城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年四月七日              関根弘興牧師
               ヨハネ七章三七節ー三九節 ヨハネの福音書連続説教23
  「生ける水の川」

37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
                      (新改訳聖書)

 受難週、そしてイースターと続きましたので、しばらくヨハネの連続説教を中断していましたが、今週からまた始めることにいたしましょう。
 さて、今日は前回の続きで、イエス様が仮庵の祭りの時にエルサレムに行かれ、そこで語られたことが記されています。
 「仮庵の祭り」というのは、ユダヤの三大祭りの一つで、ユダヤ暦の第七の月(太陽暦では九〜十月ごろ)に行われます。七日間に渡って行われるのですが、人々は、祭りの間、木の枝で作った仮庵で過ごすのです。
 この仮庵の祭りには、三つの大きな意味があります。
 第一に、昔、ユダヤ人の先祖がモーセに導かれてエジプトを脱出し、約束の地に向かって荒野を旅しているとき、神様が守り導いてくださったことを覚えて感謝をささげるという大切な意味があります。
 先祖たちは、約束の地にたどり着くまでの約四十年間、荒野で仮庵(テント)の生活をしていたのです。申命記29章5節には、「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった」と書かれています。その神様の荒野での守りを感謝し、今もその同じ守りが一人一人に、また、ユダヤの地にあるように、とこの祭りを行ったわけです。
 第二に、この祭りは、果物や穀物の収穫を感謝する収穫感謝祭の意味も持っていました。地の産物を与えてくださった神様への感謝を表す祭りでもあったのです。
 第三に、この祭りは、水の祭りでもありました。
 昔、エジプトを出て荒野をさまよっていた民が求めたものは何だったでしょうか。もちろん食べ物も求めましたが、まず必要なのは、のどの渇きを癒す水でした。
 民は、エジプトを脱出してから三日目には、もうのどが渇いて、のどが渇いて、皆、文句を言い始めたのです。マラというところに来ると、そこに水がありました。しかし、飲んでみると、苦くてとても飲めたものではありません。民の不満は頂点に達しました。その時、モーセが主に叫ぶと、主が一本の木を示されたので、モーセがその木を水に投げ入れると、水が甘くなって飲めるようなったのです。彼らは水を飲み、また進んでいきました。
 しばらくして、神様は、十二の泉のあるエリムというオアシスに彼らを導いてくださり、彼らは、その水のほとりでしばらく憩いの時を過ごし、疲れを癒すことができました。
 ところが、しばらく旅を続けていくと、彼らはまた「ああ、のどが渇いた!」と文句を言い始めました。そして、レフィディムというところに来たとき、民はモーセに怒りをぶつけたんです。「水がほしい!なんとかしろ!」と。そのとき、神様は、モーセに「杖で岩を打て」と言われました。そして、モーセが杖で岩を打つと、岩から水が流れ出てきたのです。
 このように、神様は、荒野の旅の間、生きていく上で必要な水を与え続けてくださいました。そこで、仮庵の祭りでも、神様に水を求める儀式がおこなわれたのです。
 仮庵の祭りの七日間、毎朝、祭司を先頭にした行列がエルサレムの南東にあるギホンの泉まで下っていきます。祭司が黄金の水差しで泉の水を汲み、皆が「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」というイザヤ書12章3節の言葉を合唱します。それから、この行列は神殿に上り、祭壇の回りを一周してから、祭壇の西の隅に設けてある銀のじょうごのような形の場所に取ってきた水をそそぎ込みます。この水が、祭壇の下の地下に沈んでいって地下の淵に達し、その淵が動いて天から雨が降ると考えられていたのです。そして、祭りの最後の日、第七日目だけは、祭壇の回りを七回巡ることになっていました。
 さあ、その祭りの最後の日、第七日目の大いなる日に、つまり、祭りが一番盛り上がり最高潮に達したときに、イエス様は大声で語られました。それも、祭りの中で水を熱心に求める人々に向かって、こう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」つまり、イエス様は、こう言われたわけです。「皆さんは、熱心に渇きを満たす水を求めてエルサレムにやってきましたね。でも皆さんにお伝えしましょう。渇いている人は、わたしのもとに来て飲みなさい。そうすれば、あなたの心の奥底から生ける水の川が流れ出てくるようになるのだから」と。
 今日は、イエス様が大声で語られたこの言葉について、ご一緒に考えていきましょう。

