城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年二月二四日             関根弘興牧師
                ヨハネ六章五一節ー七一節

ヨハネの福音書連続説教21
  「だれのところに行きましょう」

51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
  60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」──イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである──65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
  66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。(新改訳聖書)
 

 今日は、6章の最後の部分を読みました。舞台で言うなら、ちょうど一幕が終わったというところでしょう。
 イエス様のもとには大勢の人たちが押し寄せて来ました。どこに行ってもたくさんの人たちが集まって来たのです。その勢いは、イエス様を王にするために連れて行こうとするほどになりました。
 しかし、イエス様のほうはどうでしょう。熱狂した群衆が多く住む地域に御殿を建て、参拝者たちと接したかというと、そうではありませんでした。逆に、弟子たちをその場所から離れさせ、ご自身もひとりで山に退かれたのです。
 しかし、その後もイエス様が行かれる所に群衆は追いかけてきて、イエス様に様々な質問を投げかけました。
 そして、今日の箇所の66節では、熱狂していた群衆が、最後にどのような態度を取ったかという結末が記されています。「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」というのです。この「弟子たち」とは、イエス様が歩まれた途中で、イエス様について来た人たちです。群衆の中には、本当にイエス様の弟子になろうと思ってついて行った人も大勢いたのでしょう。でも、彼らは、結局、イエス様から離れ去って行き、イエスと共に歩くのをやめてしまったのです。
 そこで、今日は、彼らがイエス様と共に歩くことをやめてしまった理由と、また、私たちの歩むべき道について、ご一緒に考えていきたいと思います。

 先週も学びましたように、イエス様は、51節で「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」と言われました。
 すると、そこに集まっていた人たちは、どういう反応を示したでしょうか。「イエスは、ガリラヤの田舎で育った大工のせがれではないか。あのヨセフとマリヤの子だということはわかっている。我々と同じ人間のくせに、『わたしは天から下って来た』なんて、よくも言えるものだ。なんておかしなことを言う奴だ」とつぶやき始めたのです。
 彼らは、自分たちが理解できないことを聞いた途端につぶやき始めたわけです。彼らは、自分たちの知識、理解の範囲でしか物事を見ようとしないのですね。また、お互いの評価や世間の物差しだけで物事の判断をしてしまうような人たちです。ですから、イエス様の様々なみわざを見たにもかかわらず、イエス様が神のもとから来られた方だということを信じることができなかったのです。
そして、イエス様は、さらに、こう話されたのです。それは彼らにはなかなか理解できない言葉となりました。53節-54節で、こう言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
 すると、これを聞いた人たちは、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」とつぶやき、つまずいてしまったというのですね。彼らは、イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければならない」と言われた意味が理解できず、つまずいてしまったのです。


