城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年二月一〇日             関根弘興牧師
                ヨハネ六章二二節ー四〇節

ヨハネの福音書連続説教19
   「神のわざとは」

22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。23 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。24 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。31 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(新改訳聖書)

この6章は、イエス様がガリラヤ湖を見渡す場所で五つのパンと二匹の魚をもって五千人の人たちを養ったという出来事から始まりましたね。満腹した群衆は、「この方こそ来るべき預言者だ」と叫び、イエス様を王様にしようと無理矢理連れて行こうとしました。しかし、イエス様は、その熱狂した群衆から退かれ、弟子たちを強いて舟に乗り込ませて向こう岸へ渡らせました。すでに夕方になっていましたが、弟子たちは、岸辺から舟を漕ぎ出したのです。すると、四、五キロ漕ぎ出たところで強風が吹き荒れ、舟は立ち往生してしまいました。そこに、なんと、イエス様が湖の上を歩いて来られたのです。そして、「わたしだ。恐れることはない」と弟子たちに語りかけられました。彼らは、イエス様を舟にお迎えし、ほどなくして目的地に着いた、というわけです。これが、ヨハネの福音書の中の「第五のしるし」として記されている出来事で、どんなことを示すしるしであるかということを先週お話ししましたね。
この出来事が示しているのは、イエス様こそ、人がもぐることも、歩くことも、支配することもできない大水を支配することの出来るお方、つまり、神と同等のお方だということです。また、イエス様が、「わたしだ」と言われたのは、単に「わたしですよ」という意味ではなく、わたしこそ「有りて有る者」、「永遠なる存在者」なのだという宣言がそこにあるのだということを学びました。このイエス様が「恐れることはない」と言われるなら、恐れなくていいのです。このイエス様を弟子たちは喜んで舟に迎え入れました。すると、ほどなく、舟は無事に目的地に着いたのです。
 
 さて、今日の箇所には、弟子たちの舟が着いた先で、また群衆がやってきて、彼らにイエス様がお話しされたことが記されています。
 この群衆の中には、あの五つのパンによって養われるという経験した人たちもいました。イエス様を追いかけてきたわけですね。また、舟が着いたその地域の人たちも集まってきたようです。この人たちの質問に対して、イエス様が26節から58節までお話しをしておられるのですが、25節を見ると、イエス様が湖のほとりで話されているように書かれていますが、59節には、「これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである」と記されています。ですから、この26節から58節までのイエス様の一連の説教は、湖のほとりでも、道すがらでも、会堂でもお語りになったものを、この福音書を書いたヨハネがここに一つにまとめて記したのだと思います。

さて、今日はこのイエス様の説教の途中の40節までを読みました。このの箇所から、イエス様が語られた大切な三つのことを心にとめていきましょう。

1 「永遠のいのちに至る食物」

 イエス様のもとにやってきた人々に、イエス様は26節でこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と。
イエス様は、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではない」と言われたのです。どういうことでしょう。彼らは、五つのパンで五千人を養うという奇跡をその目で見、味わい、経験したのです。しかし、彼らは、その奇跡が何を示す「しるし」であるかを悟ることができませんでした。イエス様が本当はどのような方なのか、何の為に来られたのかということを理解していなかったのです。
 そして、イエス様は続けて「あなたがたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹したからだ」と言われましたね。
 もちろん、群衆の中には、イエス様についていけば、食事の心配がないと考えた人もいたと思います。しかし、イエス様がここで言われているのは、食事のことだけではありませんでした。群衆は、イエス様が、彼らの理想を実現してくれる方だ、と思っていました。自分たちをローマの圧政から救い出し、ユダヤ王国を再建してくれる人物だとしか見ていなかったのです。イエス様は、そのように自分たちの自己実現のためだけにイエス様を求めている姿は、「パンを食べて満腹した」という一時的な幸せを求めているのと同じだと指摘なさったのです。
しかし、誤解しないでくださいね。私たちにとって、食事は大切です。イエス様が教えてくださった主の祈りの中にも、ちゃんと「日ごとの糧を今日も与えたまえ」という祈りが含まれていますね。日ごとの糧は大切です。しかし、人は、食べるという目的のために生きているわけではありませんね。
 私の友人が高校時代に「何のために生きているのだろう」「生きる意味は何だろう」と疑問を感じ、先生に相談に行ったことがありました。その質問に先生も困ってしまい、「昼休みにもう一度来い。考えておくから」と言うので、昼休みにまた行くと、先生が「おい、生きる意味はわかったぞ。生きる意味は、これだ!」と言って差し出しのは弁当でした。先生曰く、「生きることは、食うことだ」というのです。確かに食べなければ生きていけませんが、人が生きるということは、そんなことではありませんね。
 イエス様は、公の活動を始める前に、四十日四十夜の断食をなさいました。すると、試みる者がやってきて、こう言うのです。「イエスよ。おまえが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」すると、イエス様は、旧約聖書の言葉を引用してこう答えられました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」と。人が生きるためには、物資的な必要が満たされることも大切ですが、それ以上に霊的な必要を満たされることが大切なんですね。
 マタイの福音書6章31節ー33節には、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・ あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と書かれています。まず第一に求めるべきものを求めていけば、必要なものは備えられていくのです。
 ですから、イエス様は、群衆に対して27節で「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」と言われました。イエス様は、「いつまでも残るもの、続くもの、保たれるものために、働き、生きていきなさい。これを基本として歩んで行きなさい」と言われているのです。

