城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年七月一四日             関根弘興牧師
               ヨハネ一〇章三一節ー四二節

ヨハネの福音書連続説教34
    「神の子イエス」

31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。35 もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。38 しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」39 そこで、彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。(新改訳聖書)


 今日は、10章の後半です。前回からの続きなのですが、ユダヤの祭りのひとつ「宮きよめの祭り」の最中に、イエス様とユダヤ人たちとの間で交わされた会話が記されています。
 宮きよめの祭りというのは、前回お話ししたように、旧約聖書と新約聖書の中間の時代に起こった出来事に由来している祭りです。
 紀元前二世紀前半の頃、ユダヤの国は、シリアの支配下に置かれていました。シリアの王は、ユダヤ教を激しく弾圧しました。特に、シリヤの王アンティオコス四世は、エルサレムの神殿を略奪し、神殿の金をはぎ取り、神殿の器を持ち去って王の遊興のために使い、神殿でいつも灯されていた燭台の火も消してしまいました。神殿の輝きも光も失われてしまったのです。さらに、神殿の中には、ゼウス像が置かれました。それだけでなく、律法の書物は焼き払われ、安息日やささげ物などのユダヤ教の律法を守ることが一切禁じられてしまったのです。そして、従わない者には極刑が言い渡されました。
 しかし、この圧政に耐えかねたユダヤの祭司の家系のマカベアという人物が、民を率いて反乱を起こしました。そして、三年間の戦いの末に、紀元前一六四年十二月二十五日、ついにエルサレム神殿を奪回し、憎むべき異教の像を叩き壊し、神殿の器を一新し、宮きよめを行ったのです。そして、消されていた燭台に再び光がともりました。
 その後、この歴史的な出来事を記念して、それぞれの町で宮きよめの祭りが行われるようになりました。
 この「宮きよめの祭り」の時に、イエス様が、神殿のソロモンの廊と呼ばれる所を歩いておられと、ユダヤ人たちが、イエス様を取り囲んで、言いました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
 彼らの中には、「このイエスは、ひょっとすると、昔シリヤの圧政から神殿を奪い返したマカベアのような者かもしれないぞ。もしかすると、今のこのローマの圧政から救い出してくれる救い主(キリスト)かもしれない」、そんな思いがあったのでしょう。そう言う意味で、「もしあなたがキリストなら、はっきりと言ってください」と言ったわけです。
 彼らの救い主のイメージは、政治的なヒーローでした。しかし、イエス様は、政治的なヒーローとして来たわけではありません。私たちの人生の救い主、私たちを罪から解放し、永遠のいのちを与える救い主として来てくださったわけです。
 ですから、イエス様は、彼らの問いに対して、「そのとおり、わたしはキリストだ」とは答えずに、「わたしはあなたがたに話したのに、あなたがたは信じようとしない」と言われたのです。それは、どういう意味かと言いますと、「わたしは、あなたがたが考えているような意味でのキリストではない。わたしがどのような意味でキリストであるかということは、今まで何度も語ってきているし、それを証明するために様々のわざも行ってきているが、あなたがたは、それを理解しないし、信じようとしない」ということです。
 それから、イエス様は、ご自分が信じる人々に永遠のいのちを与えることのできるまことの救い主であることを語り、また、「わたしと父とは一つです」と言われました。「わたしは、父なる神様と一体の存在だ。神と等しい存在だ」と宣言なさったのです。
 そこから今日の箇所が始まります。
前回は、ユダヤ人たちが問うた「イエスはキリストなのか」というテーマで話が展開しましたね。
 今回は、イエス様が「わたしと父とは一つです」と言われたことから、「イエスは神の子なのか」ということがテーマとなっています。これは、とても大切なテーマです。
 この福音書を書いたヨハネは、ヨハネの手紙第一の4章15節で、こう書いています。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」また、同じ手紙の5章5節では、こう記しています。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
 ヨハネは、「イエスは神の御子である」と信じ、告白することが大切だと繰り返し記しています。それが、私たちの信仰の中心だからです。
 今日の箇所でも、ヨハネは、イエス様とユダヤ人たちとのやりとりを紹介しながら、イエス様が「神の子」であるということを読者一人一人に伝えようとしているのです。
 ところで、聖書の中で使われる「神の子」という表現について、少し整理しておきましょう。
 聖書では、まず、神に創造された最初の人アダムが神の子と呼ばれている箇所があります。また、神様を信じる人々や神様に使命を託された人々が神の子と呼ばれている場合もあります。
 しかし、イエス様が「神の子」であるという意味は、それとは違います。イエス様ご自身が「わたしと父とは一つです」と言われているように、イエス様は、神と同じ本質を持った方、神と同等の力を持つ方であり、父なる神に対しては子としての立場を取られる方です。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神様がおられ、父と子と聖霊は常に同じ思いを持って共にみわざを行われます。つまり、イエス様は、父なる神と聖霊なる神と共に神そのものなる方だということなのです。
 ですから、「イエスは神の御子と信じる」というのは、「イエス様が人となって来られたまことの神である」ということを信じることなのです。まことの神様であるイエス様が私たちと同じ人となって来てくださったからこそ、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり、すべての罪をあがない、よみがえって、永遠のいのちを与えることがおできになるのです。
 ですから、イエス様がただの人にすぎないと考えるか、それとも神の御子として認めるかが、私たちの人生にとって非常に大きな問題なのです。

