城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年六月二三日             関根弘興牧師
               ヨハネ一〇章一節ー二一節

ヨハネの福音書連続説教32
    「良き羊飼い」

 1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
 7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」(新改訳聖書)


 今日は、10章に入りました。この10章の良き羊飼いのたとえは、大変有名ですが、前回の9章からの続きとして語られたものです。
 9章では、イエス様が生まれつきの盲人の目を見えるようにされたことが記されています。しかし、当時のパリサイ人たちは、このいやしの事実を受け入れようとしませんでした。それどころか、イエス様が安息日のきまりを破ったということで、イエス様を非難し、また、見えるようになった人を会堂から追い出してしまったのです。
 彼らは、自分たちこそ聖書を最もよく知っている、理解していると自負していました。そんな彼らに、イエス様は、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」と厳しい言葉を発せられました。そして、それに続けて、今日の良き羊飼いのたとえを話されたのです。
 しかし、6節にあるように、「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった」というのです。そして、イエス様が続けて「わたしは門です。私は良い牧者です。わたしは、わたしの父の命令を受けて自分からいのちを捨てるのです」とお話になると、ますます混乱して、ある者は「あれは悪霊につかれて気が狂っている」と言い出し、また別の者は「悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか」と反論し、ここでもまた分裂が起こったというのです。
今日の箇所でイエス様が語られたたとえ話は、彼らが理解できないほどに難しい話でしょうか。分裂騒ぎになるような話でしょうか。素直に心を開いて聞くことが、大切ですね。

さて、私たちは、日本では羊飼いの姿を見ることができませんので、今日のたとえ話はなかなかイメージしにくいかもしれません。羊飼いというと、野原で羊の様子をぼんやり眺めているような何かのんびりとしたイメージがありますよね。しかし、実は、なかなか大変な仕事なのだそうです。
羊は、弱く、頭の悪い動物で、自分の力では生きていけません。自分で草や水を探し出すことができないし、すぐに迷子になってしまいます。外敵に襲われても自分の身を守る力がありません。ですから、羊という家畜は、羊飼いがいなければ、はるか昔に絶滅していただろうと言われています。そういう羊の群れを守らなければならないのですから、羊飼いは大変です。
 パレスチナ地方の狭い高地の両側には、岩のごつごつした荒れ地が続いています。羊がそこに迷い込んで行方不明になる危険が常にありました。もし一匹でも羊がいなくなったら、羊飼いは荒れ地を探し回らなければなりませんでした。また、野生の動物や盗人や強盗が羊を狙っていましたから、そういう敵に備えて常に見張りをし、襲われたときには羊を守って戦わなければならないわけです。また、羊のために緑の牧草地を見つけるのも大変な仕事でした。
 羊飼いは、羊一頭一頭に名前をつけており、それぞれの羊をよく知っていたそうです。そして、羊も羊飼いの声が分かったというのです。
 ジョージ・アダム・スミスという人がパレスチナ地方を旅行したとき、ひとつの井戸の所に三、四人の羊飼いがそれぞれの羊の群れを連れてやって来たそうです。彼らは、井戸から水を汲み、羊たちに飲ませるのですが、いつのまにか群れがごちゃ混ぜになってしまったのだそうです。どれがどの群れの羊だか端から見ていると全くわからなくなってしまったというのですね。しかし、しばらくして、それぞれの羊飼いが独特の声をあげて羊たちに合図すると、なんと見事に元通りに群れが分かれていったのだそうです。羊飼いはいつも羊と共にいるので、羊は羊飼いの声を聞き分けることができるわけですね。
 また、羊を入れる囲いには、二種類あったそうです。ひとつは、村の中にある中庭のようなところに囲いを作り、入り口に頑丈な扉をつけて羊を入れて世話をするものです。一方、暖かい季節になると羊は高原に放牧されるのですが、放牧の期間中は、丘の中腹に作られた囲いに集められるのだそうです。それは、ただ壁に囲まれただけのもので、入口には戸もついていません。夜になると、羊飼いがその入口に寝そべって羊が外に出ないようにし、また、外敵が進入しないように守るというのです。羊飼い自身がその囲いの門となって世話をするというわけですね。
 ですから、羊飼いは、羊を愛し、忍耐強く羊を導き、外敵から羊を守る存在でした。そして、一匹一匹の羊をよく知っているのです。羊は、そういう羊飼いに見守られているからこそ安全に生活できるわけです。
 皆さん、聖書では、私たちは、弱い羊にたとえられています。そして、主が、羊飼いと同じように私たちを見守り、導いてくださると約束されています。詩篇23篇1節には、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」とあります。また、イザヤ40章11節には、「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」とあります。聖書は、天地を創造された主が、わたしたちの羊飼いだと教えているのです。
今日の箇所でも、イエス様は、ご自分が羊の門であり、良き羊飼いであると宣言されていますね。そのイエス様のことばを学んでいきましょう。