2 「神様のわざ」

すると、これを聞いた民は、「それでは、なくならない食物のために働くとは、どんな行いをすればいいのだろう」と考えるわけです。当時のユダヤの人たちが、「なくならない食物のために働け」という言葉を聞いたら、すぐに、「それは、旧約聖書に記されているモーセの律法を一生懸命守ることだ」と考えたはずです。そこで、彼らは、28節で「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか」とイエス様に尋ねたのです。
 ところで、ここで、彼らが言っている「神のわざ」という言葉は、複数形で書かれています。つまり、彼らは、「私たちは、神様のもろもろのわざ、神様が私たちに求めていると考えられているたくさんの戒めや善行を成し遂げるために、何をし続けたらいいのでしょう」という質問をしたわけです。
ルカの福音書18章に、ひとりの立派な役人がイエス様のもとにやって来たことが書かれています。彼は、「イエス様、永遠のいのちを自分のものとして受けるには、何をしたらいいのですか?」と尋ねました。まさに、今回の群衆が「神のわざを行うために何をすべきでしょうか?」と尋ねた質問と同じですね。イエス様は、この役人に何と答えられたでしょうか。「戒めを守りなさい」と言われたのです。「モーセを通して与えられた律法を守りなさい」ということですね。すると、彼は、「そのようなことは小さいときから守っております」と自信ありげに答えました。自分は、ちゃんと律法を守っていると思っていたのですね。しかし、イエス様は、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そして、わたしについて来なさい」と言われたのです。「あなたのしていることは、神様の律法の基準に達していない。あなたは、自分自身を満足させることを優先してる。あなたは、自分の行いで永遠のいのちを得ようとしても、出来ないのだ。必ず挫折してしまう。あなたに必要なのは、わたしの言葉に従い、わたしに従ってくることなのだ」と言われたのです。すると彼は、これを聞いて、非常に悲しみ、イエス様の元を離れてしまいました。人は、自分の行いで、なくならない食物、永遠のいのちを得ることは決してできないのです。
 それでは、私たちは何をすべきなのでしょうか。29節でイエスはこうお答えになりました。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」と。ここでは、「神のわざ」は、単数形で書かれています。つまり、イエス様は、「神様が求めておられることは、あれをしなさい、これをしなさい、ということではなく、ただひとつだけだ。それは、神が遣わした者であるわたしを信じることなのだ」と言われたのです。そして、27節にあるように、そのイエス様ご自身が私たちに永遠のいのちを与えてくださるのです。
つまりイエス様は、こう言われているわけです。「いいですか。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それは、あなたがたが、神が遣わした者であるわたしを信じて生きるということなんです。必要なのは、それだけなんですよ。そうすれば、わたしがその永遠のいのちに至る食物をあなたがたに与えます」と。
 人は、目先のことだけに捕らわれて生きるのではなく、永遠の視野を持って生きることが大切なのですね。そして、そのキーワードは、「イエス様を信じる」ということだというわけです。
それでは、「神が遣わした者を信じる」、つまり、「イエス様を信じる」とはどういうことでしょうか。
 「信じる」というのは、理性を捨てて盲目的に「信じます」「信じます」と唱えることではありません。一時的な熱狂でもありません。
 ここで言われている「信じる」と言う言葉には、「エイス」という前置詞がついています。この「エイス」は、英語だと「into」という言葉です。「〜の中に」という意味ですね。つまり、「イエス様を信じる」とは、イエス様の中に浸り、入り込んでいくことです。つまり、「私は、決してひとりではない。いつもイエス様と一緒であり、イエス様の中に生き、守られ、支えられ、赦され、愛されながら歩んでいるのだ」と信頼して生活することなのです。そして、それは、一生涯のことです。神様が私たちに求めておられるたった一つのこと、それは、一生涯を通して、イエス様を信頼し、イエス様の恵みの中で生きていくことなんですね。
 そして、繰り返しますが、その信仰の生涯を与えてくださるのもイエス様ご自身なのです。

