城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年五月五日              関根弘興牧師
               ヨハネ八章二一節ー二九節

ヨハネの福音書連続説教27
  「『今』を大切に」

 21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか。」23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」(新改訳聖書)

 今日も、ヨハネの福音書からイエス様の言葉をご一緒に考えていきましょう。
 今日の箇所は前回の続きです。まず、前回の内容を振り返ってみましょう。
 前回は、ユダヤの三大祭りの一つである仮庵の祭りの終わりの時に、神殿の外庭にあった献金箱の近くで、イエス様がパリサイ人たちにお語りになった言葉を学びました。
 その場所には、祭りの間、四本の巨大な黄金の燭台が立てられ、火が灯されました。夜になると、その光は、神殿全体だけでなく、エルサレムの街々をも照らし出した、と言われています。しかし、その燭台の光は、祭りの終わりには消えてしまいます。
 その時でした。イエス様は、「わたしこそ、まことの世の光である」と宣言なさったのです。昔、イスラエルの民が荒野で旅をしていたとき、神様が、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださいました。それと同じように、今は、イエス様ご自身が光として暗闇を照らし、私たちを導いてくださるというのです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と、イエス様は大胆に宣言なさったのです。
 前回お話ししたように、このようにはっきりとした宣言に対して、私たちの取るべき態度は二つしかありません。それを嘘だと考えるか、それとも、真実だと考えるかです。
 もしイエス様の宣言が嘘だと考えるなら、イエス様は、詐欺師か、誇大妄想の勘違い人間であるということになります。そんな人物を信じたり礼拝するなど馬鹿げたことですし、そんな人物に対して「すばらしい人ですね」などと評価することも愚かなことです。
 しかし、もしイエス様の宣言を真実だと考えるなら、それを本気で信じて生きることが大切だと思いませんか。そして、信じて生きるとき、私たちは、確かにイエス様が人生を導くまことの光なる方であるということを知ることができるのです。
 残念ながら、当時のパリサイ人たちや律法の専門家たちは、イエス様に敵意をむき出しにして、「イエスは、大嘘つきの誇大妄想の人間だ」というふうに考えました。そして、何とかイエス様を攻撃する口実を見つけようとして、様々な質問を投げかけてきたのです。
 今日の箇所は、その続きです。少し難しい箇所ですが、ご一緒に考えていきましょう。

1「わたしは去っていきます」

 21節でイエス様はこう言われました。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。」
 この言葉には警告の意味が込められているようですね。つまり、イエス様は、「わたしが去って行く時が来る。そのときに、あなたがたがわたしを捜そうとしても、もう遅いのだ」と言われているのです。
 人生の機会(チャンス)ということを考えるのは大切です。すべてのことには時があります。私たちの人生の時間には限りがありますから、大切な時を逸しないようにしたいですね。
 イエス様の言葉は、昔、エジプトから脱出して荒野を旅したイスラエルの民の状態を考えるとよく理解できると思います。荒野の旅の間、神様は、毎日の糧であるマナを与え、水を与え、雲と火の柱で導き、モーセを通して民に語りかけ、神様が共にいてくださることを示してくださいました。神様は、豊かな恵みを注いでくださったのです。ところが、民は、心が頑なで、神様の約束を信じようとせず、神様に逆らってばかりいました。それで、四十年もの間、荒野をさまよい続けなければならなかったのです。しかも、神様に逆らった人々は、皆、約束の地に入る前に荒野で死んでしまったのです。
 ヘブル人への手紙3章7ー11節には、こう書かれています。「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』」
 「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」というのです。「神様のことばであるイエス様が来てくださった。まことのいのちのパンであり、生ける水を与えることができ、世の光であるイエス様がおられる。そのイエス様の御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。」ということですね。

ヨハネ黙示録3章20節で、イエス様は、こう言われています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
 イエス様が、今、扉の外に立ってたたいておられるというのです。けれども、いつか、イエス様が戸をたたくのを止めて去ってしまわれる時がくるというのです。それならば、イエス様が扉をたたいてくださっているうちに、戸をあけて、イエス様をお迎えすることが大切ですね。
 イエス様は、聖書を通して、礼拝を通して、様々なことを通して私たちに語りかけ続けてくださっています。その御声を聞いて、その言葉を信頼し、受け入れて生きていくことができるといいですね。イエス様の語りかけを聞くことができなくなるときがくるのですから、「いつかまた聞くことにしましょう」と先延ばしするのではなく、「今」という時を大切にしていきましょう。

