城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年五月一二日             関根弘興牧師
               ヨハネ八章三〇節ー四七節

ヨハネの福音書連続説教28
  「真理はあなたを自由にする」

30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。」39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(新改訳聖書)


 今日も、ヨハネの福音書からイエス様が語られた言葉をご一緒に考えていきましょう。
 今日の箇所も先週からの続きで、イエス様が、仮庵の祭りの終わりの時に、神殿の外庭でパリサイ人たちやユダヤ人たちと対話されたことが書かれています。
 まず、先週の内容を振り返ってみましょう。仮庵の祭りの間、神殿の外庭には四本の巨大な黄金の燭台が立てられ、火が灯されました。夜になると、その光は、神殿全体だけでなく、エルサレムの街々をも照らし出した、と言われています。しかし、その燭台の光は、祭りの終わりには消えてしまいます。その時でした。イエス様は、「わたしは世の光である」と宣言なさったわけです。それを聞いたパリサイ人たちや律法の専門家たちは、イエス様に敵意をむき出しにして、「イエスは、大嘘つきの誇大妄想の人間だ」というふうに考えました。そして、「イエスよ、おまえはいったい誰だ」と質問してきたわけです。
 それに対して、イエス様は、「わたしはある」という存在、つまり永遠の存在者であるとお答えになりました。それは、父なる神様とイエス様が一つであるということをも意味していたわけですね。
 また、イエス様は、「わたしが十字架に上げられるとき、人々はわたしがだれであるかを知るのだ」と言われました。つまり、十字架の出来事を見ることによって、イエス様が私たちの罪の赦しを宣言することのできる救い主であることを知ることができるというのです。また、復活されたイエス様を知ることによって、イエス様が私たちの主、私たちの神なる方であるということを知ることができる、ということを学びましたね。

 さて、今日の箇所を見ますと、30節に、イエス様の話を聞いていた人たちの中の「多くの者がイエスを信じた」と書いてありますね。
 でも、今日の箇所を読み進めていきますと、その「信じた」というのは、単に「イエスは、すごいことを言う人だ。感心したな。確かにイエスの言葉には、説得力があるな」という程度のものであったことがわかります。心から信じるという姿ではなかったようです。
 そこで、イエス様は、今日の箇所で、イエス様を信じ、イエス様のほんとうの弟子とされるとはどういうことなのか、ということを語られたのです。

1 「わたしのことばにとどまる」とは

31節には、こう書かれていますね。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。』」
 イエス様は、「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当の弟子です」と言われました。では、「イエス様のことばにとどまる」とは、どういうことなのでしょう。

@みことばを聴くこと

 ローマ人への手紙10章17節には、こう書かれています。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」イエス様のことばにとどまるためには、まずそのことばを聞く必要がありますね。信仰の出発は、聞くことから始まるのです。

Aみことばを学ぶこと

 マタイの福音書11章28節には、こう書かれています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
イエス様から学ぶことは、たましいの安息に繋がります。ではイエス様から学ぶとは、どういうことでしょうか。
 「学ぶ」方法は、二つあります。一つは、教室で学ぶように、知的な理解をするために学ぶことです。私たちはイエス様の姿を聖書から知ることができます。ですから、聖書を読み、聖書からイエス様の姿を理解することは大切です。けれども、知識だけ蓄えても、それが自分自身の身についておらず、実際の生活の中に生かされていないなら、十分学んだとはいえませんね。
もう一つの学び方は、「まねる」ことによって身につける方法です。「学び」は「まねび」でもあるわけです。イエス様は、私たちと同じ立場にまでおりてきてくださり、ご自身が私たちの人生の手本となってくださいました。ですから、イエス様の姿をただ頭で理解するだけでなく、実際にイエス様のように、イエス様をまねて生きていくことが大切なのです。
 第一ペテロ2章2節には、こう書いてあります。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」イエス様ご自身が私たちに模範を示してくださったのです。
 私たちはイエス様から何を学んでいくのでしょう。しもべの心を、謙遜を学ぶのです。赦しの心を学ぶのです。愛し愛されることを学ぶのです。
 でも、私たちは、自分の力でイエス様のように生きていくことができるでしょうか。できませんね。がんばっても、すぐに挫折してしまうでしょう。しかし、イエス様は、「わたしはあなたを離れずあなたを捨てない」「見よ、わたしは世の終わりまであなたとともにいる」と約束してくださっています。イエス様は、いつも私たちと共にいて私たちを導き、慰め励ましてくださいます。感謝なことに、このイエス様は、できの悪い生徒でも決して見捨てることはなさらないんですね。イエス様は、いつも私たちとともに歩みつつ、お手本を示してくださるのです。
 また、Uコリント3章18節には、こう書かれています。「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」わたしたちがイエス様の姿に変えられていくのは聖霊の働きによるというのです。イエス様を信じる私たちの内に聖霊が宿ってくださり、その聖霊が私たちをイエス様のような姿に変えていってくださるというのです。
 ですから、その主のみわざに信頼しながら、イエス様から学び続けていきましょう。