3 「いのちのパン」

 しかし、イエス様のまわりにいた人たちは、このことがよく理解できませんでした。それに、目の前にいるお方が本当に信じるに値する方なのかどうか、わからなかったのです。
 そこで、彼らはイエス様にこんな質問をしました。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
 彼らの中には、五千人の給食の出来事を経験した人もいたはずです。それなのに、相変わらず「しるしをみせてほしい」と言ってきたわけです。「あなたが自分が神に遣わされた者だと言っているが、それを信じろというなら、証拠を見せなさい」というのですね。
 昔、イスラエルの民がモーセに導かれてエジプトから脱出し、荒野を旅する間、神様は毎朝マナというパンを降らせて養ってくださいました。ユダヤ人たちは、救い主が来るときには、再びマナが天から降ると考えていましたので、「あなたが救い主であるなら、もう一度マナを降らせてください」と求めたのです。
 イエス様は、なんと答えられたでしょうか。「モーセが神様に祈って与えられたマナは、肉体の空腹を満たすだけのパンに過ぎません。それを食べても、また空腹になります。しかし、神様は、天からまことのパンを与えてくださいます。そのパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものです。そして、わたしこそ、そのいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と言われたのです。
 先ほど、イエス様を信じることが神のわざだということをお話ししましたが、今度は、イエス様は、「わたしがいのちのパンです」とはっきり宣言なさったのです。このいのちのパンを食すること、つまり、イエス様を救い主として信じることによって、永遠のいのちを得ることができるというのです。
 そして、イエス様を信じる人々には、すばらしい約束が与えられています。
 第一は、35節にあるように、「決して飢えることも渇くこともない」と言う約束です。
 第二に、37節に「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、また、39節に「わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく」と書かれているように、イエス様は、イエス様を信じる人々を決して捨てることも失うこともない、と約束しておられます。私たちは、挫折や試練にあったときや、思うように行かないとき、自分には信仰が足りないとか、自分は駄目だとか、こんな私からはイエス様も離れていってしまうのではないかと落ち込んだり心配することがあります。でも、イエス様は、「決して捨てない」「ひとりも失われることがない」と約束してくださっているのです。ですから、安心して歩んでいきましょう。
 第三は、39節、40節にあるように、「ひとりひとりを終わりの日によみがえらせる」という約束です。私たちの生涯は、死に打ち勝つことのできる生涯です。そして、終わりの日によみがえるということは、今も、永遠のいのち、つまり、神様のいのちを持って歩んでいるということでもあるのです。イエス様にあって人生は、永久保証付きの人生なんです。

 皆さん、私たちは食物を得るために働きます。労します。これが現実です。しかし、それだけで生きているわけではありません。朽ちることのない、いのちのパンであるイエス様の救いをいただき、失われることのない人生を歩んでいるのです。
 パウロは、第一コリント13章13節で「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と語っていますね。いつまでも残るものを人生の土台として歩んでいけるように、イエス様が一人一人のもとに来てくださったのです。今週もこのイエス様を信頼して歩んでいきましょう。