城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年五月一九日             関根弘興牧師
               ヨハネ八章四八節ー五九節

ヨハネの福音書連続説教29
  「アブラハムが生まれる前から」

48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。
55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。(新改訳聖書)


 今日は、8章の最後の段落から学んでいきましょう。
 今日の箇所は前回の続きなので、まず、前回までの内容を振り返ってみましょう。
 イエス様は、仮庵の祭りの時に、エルサレムに上って、人々に驚くような宣言をなさいました。
 一つは、7章38節に書かれていますが、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」というものでした。
 それから、8章12節では、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と大胆に宣言なさいました。
 すると、それを聞いたパリサイ人や律法の専門家たちは、「イエスは、大嘘つきの誇大妄想の人間だ」と考えました。そして、イエス様に敵意をむき出しにして、「イエスよ、おまえはいったい誰だ」と質問してきたのです。
 それに対して、イエス様は、「わたしは、『わたしはある』という存在だ」とお答えになりました。それは、イエス様が永遠の存在者、つまり、神なる方であるということを意味していたのです。
 それから、イエス様は、「わたしのことばにとどまる人が、ほんとうの弟子なのだ」と言われました。イエス様のことばにとどまるとは、イエス様のみことばを聞き、学び、その約束のことばに人生をかけて生きていくことです。そして、イエス様は、「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」とも言われました。
 それに対して、ユダヤ人たちは、「私たちは誰の奴隷になったこともない、私たちは、神様に祝福を約束されたアブラハムの子孫なのだから」と反論しました。
 すると、イエス様は、「あなたがたが本当にアブラハムの子孫なら、アブラハムのわざを行いなさい」と言われました。どういうことかと言いますと、「アブラハムのもとに神様の使いが来たとき、彼は心から歓迎したではないか。あなた方がそのアブラハムの子孫だというなら、どうして神様から遣わされたわたしを心から歓迎しようとしないのか。それどころか、あなたがたは、かえってわたしを殺そうとしているではないか。あなたがたは、神から出た者ではない。『偽りの父』の子どもだ」と言われたのです。
すると、そこにいたユダヤ人たちは、ふつふつと怒りがわいてきまして、イエス様にいろいろな反論を投げかけてきました。 その彼らの反論と、それに対するイエス様の答えが今日の箇所に書かれています。詳しく学んでいきましょう。

1 ユダヤ人たちの反論「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれている」

 ユダヤ人たちは、「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれている」とイエス様を批判しました。
 当時のユダヤ人は、サマリヤ人を非常に軽蔑していました。それには、歴史的な背景があります。
 昔、イスラエルの国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。南ユダの中心はエルサレムで、北イスラエルの中心はサマリヤでした。
 北イスラエルは、アッシリヤ帝国に滅ぼされてしまうのですが、その時、アッシリヤ帝国は、北イスラエルの人々の多くを捕虜として連れ去り、その代わりに他の国の人々を連れてきて住まわせました。いろいろな民族の血が混じればアッシリヤに逆らわなくなるだろうということで雑婚政策をとったわけです。それで、サマリヤ地方に住むイスラエル人は他の民族との混血になってしまい、宗教的にも異教の神々が持ち込まれて混合宗教のような状態になってしまっていました。
 それに対して、南ユダの人々は、自分たちの民族的、宗教的純粋性を保ち続けてきたというプライドを持っていました。そして、混血になったサマリヤ人を、異教の世界と妥協した人々、神様の祝福が受けられなくなってしまった人々、として軽蔑するようになったのです。
 そして、「サマリヤ人」という言葉は、本来はサマリヤに住む人々を指す言葉でしたが、次第に、相手が誰であろうと関係なく軽蔑を表す時に使われる言葉になっていったのです。特に、宗教的な面で間違っていたり異端的だったりする人々に対して使われました。
 ですから、今日の箇所で、ユダヤ人たちは、イエス様に「あなたはサマリヤ人だ」と言いましたが、それは、「あなたは勝手に聖書を引用し、自分勝手な主張をしているだけだ! 私たちは正当派だが、あなたは異端だ」という意味で言ったのです。
 それだけでなく、彼らは、さらにエスカレートして「あなたは悪霊につかれている」とまで言いました。自分と意見の違う相手に対して、悪霊まで持ち出して徹底的に攻撃したわけです。