Bみことばに人生をかけること

 キリストのことばにとどまるとは、そのことばに人生をかけて生きていくことです。
 私の息子がまだ小さい時でしたが、自転車の補助輪を外して乗ってみることになりました。初めての体験ですから、心配なわけですね。そこで、私は、「大丈夫。できるよ。転びそうになってもちゃんと見ていてあげるから」と息子に言いました。すると、息子は勇気を持って自転車をこぎ出したのです。息子は、私の言葉を信じて、その言葉にゆだねてこぎ出したわけですね。
 イエス様のことばにとどまるとは、イエス様の約束を信頼し、その約束に人生をかけるということです。イエス様のことばを信じて、一歩前に踏み出すことです。疑いや恐れや迷いが起こってきたとき、「それでも私は、イエス様のことばを信頼して生きていきます」という道を選び取っていくことです。
 イエス様は、いつも「恐れるな」と声をかけてくださいます。私たちが間違った方向へ進もうとしているときには、「それは違う」と戒めてくださるでしょう。私たちが聖書に書かれている数々の約束に信頼して生きていくことができるように、イエス様は、励まし、慰め、勇気を与えてくださるのです。

2 「真理はあなたを自由にする」とは

さて、イエス様は、「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です」と言われましたが、32節では、さらに続けてこう言われました。「そして、あなたたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と。私たちがイエス様のことばにとどまるなら、真理を知ることができ、自由になるというのです。
  国立国会図書館の東京本館には、「真理がわれらを自由にする」という言葉が刻まれていますが、これは、この32節の言葉をもとにしています。この言葉が国会図書館の設立理念となったのです。国会図書館のホームページには、図書館の設立の趣旨がこのように書かれています。「従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨な状況に至った。日本国憲法の下で国会が国民の安全と幸福のため任務を果たしていくためには調査機関を完備しなければならない」と。「真理に基づかない政治が悲惨な結果を生じさせた」というのです。それは、政治の世界のことだけではありませんね。真理に基づかない人生も、決して良い結果を生じさせることはないと思いませんか。

@真理とは

 では、イエス様の言われた「真理」とはいったい何でしょう。
 ヨハネの福音書14章6節で、イエス様は、驚くべきことを言っておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」イエス様は、「わたし自身が真理そのものだ」と言われたのです。ですから、「真理を知る」とは、イエス様を知ることであり、イエス様を知ることは、真理を知るということなわけです。そして「真理はあなたがたを自由にする」とは、イエス様が私たちを自由にすることができるということなのです。

