城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年四月二一日             関根弘興牧師
                ヨハネ八章一節ー一一節

ヨハネの福音書連続説教25
  「罪なき者が打て」

1 イエスはオリーブ山に行かれた。2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕(新改訳聖書)

前回は、仮庵の祭りの時にイエス様が語られた言葉を聞いて、人々がどのような反応をしたかということについて学びました。群衆の中には、「イエスは、あのモーセのような預言者ではないか」という人や「この方こそキリストではないか」と言う人々もいました。しかし、自分たちこそ聖書を一番よく知っていると思い込んで高慢になっている祭司長やパリサイ人たちは、「イエスが預言者やキリストであるはずがない」と決めつけていましたね。
 今日の箇所には、そのパリサイ人や律法学者たちが、聖書の律法を利用して、イエス様を陥れようとする出来事が記されています。
 ところで、7章53節から8章11節までが括弧にはいっていますね。これはどういう意味かといいますと、ヨハネの福音書の古い写本にはこの部分が入っていない、つまり、この部分は、後から付け足されたということなのです。でも、誤解しないでください。だからといって、これが後から創作された架空の出来事だったということではありません。この出来事が実際にあったことは、弟子たちの間でよく知られていたでしょう。それをヨハネの福音書に付け加えることによって、イエス様がどのような方であるかをさらによく示すことになったわけです。特に、イエス様が行うさばきとはどのようなものであるかについての実例が、この出来事の中に示されているのです。

 さて、今日の出来事は、大変有名です。姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性がイエス様の前に引き立てられてきたという話ですね。
 ユダヤの社会では、特に大きな罪と考えられている罪が三つありました。それは、偶像礼拝、殺人、そして姦淫です。
 この三つの大罪には、ある特徴がありまして、いずれも大切な関係を破壊することにつながっていくものなのです。偶像礼拝は、天地を創造されたまことの神様との関係を破壊しますね。殺人は、人間関係を決定的に破壊し、憎しみを植えつけていきます。そして、姦淫は、夫婦関係を破壊してしまうのです。ですから、聖書は、大切な関係を破壊するこの三つの行為を厳しく戒めているのです。今でもその原則は変わりませんね。
 さて、今日の箇所では、その大罪のひとつである姦淫の罪で捕らえられた女性が連れて来られました。申命記22章22節には、「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない」とあり、姦淫した男女は石打ちで死刑になるよう定められていたのです。
 しかし、実際には、姦淫の罪で死刑になることはほとんどなかったようです。なぜなら、死刑にするためには「姦淫の現場を二人以上の証人が目撃していなければならない」という条件があったからです。そんなことは、あまり起こるものではありませんね。
 もし起こるとしたら、故意に仕組んだ芝居であることが多かったのです。たとえば、夫が妻を嫌になったとします。当時は非常に簡単に離婚ができました。しかし、離婚するときには、妻は自分が持ってきた財産を全部持ち帰っていいことになっていました。そうすると、夫は、離婚はできても財産が減ってしまうことになりますね。そこで、妻を葬り去り財産を全部自分のものにするために、誰かと姦淫させて、その現場に踏み込み、男だけ逃がして妻を死刑にする、ということを仕組むわけです。人間は、いくら立派な法律があっても、それを逆手にとって利用しようとするのですから、まさに罪人ですね。
 今回の箇所に登場するこの女性の姦淫も、はっきりはわかりませんが、たぶん、当時、イエス様にねたみを抱いていた律法学者やパリサイ人たちが仕組んだのではないかと考えられます。なぜなら、6節に「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった」とありますから。
 この女性は、ともかく、現場を二人以上の目撃証人に見られ、男の方は逃げてしまい、自分だけが捕まってしまったわけです。この女性は、どんな気持ちだったでしょうね。騙された怒りや悲しみ、捕らえられ、群衆の前にさらし者にされ、あざけられる屈辱、それに、石で打ち殺されるという恐怖や絶望など、様々な思いを感じていたことでしょう。まるで救いから完全に切り離されているような状態ですね。
