城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年三月三日              関根弘興牧師
                ヨハネ七章一節ー一三節

ヨハネの福音書連続説教22
  「わたしの時はまだ来ていない」

 1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
  10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。(新改訳聖書)

今日から、7章に入ります。この7章に記されている出来事は、「仮庵の祭り」の時期に起こりました。
 「仮庵の祭り」というのは、ユダヤの三大祭の一つで、ユダヤの暦の第七の月(太陽暦では九〜十月ごろ)に行われます。この祭りは七日間行われますが、人々は祭りの間、木の枝でつくった小屋(仮庵)で生活します。それは、昔、ユダヤ人の先祖がモーセに導かれてエジプトを脱出し、約束の地に向かって荒野を旅する間、テント生活をしていたからです。その荒野の旅の間、神様が守り導いてくださったことを思い起こして感謝をささげるために、仮庵で生活するわけです。また、この祭りは、果物や穀物の収穫を感謝する収穫感謝祭でもありました。 この祭りの時には、エルサレム周辺のユダヤ人はもちろん、外国に住んでいるユダヤ人たちも多く集まる盛大な祭りだったのです。
 ところで、この直前の6章の出来事が起こったのは、「過越の祭り」の頃でした。過越の祭りは、ユダヤ暦の第一の月(太陽暦の三〜四月)ですから、六章と七章の間には半年以上の時が経過しているんですね。その約半年の間、イエス様はガリラヤ各地を巡っておられました。それは、1節に書かれているように、ユダヤ当局がイエス様を殺そうと狙っていたからでした。
さて、今日読んだ箇所には、次のような人々が登場しますね。
 まず、ユダヤ人たちです。ここで言われているユダヤ人とは、当時のユダヤの指導者たちのことです。彼らは、自分たちの教えや戒めや昔からの言い伝えに逆らうイエス様を、なんとかして殺してしまおうと考えていました。
 次に、イエス様の弟たちのことも書かれています。弟たちは、ガリラヤのナザレに住んでいました。彼らは、すでにイエス様のすぐれた言葉を耳にし、イエス様の数々のみわざを目撃していたはずです。しかし、5節に書かれているように、イエス様を信じていませんでした。彼らは、都エルサレムでユダヤ教の権威ある人たちや世の人々がイエス様を救い主であると認めたら、自分も信じよう、という態度だったのです。お墨付きをいただくまでは信じない、という態度ですね。ですから、彼らは、イエス様に「こんな田舎にくすぶっていないで、エルサレムにいって公に自分を示したらいいじゃないか」と言ったわけです。
 それから、群衆です。群衆は、イエス様についてひそひそ話、うわさ話をしていました。ユダヤ人たちを恐れて、自分の意見がはっきり言えないのです。イエス様に近づいていくこともできずに、いつも遠巻きにして、ひそひそとうわさ話をしている人たちでした。
 今日は、これらの登場人物たちとイエス様とのやりとりの中で示されたことを通して、私たちは、自分自身の姿をもう一度見つめ直し、どう生きていったらいいのかということを探っていきたいと思います。

1 神の時と人の時

@「わたしの時はまだ来ていません」

 7章の舞台となる仮庵の祭りでは、最初の日に、旧約聖書のゼカリヤ書14章が朗読されます。どんな内容かといいますと、「主なる方が来られて、もろもろの敵国を打ち負かし、全地の王となられる。そして、エルサレムに回復と平安がもたらされて、人々は、主を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」ということが書かれているのです。
 ですから、ユダヤの人たちは、仮庵の祭りでこのゼカリヤ書14章が朗読されるたびに、「いつの日か、全地の王となる救い主(メシヤ)が来られ、私たちに救いを与えてくださるのだ」と待望していたわけです。
また、なぜイエス様の弟たちがイエス様に「エルサレムで自分を世に現しなさい」と言ったかといいますと、仮庵の祭りこそ、自分が救い主であることを現すのに最もふさわしい時だと考えたからです。そして、もしイエス様がエルサレムでユダヤ当局からお墨付きをもらえたら、弟たちは、非常に安心できるわけです。
 ところが、イエス様は、どうお答えになったのでしょう。「わたしの時はまだ来ていません」と言われたのです。ここで使われている「時」というのは、ギリシャ語の「カイロス」という言葉で、「何かをするのに最もふさわしい時、絶好の機会」という意味です。弟たちは、イエス様が自ら王であると公に発表するには、この仮庵の祭りが最も良い時、相応しい時だと考えました。しかし、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」と言われるのです。
 
A神の時

 聖書は、「時」ということについて、どのように教えているでしょうか。
 伝道者の書3章には、こう記されています。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。・・・・」すべてのことに時があるというのです。そして、11節には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれているのです。
 聖書は、私たちの日常の営みの一つ一つに、神様がお定めになった時があるのだということを教えています。神様は、私たち一人一人のために、一つ一つのことについて、ふさわしい時を用意してくださっているのです。ですから、私たちは、日常生活の歩み中でその時その時を大切にしながら、神様が与えてくださる時の中で生かされているということを覚えつつ歩んでいくのです。

