城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年六月三〇日             関根弘興牧師
               ヨハネ一〇章二二節ー三〇節

ヨハネの福音書連続説教33
    「あなたはキリストか?」

22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。30 わたしと父とは一つです。」(新改訳聖書)


 ヨハネの福音書の特徴の一つは、ユダヤのいろいろな祭りと重ね合わせて、イエス様のみわざや言葉を紹介しているという点です。
 たとえば、6章では、「過越の祭り」の時期に、イエス様が五つのパンと二匹のさかなを用いて五千人を養われたという出来事が紹介されています。
 過越の祭りは、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民を神様が救い出してくださったことを記念する祭りです。祭りの初めに人々は子羊をほふり、一週間、種を入れないパンを食べることになっていました。その時期に、イエス様は五千人にパンを分け与え、「わたしはいのちのパンです」と言われたのです。
 また、7章では、「仮庵の祭り」の時にイエス様がお語りになったことが書かれています。
 以前、学びましたように、「仮庵の祭り」は、エジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルの民が約束の地へ向かって荒野の旅している間、神様が守り導き、養ってくださったことを記念する祭りです。荒野の旅の間、神様は、毎日マナというパンを与え、水を与え、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導いてくださいました。そこで、この祭りの間、人々は、荒野でのテント生活を記念して木の枝で作った仮庵で生活し、神様が水を与えてくださったことを記念して泉から水を運んで祭壇の脇にそそぐ儀式を行い、また、神様が火の柱で導いてくださったことを記念して、大きなたいまつを灯しました。ですから、「仮庵の祭り」は、「水の祭り」でもあり、「光を灯す祭り」でもあったわけです。
 その祭りの時に、イエス様は立って、大声でこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」 と。「わたしがあなたがたの本質的な渇きをいやすことのできる生ける水を与えよう」と言われたのです。また、イエス様は、こうも言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」つまり、「わたしこそあなたの人生を照らし導くまことの光だ」と言われたのです。
 このように、このヨハネの福音書では、それぞれの祭りで記念されている旧約時代の神様のみわざとイエス様には、本質的な関連があることが記されているのです。つまり、旧約聖書の中で示された神様の真理と約束が、イエス様によって完全に成就されたのだということを、この福音書は、様々な箇所で主張しているわけです。

1 宮きよめの祭り

 さて、今日の箇所は、冬に行われる宮きよめの祭りの時に起こった出来事だと書かれていますね。
 この祭りは、旧約聖書には出てきません。旧約聖書と新約聖書の中間の時代に起こった出来事に由来しているのです。
 紀元前二世紀の前半の頃、ユダヤの国は、シリアの支配下に置かれていました。シリアの王は、ユダヤ教を激しく弾圧しました。特に、シリヤの王アンティオコス四世は、エルサレムの神殿を略奪し、神殿の金をはぎ取り、神殿の器を持ち去って王の遊興のために使い、神殿でいつも灯されていた燭台の火も消してしまいました。神殿の輝きも光も失われてしまったのです。さらには、神殿の中にはゼウス像が置かれました。それだけでなく、律法の書物は焼き払われ、安息日や捧げ物などのユダヤ教の律法を守ることが一切禁じられてしまったのです。もちろん、これに従わない者には極刑が言い渡されました。
 しかし、この圧政に耐えかねたユダヤの祭司の家系のマカベアという人が、民を率いて反乱を起こしたのです。そして、三年間の戦いの末に、紀元前一六四年十二月二十五日、ついにエルサレム神殿を奪回し、憎むべき異教の像を叩き壊し、神殿の器を一新し、宮きよめを行ったのです。そして、消されていた燭台に再び光がもどりました。
 その後、この歴史的な出来事を記念して、宮きよめの祭りが行われるようになりました。ただし、この祭りは、他の祭りと違って、皆がエルサレムに集まってお祭りをするのではなく、それぞれの町や村で灯火を灯して祭りを行ったのです。それで、今日の出来事が起こった場所がエルサレムであるということが、わざわざ記されているわけです。
 さて、この「宮きよめの祭り」の時に、イエス様は、神殿のソロモンの廊と呼ばれる所を歩いておられました。すると、ユダヤ人たちが、彼らの間でくすぶっている問題の答えをはっきりと聞こうとして、イエス様を取り囲んだのです。