 当時は、法律上のいざこざが起こると、ユダヤ教の教師(ラビ)のところに持ち込んで解決してもらうことが一般的でした。そこで、今日の箇所でも、ユダヤの教師(ラビ)のように教えを語っていたイエス様のところに姦淫の女性を連れてきて判定を依頼した、というのが表面上の出来事です。訴える者たちは、イエス様にこう言いました。「律法では、こういう女は石打ちで死刑にすることになっていますが、あなたのお考えはどうですか」と、いかにもイエス様の意見を尊重するかのような口振りです。しかし、実際は、彼らは、6節にあるように、イエス様を告発する理由を得ようとして、わざわざこの女性をイエス様のもとに連れて来たのです。
 彼らの策略は、巧妙なものでした。イエス様がこの女性を「石打ちにしなさい」と答えても「石打ちにしてはならない」と答えても、いずれにしてもイエス様を非難し、告発する口実を得ることができるのです。
 どういうことかといいますと、もしイエス様が「石打ちにしなさい」と答えたら、 彼らは、すぐにこう言うでしょう。「お前は、愛とあわれみを説いて『私は罪人を招くためにきた』などと言っているくせに、この罪を犯した女を裁いて死刑にしろと命じた。言っていることとやっていることが違うじゃないか。お前は決して救い主なんかじゃない」と。つまり、イエス様を「言行不一致のひどい奴だ」と非難することができるのです。それに、当時はローマ政府の支配下にあったので、ローマの許可を得ずに勝手に死刑を宣告するなら、イエス様をローマへの反逆者として訴えることもできたのです。
 それでは、イエス様が「石打ちにしてはならない」と答えた場合はどうでしょう。彼らは、即座にこう言うでしょう。「お前は、神様の律法を守らない不届きな奴だ。そんなお前が救い主であるはずがない」と。
 このように、彼らはイエス様を陥れるために、実に巧妙な罠を仕掛けたのです。そして、そのためにこの女性を利用したのです。もちろん、この女性に非がないかといえば、そんなことはありません。罪の中から抜け出すことができずにいたのですから。しかし、彼らは、自分たちの正しさを主張するために、この女性を単なる道具として利用していました。女性の人格や感情などは、まったく無視していたのです。そして、「イエスよ、この女はどのようにすべきなのか」と問い続けていました。 それに対して、イエス様はどうなさったでしょうか。彼らがしつこく訴え続けている間、イエス様は、身をかがめて、指で地面に何かを書いておられたのです。
 イエス様はいったい何を書いておられたのでしょうか。学者たちがいろいろ研究しているのですが、大変難しいですよね。いくら考えてもわかりませんね。
 でも、想像してみてください。この異常と思える事態の中で、イエス様はただ身をかがめて黙って字を書いておられたのです。イエス様は、自分を陥れようとする彼らをまったく相手になさいませんでした。答えることを拒否し、ただ静かに身をかがめて沈黙をされていただけでした。喧噪の中での沈黙がここにあります。まわりがやいのやいの騒いでいるのです。しかし、イエス様は沈黙されていました。
 マックス・ピカートというドイツの神学者は、「沈黙が常にそばにあるということは、とりもなおさず、ゆるしと愛とがそばにあることを意味している。沈黙はゆるしと愛のための自然な土台にほかならないからだ」と言いました。イエス様の沈黙は、決して無関心のための沈黙ではないのです。
 この女性は、心の中でどう考えたでしょう。想像してみてください。身から出たさびとはいえ、命を失う危機の中にあるのです。「イエス様、あなたが救い主なら、なんとか私を弁護してください。彼らに何か言ってやってください」と願っていたかもしれません。そして、身をかがめて黙っておられるイエス様を見て、絶望を感じていたかもしれません。しかし、イエス様の沈黙は、絶望的な沈黙でなく、赦しと愛の前触れの沈黙でした。
イエス様が十字架への道を歩んでおられた時のことを思い出してください。イエス様は、ご自分がつけられる十字架を背負って、ただ黙々と進んでいかれましたね。人々は、イエス様をひやかし、罵倒しました。「救い主なら自分を救ってみろ!」とののしりました。しかし、イエス様は、ずっと黙ったままでした。そして、長い沈黙の後に十字架上で何と言われたでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という赦しのメッセージを語られたのです。イエス様の沈黙は、窮地に立って何もできないという沈黙ではありません。赦しと愛を宣言するための沈黙なのです。
しかし、私たちは、それが理解できずに、こう叫びたくなることがありますね。「主よ、なぜ黙っておられるのですか」「神よ。沈黙を続けないでください」と。詩篇の中には、そういう叫びがたくさん出てきます。私たちは、窮地に立つと、あせり、早く問題を解決してほしい、早く神様の助けがほしい、と願いますね。それなのに、主の沈黙が続くことがあります。主は、私にまったく関心を持っておられないのではないか、と思ってしまうことがありますね。しかし、知っていただきたいのです。イエス様は、私たちを見捨てることはありません。また、私たちに無関心なのでもありません。
