城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年六月九日              関根弘興牧師
                ヨハネ九章一節ー十二節

ヨハネの福音書連続説教30
  「神のわざが現れるために」

1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。8近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。(新改訳聖書)

 今日から9章に入ります。イエス様が道の途中で生まれつきの盲人に出会われた出来事が書かれていますね。
 私たちは、毎日、いろいろなものを選び取って生活していますね。しかし、自分では選ぶことができないことがあります。それは、どのように生まれてくるかということです。
 考えてみると、「生まれ」に関することほど不公平なことはありません。裕福な家に生まれる人もいれば、貧しい家に生まれる人もいます。健康で生まれる人もいれば、病弱で生まれる人もいます。どのように生まれるかは、自分では選び取ることができませんね。そこで、不公平感を覚えることもあります。
ある中学生がこう言いました。「頼みもしないのに、なんで俺を産んだのさ。まったく!」自分の生まれに関して、どうしようもない腹立たしさを覚えることもあるでしょう。
 さて、今日の箇所に登場するのは、「生まれつき」の盲人です。生まれつきですよ。自分で選んで盲目になったわけではありません。「なぜ私がこんな苦しみに会わなければならないのか」という思いをいつも持っていたに違いありません。8節には、「すわって物ごいをしていた人」と書かれていますね。当時、盲人は、乞食をするほかに生きる道はありませんでした。社会の底辺に生きるしかなかったのです。
 それに加えて、人々は、盲目になった原因は、この人自身か両親の罪のせいだろうと勝手に判断し、評価していました。つまり、人が背負っている不幸の原因は罪の結果だと考えて、非難や軽蔑の態度をとる人が多かったのです。そして、なんとイエス様の弟子たちですら、「この人がこうなったのは、だれのせいですか。だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それとも両親ですか」とイエス様に尋ねる始末です。
 私たちは、時には、大きな苦しみや不幸と思われることを経験します。そして、その苦しみや不幸の原因を一生懸命探ろうとするのです。
 私たちは、苦しみの原因は過去にあるのではないかと考えることが多いですね。そして、過去にさかのぼって考え始めると、どうなるかというと、弟子たちが言ったように「本人が罪を犯したからだろうか? それとも、親の因果が子に報いたのだろうか? それとも先祖に何か問題があったのだろうか?」というふうになっていくのです。
 昨年、「世の光の集い」でお会いした方ですが、この方は、何度か病気を繰り返したとき、ある宗教団体に行かれたそうです。すると、「あなたの先祖は武士で、その武士の罪があなたの脊髄に流れている。だから、自分の罪をきよめ、そして、先祖の罪も清めなければ救われない」と言われたそうです。自分の罪さえ自分できよめることができないと思っていたのに、まして、先祖の罪をどうしてきよめることができるだろうと、うずくまってしまったそうです。そして、救われる道などないと思ったそうです。
 しかし、この方は、図書館で借りた一冊の本がきっかけとなって教会に行き、イエス様の十字架の話を聞きました。イエス様が、なんと、私のすべての罪を背負って十字架についてくださった、私が罪をきよめるために一生懸命努力するのではなく、イエス様が私の身代わりにすべての罪を背負ってくださった、このことを知ったとき、本当にほっとして人生を歩むことができるようになった、と話してくださいました。