2 あなたはキリストか

 彼らが聞きたかったことは、24節に書かれています。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
 今まで見てきましたように、イエス様が盲人の目を癒されたのを目撃したり、「わたしは良き羊飼いです」と話されるのを聞いたユダヤ人たちの中では、イエス様に対する意見が分かれていました。そして、ちょうど「宮きよめの祭り」の時期になりました。宮きよめの祭りは、シリヤの圧政から解放されたことをきっかけに始まったわけですが、イエス様の時代になると、ユダヤはこんどはローマの支配下に置かれていたわけですね。そこで、彼らの中には、救い主キリストが来たら、そのローマの支配を打ち破ってくれるのではないか、という期待があったのです。それで、もしイエスがそのキリストであるなら、はっきりと教えてほしい、と思ったのですね。
それに対して、イエス様は、何とお答えになったでしょうか。25節で「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです」と言われたのです。
 「あなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と言われたのですから、「わたしこそキリストです」とはっきり答えればいいのではないかと思いませんか。それなのに、イエス様は、どうして、このような回りくどい答え方をなさったのでしょうか。
それは、ユダヤ人たちが考えている「キリスト」という言葉の意味と、イエス様が言われる「キリスト」の意味にずれがあったからです。
 「キリスト」というのはギリシャ語で、ヘブル語では「メシヤ」といいますが、もともとは「油注がれた者」という意味があります。王や祭司や預言者を任命するときに頭に油をそそぐ習慣がありました。つまり、「キリスト」とは、「王」「祭司」「預言者」として、神様から特別に選ばれ、任命された者という意味があったのです。
 今日の舞台である「宮きよめの祭り」のときにユダヤ人たちが考えていた「キリスト」の姿は、どういう姿でしょう。それは、以前シリヤの圧政から救い出してくれた英雄と同じように、こんどは、ローマの圧政に武力で対抗して解放をもたらしてくれる英雄というイメージが大変濃いわけです。そういうキリスト像を描いている人たちに対して、イエス様が「はい、わたしはキリストですよ」と答えると、大きな誤解を受けることになりますね。イエス様が来てくださったのは、政治的な解放のためではなく、罪や死の束縛から私たちを解放してくださるためでしたが、そのことが彼らにはまったくわかっていませんでした。
 そこで、イエス様は、「わたしはあなたがたに話したのに、あなたがたは信じようとしない」と言われたわけです。つまり、イエス様は、「わたしは、あなたがたが考えているような意味でのキリストではない。わたしがどのような意味でキリストであるかということは今まで何度も語ってきているし、それを証明するために様々のわざも行ってきているが、あなたがたは、それを理解しないし、信じようとしない」と言っておられるのです。
 
3 信じない理由
 
 イエス様は、続けて、どうして彼らがイエス様を信じないのかという理由をお語りになりました。26節にあるように、「それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」と言われるのです。
 「わたしの羊に属していない」というのは、どういう意味でしょうか。イエス様にとっては、すべての人が羊飼いを必要としている羊です。しかし、中には、「私は羊で、羊飼いが必要です」と素直に認める人もいれば、「私は羊なんかではない。自分の面倒ぐらい自分で見られる。羊飼いなんて必要ない」という人もいるのです。イエス様の羊に属することを自分から拒否しているのですね。
 イエス様は、ここで、「あなたはキリストですか」と質問したユダヤ人たちに対して、「あなたたちは、わたしがキリストであるかどうかはっきり答えを聞いて自分で判断しようとしているが、そもそもあなたたちには、自分が羊であるという自覚がありますか。その自覚のある人だけが、キリストという羊飼いの声を聞き分け、従うことができるのです」と言っておられるようです。
 彼らは、「イエスがキリストだと言ってくれれば、あとは自分たちできちんと判断できる」と考えていました。でも、信仰とは、イエスがキリストだと聞いて、自分で判断し、結論を下して信じることでしょうか?それは、ちょっと高慢のにおいがしますね。
 信仰というのは、そういうものではないと思うのです。皆さんがクリスチャンになったときのことを考えてみてください。キリストがどのような方で、どのようなことをされ、何故この方が救い主なのかなどと問われても、判断することも答えることもできなかったのではないでしょうか。でも、自分はひとりでは生きていくことができない弱い羊で、だからこそ、羊飼いが必要だと気づいたのです。自分には、罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださる方が必要だと気づいて、求め、イエス様を救い主として受け入れたのではありませんか。
 考えてみてください。幼稚園の子供が、大学の先生にこう言ったらどうでしょうか。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたが物理学の教授なら、はっきりとそう言ってください。そうすれば、自分たちであなたのことを判断しますから。」これは、ちょっとおかしなことですね。
 私たちには、自分でイエス様をキリストであると判断する力はありません。イエス様のほうから、私たちを捜し出し、私たちのもとに近づいてきてくださり、私たちの羊飼いとなってくださるのです。私たちは、そのイエス様の声を聞いて、信頼してついていくとき、イエス様がキリストであることがわかるのです。