 今日の箇所でも、イエス様は、最初はこの女性にまったく無関心であるかのように黙っておられました。しかし、どのくらいの沈黙が続いたでしょうか、しばらくすると、イエス様は、ひとこと彼らにこう言われたのです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と。そして、また身をかがめて、地面に書いておられました。
 この「罪なき者が打ちなさい」というイエス様のひとことは、ちょうど静かな湖面に石を投じたときの波紋のように広がっていきました。大声を張り上げていた人々が次第に黙り始めたのです。そして、9節には、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き」と記されています。年長者から出て行ったというのは、年を重ねて自分の姿がよくわかるようになっていたということでしょうか。彼らは、イエス様のひとことで、自分を振り返り、良心の呵責を感じたのでしょう。みな、その場から立ち去ってしまったのです。
 もはや残っているのはイエス様おひとりだけです。しかも、イエス様はずっと身をかがめて地面に何かを書いておられるのです。ですから、この女性は、「今がチャンス!」とばかりに逃げようと思えばすぐに逃げることができたはずです。しかし、彼女は、そのままそこにいたのです。
 この女性は、このままどこかに逃げることもできました。しかし、逃げたからと言って、彼女の黒雲に覆われたような人生に解決があるでしょうか。彼女は、イエス様の傍らで、「この方こそ、殺されても仕方のないような私の人生に解決を与えてくださる方だ」と感じていたのでしょう。イエス様に自分の罪の問題を解決していただきたいという願いを持っていたのです。
 その点で、律法学者やパリサイ人たちとこの女性の間には大きな違いがありました。それは、「良心の呵責」と「悔い改め」の違いです。
 律法学者やパリサイ人たちは、イエス様に「罪なき者は打て」と言われたとき、誰もこの女性を打とうとしませんでした。どうしてでしょう。「自分の心を正直に見れば、自分にも罪がある、負い目がある。自分は到底この女を石で打てるような者ではない」とわかったんです。「私にはまったく罪がありません」と誇れる者はひとりもいなかったのです。だからこそ石を持つことができなかったのです。
 ところが、彼らは、その罪の解決のためにイエス様に求めようとはしませんでした。良心の呵責は覚えましたが、その解決を真剣に求めてイエス様のもとに留まろうとはしなかったのです。彼らは、去っていってしまいました。
 一方、この女性はどうでしょう。自分の罪を嫌と言うほど知りました。自覚しました。そして、もう自分は助からないだろうと思ったことでしょう。しかし、罪の解決を求めて、イエス様のもとに留まったのです。
 皆さん、もし聖書にただ道徳や命令だけが書かれているなら、私たちは、良心の呵責を感じて、ただ離れていくしかありません。しかし、聖書は、罪の解決を与えることのできるイエス様がおられることもはっきりと示しているのです。ですから、私たちが、ただ良心の呵責を感じて終わるのではなく、悔い改めて、つまり神様のほうに向きを変えて、イエス様のもとに留まるとき、私たちの罪の問題が解決されていくのです。
 イエス様は、この女性に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない」と。
 「罪なき者が打て」とイエス様は言われました。石をもって打つことのできる方は、いったい誰でしょう。この女性を裁くことのできる方は、いったい誰でしょう。罪のないイエス様だけが、この女性に石を投げつけることがお出来になるのです。 しかし、イエス様は、赦しを宣言なさいました。「わたしもあなたを罪にさだめない」というイエス様のひとことで、この絶望的な女性の人生は回復されたのです。
 人が本当に生かされるためにどうしても必要なのは、イエス様の赦しの宣告なんです。聖書には、「罪から来る報酬は死である」と書かれています。人は皆、罪のために裁かれ罰せられるべき存在です。けれども、イエス様は、私たちひとりひとりの罪を背負って、私たちの代わりに十字架について、いっさいの罰をうけてくださいました。だからこそ、イエス様は、私たちに赦しを宣言することができるのです。私たちを罪に定めることのできる唯一の方が、私たちの罪を背負って自らを罪に定め、十字架についてくださったのです。イエス様の赦しは、ご自分のいのちと引き替えにもたらされるものなのです。
 その赦しを、イエス様は、この女性にも宣言なさいました。そして、続けてこう言われました。「今からは決して罪を犯してはなりません。」イエス様は、この女性に、「元の虚しい生活に戻ることのないように注意して歩んで生きなさい」と言われたのです。
 赦された者の生き方は、もはや、過去に戻る生き方ではありません。前に向かって、イエス様とともに歩んでいくのです。もちろん、困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦し、いつもともにいてくださるイエス様がおられることを覚えて歩んでいきましょう。