1 ユダヤ人たちの訴え

 さて、今日の箇所に登場するユダヤ人たちは、イエス様をただの人にすぎないと考えて、石打ちにしようとしました。33節で、「あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」と言っていますね。「人間にすぎないイエスが、自分を神だと言うのは、神を冒涜する罪だから、石打ちで死刑にすべきだ」というのです。彼らは、イエスが自分が神だと自称したことに怒り狂ったわけですね。
 こうした光景は、日本では考えられませんね。日本では、誰かが「私は神です」と言っても、「あ、そうですか」で終わってしまいますね。日本には、自称神様がたくさんいるし、死んだ人が神様として祭られている神社もたくさんあります。それに、最近は「神」という言葉が流行語のように気軽に使われていますね。ちょっと何かに優れていれば、「あの人は神だ」と言いますし、AKB48の総選挙で選ばれた上位七人のことを「神セブン」と言うそうですね。私は、スマートフォンを使っています。たくさんのアプリケーション(ソフト)があって、便利なものもたくさんあるのですか、先日、「神アプリ紹介」というメールが送られてきました。優れていて便利で役に立つアプリのことを「神アプリ」と言うわけですね。
 そういう日本の風土では、イエス様がご自分を神であると言われても、「だから、なんですか」程度の反応なわけです。「神」という言葉を聞いても、聖書が教えている絶対的な創造者をイメージすることがむずかしいのですね。
 でも、永遠の存在者であり、天地万物を創造し、愛をもって人々を救いに導こうとする壮大な計画を進めておられる神様の存在を知ったら、人や石や木で作ったものを神とすることがどんなに滑稽で高慢なことであるかがわかるでしょう。
 私たちは、誰を人生の絶対者としてあがめていくのかということについては、明確な答えを持っていたいと思います。誰を神とするかは、私たちの価値観や生き方を左右するとても大切なことだからです。
 聖書は、神である方が人として来てくださった、その方がイエス・キリストだと教えています。私たちは、すぐ高慢になって、自分が神になりたい、自分の人生も他人も支配したいと思ってしまう傾向がありますが、イエス様は、神であられる方なのに、私たちに仕えるために私たちと同じ人となってくださいました。本当に謙遜な姿がそこにあります。聖書は、この方こそ私たちが信頼し、従っていくのに値する方だというのです。
 しかし、当時のユダヤ人たちは、そのことを認めようとしませんでした。イエス様が様々なすばらしいみわざを行っておられるのにもかかわらず、イエス様を神の子と認めようとしませんでした。それどころか、石で打ち殺そうとしたのです。

2 イエス様の弁証

 イエス様は、「あなたは人間でありながら、自分を神としている、けしからん」というユダヤ人たちに対して、34節ー36節で反論なさいました。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」なんだかわかりにくいですね。このイエス様の言葉を詳しく学んでいきましょう。

@おまえたちは神々である

 ここでイエス様は、旧約聖書の詩篇82篇の言葉を引用しておられます。詩篇82篇6節には、「おまえたちは、神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ」と書かれているのですが、この言葉は、当時のイスラエルの裁判官や指導者たちに対して言われたものです。彼らを、その職務のゆえに「神々」と表現することがありました。立派な職務に就き、神様の代理として遣わされ働いている者という意味で、尊敬の言葉として遣われたわけです。
 イエス様は、この詩篇を引用して、「当時の裁判官や指導者たちですら神々と呼ばれたのだから、まして、父から遣わされたわたしが自分のことを神の子だと言っても、決しておかしくないではありませんか」と言われたわけです。しかし、それだけでは、たんなる言葉遊びで反論しているようなものですね。 実は、イエス様の反論には、もっと深い意味があるのです。
 私たちの聖書には、便宜上、章と節の番号が振ってありますが、当時の聖書には、そんな番号はありません。また、当時のユダヤ人たちは、幼い頃から聖書に親しんでいますから、82篇の一部が引用されたら、すぐに82篇全体の内容を思い起こすことができるわけです。ですから、イエス様は、ここで、82篇全体の内容をもとにしてお語りになっていると考えることができるわけですね。
 では、詩篇82篇には、どんなことが書かれているのでしょうか。短い詩篇ですから全部読んでみましょう。
 「1 神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。2 いつまでおまえたちは、不正なさばきを行い、悪者どもの顔を立てるのか。3 弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。4 弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。5 彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。地の基は、ことごとく揺らいでいる。6 わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。7 にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。』8 神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。」
 つまり、この詩篇の内容は、「神様から働きを託された裁判官や司たちがいる。神様は、彼らが『神々』と呼ばれることをゆるされたけれど、彼らは、弱い者を虐げ、悪者に手を貸し、不正を行い、貧しい者を助けようともしない。だから、彼らは人のように死に、倒れるだろう。神様、立ち上がって、正義を行ってください。はやくこの名ばかりの『神々』を裁いてください!」という悲痛な訴えであり祈りであるわけです。
 イエス様の時代にも、この詩篇と同じような状況がありました。神様から働きを託された指導者たちが、不正を行い、人々をしいたげている状況がありました。「神様、立ち上がって、正義を行ってください。正しい裁きを行ってください」という訴えや祈りがありました。
 イエス様は、詩篇82篇を引用することによって、ユダヤ人たちに「あなたたちは、昔の指導者たちと同じような状態に陥っている」と暗に示しておられるのでしょう。