A自由とは

 しかし、この話を聞いたユダヤ人たちは、こう言いました。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか」と。
 アブラハムは、旧約聖書の創世記に出てくる人物で、イスラエル民族は、このアブラハムの子孫です。
 ユダヤ人たちは、自分がアブラハムの子孫であるということに誇りをもっていました。なぜかと言いますと、アブラハムが神様の約束を信じたので、神様はアブラハムに「あなたもあなたの子孫も祝福される」と約束なさったからです。それで、「アブラハムの子孫」と言えば、「神様に愛され、神様の祝福を受けることができる人」ということを意味していました。ですから、ユダヤ人たちは、「自分たちは、他の外国人と違ってアブラハムの子孫なのだから、神様の祝福を受けるのは当然だ」と考えていたわけです。
 そういうプライドがあったせいでしょうか、彼らは、自分たちに都合の悪いことは無視しようとしました。それで、「私たちは、決してだれの奴隷になったこともありません」と見栄をきったわけですが、旧約聖書を読むと、そうでなかったことはすぐにわかります。
 政治的な面では、彼らは、昔、エジプトで奴隷生活をしいられていました。また、何度も外国の軍隊の侵略を受けたことがありました。バビロニヤ帝国の時代には、国が滅ぼされ、捕虜となって連れて行かれてしまいました。そして、今日の箇所の時代には、ローマ政府の属国になってしまっていたのです。
 また、宗教的な面でも、彼らは、たくさんの異教の偶像を礼拝するようになり、偽りの神々の奴隷となってしまったことが、繰り返し旧約聖書には記録されています。
 ですから、正直に過去を見つめるなら、自分たちが奴隷のように束縛されてきた姿を認めることができるはずです。しかし、彼らは「決してだれの奴隷になったこともありません」と言って、実際の姿を素直に認めようとしなかったのです。
 そこで、イエス様は、このことの本質をずばりと答えられました。34節でこう言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」つまり、「あなたがたは、自分たちはアブラハムの子孫だと言っているけれど、自分をよく振り返ってみなさい。実際には、罪を行っているではないか。それは、罪の奴隷になっている状態なのだ」と指摘なさったのです。ですから、イエス様がいわれる「自由」とは、罪からの自由、罪からの解放を意味していることがわかります。
 聖書は、人は皆、罪の束縛の中にいるのだと教えています。ローマ人への手紙の7章でパウロはこう書いています。「私には、自分のしていることがわかりません。・・・ 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」と。私たちは皆、自分の心の中を正直にのぞくなら、自分の内に罪が住んでいて、その罪が人生を不自由にしているという現実に気づくでしょう。
 先週もお話ししましたように、罪とは、本来、「的外れ」という意味があります。本来あるべき姿からずれてしまっている状態です。神様との関係がずれてしまい、その結果、自分自身に対しても、人間関係の中にもずれが生じるのです。
 私は、先週から咳がなかなか止まらなくて、賛美を歌ったり、説教をするのが大変でした。体のバランスがずれてしまうとどうなりますか。こっちが痛い、あっちが痛いと、体は不自由になりますね。ずれがあると、不自由さが生じてくるのです。
 それと同じで、罪、つまり、ずれた状態があると、私たちの人生は、不自由な束縛されたものになってしまうのです。聖書は、神様と私たちとの関係がずれてしまっている状態を罪と呼びました。神様の関係がずれると、神様のことがわからなくなり、神様の豊かな愛や恵みや祝福を受けることができなくなり、正しい道を見失って、自分の生きる目的がわからなくなってしまいます。罪は、私たちを不自由にするのです。
 しかし、イエス様は、私たちを束縛している罪の問題を解決するために来てくださいました。イエス様によって、私たちの罪が赦され、神様との関係が回復し、神様の愛と恵みの中で、自由になることができるのです。つまり、イエス様が与えてくださる「自由」とは、私たちの人生が本来あるべき姿に戻され、本来の生き方をすることができるようになる自由なのです。
 そして、イエス様によって、罪の奴隷状態から解放された私たちには、どのような立場が与えられるのでしょうか。
 ヨハネの福音書1章12節には、こう書かれていましたね。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」イエス様を信じて受けいれた一人一人は、神様の子どもとされているというのです。また、ローマ人への手紙8章14ー15節で、パウロはこう書いています。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」
 私たちは、奴隷のようにびくびくしながら生活するのでなく、天の父なる神様に向かって大胆に「お父ちゃん」と呼びかけることのできる自由の中に生かされているのです。奴隷の子ではなく、神の子どもとして、いつも神様の愛と守りの中で賛美と喜びをもって生きることができます。また、主の御名によって何でも自由に祈り求めることのできます。いつでも神様のみことばを聞き、神様と共に生きる自由を得ているのです。
 パウロは、ガラテヤ5章1節で「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と記しています。私たちは、イエス様によって自由にされたのですから、奴隷のくびきではなく、イエス様の愛のくびきを負って、イエス様から学びつつ歩んでいきましょう。イエス様は、奴隷の主人のように恐れや無理強いによって私たちを支配するのではなく、愛をもって共に歩み導いてくださる方なのですから。

3 「アブラハムの子孫」とは

 さて、イエス様の言葉に対して、ユダヤ人たちは、「私たちは誰の奴隷でもない。アブラハムの子孫なのだ」と反論してきました。すると、イエス様は、彼らに、「あなたがたが本当にアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」と言われました。
 この「アブラハムのわざを行う」というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。これには、創世記18章に記されている出来事が背景にあるのです。
 ある暑い日のことでした。マムレという場所の樫の木のそばで、神様ご自身が御使いと共にアブラハムのもとに来られたのです。アブラハムは、彼らを見るなり、地にひれ伏して礼をし、心から歓迎し、もてなしました。その時、主は、アブラハムにこう告げられました。「あなたもあなたの妻も年を取っているが、来年の今頃、子どもが生まれるだろう」と。主は、また、「このアブラハムによって、地のすべての国々は祝福される」とも言われたのです。
 これは、大変有名でユダヤ人なら誰でも知っている話でした。 イエス様は、「アブラハムは、心から主を歓迎したではないか。もし、あなた方がアブラハムの子孫だというなら、神から遣わされたわたしをどうして心から歓迎しようとしないのか」と言われたわけです。
 そして、イエス様は続けてこう言われました。「あなたがたは、アブラハムのようにわたし歓迎するどころが、かえってわたしを殺そうとしている。アブラハムの子孫だといいながら、アブラハムの行いと逆のことをしているではないか。だから、あなたがたは偽りの父である悪魔の子どもだ。」
 自分の姿を正直に認めようとせず、自分こそ正しいと主張し、しかし、実際には正しさとは正反対のことを行っている、そうした彼らの姿に対して、イエス様は、「あなたがたは、本当は、アブラハムの子どもではなく、偽りの父の子どもだ」と言われたのです。
 では、本当のアブラハムの子孫とはいったい誰でしょう?
 ガラテヤ人の手紙3章6節には、こう書かれています。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」
 また、同じガラテヤ3章の26節、29節には、こう書かれています。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。・・・ もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
 イエス様を救い主として信じ、イエス様のことばにとどまっている一人一人がアブラハムの子孫、つまり、神様の祝福を受け継ぐ神の子どもとされているのです。
 ですから、私たちは、みとこばに聞き、学び、教えられながら、生きていきましょう。決して高慢にならず、他を見下すことをせず、イエス様のみことばをいつも心から歓迎し、受け入れ、そのことばにかけて生きる者として歩んでいきましょう。