城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年七月二一日             関根弘興牧師
                ヨハネ一一章一節ー一六節

ヨハネの福音書連続説教35
   「愛する者が病んでいます」

1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(新改訳聖書)


 今日からヨハネの福音書11章に入ります。
 10章では、宮きよめの祭りの最中にイエス様がエルサレムの神殿でユダヤ人たちと交わした会話が記されていましたね。
 イエス様は、ご自分がまことの羊飼いであり、救い主(キリスト)であり、神の子であると言われました。また、「わたしと父とはひとつです」とも言われましたね。それを聞いたユダヤ人たちは、「イエスは人にすぎないのに、自分を神と同等のものだと主張して、神を冒涜している」と怒って、石を打ちつけ死刑にしようとしました。
 しかし、イエス様は、彼らの手からのがれ、ヨルダン川を渡って、エルサレムから歩いて約一日ほどの場所にしばらく滞在なさっていました。その時に、今日の出来事が起こります。
 ベタニヤという村に住んでいるマルタとマリヤの姉妹から使いの者が送られてきて、姉妹の兄弟ラザロが病気だと伝えたのです。すると、イエス様は、しばらくしてからベタニヤに行って、死んでしまっていたラザロを生き返らせるという奇跡を行われたのです。
 思い出していただきたいのですが、このヨハネの福音書には、イエス様がまことの救い主であることをしめす「しるし」として、イエス様の行われた七つの奇跡が紹介されています。
 イエス様は、まず、カナの婚礼の時、水を葡萄酒に変えられました。第二に、カペナウムの役人の病気の息子を遠く離れた場所からみことばを語るだけでいやされました。第三に、ベテスダの池のほとりで三十八年もの間、病の床に伏していた人をいやされました。第四に、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われました。第五に、嵐のガリラヤ湖の上を歩かれました。第六番目に、生まれつきの盲人の目を開くという奇跡を行われましたね。そして、この11章では、七番目の奇跡として、ラザロをよみがえらせるという出来事が紹介されているわけです。
 イエス様は、他にも多くの奇跡を行われましたが、この福音書を書いたヨハネは、その中から特に七つの奇跡を選んで記録しています。それは、単に「イエス様は、すばらしい奇跡を行うことができる方だ。すごいだろう!」ということを見せつけるためではなく、救い主として来てくださったイエス様が、どのような方で、どのような働きをなさる方なのかを示すためでした。ラザロを生き返らせるという奇跡も、イエス様について非常に大切なことを教えているのです。ですから、この出来事について今日から詳しく学んでいきましょう。

1 ラザロと姉妹たち

まず最初に、ここに登場するラザロと姉妹たちのことを少し説明しましょう。
 彼らが住んでいたベタニヤは、エルサレム郊外にある小さな村でした。他の福音書を読みますと、イエス様が彼らの家にたびたびお訪ねになったことが書かれています。
 ルカの福音書10章では、イエス様が彼らの家に行かれたとき、姉のマルタはおもてなしの準備にてんてこ舞いになっていました。ところが妹のマリヤはイエス様の足もとにすわりこんでみことばに聞き入っているのです。マルタは、イエス様に言いました。「私だけがこんなに働いているのに、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」と。普通は、お客様にこんなことは言いませんね。しかし、マルタは、イエス様に率直に言うことができました。それは、イエス様とこの姉妹がとても親しく、何でも話せる間柄だったからでしょうね。
 また、ヨハネの福音書12章をみると、マリヤがイエス様の足に高価なナルドの香油を塗ったことが書かれています。イエス様を愛し、イエス様のためなら高価な香油をささげることもいとわなかったのです。 
 またマルコの福音書11章をみると、イエス様がエルサレムに入られてから十字架にかかるまでの最後の一週間、イエス様は、昼間は神殿でお話しになり、夜はベタニヤに出て行かれたと書かれています。おそらく、夜はマルタとマリヤの家に泊まっておられたのでしょう。
 この姉妹の家は、イエス様にとって、数少ない憩いの場所であったようです。 イエス様は、マタイの福音書8章20節で、「狐には穴があり、空の鳥には巣があります。しかし、人の子には枕する所がありません」と言われました。また、ヨハネの福音書の最初には、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と記されています。しかし、このベタニヤの姉妹の家は、そんなイエス様にとって、落ち着くことのできる、ホットすることのできる家であったに違いありません。この家の人々は、イエス様を喜んで迎え入れました。また、イエス様の語る言葉に喜んで耳を傾けました。イエス様と率直に語り合うことができる雰囲気がありました。また、イエス様をもてなし、ナルドの香油を注いだように、感謝と献身の姿があったのです。

