城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年二月一七日             関根弘興牧師
                ヨハネ六章四一節ー五一節

ヨハネの福音書連続説教20
  「つぶやくのはやめよう」

  41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。48 わたしはいのちのパンです。49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(新改訳聖書)

この6章は、ガリラヤ湖を見渡す丘の上で、イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人を養ったという出来事から始まりましたね。満腹した群衆は、「この方こそ来るべき預言者だ」と叫び、イエス様を王様にしようと、無理矢理連れて行こうとしました。しかし、イエス様は、熱狂した群衆から退かれ、弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、向こう岸へ行かせたのです。
 向こう岸に着くとすぐに、また大勢の群衆がイエス様のもとに集まってきました。イエス様は、彼らに、「なくなる食物のためにではなく、なくならない食物のために働きなさい」と言われました。すると彼らは、「それは、神のわざを行いなさいということですね。それでは、神のわざを行うために、私たちは何をすべきでしょうか」と尋ねました。するとイエス様は、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」とお答えになりました。イエス様は、彼らにこう言われたのです。「いいですか。なくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。永遠のいのちに至る食物のために働くというのは、あなたがたが、神が遣わした者、つまり、わたしを信じて生きることです。それだけが大切なんです。なぜなら、わたしこそ神様もとから下って来た、いのちのパンであり、わたしを信じれば、あなた方は永遠のいのちをもつことができるからです」と言われたのです。
 では、イエス様を信じるとは、どういうことでしょうか。それは、イエス様の中に浸ること、入り込んでいくことです。つまり、私は、決してひとりではない、いつもイエス様と一緒であり、イエス様の中に生き、守られ、支えら、赦され、愛され、歩んでいるのだ、ということを信頼して生きることです。神様が私たち一人一人に求めておられるたったひとつのこと、それは、私たちが一生涯を通してイエス様を信頼し、イエス様の恵みの中で生きていくことなんですね。
さて、今日は、その続きです。イエス様の言葉を聞いた人々の反応はどうだったでしょうか。

