城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年四月二八日             関根弘興牧師
               ヨハネ八章一二節ー二〇節

ヨハネの福音書連続説教26
  「世の光なるイエス」

 12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」13 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。15 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(新改訳聖書)

 先週は、姦淫の現場で捕らえられた女性についての記事を読みました。その記事は、最初、この福音書が記されたときには、記載されていませんでしたが、イエス様がどのようなお方であるかを紹介する有名な出来事として、後から挿入されたようです。それで、7章53節ー8章11節は括弧でくくられていますね。
 ですから、今日読んだ箇所は、7章52節の続きと考えられます。つまり、ユダヤの大きな祭りである仮庵の祭りの終わりにイエス様がお話しになった内容が記されているのです。

 もう一度、仮庵の祭りのことを復習しましょうね。
 仮庵の祭りは、イスラエルの先祖がエジプトを脱出した後、四十年間、神様に導かれ守られながら荒野で生活したことを記念する祭りです。この荒野の生活の中で、特に彼らの心に刻まれた出来事がいくつかありました。
 その第一は、神様が毎日、マナという食物を与えてくださったことです。第二は、神様が岩から水をわき出させてくださったことです。そして、第三は、神様が昼間は雲の柱、夜は火の柱を先頭に立ててイスラエルの民を導いてくださったことです。 当時、商人たちが荒野を旅するときには、先頭のらくだに火鉢を背負わせて火を燃やしながら進んだそうです。そうすれば、昼間は火鉢から立ち上る煙によって、また夜は火鉢の火の明りによって先頭の居場所がわかるので道に迷わないからです。
 神様は、なんと二百万人以上のイスラエルの民を導くために、昼は大きな雲の柱、夜は火の柱を備えてくださいました。昼は雲の柱で日陰をつくり、夜は火の柱で暗闇を照らしてくださったのです。
申命記29章5節を読むと、「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足の靴もすり切れなかった」と書かれていますが、神様は、彼らの必要をすべて満たしてくださったのです。
 この荒野の生活は、まるで私たちの人生を象徴しているかのようです。私たちは、飢え、渇き、迷うことがあります。しかし、神様がその飢えを満たし、渇きをいやし、暗闇を照らし、導きを与えてくださるのです。そして、その神様のみわざを私たちの人生に実現させてくださるのが、イエス様なのです。
 ヨハネ福音書の6章で、イエス様は、五千人以上の人々にパンと魚を分け与えた後、なんと言われたでしょうか。「わたしがいのちのパンです」と言われたのです。昔、荒野の旅の間、民の飢えを満たしたのは、マナという食べ物でした。しかし、今、私たちの人生の飢えを満たすために、イエス様がいのちのパンとして来てくださったというのです。
また、7章では、イエス様が仮庵の祭りの最終日、祭りが最高潮に達したときに、大声でこう言われましたね。「わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と。昔、神様が民の渇きをいやすために岩から水を流れ出させてくださったように、今は、イエス様が私たちの渇きを癒すために尽きることのない「いのちの水」を与えてくださるというのです。
 そして、8章の今日の箇所では、イエス様は、「わたしは、世の光です」と言われたのです。
 仮庵の祭りの期間だけ行われる特別なことがいくつかありました。
 一つは、人々が祭りの期間中、木の枝で作った仮庵で生活するということです。これは、荒野でのテント生活を記念するためです。
 また、毎日、祭司を先頭にした行列が泉に下って行って、水を汲み、その水を神殿に運んで祭壇の脇の特別な場所に注ぐという儀式が行われました。これは、神様が荒野で水を与えてくださったことを記念し、これからも水を与えてくださるように願う儀式です。

 それから、祭りの間、神殿の外庭で「婦人の庭」と呼ばれている所、20節に書かれている献金箱のある所ですが、そこに四本の巨大な黄金の燭台が立てられ、火が灯されました。夜になると、その光は、神殿全体だけでなく、エルサレムの街々をも照らし出した、と言われています。これは、荒野の旅の間、神様が火の柱で民を導いてくださったということを覚えるためでした。
 しかし、その燭台の光は、祭りの終わりには消えてしまいます。その時でした。イエス様は、「わたしこそ、まことの世の光である」と宣言なさったのです。昔、荒野で神様が昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を導いてくださったように、今は、イエス様ご自身が光として暗闇を照らし、私たちの人生を導いてくださるのだというのです。
 ぜひ覚えておいていただきたいのですが、旧約聖書には、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放され、神様に導かれながら荒野を旅して、ついに約束の地に入ることができたという出来事が記されていますが、それは、私たちが罪の束縛から解放され、神様の守りの中で人生の旅を続け、約束の地に導かれる、という救いを示す雛形なのです。そして、その雛形である出エジプトの出来事が指し示している方こそ、イエス・キリストご自身なのです。そして、イエス様ご自身が「わたしこそ、旧約聖書が予め示していた神の救いそのものなのだ」と宣言されたわけです。
 もう一度、8章12節を読みましょう。「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」
 この言葉を中心に、今日の箇所についていくつかのことを学んでいきましょう。