1 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」とは

 「肉を食べる」とか「血を飲む」というのは、とても残忍な行為に思えますね。「人の血を飲む」というのは、相手を大変むごたらしい方法で殺すという意味で使われていた表現です。相手を惨殺して、肉を食べ、血を飲むなどというのは、ユダヤ人でなくても驚いて身を引いてしまうような表現ですね。
 しかも、ユダヤ人にとっては、この言葉はさらに受け入れがたいものでした。なぜなら、旧約聖書の律法の中に、「血は決して食べてはいけない」という戒めがあるからです。彼らは、その戒めを当たり前のように守っていました。ですから、血のしたたる肉は決して食べませんでした。彼らにとっては、血を飲むなどということは、神様の律法に逆らう、とんでもないことだったのです。それで、イエス様の言葉を聞いて「これはひどいことばだ!」と猛反発したわけです。
 彼らは、イエス様の言葉じりだけをとらえ、イエス様がどういう意味で言われたのかをじっくりと聞こうとしませんでした。しかし、今日読んだ箇所をゆっくりと読めば、イエス様が言われた「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」というのが、比喩的な表現であることはすぐにわかります。
 イエス様は、55ー56節で「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」と言っておられますね。
私が何か食べたら、私の胃袋の中にその食べ物がある、というのはわかります。しかし、イエス様は、「わたしを食べる者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」と言われたのです。これでは、どっちが食べたのか、食べられたのかわからないですね。ですから、肉を食べるとか血を飲むというのが比喩的な表現であることはすぐにわかりますね。 イエス様が言われたのは、「わたしを自分のものとして受け入れる人は、わたしと一つになるのだ、わたしの中に浸されるのだ」ということなのです。前回お話ししたように、「イエス様を信じる」というのは、「イエス様の中に入り込んでいく」ということです。イエス様は、そのことを言われたのですね。
 しかし、イエス様は、なぜここで、あえて「肉を食べる」とか「血を飲む」というような残忍な表現をお使いになったのでしょうか。それは、非常にむごたらしい死を暗示する表現ですね。つまり、イエス様は、ここで、ご自分がこれから十字架というむごたらしい死を経験なさること、その十字架上でご自分の肉が裂かれ、血が流されることをあらかじめ予告しておられるのです。
 ところで、今日の箇所には、「食べる」「飲む」という言葉がよく出て来ますが、原文を見ると、51節と53節の「食べる」「飲む」は一回限りで終わる行為を表す形が使われています。「わたしというパンを食べるなら、永遠に生きる」「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはない」とイエス様が言われたのですが、これは、一度イエス様を受け入れ信じれば、永遠のいのちが与えられることを示していますね。
 一方、54節以降に出てくる「食べる」「飲む」という言葉は、原文では、「継続して繰り返し行う」という意味を表す語形が使われています。つまり、「食べる」「飲む」が一回限りで終わるのではなく、継続して繰り返し食べ続け、飲み続ける、という意味なのです。
 私たちには、他人に代わってもらえることと、代わってもらえないことがありますね。仕事なら代わってやってもらうことができますが、食事は代わって食べてもらうことはできませんね。食事は自分で取るしかありません。「忙しいので、わたしの代わりに食べておいてください」なんて頼めませんよね。
 また、私たちは普通、一日に三度食事を取りますが、一週間分食いだめが出来たらいいですね。主婦の人は喜ぶでしょうね。でも、食いだめはできませんね。毎日、食べる必要があります。それと同じように、イエス様は、「あなた自身が、毎日、繰り返し、わたしを食し、飲みなさい」と言われるのです。継続して信頼し生きて行きなさい、ということですね。
この教会では、毎月一回聖餐式を行いますね。聖餐式に使うのは、ただのパンとぶどうジュースですが、しかし、私たちは、この聖餐式を行いながら、イエス様ご自身をいただき、イエス様が十字架で血を流してくださったことによって成就された赦しの恵みをいただくのです。なぜ定期的に繰り返し行うかというと、それは、イエス様が「食べ続けなさい、飲み続けなさい」と言われたからです。
 しかし、もちろん、イエス様は聖餐式に限定して言われたわけではありません。私たちが毎日三度の食事を取るように、毎日、イエス様を信頼し、イエス様の中に浸されていることを覚え、イエス様の恵み、真実、愛を味わっていく、それがイエス様の願っておられることなのです。そして、私たちがそうすることができるように、イエス様は一人一人に永遠のいのちを与えてくださっているのです。
 当時の人々は、まだ十字架の恵みを知りませんから、イエス様の言葉をすぐに十分理解することが出来なかったかもしれません。しかし、目の前のイエス様を救い主として信頼し、受け入れることはできたはずです。実際に、信じて従った人々もいました。しかし、多くの人々が「これはひどいことばだ」と言って去っていってしまったのです。

2 「いのちを与えるのは御霊です」とは

 人々は、イエス様の説教の途中で、「これはひどい言葉だ。聞いていられるか!」と騒ぎ出しました。自分が説教している時に、途中でだれかが大声で「これはひどい言葉だ。聞いていられるか!」と言い出したら、私などはかなり動揺してしまうでしょうね。でも、イエス様の説教ですら「ひどいことばだ」と批判されるのですから、説教者としては、ちょっと慰められますね。
 人々は、説教を聞き、つぶやき、つまずき、「イエスの言葉など聞くに値しない」と結論づけてしまいました。すると、イエス様は、こう言われたのです。「いのちを与えるのは、御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」と。これは、どういう意味でしょうか。
ここで「肉」というのは、自分のせまい理解や知識や経験の範囲のことしか受け入れない姿を意味しています。自分の理解できないことは、信じないという態度です。しかし、私たちには、わからないことがたくさんあります。わからないことの方が多いのです。自分を中心に考えて、自分に合わないものは受け入れない態度を続けていても何の益にもならないのです。
 イエス様は、「いのちを与えるのは、御霊です」と言われました。御霊(聖霊)は、父なる神、子なるイエス・キリストと共に三位一体の神である方です。聖霊が私たちの内に住んでくださるとき、父なる神、子なるキリストも私たちの内に住んでくださるということです。その時、私たちは永遠のいのちを持って生きることができるのです。
 では、聖霊が私たちの内に住んでくださるためには、どうしたらいいのでしょうか。イエス様は、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」と言われました。つまり、イエス様のことばを信頼し、受け入れて生きることが、御霊によって生かされることであり、永遠のいのちに生かされることなのです。ですから聖霊に満たされるとは、イエス様の言葉に満たされていくということでもあるのです。
結局、大切なのは、イエス様という方を信頼し、イエス様のことばを信じ生きていこうとするかどうかということです。イエス様のことばを「ひどいことばだ」と言って受け入れず、去っていった人々は、豊かないのちが差し出されているのに、食しようとはしないで、その恵みに放棄してしまったのです。
 しかし、イエス様のもとにとどまった人々もいました。