2 イエス様の答え「わたしは父を敬っていて、わたしの栄誉を求めない」

 すると、イエス様は、「わたしは父を敬っています」と言われました。「わたしは、父なる神様を敬って、神様に従っているだけだ」というのです。そして、「わたしはわたしの栄誉を求めません」とも言われました。「父なる神様を敬っている者は、自分の栄光などは求めない」というのですね。
 一方、そこにいるユダヤ人たち、特に、パリサイ人や律法学者たちは、どうだったでしょう。彼らは、父なる神を敬っていると言いながら、いつも自分が立派な人物だと人々に認めてもらいたいと思っていました。彼らは、皆に見えるように会堂や通りの四つ角に立って祈りました。人にほめられたくて、多くの人々が見ているところで施しをしました。また、宴会や会堂の上席に着くのが好きでした。その一方で、他の人々を軽蔑し、自分たちが勝手に決めた様々な戒めを守るように強制し、弱い人々を踏みにじっていました。
 ルカの福音書18章に不正な裁判官のたとえ話が書かれていますが、その裁判官は、「神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官がいた」と紹介されています。つまり、神様を恐れない姿は、人を人とも思わない姿であるわけです。それとは、逆に、神様を敬う人とは、人を人として大切に扱う謙遜な姿があります。その姿は、まさにイエス様に見ることができるのです。
 マタイの福音書9章36節には、イエス様が「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」と書かれています。
 また、マタイの福音書20章28節で、イエス様は、「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです」と言っておられます。
 イエス様は、父なる神様を敬い、父なる神様のみこころに従って、私たち一人一人を愛してくださり、大切に取り扱ってくださり、私たちを罪の束縛から解放するために十字架について、いのちまで差し出してくださったのです。
 50節でイエス様は、「それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます」と言っておられますね。つまり、自分で自分の栄誉を求めるのではなく、自分を自分でさばくのでもなく、栄誉もさばきもすべて神様にお委ねして、神様を敬いつつ生活していくことが大切なのですね。


3 イエス様の答え「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」

そして、イエス様は、51節で大切な約束を語っておられます。「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」という約束です。
 では、「イエス様のことばを守る」とは、どういう意味でしょうか。
 「ことばを守りなさい」と言われると、私たちは、普通、「命令や戒めを守りなさい」という意味だと思ってしまいますね。規則を守らなければならない、という感覚です。そうすると、すぐに、「いや、私はちゃんと守ることなどできませんよ」という否定的な思いが湧いてきますね。
 しかし、ここでイエス様が言っておられる「守る」という言葉は、「大切なものを大事に守る」ということです。皆さんの大切なものは何ですか?高価なダイヤモンドなら、金庫に入れて大切にするかもしれませんね。楽器なら、ケースに入れて「守る」でしょう。イエス様は、「わたしのことばを人生の宝物として大切にしていきなさい。決して手放さないように生きていきなさい」と言われたのです。
 問題は、目に見えるものなら、金庫にしまいましょう、ケースにしまいましょう、というふうにできますが、ことばというものは、見えないわけですね。そのことばを守る、大切に手放さないようにするとは、どういうことかといいますと、そのことばを信頼して生きる、ということなんですね。
私たちは、毎日、いろいろな言葉を受け取り、行動しています。日曜の礼拝は、九時と十一時にありますよと言われたら、その言葉を信じて、その時間に行くわけですね。しかし、中には、まったく当てにならない情報もたくさんあるんです。そして、その情報が人生を間違った方向にそらせたり、損害をあたえることもあるわけです。ですから、どの情報を受け取るべきか、慎重に判断しなければなりませんね。
 聖書には、私たち一人一人は、神様に造られ、神様に愛されている高価で尊い存在であると書かれています。しかし、一方で、「お前なんて、何の価値もない。無駄な存在だ」というメッセージをいろいろな所で聞かされるかもしれません。問題は、どちらを受け取り、大切にしていくかなんです。
 イエス様は、「わたしのことばを守るならば、決して死を見ることがない」と言われました。もちろん、だれでもこの肉体は死んでいきます。死は避けることができない人生の大問題です。しかし、その「死」という大問題を見ることがない、つまり、肉体の死は、人生にとっての大問題ではなくなる、ということなのです。もちろん、死は辛いです。クリスチャンであっても病や痛みを経験し、癒されることを願います。しかし、イエス様のことばを手放さないで大切に守っていくとき、死を乗り越えた希望を見つめて生きる者とされていくのです。
 イエス様は、「わたしはあなたを休ませる」と言われました。「わたしはあなたに平安を与える」と言われました。「わたしはあなたに自由を与える」とも言われました。「わたしを信じる者は決して渇くことがない」「わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない」とも言われました。そのイエス様のことばを信頼し、生きていけることは、なんと幸いなことでしょう。

4 ユダヤ人たちの反論「あなたはアブラハムよりも偉大なのか」

 さて、イエス様が「わたしのことばを守るなら、決して死を見ることがない」と言われると、ユダヤ人たちは、「何を言うのか。昔の預言者たちも父祖であるアブラハムも、神様のことばを大切に守っていたのに死んでしまったではないか。おまえは、何様だ。アブラハムよりも偉大だというのか」と詰め寄ってきました。