2「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」

イエス様が「わたしは去って行きます」と言われたとき、パリサイ人たちは、「去ってくれたら大助かりだ」と喜んだと思います。ところが、続けてイエス様が言われた言葉には、怒りを感じたことでしょう。イエス様が「あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます」と言われたからです。 それから、イエス様は「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」と言われました。それを聞いて、彼らは、「イエスは、自殺するつもりなのか」と考えました。なぜかといいますと、当時のユダヤの社会では、「自殺すると、ゲヘナの最も暗い悲惨なところに落ちていく」と考えられていたのです。彼らは、「我々は天国に行くけれど、イエスは我々が決して行けない場所、つまり、ゲヘナに行ってしまうのだろう」とあざけり半分に言ったわけです。
 しかし、イエス様は、「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と言われたのです。
 この「罪」というのは、私たちが考える犯罪のようなものではありません。聖書の中で使われている「罪」という言葉には、「的外れ」という意味があります。あるべき状態からずれている、正常な立場から外れている、脱線している、迷っている、失われている、そういう状態を「罪」というのです。そのずれた状態が続くと、また、ずれがさらにひどくなると、死に至るのです。
 イエス様は、「あなた方は、神様との関係がずれた状態にいる。このままでは、死ぬことになる。そのずれを直すためには、わたしを信じる必要があるのだ」と言われたのです。
 しかし、それを聞いた彼らは憤慨して、「あなたはだれですか」と言いました。「そんな偉そうなことを言うなんて、あなたは何者なんだ。そんなことを言う資格があるのか」というわけです。

3「あなたはだれですか」

 この「あなたはだれですか」という質問は、ヨハネの福音書の大きなテーマなんですね。そして、イエス様がどのような方かがわかったなら、心を頑なにしてはいけない、とヨハネは伝えようとしているのです。
イエス様に対する「あなたはだれですか」という質問は、私たちのだれもが考えたことがあるのではないでしょうか。
しかし、イエス様は、今日の箇所で、ご自分が誰であるかをはっきり言っておられるのです。
 まず、24節で、イエス様はこう言っておられますね。「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」ここで、「わたしのことを」の部分に*印がついていて、下の注釈を見ると、直訳は「わたしがあるということを」と書いてありますね。つまり、直訳すると「もし、あなたがたが、わたしがあるということを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」となります。また、新共同訳聖書では、こう訳されています。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
 「わたしがある」とか「わたしはある」と訳されているのは、ギリシャ語の「エゴー・エイミ」という言葉です。「エゴー」とは「わたし」という意味です。「エイミ」とは「何々である」という意味で、英語のbe動詞にあたる言葉です。ですから、「エゴー・エイミ」を訳せば、「わたしだ」「わたしである」「わたしがある」「わたしはある」ということになるのですが、この表現は、旧約聖書を知る人にとっては、特別な意味を持っていました。
 出エジプト3章にこんな記事が出てきます。
 神様が、荒野で羊を飼っていたモーセに燃える柴の中から呼びかけて、「あなたは、これからエジプトに行って、イスラエルの民をエジプトから脱出させなさい」とお命じになりました。しかし、モーセは、エジプトにいるイスラエル人たちが自分の言うことを信用してくれるのか心配なわけです。そこで、モーセは、神様にこう尋ねました。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」すると、神様はモーセにこう言われました。「わたしは、『わたしはある』という者である」と。この『わたしはある』と訳されている言葉は、ヘブル語で書かれていますが、英語ですと「I am who I am」と訳される言葉です。「わたしは有りて有る者である」というような意味の言葉です。つまり、この神様の御名は、神様が永遠の存在者であるということを示しているのです。
 そして、この「わたしは、『わたしはある』という者である」という神様の言葉をギリシャ語に訳したのが、「エゴー・エイミ」という言葉です。イエス様は、ご自分を指して「エゴー・エイミ」と言われました。つまり、イエス様は、「わたしこそモーセに現れた神様と同じ存在なのだ」と宣言なさっているわけです。イエス様は、「有りて有る者」、永遠の存在者、神なる方なのです。無から有を造り出すことのできる方であり、私たちを造り、生かしてくださる方であり、永遠のいのちを与えることのできる方です。そのイエス様を否定するならば、自分の存在さえも失うことになると聖書は教えているのです。
 神様がモーセに「わたしは、『わたしはある』という者である」とお答えになったように、イエス様も「あなたはだれですか」という質問に対して「わたしは『わたしはある』という者だ」とお答えになりました。「わたしは、父なる神と本質的に同じ存在なのだ」ということです。
 さらに、26節では、こう言われました。「わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」イエス様は、父なる神様から遣わされた方であり、神様のことばをそのまま語っておられるというのです。また、29節では、「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです」と言われました。父なる神様がいつもイエス様と共におられる、そして、イエス様はいつも父なる神様のみこころにかなうことを行われるというのです。つまり、イエス様と父なる神様とは、常に一体となって、同じ思いをもって共に働き、完全な調和の中におられるというのです。これからヨハネの福音書を読み進めていくと、この「イエス様と父なる神様が一つのお方である」というテーマがさらに鮮明になっていきます。
 しかし、27節で「彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった」と書かれていますね。彼らは、イエス様のことがなかなか理解できなかったのです。

