとしたのです。イエス様が王になれば楽に暮らせる、イエスが養ってくれるんだから、という思いもあったでしょう。イエス様は、彼らの心をご存じでした。そこで、山に退かれたのです。皆さん、是非、知っておいてください。イエス様をただ自己目的のために利用しようとするなら、イエス様は離れ退いていかれるのです。

 さて、今日私たちは大切なことを学びました。繰り返しますが、少年のパンはイエス様の手に握られたとき、五千人を養うものになりました。お互いの人生はどうでしょう。私は、あのパンと魚、それは一人一人の姿であると思うのです。一人一人がイエス様の御手に握られたとき、人々を満たすために用いられていくのです。
 詩篇37篇5節に「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」と書かれています。「委ねる」とは、一体どういうことでしょう。
 皆さん、飛行機に乗ったら、墜落するかしないかを心配するのは、私たちのすることではありません。パイロットが考えることです。なぜなら操縦桿を握っているのはパイロットだからです。墜落の心配は、私たちではなく、機長がすればいいことです。私たちは、飛行機が揺れて酔わないかどうかを心配すればいいのです。手術のとき、手術台に乗ったら、手術は医者に委ねる以外にありませんね。メスの切れ味を心配するのは、私たちではなく執刀医です。それなのに、私たちは、不必要な思い患いをあまりにもたくさん抱え込んでいるかも知れませんね。
大陸横断鉄道に一人の少年が乗っていました。周りの大人たちは、口々に言いました。「大丈夫?心配じゃない?一人で寂しくない?」すると、この少年は、にこっと笑って答えました。「うん、大丈夫だよ。だって、この列車を運転しているのは僕のパパだから。」
 私たちが主のみ手に委ねて生きていくとき、そこに主のみわざが進められていくのです。イエス様ご自身が一人一人に豊かないのちを与えるいのちのパンとして来てくださいました。私たちは、このイエス様を信頼し、イエス様によって養われていることを感謝しつつ歩んでいきましょう。