1 門から入らない者

 まず、イエス様は、門から入らないで、ほかの所を乗り越えて羊の所に来る者がいる、それは、盗人で強盗だと言われました。
 門から入らない者とは、どういう人のことでしょうか。7節でイエス様は、「わたしは羊の門です」と言っておられますね。つまり、門から入らない者とは、イエス様という門を通らない者ということです。
 また、8節でイエス様は、「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です」と言われていますが、この「わたしの前に来た者」とは、一体だれのことでしょう。イエス様が来られる前に来た旧約聖書の預言者たちのことでしょうか?そうではありません。羊飼いは、早朝に羊たちのところに行って囲いから出し世話をするわけですが、その羊飼いより早く来た者ということは、夜中に来た者ということです。それは、暗闇に紛れてこっそり羊をねらう盗人です。神様のみこころに反して、羊を盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来る者たちです。
 このたとえ話を聞いているのは、パリサイ人たちでした。彼らは、民を指導し、戒めを教える立場であり、自分たちが神の選民であるこの羊の群れを養う羊飼いであるかのような思いを持っていました。しかし、イエス様は、本当の羊飼いとして羊のもとに近づこうとする者は、皆、イエス様という門をくぐって入らなければならない、もし門から入らないなら、かえって盗人や強盗のように羊に害を及ぼす者、自分の利益のために羊を食いものにする者だと言われているのです。
門から入らない者は、盗人で強盗だという、このイエス様の言葉は、教会にとって非常に大切なことを教えていますね。教会は、ひとつの群れです。その群れのために牧師や伝道師が遣わされるわけですね。その教会という群れを牧する働きに携わるためには、必ずイエス様という門を通らなければならないということです。イエス様以外の道を通ろうとしてはいけないのです。
 ヨハネがこの福音書を書いているとき、すでに教会ができ、多くの人たちがイエス様によって救いを受け、クリスチャンとして歩んでいました。たくさんの人々が喜びをもって主を受け入れていったのです。しかし、一方で、その羊に近づき、奪おうとする働きもたくさんありました。その特徴は、イエス様という門を通らないということでした。「イエスが救い主だって? 十字架につけられて死んでしまったイエスがどうして救い主なんだ」「イエスを信じれば救われるだって?そんな簡単に救われるわけがない。もっと修行や努力をしなければだめだ」「イエスが、神であり、人であるなんてことがあるはずがない。何と愚かなことを言っているんだ」「死者が復活するなんてことがあるばずがない」などと言って、羊たちを混乱させる者たちがたくさん現れていたのです。そういう状況の中で、ヨハネは、イエス様が言われた「わたしという門を入らない者は盗人で強盗です」という言葉を思い起こし、この福音書にはっきりと記すことによって、クリスチャンたちに警告しているようです。

2 羊の門

 さて、イエス様は7節で「わたしは羊の門です」と言われました。そして、9節で「だれでも、わたしを通って入るなら、救われます」と言われました。つまり、誰もが皆、イエス様を通ることによって、救われるというのです。教会には、牧師や指導的な役割を果たす人もいます。しかし、イエス様によってでなければ救いはないという点では、みな同じです。イエス様を通って入る人々、つまり、イエス様を救い主として信じる一人一人に対して、イエス様は、「だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます(つまり、安らかに生活し、養いをうけることができる)」と約束してくださっているのです。

3 良い牧者

 また、イエス様は、11節で「わたしは、良い牧者です」と言われました。良い羊飼いであるイエス様は、私たちのために、どんなことをしてくださるのでしょうか。

@羊を引き出す方

 イエス様は、まず、4節で、よい羊飼いの姿、つまりご自身の姿をこう言っておられます。「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。」
 この「自分の羊をみな引き出す」という言葉は、9章でパリサイ人たちが見えるようになった盲人を会堂から追い出した出来事を背景にして考えると、特別な意味が含まれているように思われます。つまり、イエス様はこの話を聞いているパリサイ人たちに向かって、暗に、こう言っておられるようです。「あなた方は、目が見えるようになった盲人を会堂から追い出してしまった。しかし、別の見方をすれば、それは、わたしがその人をわたしの羊として引き出したということなのだ」と。パリサイ人たちによって追い出され追放されてしまうというのは悲しい出来事です。しかし、イエス様は、「それは悲しみで終わるのではなく、安らかで豊かな養いを受けることができる新しい人生に引き出されたことなのだ」と言われているわけです。
 