3 イエス様に対するあるべき告白

 そこには、イエス様がお選びになった十二弟子もいました。多くの弟子たちが去ってしまい、彼らの心も穏やかではなかったでしょう。そんな彼らに、イエス様は、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と尋ねられたのです。
 すると、シモン・ペテロが答えました。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
 このペテロの告白は、私たちの信仰の告白ともなるものです。詳しく見ていきましょう。

@「主よ」

 ペテロは、イエス様に対してまず、「主よ」と呼びかけています。この「主」というのは、単に「ご主人様」という意味でも使う言葉ですが、ペテロは、続けて「あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」と告白していますから、この「主よ」という言葉も、「イエス様が私の主であり、イエス様こそ崇めるべきお方です」という意味で使ったと理解した方が自然です。
 私たちも、イエス様に対して、「主よ」と告白することから始まります。
 ピリピ人への手紙2章10節ー11節には、こう書かれています。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめすべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
皆さん、「イエス様こそ私の主です」、つまり「私の主人は、自分ではなく、イエス様です。私はイエス様に仕える者です。イエス様に支えられて生きる者です」という告白をしていきましょう。

A「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」

 イエス様は、私たちに永遠のいのちを与えることのできる方です。これはヨハネ福音書のテーマですね。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われました。イエス様ご自身がいのちそのものなるお方です。死を打ち破られたお方です。ですから、私たちは、「イエス様は、永遠のいのちもっておられる方です」と告白するのです。
 私たちは、有限の世界に住んでいます。苦しみ、悲しみ、病いがあります。生きることに自信をなくしてしまうこともあります。しかし、このイエス様は、永遠のいのちを与えてくださる主なのです。

B「あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」

 この「神の聖者」という言葉は、「メシヤ」と同じ意味の表現です。ペテロは、「あなたこそ救い主です」という告白をしているわけです。また、「知っています」という言葉は、単に「知識として知っている」というのではなくて、「体験的に知っている」ということを意味しています。私たちは、イエス様を救い主として信じて生きていくとき、イエス様こそが救い主であることを体験的に味わっていけるのです。
 ですから、ペテロは、「私たちがだれのところに行きましょう。あなたの他にはないではありませんか」と言ったわけです。
多くの人がイエス様のもとを去っていきました。しかし、イエス様を離れて、どこに行ったら本当のいのちがあるでしょうか。どこで罪が赦され、平安が与えられるでしょうか。イエス様のもとにこそ、いのちがあり、いつも共にいて支えてくださる方がいるという孤独からの解放があるのです。イエス様のもとにこそ死を乗り越えた希望があるのです。
 残念ながら、イエス様のもとから離れてしまう人はいます。いろいろなつまずきや、この世の忙しさなど様々なことで去ってしまうのです。しかし、いったい、イエス様の与える救いの約束と匹敵するものを、どこに行って手に入れることが出来るでしょう。
 皆さん、人生につまずくことはあります。だからこそ、イエス様のもとに踏み留まる必要があるのです。信仰を持続すること、信仰の粘り強さをもつことは、とても大切なのです。一生涯、イエス様を食べ続け、飲み続けていきましょう。
今日の箇所では、群衆が去り、弟子たちの多くが去り、さらに、十二弟子のひとりであるユダさえもこれから去っていこうとしていました。しかも去っていくだけでなく、イエス様を裏切ろうとしていたのです。イエス様は、それをすでにご存じでした。イエス様は、ユダを含め、すべての人々を愛しておられますから、そのようにイエス様を離れ裏切る人々の姿を見ることは、イエス様にとって大きな痛みでした。
 しかし、イエス様は、人々に捨てられる痛みも含めて、全ての苦しみを背負って十字架についてくださいました。十字架でイエス様の肉が裂かれ、血が流されました。そして、イエス様は三日目によみがえられました。それは、すべて私たちを救い、永遠のいのちを与えてくださるためだったのです。
 ですから、私たちは、このイエス様を食し続け、飲み続け、イエス様と一体にされた者として、イエス様を心から「わたしの主」とあがめつつ歩んでいきましょう