2 「あなたが愛しておられる者が病気です」

 しかし、このうるわしい家に大事件が起こりました。イエス様と親しくしていたラザロが危篤状態に陥ったのです。イエス様のために宿を提供し、もてなし、歓迎し、尽くしてきたのに、重病になってしまったのです。
 マルタとマリヤは、イエス様のもとに使いを送ってこう言わせました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」と。
 どうでしょう、皆さんなら、こんな時、イエス様に何と言いますか。「イエス様大変です。ラザロが死にそうですから、早く来てください。一分一秒も待てません。とにかく早く来て癒してください」と言うのではないでしょうか。しかし、この姉妹たちは、イエス様に、こうしてください、ああしてください、とは言いませんでした。ただ、今ある問題を正直に申し上げて、後は、イエス様にお任せします、という態度をとったのです。「イエス様、あなたはラザロを愛してくださっています。だから、ラザロのために最善のことをしてくださるに違いありません。自分たちが考えるよりもはるかに良いことをしてくださるに違いありません。」そんな思いを持っていたのでしょう。ですから、ただ「あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えたのです。
 この「愛しておられる者」という言葉と11節の「友」という言葉は、同じ語源から派生した言葉です。そして、「愛している者」つまり、「友(フィロス)」という言葉は、紀元一世紀の末頃には教会のメンバーを表す言葉として用いられたそうです。ですから、「イエス様が愛しておられる者」というのは、ラザロだけでなく、教会に集う一人一人、この福音書を読む一人一人に対しても言われている言葉なのです。つまり、ラザロの身に起こった奇跡は、イエス様を信頼する一人一人の生涯にも起こることなのだということを教えているのです。
 皆さん。イエス様は、私たち一人一人を愛してくださっています。ですから、私たちは、イエス様が私たちに最善のことをなしてくださると信じることができるのです。
 詩篇127篇2節に、すばらしい言葉があります。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と書かれています。これは、私たちの生き方を教える大切な言葉です。私たちは、眠っている間は何もすることができせんね。いびきをかくか、寝言を言うくらいです。しかし、眠ることができるからこそ、疲れがとれるし、健康が支えられていくわけですね。私たちは、あれこれと思い煩います。心配が嵐のように襲ってきます。しかし、自分ではどうすることもできないことが多いですね。でも、主は、愛する私たちのために、私たちが眠っている間に備えてくださるというのです。だから、安心して眠ることができるのです。私たちは、「主よ、あなたが愛している者が病んでいます」と言って、主に問題を知っていただき、主が最善を行ってくださることを期待してゆだねることができるのです。主にゆだねて生きる、それが、私たちに与えられている生き方だと思いませんか。

3 神の栄光のため

 さて、ラザロが危篤状態になりましたが、そういうとき私たちは普通何を思うでしょうか。
 思い出してください。9章では、生まれつきの盲人に対して、人々はこう言いました。「この男がこのように生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですが、それとも両親ですか?」これが当時の一般的な見方でした。 
 不幸と思われることが起こると、私たちは、「私が何か悪いことをしたから、こんなひどいことが起こったのだろうか。私が神様の前にきちんとしていないからだろうか。それとも先祖の罪のせいで、苦しみがあるのだろうか」、そんな思いを持ってしまうことがありますね。もちろん、原因がはっきりしていて、反省すべき時もあるでしょう。しかし、やみくもに自分や人を責めてしまうことは、決して益にはなりません。私たちはイエス様と同じような見方をしていく必要があるのです。
 イエス様は、生まれつきの盲人に何と言われたでしょうか。「おまえの罪のせいだ。先祖のたたりだ。悪霊のせいだ」とは言われませんでした。「神のわざがこの人に現れるためだ」と言われたのです。どんなに辛い困難なことであっても、イエス様は、それを神の栄光を現すものとしてくださるというのです。だから、そこに希望があるわけです。
 ラザロの病気を知らされた時も、イエス様は、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」と言われました。9章の生まれつきの盲人の場合と同じように、イエス様は、ラザロの病気の原因については一言も触れておられません。ただ、その出来事を通して、ご自分の栄光を現すと言われました。愛する者が病み、死んでしまうという悲しい出来事すら、神の栄光を現すものとなるのだと言われたのです。
 そして、11章の後半で、イエス様は、死んでしまったラザロを生き返らせます。この出来事を通して、神の栄光が現され、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」というイエス様の言葉が確かなものであることが裏付けられたのです。