4 わたしの羊

@「わたしは彼らを知っています」

 27節に、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」とありますね。羊が羊飼いについていくのは、羊が羊飼いをよく知っているからではなく、羊飼いが羊をよく知っているからだ、とイエス様は言われたのです。つまり、私がイエス様のことを知ったから、よし!がんばってついて行くぞ!と言ってついて行くのではなく、イエス様のほうが、私のことをすべてご存じだからこそ、ついていくというわけです。
 先週もお話ししましたように、私たちにとって、すべてをご存じのイエス様がいてくださるということはとても安心ですね。私たちの長所も短所も全てをご存じの上で愛し導いてくださるのですから、私たちは何も格好つける必要がなく、ありのままでついて行くことができるのです。

A「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」

 そんな一人一人に、イエス様は、永遠のいのちを与えると約束してくださいました。「永遠のいのち」とは、単なる長生きのことではありません。ヨハネの福音書は、「永遠のいのち」について、いろいろ面から説明しているのですが、28節には、このように書かれています。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」ここで、イエス様は、永遠のいのちに関して二つのことを約束しておられますね。
 一つは、「決して滅びることがない」ということ。もう一つは「誰もイエス様の手から私たちを奪い去ることはない」ということです。
 まず、永遠のいのちを与えられるとは、永遠に滅びることがないということです。ヨハネの福音書11章25節には、イエス様の有名な言葉が記されています。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と。私たちのこの肉体はいつかは朽ちていきます。しかし、肉体の死を乗り越えたいのちがあることをイエス様は約束されているのです。
 また、永遠のいのちを与えられるとは、誰にも奪われることのない人生が保障されているということです。人生には、いろいろな試練や困難があります。しかし、何があっても神様の愛、キリストの恵みから切り離されることはない、というのです。
ローマ人への手紙8章38節ー39節でパウロはこう書いています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
それから、29節には、「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」と書かれていますね。つまり、そもそも私たちは、天の父なる神様によってイエス・キリストのもとに導かれたのであり、イエス様の羊となった私たちは、すべてにまさって偉大なる神様の御手によって守られているということなのです。
旧約聖書の申命記7章6節には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」とあります。
 神様は、イエスキリストを通して私たちを選び、ご自分の宝の民としてくださいました。このことをご存じですか。弱く、迷いやすく、裏切りやすい羊であるにもかかわらず、私たち一人一人を宝として扱ってくださるのです。ですから、神様は、この宝がやすやすと奪われることのないようにしっかりと守ってくださるのです。このことを信頼して生きていきましょう。
 先日、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という絵本の朗読を聴きました。おじいちゃんと子供の話です。小さな子供は、いろいろなことを心配するわけです。頭の上から飛行機が落ちてこないだろうか。車にひかれないだろうか。これから学校に行って、難しい漢字が覚えられるだろうか。いろいろな心配があるわけですね。でも、その度に、おじいちゃんが「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と声をかけてくれるのです。そして、月日が流れ、おじいちゃんの最期が近づいてきました。すると、今度は、大きくなった子供が、おじいちゃんに「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と声をかけていく、という絵本です。
 「だいじょうぶ」、いい言葉ですね。逆に、何をしても「だめだめ」と言われたら、勇気が失せてしまいますね。ただし、誰に「だいじょうぶ」と言われるかによって、安心の度合いが違いますね。イエス様は、いつも私たちに「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と語りかけてくださいます。人生に困難なときもあります。思うに任せないときもあります。死に直面して恐れおののくこともあります。そのとき、いつも、主は「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と語ってくださるのです。だから、私たちは勇気を回復できるのです。一歩踏み出そうとする力が与えられていくのです

5 わたしと父とは一つです

そして、イエス様は、この話の締めくくりに、「わたしと父とは一つです」と言われました。
 イエス様は、ここで、難しい神学的な内容を語ろうとしておられるのではありません。イエス様がここで言おうとしておられるのは、「父の心は、わたしの心であり、わたしの心は父の心でもある」ということです。もちろん、それは、父なる神様とイエス様が同じ本質を持っておられ、聖霊なる神様と共に三位一体なる神様であることを示しています。私たちの神様は完全な調和、ハーモニーの中に存在しておられる方です。
 ヨハネの福音書17章で、イエス様は、父なる神様に向かってこのように祈っておられます。「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」イエス様は、ご自分と父なる神様が一つであるように、羊である私たちも同じように互いに愛し合いながら一つとされていくことを求めておられるのです。
 イエス様は、羊を愛し、羊のためにいのちを捨てることをも厭わないお方です。この方の愛によって私たちは生かされているのです。また、イエス様は、一人一人を宝として取り扱っていてくださいます。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と声をかけてくださるお方です。その方に愛されている私たち一人一人は、その愛に答えて、生きていくのです。イエス様が私たちに望んでおられること、それは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということです。これが、私たちが目指していく生き方です。この「互いに愛し合う」ということは、これから、この福音書を読む進めていく中で、大切なテーマとなっていきます。
 もう一度、申命記7章6節を読んで、お祈りしましょう。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」