@「わたしは、世の光です」

 イエス様は、「わたしは、世の光である」と言われました。つまり、世は、イエス様がいなければ、暗闇のままだという宣言です。なんと大胆な宣言でしょう。
 「世」とは何ですか。この世界です。神様抜きの世界という意味でもあります。また、私たち一人一人のことであると言ってもいいでしょう。
 ヨハネの福音書1章9節には、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」とありますね。イエス様は、すべての人、つまり、私たち一人一人を照らす光なるお方だというのです。
皆さん、光とは何でしょう。光がなければ私たちは生きていくことができません。昔、小学生の集まりで「もし、太陽がなくなったらどうなると思いますか」と尋ねたら、いろいろな答えが返ってきました。「みんな凍えて死んでしまう」「なにも見えなくなってしまう」とか、中には「洗濯物が乾かない」という子もいました。とにかく、光が失われたら、私たちは誰一人生きていくことができませんね。
 私たちは、光なくしてこの人生を歩むことができません。私たちの人生の道を照らし、行くべき方向を示す光が必要ですね。 ところが、誰もが喜んで光を受け入れるわけではないのです。なぜなら、光によって、今まで見えなかった汚いもの、自分が見たくないもの、人に見られたくないものが照らし出されてしまうからです。冷蔵庫の裏側を懐中電灯で照らしてみてください。想像できるでしょう。タンスの暗い隙間を照らしてみてください。何が見えますか。暗闇にゴミはたまるのですね。光に照らされるということは、事実を突きつけられるということです。自分の姿をまざまざと見せつけられることもあります。それは時には、とても辛いことですね。
 イエス様は、私たちの心を照らしてくださいます。すると、何が見えますか。醜い自分、汚い自分、高慢な自分が見えてくるのです。本当の自分の姿を知ることになるのです。
 ヨハネの福音書3章20節には、「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」と書かれています。人は、暗闇が好きなんですね。暗闇なら汚れやほこりが目立たないからです。汚れていてもわからない。けれども、イエス様は、光なる方です。人は、自分の内側が照らされることを嫌います。罪人呼ばわりされるのが嫌いなんですね。しかし、皆さん。自分と正直に向き合うことなしに、赦しの恵みを味わうことができません。光に照らされなければ、本当の人生を歩んでいくことができないのです。
 今は、豊かな時代となりました。しかし、また、きちんと自分と向き合わない「ごまかしの時代」でもあるように思います。問題があってもごまかし、人生をまじめに見ようとせず、楽しければいいじゃない!という発想です。
 皆さん、イエス様は、私たちの心を照らします。そして、私たちの弱さを、そして汚さを暴露するでしょう。しかし、光に照らされたなら、闇は消えていくのです。

A「わたしに従う者は、いのちの光を持つのです」

 イエス様は、「わたしは、世の光です」と言われましたが、続けて「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。
 パウロは、エペソ5章8節ー13節で「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」と記しています。これは、パウロ自身の姿でもありました。彼の人生は、以前は、クリスチャンを迫害し、喜びも平安もない暗闇でした。しかし、「今は、主にあって、光となりました」とありますね。イエス様の光に照らされた私たち一人一人が世の光となったというのです。イエス様もマタイ5章14節で「あなたがたは、世界の光です」と言っておられますね。
 でも、誤解しないでください。私たちは、自分の内側から自分の力で光を発することはできません。ただ、キリストの栄光を反射させて輝くことができるのです。反射望遠鏡をご存じですか。その中には磨き抜かれた鏡が入っています。その鏡に映し出されたものを拡大して見るわけです。ですから、鏡がどれほど磨かれているかが、その望遠鏡の善し悪しを決めるわけです。
 すばらしい言葉をご紹介しましょう。第二コリント3章18節にこう書かれています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 私たちは、鏡のように主の栄光を反映させながら生きていくことができるのです。ですから、どうして自己卑下することがありますか。どうしていじける必要がありますか。どうして人と比べて落ち込む必要がありますか。私たち一人一人は、すばらしい救い主の栄光を反射する鏡なんです。そして、私たちのうちに住んでくださる聖霊の働きによって、私たちは、主と同じ栄光の姿に変えられていくというのです。すばらしい約束ですね。