A羊のためにいのちを捨てる方

それから、イエス様は、11節で「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われました。
 「でも、羊飼いが命を捨ててしまったら、残った羊の世話をする人がいなくなってしまうじゃないか」と考える人もいるかもしれませんね。しかし、イエス様は、命を捨てるほどに一人一人を愛していてくださる羊飼いなんです。そして、イエス様は、10節で、不思議なことを言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
私たちは命を捨てたら、それでおしまいですね。しかし、イエス様が羊のために命を捨てるのは、羊がそれによって、命を得るため、しかもいのちを豊かに持つためだと言われたのです。イエス様の死は、私たちが豊かないのちを得ることに繋がっているというのです。不思議な言葉ですね。
 ヨハネ12章24節では、イエス様はこう言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様がいのちを捨てることが、豊かな実を結ぶ結果に繋がるというのです。
 そして、私たちは、聖書を読み進めていくとき、イエス様がいのちを捨てるということの具体的な意味を知ることができます。
 それは、イエス様の十字架の死を意味しています。イエス様の十字架は、良き羊飼いが羊のためにいのちを捨てた場所です。正しい神様の前に出たら、私たちは、みんな罪人です。そして、罪から来る報酬は死以外にはありません。しかし、私たちの羊飼いは、羊を愛しているが故に、一匹の羊も失われることのないように、私たちの罪をすべて背負って、十字架についてくださったのです。そして、イエス様は死を打ち破って三日目によみがえられました。私たちは、その復活のイエス様によって、豊かないのちを与えられ、いつも良き羊飼いであるイエス様に導かれ養われながら歩んでいくことができるのです。

B羊のことを心にかけている方

 また、良き羊飼いであるイエス様は、羊のことをいつも心に掛けておられます。
 1ペテロ5章7節には、こう書かれています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
いつも心にかけられているということは、嬉しいことですね。私は、この間久しぶりにある人に会いました。なかなか名前がでてこないんです。「先生、もう私のこと、忘れちゃったんでしょう。」そう言われると心が痛いですね。思い出せないだけなんですよ。私は、忘れることに関してはプロです。一度見た映画も、一年もすればすっかり忘れて、また初めてみる映画のように楽しめるんですね。
 でも、イエス様は、私たち一人一人を決してお忘れになることはありません。いつも心にかけておられます。3節に「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」と書かれていますが、イエス様は、私たち一人一人の名を呼んでくださるのです。
 イザヤ49・15ー16には、こう書かれています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」これがイエス様の心です。

C羊のことをよく知っている方

 イエス様は、私たち一人一人を心にかけてくださっているだけでなく、私たち一人一人のことをよく知っておられる方です。私たちの性格も個性も長所も弱さも知っておられるのです。そして、すべてを知った上で、愛してくださっているのです。愛してくださる方にすべてを知られているなら、安心できますね。なぜなら、イエス様の前では、気負う必要もありませんし、格好つける必要もないのですから。イエス様は、私たちのありのままをよく知っておられるんです。どうして、この方から隠れて生きる必要があるでしょう。てらわずに正直な自分であっていいのです。
 イエス様は、また、こう言われました。「また、わたしのものは、わたしを知っています」「羊はその声を聞き分けます」「羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」
イエス様を信じる人々は、イエス様を知っていて、イエス様の声を聞き分け、イエス様について行くというのです。どうしてそのようにできるのでしょうか。
 イエス様を信じる私たちの内には、聖霊が宿ってくださいます。その聖霊が私たちにイエス様がどんな方であるかを知らせ、イエス様の声が聞き分けられるように助けてくださいます。そして、イエス様を愛し従っていきたいと願う思いをもたせてくださるのです。私たちは、その聖霊のみわざに導かれつつ、いつもイエス様とともに歩む生活の中で、また、聖書を通して、イエス様の愛と恵みを学んでいくことができるのですね。このことは、この福音書の14章以降の大切なテーマとしてイエス様がお語りになっていますので、その時にまた詳しく学んでいきましょう。
 今、世の中にはいろいろな声があふれていますが、私たちは、イエス様の声を聞き分けて歩んでいくのです。本物と偽物を見分けるために一番いい方法は、いつも本物にふれていることだそうです。銀行員は、いつも本物のお札に触れているので、偽札が紛れていてもすぐわかるそうです。
 ですから、私たちはいつもイエス様と共に歩み、聖書の約束の言葉を学び信頼して生きていくことが大切なのです。

D囲いに属さない羊をも導く方

 それから、イエス様は、16節で「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」と言われました。
 これは、神の選びの民と言われたユダヤ人だけでなく、異邦人もイエス様によって集められ、導かれていくということです。つまり、イエス様を信じる者は皆、イエス様を羊飼いとする一つの群れとなっていくというのです。
私たちは、「私はこの教会に属している」とか「あの教会に属している」とか言いますが、もっと大きな視点から見るなら、すべての教会に属する人々が主にあって一つの群れとされているのです。
 パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節でこう言いました。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」
 皆さん、私たちはみな違いのある者です。性別も、年齢も、人種も、国籍も、肌の色も違っています。しかし、そのような違いは、問題ではありません。キリストにあって集められ、一つとされているのです。イエス様は、あらゆる隔ての壁を打ち壊す方です。

 イエス様という良き羊飼いが私たち一人一人の名を呼んで導いてくださいます。そのイエス様がお語りになった9節、10節の言葉をもう一度ご一緒に読んで、この約束を覚えつつ歩んでいきましょう。 
 「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」