1 イエス様の見方

さて、この生まれつきの盲人に対して、イエス様は、なんと言われたでしょうか。
 3節で、イエス様は、こう答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と。
 イエス様の見方は、私たちの見方とは、まったく違っていますね。イエス様は、今ある苦しみや不幸と思われる現実を、過去にさかのぼって見ることはなさらないのです。
 先日の召天者記念礼拝でもお話しましたが、今の現実を見る見方は、二つあります。
 一つは、「過去に基づいて今を見る」という見方です。この見方をすることで、わかることもたくさんありますよ。たとえば、「今日は調子悪いんですよ」「どうしてですか?」「はい。昨日食べすぎてしまって」というように、明かな原因が過去にあることがはっきりしていれば、その習慣を改めたり、注意すればいいわけですね。
 でも、過去を調べてもわからないことはたくさんあります。何の原因も思い当たらないのに、突然、不幸と思われることが起こることがあります。いくら気を付けて生活していても病気になることもあります。クリスチャンとして誠実に生きていても苦しみや困難が起こることがあります。過去を探っても、原因がわからないことがたくさん起こるのです。そういうときに、私たちは、ともすれば、自分が悪いからだといたずらに自分を責めたり、人のせいにして恨んだり、先祖のたたりではないかとおびえたりしますね。でも、それは、何の解決にもならないし、恐れや不安や虚しさに束縛されることになってしまいます。
まして生まれつきという状態は、過去を調べようがないわけですね。
 しかし、イエス様は、もうひとつの見方を大切にする必要があることを教えておられます。それは、「まだ見ぬ未来に希望をもって今を見る」という見方です。イエス様は、生まれつきの盲人を見て、「神のわざがこの人に現れるためです」と言われました。つまり、過去に原因を探るのではなく、「これからこの人の人生に神のわざが現されようとしている。そのために今があるのだ」という見方なのです。
つまり、私たちには不幸に見える、マイナスに思えることすらも、神様は、そのことを通してみわざを現してくださるというのです。どのようなみわざを現してくださるかは、神様がお決めになることですから、私たちの希望通りにならないこともあるかもしれません。でも、すべてのことは、神様の計画の中にあることを信頼し、神様にゆだねて、希望をもって生きていくことができるのです。私たちに起こるすべてのことは、神様のみわざが現れるためにある、とイエス様は約束してくださっているのです。
 私の叔父は、十五年ほど前に亡くなりました。六十三歳でした。叔父は、幼少の頃、水頭症という病気をわずらいました。今は、治療法もあるようですが、当時の叔父は十分な治療を受けることができませんでした。そのため知能的にはやや劣り、医者からは長く生きられないだろうと言われていましたが、六十三歳まで生きました。
 この叔父は、いつもニコニコしている人でした。叔父は、二十歳のころ、私の父の影響で教会に行くようになり、イエス様を信じました。その後、教会に行くこと、大きな声で賛美することが人生の大きな楽しみとなりました。毎週、おぼつかない足で一時間くらいかかるところにある教会まで通い続けました。子どもの頃は、いじめられ、無視され、馬鹿にされたこともあったことでしょう。しかし、叔父は、イエス様との出会いによって大きな慰めと安心を得ました。叔父には、能力的に優れたところはこれと言ってありませんでした。でも、笑顔がありました。金銭的にも決して恵まれていませんでした。でも、笑顔がありました。話すことも得意でなく、歌うことも得意でありませんでした。でも、素敵な笑顔がありました。教会に行っても、そこにいるということ以外は、あまり役に立たなかったかもしれません。でも、そこには笑顔がありました。歩くこともしゃべることもうまく出来なくなってからも、笑顔だけは同じようにそこにありました。人をだますことやうそをつくことはできませんでした。人を恨むこともしませんでした。恥ずかしがり屋で照れ屋でした。でも、いつもいつも、そこに笑顔がありました。
 「神のわざが現されるために」とイエス様は言われましたが、叔父の生涯を振り返ると、イエス様の約束は、叔父の生涯においても実現したんだなと思います。生まれつきの盲人の生涯にだけでなく、私の叔父の生涯においても、神のわざが現されたのです。
皆さん、自分ではわからない苦しみや悲しみの原因を過去にもどって探ろうとするのは、賢明なことではありません。人から見たら不幸と呼ばれるかもしれない現実さえも通して神様がみわざを現してくださる、という約束を信頼して、今を生きていきましょう。

2 私たちが行う神のわざ

 さて、イエス様は、私たちの生涯に神様のわざが現されると言われましたが、次に、4節を見ると、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません」と言っておられます。私たちが、神様のわざを行わなければならない、というのです。これは、どういう意味でしょうか。もちろん、私たちは人間ですから、神様のような超自然的な力をもって神様のようなわざを行うことなどできませんね。私たちが神様のわざを行うというのは、そういう意味ではありません。
 では、どういうことかといいますと、以前学んだ6章29節の言葉をもう一度見て見ましょう。こう書かれていますね。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 
 「神が遣わした者」、つまり、イエス様を私たちが信じること、それが「神のわざ」だというのです。「私たちが神のわざを行う」というのは、私たちが過去に捕らわれて出口のないあきらめとむなしさの中で生きるのではなく、現実の苦しみの中にあっても、イエス様を信じ、イエス様の約束を受け入れて、神様が最善なことをなしてくださることを期待しながら生きていくことなのです。
 聖書には、様々の約束が記されています。ローマ人への手紙 8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書かれています。
また、コリント人への手紙第一の10章13節には、こう書かれています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
 そして、エレミヤ書29章11節には、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と書かれています。
 こういう聖書の約束を信頼して生きること、それを主は私たちひとりひとりに求めておられるのです。
 そして、私たちがイエス様を信じ、神様の約束を信頼していきるというわざは、昼の間に行わなければならない、とイエス様は言われました。昼の間、つまり、「世の光」であるイエス様が私たちのもとにおられる間に、イエス様を信じることが大切だというのです。
 そして、その私たちが行うべき神のわざがどういうものであるかを示す具体的なサンプルとして、イエス様とこの盲人とのやりとりが続くわけです。