B「あなたがたの時はいつでも来ているのです」

 イエス様は、弟たちに「わたしの時はまだ来ていません」と言われてから、「しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです」と言われました。これは、大変皮肉なことばです。つまり、「あなたがたは、神様の時の中に生きるのではなく、自分の思いつきのまま、自分で勝手に考えた時の中でしか生きていない」と言われたのです。自分勝手な時の中でしか生きていこうとしないのですから、「あなたがたの時はいつでも来ているのです」というわけですね。
そして、イエス様は、続けて7節で「世はあなたがたを憎むことはできません」と言われました。
 聖書の中で「世」と表現される言葉の意味は、大きく分けて三つあります。
 ひとつは、「この世間一般」という意味です。
 もう一つは、「この世に住む一人一人」という意味です。ヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますね。その中で言われている「世」とは、この世界に住む一人一人を指しています。「神様は一人一人を愛された」ということですね。
 そして、第三に、「世」という言葉は、「神様抜きの秩序、神様抜きの世界」という意味で使われることがあります。ヨハネの手紙第一2章15節には、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」とありますね。ここで使われている「世」という言葉は、「神様抜きの秩序、世界」を表しているわけです。
 今日の箇所で、イエス様は「世はあながたがを憎むことはできません」と言われましたが、この「世」というのは、「神様抜きの秩序」という意味の「世」です。神様抜きの世は、当然、神様の時を考えようとはしませんね。神様の思い、みこころは何かも考えません。神様の時を考えず、神様の時に従がわず、自分の思うままの時の中で生きようとする人々に対して、イエス様は、「あなたがたと世は、同じだ。あなたがたは、神様抜きの秩序で動いている世に属する者たちだ」と言われているのです。

C私たちの時

 これは、現代に生きる私たち一人一人にとっても大切なメッセージだと思いませんか。
 今は、何をするにも、便利な時代になりました。いつのまにか自らが時を支配しているかのような錯覚さえ持ってしまいます。すべてに神の時があるという感覚が薄れ、自分が何でも好きな時に好きなようにできるという高慢が生まれてくることもあるでしょう。
 今日、私たちは、生活の一つ一つの出来事の中に神様の時を認めようとしているでしょうか?伝道者の書3章11節の「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という感覚をどこかに置き忘れてしまっていることがありませんか。
 私たちは、一人一人に用意されている神の時があるのだという意識を持って生活しているでしょうか。あまりむずかしく考える必要はありません。「私は、神様の時の中で生かされ、育まれています」「神様、あなたの支えの中で私は生きています」「なすべきこととなすべき時を教えてください」「あなたが用意してくださった時があることを信頼して生きていきます」と告白しながら歩んでいきましょう。
 
Dイエス様の時

 さて、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」と明確にお答えになりましたが、ここで言われた時とは、「イエス様がご自分を救い主として明確に示す時」という意味です。イエス様は、ご自分が救い主であることを示すのに最もふさわしい時は、大勢の人々が集まる華々しい仮庵の祭りの時ではなく、ご自分が最もむごたらしい十字架につく時であるということをはっきりと自覚しておられました。イエス様が私たちの罪を贖うために十字架についてくださり、そして、私たちにいのちを与えるために復活してくださる、それが、イエス様こそまことの救い主であることを示すために、神様がお定めになった時だったのです。その時に向かって、イエス様は進んで行かれたのです。
イエス様は、私たちを救うために定められた神様の時に従って歩んでいかれました。だからこそ、私たちは、罪の赦しといのちを与えられて生きることができるのです。そして、だからこそ、私たちは、神様に生かされ、神様から使命を与えられ、神の時の中で成長させていただいていることを覚えながら歩んでいくのです。

2 ひそひそ話ではなく、信仰の告白を

さて、イエス様は、8節で「わたしはこの祭りには行きません」と言われたのに、実際には、密かにエルサレムに上って行かれましたね。イエス様が「わたしはこの祭りには行きません」と言われたのは、「今はまだ、自分を公にメシヤとして示す時ではない(十字架にかかる時ではない)」という意味でした。
 エルサレムでは、群衆がイエス様に関して様々なひそひそ話をしていました。12節ー13節に、「そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。『良い人だ』と言う者もあり、『違う。群衆を惑わしているのだ』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった」とあります。群衆は、いつも遠巻きにイエス様を見ているのです。そして、「良い人」だと言ったり、「惑わしている」といったり、いろいろと勝手なことを言っているわけです。
 ここで、群衆がイエス様について「ひそひそ話」をしていたと書かれていますが、この「ひそひそ話」というのは、ギリシャ語では「ゴングスモス」という言葉です。口の中でごそごそ言っているような感じですね。「不平」とか「つぶやき」とも訳されます。イエス様に対して、ごそごそと口の中で言っているわけです。なぜなら、ユダヤ当局がイエス様を殺そうと考えていたので、公然と語ると、自分にも火の粉が降りかかってくるかもしれないと恐れていたからです。ですから、イエス様について公然と語る者はひとりもいなかった、というのです。
 しかし、皆さん、この群衆の態度からは、決して信仰は生まれません。先週、学びましたが、イエス様の話された言葉に多くの人がつまずき、離れ去ってしまったときに、ペテロは、はっきりとこう言いましたね。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」と。
 キリスト教は、告白の宗教だと言う人がいます。その通りだと思いますね。告白を大切にするのです。聖書には、告白の大切さについて書かれている箇所がいくつもあります。いくつか読んでみましょう。
ローマ人への手紙10章9-10節 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
 ヘブル人への手紙4章14節「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」
 ヘブル人への手紙10章28節「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
 ピリピ人への手紙2章14節「すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
 私たちは、「ゴングスモス」、こそこそ、ひそひそ話ではなく、「イエス様、あなたは私の主です」と信仰の告白をしながら歩んでいきましょう。