4「人の子が上げられる時」

すると、28節でイエス様はこう言われました。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」
 ここで「わたしが何であるか」と訳されているのも、「エゴー・エイミ」という言葉です。新共同訳聖書では「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と訳されています。それから、「人の子を上げる」というのは、「人の子の姿で来てくださった救い主を十字架につける」ということです。
つまり、イエス様は、「あなたがたは、わたしが十字架についたときに初めて、わたしが神と一体の存在であることがわかるだろう」と言われたのです。
 十字架、それは、極悪人を処刑する道具です。イエス様がそのむごたらしい十字架刑に処せられるときに、イエス様がまことの救い主であることが明らかにされるのだ、と聖書は教えているのです。不思議ですね。イエス様は、嵐を沈めたり、死人をよみがえらせたり、病人を癒したり、数々の奇跡を行われました。その一つ一つのみわざも素晴らしいけれども、イエス様がまことの救い主であることは、十字架抜きに知ることはできない、というのです。
 イエス様は、「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と言われましたね。逆に言えば、イエス様を信じれば、私たちは自分の罪の中で死ぬことはなくなるのです。なぜでしょうか。イエス様が私たちの罪をすべてご自分の身に背負って、私たちの代わりに十字架で罪の罰をうけ、死んでくださったからです。イエス様が十字架について死んでくださったことによって、私たちは罪の赦しを受けることができるのです。イエス様は、有りて有る者なる方です。すべてを生み出すことができるお方です。その力は限りがありません。それなのに、私たちと同じ立場にまで下りてきてくださり、私たちの身代わりとなって、十字架についてくださったのです。
 そして、十字架は、何に続くでしょうか。復活へと続きます。イエス様は、死を打ち破られ、復活して、弟子たちに姿を現されました。
 ヨハネ20章28節で、弟子のトマスは、復活のイエス様にお会いしたとき、「私の主。私の神」と告白しています。「イエス様は、救い主であるとともに、神なる方です」と告白しているのです。日本では、あちこちに神様がいてもおかしいとは思いませんね。しかし、ユダヤの社会は違います。唯一のまことの神様を告白する世界ですから、その中にあって、イエス様を「私の神」と告白することは、命がけです。
 私たちは、十字架によって、イエス様が罪の赦しを成就する救い主であることを知ることができます。また、復活を通して、イエス様が「わたしはある」というお方、神なる主であることを知り、告白することができるのです。
イエス様は、今日、一人一人に「わたしを求めて生きよ」と語りかけてくださっているのです。今日、その御声を聞くなら、心を閉ざして先延ばしにするのではなく、信頼して受け入れていきましょう。「今」を大切にして、今週も生きていきましょう。