3 シロアムの池

 イエス様は、この盲人に奇妙なことをなさいました。つばきで泥を作って、その泥をこの盲人の目に塗られたのです。確かに、つばきの中に癒しの力があると考えられていたこともありました。しかし、つばきでこねた泥を目に塗るのは、まったく馬鹿げたことのように思われますね。まさか、美顔パックの先取りをしたわけではないですよね。盲人にしてみれば、突然、目に泥を塗られて、戸惑ったのではないでしょうか。日本で「あの人は、私に泥を塗った」と言うのは、決して良い意味ではありませんね。恥をかかされたとか、名誉を傷つけられたという意味ですよね。イエス様は、その場で、すぐにこの盲人の目を見えるようにすることもできたはずです。それなのに、なぜわざわざ盲人の目に泥を塗られて、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのでしょうか。
 聖書の神様は、時々、その人の本気度をお試しになるようですね。
 旧約聖書の第二列王記5章に、アラムの将軍ナアマンの話が出てきます。彼は、重い皮膚病を患っていました。当時、イスラエルにエリシャという預言者がいましたが、ナアマンは、このエリシャが自分の病気を癒すことができるかもしれないという話を聞き、たくさんの贈り物を持ってエリシャのもとに行きました。すると、エリシャは、アラムの首脳級の人物が来たのに、迎えに出てくることもせず、召使いにこう言わせたのです。「ヨルダン川で七度身を洗えばいやされます」と。ナアマンは「そんな簡単なことで私の病がいやされるはずがない」と腹を立てて帰ろうとしましたが、部下に説得されて、ヨルダン川に行き、七度身を沈めると、すっかり癒されたのです。
ナアマンは、エリシャを通して語られた神様の言葉に従ったとき、いやされました。私たちも、自分の人生の中に神様のわざが現されることを願うなら、聖書を通して語られた神様のみことばを信頼して、その通りに生きてみることが大切だということなのです。私たちが、神様のわざを行う、つまり、イエス様を信じ、みことばに従って生きていくとき、神様が私たちの人生にみわざを現してくださるのです。
 さてこの盲人は、イエス様に泥を塗られても文句も言わず、イエス様の言われた通り、シロアムの池に言って目を洗いました。イエス様の言葉に素直に従ったのです。なぜでしょう?
 きっと、この盲人は、それまでいつも人々から非難と軽蔑の目で見られていたはずです。生まれつき盲目であるという自分ではどうしようもできない問題をかかえたまま、八方ふさがりで、自分はなぜ生まれてきたのかと嘆きながら、夢も希望も持てずに暮らしていたでしょう。
 しかし、イエス様が近づいてこられ、「この人が盲目なのは、神のわざがこの人に現れるためです」と言われたのです。今まで聞いたことのない言葉でした。イエス様に出会って、この盲人は初めて希望を持つことができたのです。そして、この方の言葉に従ってみよう、という思いが与えられたのです。そして、イエス様の言葉に従って、シロアムの池に行って洗うと、目が見えるようになったのです。
 ところで、このシロアムの池というのは、エルサレムの南東部にある池で、7節には、「シロアム」とは「遣わされた者」という意味である、という注釈がわざわざ書かれていますね。
 実は、ここには、象徴的な意味があります。神から遣わされた者とはいったいだれですか?イエス・キリストのことです。つまり、シロアムの池に行って洗うと目が開かれるというのは、イエス様の言葉を信頼し、イエス様のもとに行って洗うなら、目が開かれる、という救いのメッセージなんです。
 イエス様が、十字架について流してくださった血は、私たちをすべての罪からきよめることができます。そして、三日目によみがえられたイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様は、世の光として私たちを照らし導き、また、決して渇くことのないいのちの水を与えてくださいます。 神様から遣わされた方であるこのイエス様のもとに行くとき、私たちは、目が開かれ、すべてのことを働かせて益としてくださる神様が私たちの人生を導いておられることを知り、神様のわざが現される生涯を歩む者とされるのです。
 教会の歴史の初めの頃、ローマ政府による大きな迫害がありました。その時代のクリスチャンたちは、地下の墓に集まって集会をしていました。彼らは、壁にいろいろな絵を描きました。その中に、今日のシロアムの池の出来事を題材にした絵があるのですが、その多くが、洗礼式とだぶらせて描かれているそうです。シロアムの池に行って泥を洗い落とした盲人と、イエス様への信仰を表明して洗礼を受ける人々をだぶらせて理解していたようです。
 
 今日の箇所を通して、私たちは、改めて、未来に希望を持つ見方、神のわざが現されるという見方を自分の中にしっかりと植え付けていきましょう。そして、神のわざに生きる者、つまり、神様の約束を信頼して生きる者として歩んでいきましょう。
 コリント人への手紙第二の5章17節でパウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 過ぎ去った過去ではなく、イエス様の与えてくださる将来を希望を見つめ、永遠のまなざしをもって歩んでいきましょう。