1 渇いている人への招き

みなさん、水が一番おいしいと感じるときは、どういう時ですか?それは渇いている時です。スポーツの後や、暑くて汗をかいた後は、ほんとうに水はおいしいですね。
 でも、渇きを覚えなければ、水を求めようとはしません。年を取ると、あまり渇きを感じなくなり、脱水症状になりやすいから、こまめに水分を補給してくださいとよく言われますね。水は、体にどうしても必要です。渇きを覚える覚えないにかかわらず必要です。けれども、渇きを覚えないと飲もうとしないのですね。自分が渇いていることを自覚した人だけが、水を求めるのです。
 人生の渇きについても同じことが言えます。人生に渇きを感じている人は、渇きを癒す水を求めています。しかし、のどの渇きなら、水道の蛇口をひねればすみますが、人生の渇きを癒す水はどこにあるのでしょうか。
 ヨハネの福音書4章に、サマリヤの女性がイエス様と出会った記事が書かれています。イエス様は、サマリヤのスカルという場所にあった井戸のかたわらに腰掛けておられました。真っ昼間でしたが、一人の婦人が水を汲みにやって来ました。そして、イエス様との会話が始まるわけですが、イエス様は、この女性にこう言われたのです。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエス様は、この女性の心の中の渇きをご存じでした。人間関係で混乱し、結婚、離婚を繰り返し、ふしだらな女として、周りから白い目で見られているような女性でした。しかし、イエス様と出会って、この女性は、人生の渇きを癒すことのできる方がおられることを知ったのです。
 また、その前の3章では、ニコデモという人物がイエス様に会いに来ましたね。彼は、社会的に見れば、大変立派な人でした。多くの人々に尊敬されていました。しかし、渇きを覚えていました。どういう渇きかといいますと、自分の人生がこれで閉じてしまったら、いったい自分は神の国を見ることができるのだろうか、という永遠的な問題に対する渇きでした。そこで、ニコデモは、プライドを捨てて、イエス様のもとに渇きの癒しを求めてやって来たのです。
 マタイの福音書11章28節で、イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われました。渇きを覚えている人は、わたしのもとに来なさい、と招いておられるのです。
 人は、自分自身を正直に見つめていくとき、自分が疲れていること、自分ではどうすることもできない重荷を負っていることがわかると思います。人生の目的は何か?生きている意味は何か?自分は愛される存在なのか?価値ある存在なのか?自分の心の罪は赦されるのか?正しい方の前に出たとき罰せられるのではないだろか?
 私たちは、人生を正直に見つめていくとき、渇きを覚えます。でも、感謝なことに、イエス様は、だれでも「渇いているなら」わたしのもとに来て飲みなさい、と言われるのです。イエス様が差し出しておられる恵みの福音は、私たちの渇きを癒すことができるのです。

2 飲むことは、信じること

 それでは、「イエス様のもとに行って飲む」とは、どういうことでしょうか。それは、イエス様を信じること、つまり、イエス様を信頼し、イエス様を人生の主として生きるということです。
 ヨハネの福音書では、「イエス様の与える水を飲む」とか、「いのちのパンであるイエス様を食べる」とか、「イエス様のもとに行く」という表現が使われていますが、それはみんな、「イエス様を信頼して生きる」という意味なんですね。
 でも、こう考える人がいます。「うっかり飲んだら、後で、多額の請求書が来るんじゃないか?」と。
 そのことについて、イザヤ55章1節に、とても面白い言葉が出てきます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」と書かれています。「金を払わないで買え」、つまり、「ただで、受け取れ」というのです。
 イエス様は、私たちに、生ける水の代価を要求するようなことはせずに、「渇いている人は、来て飲みなさい」と言われるのです。イエス様の与える救いは、「ただ」だということですね。
 しかし、みなさん、そんなことが本当に可能なのでしょうか。どうして、ただで受け取ることができるのでしょうか。それは、すでに誰かが私たちの代わりに代価を支払ってくれているからなのです。
 マルコの福音書10章45節で、イエス様はこう言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 実は、私たち一人一人が救いを受け取ることができるように、イエス様がすでに代価を支払ってくだった、支払い済みだというのです。しかも、イエス様は、ご自分のいのちを代価として支払ってくださったというのです。私たちが救いをただで受け取ることができるのは、イエス様がすでに私たちのために大きな犠牲を払ってくださっているからなのです。ですから、私たちのすべきことは、ただで受け取って感謝することだけです。信仰に生かされるというのは、自分では到底受けとることのできなかったいのちの水、自分では到底手に入れることのできない救いをただで受け取ることができた、そのことに感謝しながら生きていくことなのです。
 さらに、ローマ人への手紙8章31節ー32節には、こう書いてあります。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
 すばらしいですね。私たちの救いのために御子イエス様さえ与えてくださった神様が、すべてのものを私たちに恵んでくださるというのです。私たちは、その神様に信頼し、いつもみことばのあふれる泉から水を汲みあげていくことができます。イエス様のいのちを懸けた愛と恵みのあふれる泉から救いの水をくみ上げ、潤いのある人生を送っていくことができるのです。