Bイエス様の証言の確かさ

 さて、イエス様が「わたしは、世の光です」と宣言なさると、パリサイ人たちは猛反発しました。このイエス様とパリサイ人たちの問答を見ていきましょう。
 クリスチャンでない方でも時々、「イエス様は、すばらしい方ですよね」とおっしゃる方がいます。私は、そう言われるのを聞くと不思議に思うんですね。「この方は、聖書を読んだ上でそう言っておられるのだろうか?」と考えてしまうのです。なぜなら、イエス様が語られた言葉は、驚くほどはっきりした宣言だからです。
 普通、賢者と呼ばれる人たちは、「わたしは光を求めている者だ。あなたがたも一緒に求道しよう」という態度を取ります。しかし、イエス様はどうでしょう。ずばり「わたしが世の光です」と宣言なさっているのです。
 このようにはっきりとしたイエス様の宣言に対して、本来、取るべき態度は二つしかありません。それを真実だと考えるか、嘘だと考えるかです。
 嘘だと考えるなら、イエス様は、詐欺師か、誇大妄想の勘違い人間であるということです。そんな人を信じたり礼拝するなど馬鹿げたことですし、そんな人物に対して「すばらしい人ですね!」などと評価するとしたら愚かなことです。
 一方、イエス様の宣言を真実だと考えるなら、そのイエス様の言葉を本気で信じることが大切ではないでしょうか。そして、その時、私たちは、イエス様によって永遠の光をもって生きることができるようになるのです。イエス様を主として礼拝し、聖書の約束を受け入れて希望を持って生きる姿が生まれてきます。
 ですから、今日の箇所のイエス様の宣言は、私たちに二者択一を迫るものであるわけです。
 それに対して、残念ながら、当時のパリサイ人や律法学者たちは、「イエスは、嘘つきの誇大妄想の人間だ」というふうに考えたのです。そして、13節にあるように「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」と批判しました。当時、裁判のときには、二人以上の証人の証言が必要でした。それなのに、イエス様は、証人もいないのに、自分で「わたしは、世の光です」と宣言していたので、彼らは「あなたの言うことが正しいと証言する証人が二人いなければ信じられない」と応じたわけです。
 すると、イエス様は、「わたしは自分がどこから来たか、どこへ行くかを知っている。だから、わたしの証言は真実だ」と言われたのですね。なんだかちぐはぐな問答ですね。
 イエス様の言われたのは、どういうことかと言いますと、「普通の人間は、自分がどこから来て、どこへ行くのかわからない、あてにならない存在だ。そういう人間だから、自分の他に二人以上の証人が必要となるのだ。だが、わたしは違う。わたし自身が自分について証言できるのだ」と言われたのです。イエス様は、ご自分がどこから来てどこに行かれるのかはっきりわかっておられました。自分の存在理由を明確に知っておられました。ご自分が父なる神によって使わされたこと、また、ご自分の使命や目的がはっきりわかっておられました。
 通常、目的や使途がはっきりしているものに対して、私たちは、その存在の証明を要求することなどしません。たとえば、蛍光灯をさして、「すみません、これが本当に蛍光灯であるかどうか確信がもてませんから、店員二人以上の証言をお願いします」などとは言いませんね。パソコンを買うのに、「これがパソコンであるという証言をお願いします。そうでないと信用して買うことができません」などと言う人は誰もいません。それが蛍光灯やパソコンであることははっきりしているので、証言など必要がないのです。
 イエス様は、それと同じように、明確な目的と使命をもっておられる方なので、不確かな人間の証言などいっさい必要ないのです。
 イエス様は、さらに18節で「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます」と言われました。つまり、わたし自身が証人だし、父なる神も証人となってくださる。つまり、イエス様と父なる神という証人が二人いるのだ、と言われるのです。そもそも、もしイエス様が本当に神様から使わされた救い主なら、それを証言することのできる人間などいるでしょうか。誰もいません。イエス様がまことの救い主であることは、イエス様ご自身と父なる神以外に明確に証言できる方はいないのです。
 しかし、イエス様が、神様を「わたしの父」と呼ばれるのを聞いて、パリサイ人たちは、激怒しました。「神を自分の父とするなど、まったくずうずうしい奴だ。もしそうなら、その神を見せてもらいたいものだ」と憤慨して、「あなたの父はどこにいるのですか」と質問したのです。
 すると、イエス様は「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」と答えられました。
 このイエス様の答えは、当時の宗教家にとって痛烈なものでした。自分たちが神について最もよく知っていると考えている彼らに向かって、イエス様は、「あなたがたは神を知らない」と言われたのですから。そもそも「神を見せろ」という彼らの訴え自体が、「神を知らない」ことを証明してしまっているわけですね。
 ヨハネの福音書1章18節には、こう記されています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
 イエス様は、父なる神と同じ本質をもった方です。父なる神とまったく同じ目的、思いをもってみわざをなさる方です。目に見えない神様がどんな方なのかを知るためには、このイエス様を知ることが必要なのです。ところが、パリサイ人たちは、イエス様を知ろうとしませんでした。ですから、神様を知ることができなかったのです。

 さて、今日の箇所で、イエス様は、ご自分が「世の光」であると宣言しておられます。私たちは、その宣言を信頼し、イエス様の愛の光を、恵みの光を、癒しの光を受けながら、一人一人がイエス様の栄光を反射する「世の光」とされていることに自信を持って歩んでいきましょう。