5 イエス様の答え「アブラハムはわたしの日を見ることを思って大いに喜んだ」

 すると、イエス様は、56節で「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」と言われました。どういう意味でしょうか。
旧約聖書では、「神様が、将来、まことの救い主を送ってくだる。その方は、アブラハムの子孫から出て、すべての民がその方によって祝福される」という約束が書かれています。アブラハムは、そのすべての民に祝福を与える救い主の訪れを期待して喜んだのです。アブラハムは、実際にイエス様が救い主として来られたのを見たわけではありません。では、なぜイエス様は「彼はそれを見て、喜んだのです」と言われたのでしょうか。
 ヘブル人への手紙11章13節に、アブラハムをはじめ信仰に生きた人々について、こう書かれています。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」つまり、アブラハムだけではなく、信仰に生きた人々が皆、やがて来るべき救いが訪れることを確信して待ち望み、それを喜びとして歩んだというのです。ですから、56節でイエス様が「アブラハムは、わたしの日を見て、喜んだ」と言われたのは、アブラハムが信仰の目で、将来の救い主の到来を見ていたのだということなのです。そして、「そのアブラハムが待ち望んでいた救い主とは、わたしのことだ」と言われたのです。

6 ユダヤ人たちの反論「あなたはアブラハムを見たのか」

 さて、イエス様がまるで実際にアブラハムに会ったかのように話されたので、ユダヤ人たちは、「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たというのか」と言いました。
 アブラハムは、イエス様の時代から約千八百年も前の人ですから、普通の人間なら、どんなに長生きの人でも実際にアブラハムに会ったはずはありませんね。では、なぜ彼らは、ことさらに「五十歳」という年齢を言ったのでしょうか。
 民数記には、神様の前で奉仕をする人たちの年齢について書かれています。30歳から正式に奉仕を開始し、50歳で定年退職することになっていました。イエス様は、このとき三十歳を少し過ぎた年齢です。当時の社会では、まだ新米の若造です。そのイエス様に「まだ五十歳になっていないのに」と言ったのは、「お前は、まだ何も知らない若造ではないか。人生の長老と言われる人たちと違って、世の中のことも何も知らないではないか。それなのにアブラハムがおまえを見たなどと、よくもぬけぬけと言えたものだ」と、イエス様を蔑んで言ったのではないかと思うのですね。

7 イエス様の答え「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」

 すると、イエス様は、こう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」これは、この8章の総まとめのような、とても大切な言葉です。
 「わたしはいる」という言葉は、いままでも何度も出てきましたね。この言葉は、原語のギリシヤ語では「エゴー・エイミ」といいますが、「わたしはある」という意味です。旧約聖書で神様は、ご自分の名を聞かれたときに「わたしは、『わたしはある』という者である」とお答えになりました。「わたしはある」というのは、神様を示す言葉なのです。ですから、イエス様は、ここで、「わたしは、神である。永遠の存在者であり、アブラハムの生まれる前からずっと存在していたのだ」と言われたわけです。
 イエス様は、父なる神、聖霊と共に三位一体の神なる方です。天地が創造される前からおられ、永遠に存在しておられるかたです。その方が、私たち人間と同じ姿をとって、私たちのものに下りてきてくださった、神が人となってくださったのがイエス様です。このヨハネの福音書は、イエス様が、天地創造の時にも、アブラハムの時代にも、モーセの時代にも、預言者イザヤの時代にも、どの時代にも、すべての時間を超越して「わたしはある」という存在であることを、私たちに伝えようとしているのです。旧約聖書の時代の人々は、救い主の来られる日を待ち望みつつ生きていましたが、その救い主こそ、イエス様ご自身だということを伝えているわけです。そして、今の私たちの時代においても、イエス様は「わたしはある」という存在であり、私たちといつも共にいてくださる方なのです。
 しかし、ユダヤ人たちは、イエス様の言葉を聞いて、ついに怒りが爆発し、石を取ってイエス様に投げつけようとしました。イエス様がご自分を神だと言われたのは、神を冒涜することだと考えたのです。神を冒涜する者は、石で打ち殺すことになっていました。それで、彼らは石を投げつけて死刑にしようとしたわけです。彼らは、実際に目の前に救い主を見たにもかかわらず、信じることができなかったのです。
 旧約聖書の中の信仰に生きた人たちは、将来、救い主が来られることを信じ、望みを持って生きていきました。今、私たちは、イエス様こそその救い主であることを聖書を通してはっきり知ることができます。イエス様の十字架と復活によって実現された救いを受け、喜びつつ、永遠の希望をもって歩む者とされているのです。
 ヘブル人への手紙13章8節には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と書かれています。今日も「わたしはある」と語られるイエス様を人生の救い主としてあがめ、「我が主、我が神」と賛美し礼拝しながら歩んでいきましょう。