A聖書は廃棄されるものではない

それから、イエス様は、「聖書は廃棄されるものではない」と言っておられますね。イエス様は、マタイの福音書5章17-18節でもこう語っておられます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
イエス様が来られたのは、律法や預言者、つまり、旧約聖書を破棄するためではなく、成就するためだというのです。聖書の言葉は、すべてイエス・キリストによって成就されるのです。 詩篇82篇にあるように、神様は、旧約の時代、裁判官や司たちに、民を治め、正義を行う職務を託されました。そして、彼らが「神々」と呼ばれることをゆるされたのです。しかし、彼らは、堕落と不正をはびこらせてしまいました。そこで、詩篇の作者は、「神よ、立ち上がって、地をさばいてください」と祈りました。その祈りが、今、神様から遣わされたイエス様によって成就したというのです。
 私たちは羊飼いのいない羊のようにさまよっている者でした。イエス様はそんな一人一人を見いだし、助け、引き上げてくださるお方です。また、イエス様は、水を葡萄酒に変え、人々をいやし、わずかなパンを用いて多くの人を養い、嵐を静め、目の不自由な人をいやされました。そして、「わたしはいのちのパンです」と語り、生ける水を与えることを約束し、ご自分が世の光であることを宣言なさいました。
 こうした一つ一つのイエス様のみわざと言葉は、何を示しているのでしょうか。詩篇82篇の「神様、すべてを治め、弱い者を助け、赦し、支えてください」という祈りの答えとして、イエス様が来てくださったということです。人々の間で親しまれている詩篇82篇の祈りの答えが「神の子イエス」の中にあるということを示しているわけです。
 「聖書は決して廃棄されることはない」ということは、聖書に書かれている神様の真実と神様の約束は、決して無効になることはない、決して失われることはないということです。ですから、私たちは、いつでも聖書の言葉に信頼して希望を持って生きることができるのです。

Aわたしは神の子であることを信じなさい

イエス様は、旧約聖書の約束を成就するために神が遣わしてくださった方です。イエス様が神の御子であると信じるというのは、イエス様が神と一つである方、神様と同じ思いを持ち、神様と同じみわざを行う方であることを信じることです。イエス様が私たちの人生の羊飼いであり、私たちを導き、私たちの叫びを聞き、そして、罪からきよめ、永遠のいのちを与えてくださる方であると信じることなのです。
 ヨハネがこの福音書を書いた頃には、各地に教会ができていましたが、イエス様が神の御子であることを否定する間違った教えが教会の中に入り込んでくる危険がありました。そこで、ヨハネは、この福音書でも手紙の中でも、イエス様が神の御子であることを信じ告白することがどれほど大切なことかを書き記しているのです。
 もう一度、ヨハネの手紙第一の言葉を読みましょう。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」(4・15)「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(5・5)
 イエスを神の御子と信じる人々に、神様の約束が成就していくのです。私たちも、イエスが御子であることを告白していきましょう。

3 バプテスマのヨハネの証言

 そして、今日の最後の所には、多くの人々がイエス様のところに来て「ヨハネがこの方について話したことはみな真実であった」と言ったことが書かれています。このヨハネは、福音書を書いたヨハネとは別人で、バプテスマのヨハネと呼ばれている人物です。彼は、イエス様について何を話したでしょうか? 彼は、イエス様を指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。また、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。それで、この方が神の子であると証言しているのです」と言いました。こういう彼の言葉が真実であることがわかったというわけです。
 今まで、「イエスよ、おまえはキリストか?」という議論があり、「イエスよ、おまえは勝手に自分を神の子だと自称している」という非難がありました。しかし、この福音書を書いたヨハネは、この章の最後に、イエス様こそ世の罪を取り除くまことの「神の子」であるということを、バプテスマのヨハネの証言を思い起こしながら読者に伝えているわけです。
 そして、次の11章から、イエス様は、実際に世の罪を取り除くみわざを成就するために、十字架への道へと向かって行かれることになります。