城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年二月三日             関根弘興牧師
                ヨハネ六章一六節ー二一節

ヨハネの福音書連続説教18
  「わたしだ。恐れることはない」

16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。(新改訳聖書)

 前回は、イエス様が少年の差し出した五つのパンと二匹の魚を用いて五千人を養われた、という出来事について学びました。 イエス様がおられたガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上に、群衆が集まっていました。ちょうど春に行われる過越祭の時期でした。イエス様が感謝をささげてからパンを裂き、群衆に配ると、みな満腹になりました。そして、余ったパン切れを集めると、なんと十二のかごがいっぱいになったのです。
 すると、群衆は騒ぎ始めました。「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエス様を王様にしようとして無理矢理連れて行こうとしたのです。
 彼らは、旧約聖書のモーセとイエス様を重ね合わせて見ていたのです。モーセは、昔、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から脱出させ、荒野の旅を導いた人物です。荒野でパンがないときに、モーセが神様に祈ると、神様は、イスラエルの民にマナと呼ばれるパンを毎日与えてくださいました。
 過越祭は、そのモーセの時代の出来事を記念するお祭りですから、群衆は、先祖にマナというパンを与えたモーセと、今の過越祭の時期にパンを与えてくださったイエス様を重ね合わせて、「このイエスこそ、私たちが待ち望んでいたモーセのような預言者だ」と言い始めたわけですね。
しかし、イエス様は、その熱狂した群衆から離れ、山に退かれてしまわれました。群衆が自分たちに都合のよい救い主、ローマの圧政から解放してくれる救い主を期待していたからです。それは、イエス様の思いとは違っていました。
 では、弟子たちはどうだったでしょう。弟子たちも、イエス様が王になればよいと願っていたのではないかと思います。「イエス様が王になれば、俺たちは大臣になれる」と思って、うきうきしていたかもしれません。
 ところが、今日の箇所の並行記事がマルコの福音書にあるのですが、その6章45節には、イエスは弟子たちを「強いて」舟に乗り込ませた、と書かれているのです。それは、弟子たちを群衆の誤った熱狂から遠ざけるためでした。
そこで、弟子たちは、すでに夕方になっていましたが、岸辺に降り、舟を漕ぎ出して向こう岸に向かったのです。すると、すぐに強風が吹き始め、舟は、四、五キロメートルほどこぎ出したところで立ち往生してしまいました。ガリラヤ湖は、楕円形で幅が約十一キロ、長さが二十キロほどの湖です。幅が約十一キロですから、四、五キロ漕ぎ出したところというのは、湖の真ん中あたりということになりますね。
 私たちは、こう考えることがありませんか。「イエス様の言葉に従っていれば、嵐なんかに会わないさ。すべてが順調に進むに違いない」と。しかし、そう考えてしまと、何か困難や苦しみという嵐がやってくると、信仰がぐらついてしまうことになります。「イエス様を信頼してきたのに、どうしてこんなことが起こるんだ」「イエス様に従ったのにどうしてうまくいかないんだ。こんなことなら、信じても信じてなくても関係ないじゃないか」と思ってしまうのです。しかし、それは、私たちが信仰生活について間違ったイメージを持っているせいなのです。
 イエス様を信頼して生活していても、いつもすべてが順調にいくなどということは決してありません。しばしば嵐が起こります。大切なのは、嵐が起こらないことではなく、嵐の中で、今も生きて働かれる主の現実を味わい知ることなんです。
 さて、弟子たちの中には、ガリラヤ湖の漁師出身者もいましたが、嵐の中で舟を漕ぎあぐねていました。すると、なんとイエス様が湖の上を歩いて来られたのです。そして、彼らはイエス様を舟に迎え入れ、ほどなくして目的地に着いたというわけです。この出来事は、ヨハネの福音書の中では「第五のしるし」として記録されています。では、このしるしは私たちにいったい何を示し、イエス様がどのような方であると教えているのでしょうか。