4 神の時

さて、ラザロの病気の知らせを聞いたイエス様は、「それは、神の栄光のためのものだ」と言われましたが、その後の5節、6節には、不思議なことが書いてありますね。「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」とあります。
 姉妹たちやラザロを愛しておられたなら、すぐに行って病気を癒してやってもよさそうなものですね。しかし、イエス様は、そこになお二日とどまっておられたというのです。ベタニヤの村までは約一日の距離がありますから、使いの者がベタニヤを出発してからイエス様のもとに着くまでに一日、イエス様が二日とどまられてから出発してベタニヤまで一日、合計で四日も経ってしまうことになりますね。待っている側にすれば、この四日間はどんな長く感じることでしょう。愛しておられるなら、なぜもっと早くラザロのもとに行かれないのだろうかと考えてしまいますね。
 ある人は、イエス様に祈ってもすぐに問題が解決しないと、「イエス様に頼んでも無駄だ」と考えてしまいます。私たちは、イエス様が自分のスケジュール通りに動くことを期待してしまうのです。そして、自分の予定や計画に合わないと、「イエス様、愛していてくださるなら、どうして何もしてくださらないんですか」とつぶやくのです。
 しかし、いつ何を行うのが最善なのかは、私たちよりもイエス様の方がはるかによくご存じなのです。私たちは、何か問題が起こると、すぐに解決されることを求めます。しかし、私たちが期待する時と神様の時とは、異なっていることが多いのです。でも、常に、神の時こそ最善の時だということを覚えておいてください。神の時を待つことを学んでいきたいですね。どんなに時が遅く感じても、主は常に最善のタイミングでことを行ってくださるのですから。
 私が好きな聖書の言葉に、旧約聖書のハバクク書2章3節があります。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」という言葉です。この「おそくなっても、遅れることはない」という感覚は、クリスチャンが持つべき時の感覚です。私たちにはおそく感じられても、神様のみわざは遅れることはないのです。
 イエス様は、ラザロが死んで四日経ってからベタニヤに到着なさいました。死んで四日も経てば、ラザロが完全に死んでいることに疑問の余地がなくなりますね。ですから、イエス様がおそく到着なさったことによって、イエス様が本当に死んだものをよみがえらせることのできる方であることが、より明確に示されることになったのです。

5 十字架に向かって

 さて、先ほどお話ししたように、ヨハネの福音書に記された七つの奇跡は、イエス様の救い主としての働きがどのようなものであるかを示すしるしとしての意味があります。では、死んだラザロをよみがえらせるという奇跡には、どのような意味があるのでしょうか。
 イエス様は、ラザロが危篤が知らされたときに、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」と言われました。
 ヨハネの福音書の中で特徴的に用いられている言葉のひとつは、「イエスが栄光をお受けになる」という表現です。そして、この表現は、「イエス様が十字架につかれる」ことを意味しています。つまり、イエス様がラザロを生き返らせた出来事は、イエス様の十字架の死と復活を暗示しているのです。また、イエス様の十字架の死と復活によって、罪の中に死んでいた私たち一人一人に罪の赦しと永遠のいのちが与えられる、つまり、罪の中に死んでいた者が永遠のいのちによって生かされるようになるということを示しているのです。
 パウロは、エペソ人への手紙2章4節-6節にこう書いています。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです── キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
 死んでいたラザロが生き返ったように、イエス様が十字架で死んでよみがえられる、そして、そのイエス様の死と復活の力によって、罪の中に死んでいた私たちも新しいいのちを得ることができるというのです。
 7節を見ると、イエス様は、「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。「ベタニヤへ行こう」ではなく、「ユダヤに行こう」と言われたのです。これは、イエス様が、ただラザロをよみがえらせるためだけに出かけるのではなく、ユダヤのエルサレムに向かっていこうとしておられることを示唆しています。つまり、イエス様がこれから十字架と復活を目指して進んでいかれることを示しているのです。

6 弟子たちの誤解

 弟子たちは、イエス様の言葉を正確に理解することができませんでした。イエス様が「ラザロは眠っています。わたしは彼を眠りからさましに行くのです」と言われると、弟子たちは、誤解して、「病人がよく眠れるということはいいことだ。きっと助かるだろう」と考えたようです。そこで、イエス様は、「ラザロは死んだのです」とはっきり言わなければなりませんでした。イエス様にとって、死は眠りに過ぎないというわけですね。私たちは亡くなられた方について「永眠された」という表現を使いますね。眠っているなら、必ず起きる時がくるのです。このことは、11章の後半で考えていきましょう。
 弟子たちは、イエス様が十字架に向かって進んで行かれる意味も理解していませんでした。ただ、イエス様が「ユダヤに行く」と言われたので、とまどっていました。ユダヤでは、いつ石打ちになるかわからない状況だったからです。「ラザロも死んでしまった、イエス様も死んでしまうのではないか」という悲壮感を感じていたのではないでしょうか。ですから、弟子の一人トマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と場違いな言葉を発しているくらいです。イエス様と一緒に殉教する覚悟はできていますと、勇ましく言っているのですが、しかし、残念ながら、そういう弟子たちの人間的な気負いは、この後、粉々に砕かれてしまいます。彼らは、実際にイエス様が捕らえられた時には、一緒に死ぬどころか、恐れてちりぢりに逃げ去ってしまったのですから。信仰は、意気込みや気負いだけでは継続できません。私たちが信仰に生かされることも、主の恵みのわざなんです。

さあ、今日は、「あなたの愛しておられる者が病気です」という言葉を心に留めましょう。身近な人を見回してください。「あなたの愛しておられる者が病気です」とイエス様に告白しながら、主が最善をなしてくださることを期待し、ゆだね、祈りつつ歩んでいきましょう。
 また、私たちにとっても、死は決して終わりではありません。一時的に眠っている状態であり、やがて主イエス様が、私たちを目覚めさせ、永遠の天のみ国で主と共に生きる者としてくださることを覚え、歩んでいきましょう。