1 人々のつぶやき

 41節に書かれているように、イエス様が「わたしは天から下ってきたパンです」と言われると、人々はつぶやき始めました。なぜでしょうか? イエス様の言葉を受け入れることができなかったからです。彼らは、こう言いました。「イエスは、ガリラヤの田舎で育った大工のせがれではないか。あのヨセフとマリヤの子だということはわかっている。我々と同じ人間のくせに、『わたしは天から下って来た』なんて、よくも言えるものだ。なんておかしなことを言う奴だ」と憤慨し、つぶやき始めたのです。
 群衆とは、すぐに心変わりしてしまう人たちですね。パンを食べて満腹した時には「イエスを王様しよう」と熱狂していたのに、今度は、自分たちが理解できないことを聞いた途端につぶやき始めたわけです。
 彼らは、自分たちの知識、理解の範囲でしか物事を見ようとしません。また、お互いの評価や、世間がどう言っているのかということだけで物事の判断をしてしまうような人たちです。
私たちも同じような傾向がありますね。「イエス様ですか。私にはわからないから、信じません」と言う人もいますね。でも、もし「自分にわかることしか信じない」と言って生活するなら、どうでしょう。私たちには実際わからないことがたくさんありますね。わからないことを信じないで生きていこうとしたら、とても生活出来なくなるでしょう。「つぶやき」と「つまずき」が毎日のように押し寄せてくると思います。
 イエス様は、私たちがわかりきることのできない大いなる方です。しかし、だから「信じない」のではなく、だからこそ「信頼」していくことが大切なのです。
 「つぶやき」は、「自分に理解することが出来ないから」という理由で起こるのではありません。「つぶやき」は、実は、「信頼にたるお方を信頼しない」ということから、出てくるのです。「つぶやき」からは、良いものは何も生まれません。つぶやいても人生には何のプラスにもなりません。それどころか、「つぶやき」は、私たちの人生にもまわりの人々の人生にもダメージを与えていくことになるのです。ですから、イエス様は「互いにつぶやくのはやめなさい」と言われたのです。
 旧約聖書を読むと、イスラエルの民も、つぶやいてばかりいたことがわかります。
 イスラエルの民がエジプトの奴隷生活で苦しんでいたとき、神様はモーセを遣わし、様々な奇跡を行って、エジプトから脱出させてくださいました。そして、約束の地に向かう荒野の旅が始まったのですが、イスラエルの民は、神様の素晴らしい奇跡をいくつも体験したにもかかわらず、ちょっと困難なことがあると、すぐにつぶやき始めるのです。「水がない」「肉が食べられない」「こんなことなら、エジプトにいたほうがましだった」「エジプトにいたら、きょうりもすいかもにらもたまねぎもニンニクも食べられたのに」「神様は何でこんな荒野に導かれたんだ。俺たちが荒野でのたれ死にすればいいと思っているのか」というような具合です。彼らは、つぶやいてばかりいました。それにもかかわらず、神様は荒野で水を与え、マナというパンを降らせ、昼は雲の柱、夜は火の柱によって行くべき方向を示してくださいました。そして、「わたしを信頼して進むなら、わたしがいつもあなたがたと共にいて、あなたがたに必要なものを与え、あなたがたを必ず約束の地に導き入れる」と約束してくださいました。それなのに、彼らのつぶやきは止むことはありませんでした。神様の恵みを感謝するよりも、つぶやくことのほうが多かったのです。
 なんだか、今日の箇所も似ていますね。イエス様は、パンを与えたり、病人をいやしたり、すばらしいみわざを行っておられました。そして、信じる者にいのちを与えると約束しておられました。ところが、人々は、「イエスはヨセフとマリヤの子供じゃないか!この人の言うことなど信じられない」と言ってつぶやき始めたのです。
 私たちは、理屈で納得できないとか、ちょっと自分の気に入らないことがあると、ただつぶやくばかりで信じようとしないことがあります。しかし、それはイエス様の求めている姿ではありません。イエス様は、「互いにつぶやくのはやめなさい」と言われました。私たちがつぶやきいているかぎり、そこには何の解決もないからです。私たちは、つぶやくのをやめて、イエスに信頼していくことが必要です。
 それでは、人は、どのようにしてイエス様を信頼することができるようになるのでしょうか。