3 生ける水の川

 さて、38節には、「生ける水の川が流れ出るようになる」と書かれていますね。イエス様の与える生ける水は、渇きを癒すだけでなく、常に内側から湧いてきて川のように流れ出てくるようになるという約束です。つまり、イエス様を信じると、内側から生ける水が湧き出てきて、自分だけでなく、まわりの人々も潤すようになっていくというのです。
 ところで、39節に「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」という解説がついています。これは、どういう意味でしょうか。
 先ほど、お話ししたように、私たちはただで救いを受け取ることができるのですが、その救いを完成し、保証するために、イエス様がこれから通らなければならない過程がありました。
 39節に「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」と書かれていますが、イエス様が栄光をお受けになる時とは、いつでしょうか。その答えは、12章23節ー24節にあります。「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受けるその時が来ました。・・・一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』」と書かれています。つまり、イエス様が十字架上で私たちの救い主として、私たちの罪をすべて背負って、私たちの身代わりに死んでくださる、それがイエス様が栄光をお受けになるときだというのです。
 イエス様は、十字架上で死んで葬られ、三日目によみがえり、多くの弟子たちに現れて、こう約束なさいました。「わたしは、まもなく天に昇りますが、わたしの代わりにもう一人の助け主である聖霊を送ります。その聖霊は、いつもあなた方とともにいて、あなたがたに永遠のいのちを与え、助け導き、すべてのことを教えてくれます」と。その後、イエス様は、天に昇っていかれましたが、その十日後に、約束どおり弟子たちに聖霊が注がれました。そして、弟子たちは、聖霊の力を受け、聖霊に導かれて、大胆にイエス様の救いの福音を世界中に宣べ伝えていったのです。それは、使徒の働きに記されています。
今日の箇所では、イエス様が与える生ける水とは、この聖霊のことなのだと説明されています。聖霊は、イエス様を信じる一人一人のうちに住んでくださいます。聖霊は、父なる神、子なるキリストと共に三位一体の方ですから、聖霊が私たちのうちに宿ってくださるということは、三位一体の神様が私たちのうちにいてくださるということです。また、聖霊は、聖書のみことばに光を与え、聖書の約束の言葉を通して私たちを励まし、助け、人生を導いてくださるのです。いのちと愛と恵みに満ちた方がいつも私たちと共にいてくださり、私たちを潤し、そして、私たちの内側から湧き出る水によって周りの人々にも潤いを与えてくださるのです。ですから、私たちは、決して渇くことがないのです。

4 心の奥底から

 イエス様は、祭りの終わりの日に大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
この「心の奥底から」という表現は、「腹の奥底から」とも訳される言葉です。日本語では「腹」という言葉はいろいろな意味に使われますね。「腹黒い」「腹を探る」「腹いせ」「腹を割って」など、いろいろな言い方があります。日本語で「腹」はその人の本心や本質を表す表現ですね。この腹が汚れていると、そこから出てくるのは、汚いもの、腐ったものです。でも、イエス様のすばらしい恵みと救いを受け取るなら、聖霊がその腹の奥底を新しく造り変えてくださるのです。そして、そこから、人を生かし癒す生ける水が流れ出てくるとイエス様は約束してくださいました。

 復活されたイエス様は、今も生きていて、同じように聖書を通して語っておられます。「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と。感謝して、イエス様の恵みをいただきながら、今週も歩んでいきましょう。