 イエス様にパンを与えられて満腹した群衆は、「この方こそ、モーセと同じように私たちを導く偉大な預言者に違いない」と思いました。
 しかし、その直後に記されている今日の湖での出来事は、イエス様がモーセをはるかに超えた存在であることをはっきりと示しているのです。
 有名な出来事なので、皆さんもよくご存じでしょうが、モーセによってエジプトから脱出したイスラエルの民をエジプトの軍勢が追いかけてきました。ところが、イスラエルの民の目の前には海が広がっていました。前は海、後ろにはエジプト軍が迫り、絶体絶命のピンチです。その時、神様がモーセにこう言われました。「あなたの杖を海の上に差し伸ばせ」と。モーセが杖を差し伸ばすと、海の水が分かれ、イスラエルの民は、真ん中のかわいた地を通って向こう岸に行くことができたのです。すばらしい奇跡が行われたわけです。でも、この時、海を二つに分けたのは、モーセではありませんね。神様ご自身が海を分けてくださったのです。モーセには水を分ける力はありませんでした。神様がみわざをおこなってくださったのです。
 一方、イエス様は、今日の箇所で、湖の上を歩いてこられ、「わたしだ。恐れることはない」と言われました。実は、この湖を歩くこと、また、「わたしだ。恐れることはない」という言葉は、イエス様がモーセを超えた方、いや、神そのものなる方であるということを示しているのです。
これは、旧約聖書に親しんでいるユダヤ人たちにとっては容易に理解できることでした。

1 湖を歩く方

 まず、湖を歩くことについてですが、詩篇77篇16節、19節にこう記されています。「神よ。水はあなたを見たのです。水はあなたを見て、わななきました。わたつみもまた、震え上がりました。」「あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません。」
これはどういう意味かといいますと、人にはもぐることもできない、歩くこともできない、支配することもできない大水を支配することの出来るお方は神様おひとりだけだ、ということです。
 「神よ。水はあなたを見たのです。水はあなたを見て、わななきました。わたつみもまた、震え上がりました」とありますが、この「わたつみ」というのは、海の神様ですね。ギリシャの世界では、海の神様はポセイドンと呼ばれています。それから、この「わたつみ」という言葉は、別の訳では、「深淵」「淵」とも訳されています。「深淵」というのは、暗闇を象徴していますね。ですから、「わたつみが震え上がる」というのは、神様に敵対するあらゆる力、闇が震え上がるということです。
 それから、詩篇29篇3節には、「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます」と書かれています。神様は、人々が恐れている悪魔的な力や暗闇をその足で踏み歩いてしまうお方であるということです。
 イエス様が水の上を歩かれたという今回の出来事は、イエス様が、神なる方であり、私たちの人生に襲うあらゆる闇の力、束縛を解き、解放してくださる方、救い主であることを教えているのです。

2 「わたしだ」と言われる方

 それから、イエス様は、弟子たちに「わたしだ」と言われました。実は、この「わたしだ」という言葉は、「わたしは神である」ということを表す言葉なのです。
 この「わたしだ」というのは、ギリシャ語では「エゴー・エイミ」という言葉です。「エゴー」とは、「わたし」という意味です。「エイミ」とは、「何々である」という意味で、英語のbe動詞にあたる言葉です。ですから、訳せば「わたしだ」「わたしである」ということになるのですが、この表現は、特別な意味を持っていました。
 出エジプト3章にこんな記事が出てきます。
 神様が、荒野で羊を飼っていたモーセに燃える柴の中から呼びかけて、「あなたは、これからエジプトに行って、イスラエルの民をエジプトから脱出させなさい」とお命じになりました。しかし、モーセは、エジプトのイスラエル人たちが自分を受け入れてくれるのか、自分の言うことを信用してくれるのか、いろいろなことが心配なわけです。そこで、モーセは、神様にこう尋ねました。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」すると、神様はモーセにこう言われました。「わたしは、『わたしはある』という者である」と。英語ですと「I am who I am」と訳される言葉です。「わたしは有りて有る者である」というような意味の言葉です。これは、神様が永遠の存在者なる方であるということを示しているのです。
 この「わたしは、『わたしはある』という者である」と言う神様の言葉をギリシャ語に訳すと「エゴー・エイミ」、つまり、イエス様が「わたしだ」と言われた言葉になるわけです。つまり、イエス様は、「わたしこそモーセに現れた神と同じ存在なのだ」と宣言なさっているわけです。イエス様は、「有りて有る者」、永遠の存在者、神なる方なのです。
 ところで、今日の箇所の並行記事がマタイの福音書14章に記されています。マタイの福音書では、今日の出来事がもっと詳しく書かれています。弟子たちが舟を漕ぎあぐねていると、イエス様が湖の上を歩いて来られたので、弟子達は「幽霊が出た!」と恐れたのですが、イエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。すると、ペテロがこう言うのです。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と。イエス様が「来なさい」と言われると、ペテロは舟から出て、水の上をイエス様のほうに歩いて行くのですが、風を見て、こわくなり、沈みかけてしまいました。ペテロが「主よ。助けてください」と叫ぶと、イエス様はすぐに手を伸ばして、ペテロを助け、ともに舟に乗り移られると風がやんだ、と書かれています。そのとき、弟子たちは、「確かにあなたは神の子です」と告白してイエス様を礼拝しました。つまり、マタイ福音書では、弟子たちが「あなたは神の子です」という信仰の告白をしたという結論でまとめているわけです。
 一方、ヨハネ福音書では、イエス様ご自身が「わたしこそ神である」という宣言をなさったことに重点を置く書き方をしています。イエス様ご自身がご自分が神であることを宣言なさったということを、ヨハネははっきり記録したかったのでしょう。
 