2 引き寄せてくださる父

 44節にこう書かれています。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」イエス様は、「父なる神様が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできないのだ」と言われるのです。
 ここで使われている「引き寄せる」という言葉は、「重いもの、抵抗のあるものを引っ張って来る」という意味があります。魚のいっぱい入った網を苦労して引き上げたり、囚人を無理やり牢屋に引きずっていく時に使われる言葉だそうです。
 この辺りでも、夕方になると、犬の散歩している人をよく見かけます。首にリードをつけて散歩していますが、ときどき頑固な犬がいますね。小さい犬なのに、足を踏ん張って、引っ張られてもそっちに行こうとしないのです。そこで、飼い主が一生懸命強く無理矢理に引っ張って連れていくことになります。「引き寄せる」というのは、そのような意味の言葉です。
 私たちは、自分から進んで神様のもとに行くことができない無力で頑固な者です。自分の力だけでは、とてもイエス様を信じることなどできないと思いませんか。しかし、神様は、信じようとしない、頑固で腰の重い私たちを、キリスト・イエスのもとに「引き寄せて」くださる方だというのです。
 すると、すぐにこう思いますね。「でも、私は、抵抗しているのに無理矢理引っ張られて連れてこられたなんて感覚はありませんよ。嫌なのに無理矢理洗礼を受けさせられたわけでもありませんよ」と。
 もちろん、神様は嫌がる者を無理やり引っ張ってくるような方ではありません。では、神様は、どのような方法で引き寄せてくださるのでしょうか。
 45節にこう書かれています。「 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」
 つまり、神様は、腰が重く、かたくなで足を踏ん張って抵抗しているような一人一人に「教え」「聞かせ」「学ばせ」て、心を変えてくださり、引き寄せてくださるということなのです。神様は私たちにみことばを与えてくださいました。そして、そのみことばを通して、つまり、聖書を通して、私たちをイエス様のもとに導いてくださるのです。
 皆さん、人は、何か魅力があるものに引き寄せられますね。自分の問題の解決があると思えば、そこに引き寄せられていきます。解決してくださる方のすばらしさを知れば知るほど、さらに深く引き寄せられていきますね。神様が一人一人をイエス様のもとに引き寄せてくださるというのは、イエス様のもとに神様の愛、真実、赦し、いのち、恵みがあふれているからこそ引き寄せられるということなのです。そして、そのことは、聖書から、教えられ、聞き、学ぶことによって知ることができるのですね。私たちが、聖書を通して、神様の恵み、イエス様の救いのすばらしさを知り続けていく時、さらに強くイエス様のもとに引き寄せられていくのです。
 詩篇34篇8節には、こう書かれています。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。 幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」神様のすばらしさを味わい、見つめなさい、そして、学びなさいというのです。
 また、パウロは、ピリピ人への手紙3章7ー8節にこう記しています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」と。
 パウロは、以前は、クリスチャンを迫害していました。しかし、今では「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」と書いているのです。「イエス様を知れば知るほど、聞けば聞くほど、教えられば教えられるほど、イエス様に引きつけられていく。イエス様の恵みの深さ、愛の広さがわかってくる。それは、他のどんなものも比べものにならないほどすばらしいものだ」と告白しているわけです。
また、パウロは、エペソ人への手紙3章17ー19節で、こう記しています。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
「人知を越えたキリストの愛を知ることが出来るように」とパウロは祈っています。私たちは、一生涯、人知を越えたキリストの愛を味わい知り続けていきたいですね。それによって、さらにさらにキリストの恵みの深みに引き寄せられていくことになるからです。
私たちが礼拝を通して、また、それぞれの祈り時、交わりの時、聖書を読むときを通してイエス様のすばらしさを味わっていく時、神様は私たちをキリストの愛の深みに引き寄せてくださるのです。

3 「わたしが与えるパン」

 そして、今日の箇所の最後に、イエス様は大切なことを語られました。48ー51節を見てください。「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
イエス様は、ここで改めて「わたしは天から下って来た、いのちのパンです」と宣言なさいましたが、そのパンについて、51節で「わたしが与えようとするパン」という言い方をしておられます。前回の箇所では、イエス様は、「わたしの父は、あなたがたに天からまことのいのちのパンをお与えになります。そのパンとは、わたしのことです」と言っておられました。「父がパンを与えてくださる」という言い方をなさったのです。しかし、今回の箇所では「わたしがパンを与える」と言われているのです。これは、イエス様が、父なる神様と同じ本質を持った、父なる神様と一体の方であることを示しているのです。 また、46節では、「だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです」と言われました。14章9節では、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言っておられます。つまり、イエス様は神から出た方、つまり、神そのものであられる方であり、だからこそ、イエス様を見れば神様を見たことになるのだというのです。イエス様と父なる神とは一つなのだということです。
ですから、そのイエス様というパンを食べるなら、永遠のいのち、つまり、イエス様ご自身のいのちを持つことができるのです。イエス様は、すべてのものを創造された神様と同質の方ですから、いのちの根源となってくださるお方であり、死を乗り越える力を与えてくださる方なのです。
 私たちがこのことを本当に耳を傾けて聞き、教えられるなら、かたくななこころがとかされてイエス様のもとに引き寄せられていくのです。
 しかし、残念ながら、そこにいた群衆は、イエス様に対して、「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか」と言ってつぶやいたのです。イエス様を、ただ人間的な視点のみで「大工のせがれじゃないか」と見て、教えられようとしない人たちでした。彼らのつぶやきは、人生に何ももたらしません。
 しかし、イエス様がご自分で語られているように、「イエス様こそいのちを与えるパンそのものです」と告白し、信頼し生きていくとき、私たちは、さらに深いキリストの恵みと愛の深みに引き寄せられていくでしょう。今週、私たちはこのキリストの恵みの深みにさらに引き寄せられていく1週間となりますように。