3 「恐れることはない」と言われる方

 それから、イエス様は、弟子たちに「恐れることはない」と言われましたね。なぜでしょうか。
 それは、イエス様がすべてを支配する権威を持っておられる方だからです。荒れ狂う水を踏みつけて歩むことのできる方だからです。
 また、イエス様は、永遠の存在者、有りて有る者なる方です。どのような困難や問題の中にあっても、私たちをしっかりと支えることのできるお方です。ですから、私たちは、いつもこの方に信頼して、勇気を得ることができるのです。人生に暗闇が襲ってきたとき、イエス様は「わたしは世の光です」とおっしゃいます。私たちが飢え渇きを感じるとき、「わたしはいのちのパンです」「わたしを信じる者に生ける水を与えます」と語られるのです。また、私たちが道に迷うときには、「わたしが道である」と言われます。死の恐れがあるとき、「わたしはよみがえりです。いのちです」と言ってくださるのです。私たちがどんな状態にあっても、「わたしだ」「永遠の存在者であるわたしがいる」と宣言してくださるのです。
 そのイエス様が「恐れることはない」と言われるなら、私たちはどうして恐れの中に留まっている必要があるでしょうか? 弟子たちは、どうしたでしょう。21節にあるように、イエス様を喜んで舟に迎えました。そして、「舟はほどなく目的の地に着いた」と書かれていますね。
 ヨハネの福音書は、他の福音書と違って、今回の出来事をとてもシンプルに描いています。ヨハネは、この出来事を記録するにあたって、水の上を歩くという奇跡そのものよりも、別の二つのことを強調したかったのではないかと思われます。一つは、イエス様が「わたしは神である」ということをはっきり言われたこと、もう一つは、そのイエス様を喜んで迎え入れた弟子たちの舟がほどなく無事に目的の地に着いたということです。
 詩篇107篇29節ー30節には、こう書かれています。「主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」
私たちは、置かれている状況はみな違いますが、主なるイエス様が共にいてくださいます。人生には嵐が吹き荒れ、漕げども漕げどもまったく進んでいかないような状況が襲うことがあります。「イエス様を信頼し生きてきたのに、なんで思うようにいかないのだ」と叫びたくなるような思いを持つことがあります。「イエス様に従ってきたのに、どうして嵐が起こるのだろう?」と疑問に感じてしまうこともあるでしょう。
 しかし、そのようなときに、イエス様は、その嵐を踏みつけ、「わたしだ。恐れることはない」と言われます。「わたしこそ神なる存在だ。だから、大丈夫だ」と語りかけてくださるのです。
 ですから、弟子たちがイエス様を喜んで舟にお迎えしたように、私たちもこのイエス様を自分の問題のまっただ中に、生活の中に、置かれている状況の中にお迎えしましょう。「イエス様、ここにあなたをお迎えします」と告白していくのです。
 そうすれば、イエス様は、来てくださり、私たちを港に導いてくださいます。そのことを信頼し、今週も歩んでいきましょう。