城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年七月二八日             関根弘興牧師
                ヨハネ一一章一七節ー四六節

ヨハネの福音書連続説教36
   「イエスの憤りと涙」

17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」35 イエスは涙を流された。36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。(新改訳聖書)


 今日は、前回に続いてイエス様がラザロを生き返らせた出来事について学んでいきましょう。
 まず、前回の内容を振り返ってみましょう。イエス様がエルサレムから歩いて約一日ほどの場所にしばらく滞在なさっていた時のことでした。ベタニヤという村に住んでいるマルタとマリヤの姉妹から使いの者が送られてきて、姉妹の兄弟ラザロが病気だと伝えたのです。
 イエス様は、この姉妹の家をたびたび訪れ、滞在されたことがあったようです。マルコの福音書11章をみると、イエス様は、エルサレムに入られてから十字架にかかるまでの最後の一週間、昼間は神殿でお話しになり、夜はベタニヤに出て行かれたと書かれています。おそらく、夜はマルタとマリヤの家に泊まっておられたのでしょう。この姉妹の家は、イエス様にとって、数少ない憩いの場所であったようです。
 しかし、このうるわしい家に大事件が起こりました。姉妹の兄弟ラザロが危篤状態に陥ったのです。姉妹は、イエス様のもとに使いを送ってこう言わせました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」と。ところが、イエス様は、すぐにベタニヤに行こうとせずに、さらに二日間そこに滞在してから出発されたのです。そして、今日の箇所には、イエス様がようやくベタニヤに到着されてからのことが書かれています。

1 マルタとマリヤの思い

 イエス様が来られた時には、ラザロは、すでに死んでいて、墓に納められてから四日もたっていました。多くの村人たちが、その死を悼み悲しみ、涙を流していました。当時の葬儀は、最初の一週間は特に嘆き悲しんで過ごします。そして、その後の一ヶ月間は、喪に服します。その期間は、床屋さんに行って散髪することも、綺麗に折り目をつけた着物を身につけることも避けるようにと定められていたそうです。
 また、当時の習慣では、人々が遺体を墓まで運ぶために行列をつくって家から出て行くと、空になった家の中では、友達が家具を全部ひっくり返してしまうのだそうです。生前、故人が使っていた家具を全部ひっくり返してしまうわけですから、家の中はごった返しになっているわけですね。そして、墓から帰ってきた人々、特に、女性たちは、そのごった返しになっている家の中に座り込んで泣き悲しむのだそうです。ですから、20節で、「マリヤは家ですわっていた」と書かれていますが、それは、兄弟ラザロの死を悼み悲しみ、床に座って泣いていたということでしょう。
一方、イエス様が来られたと聞いて、マルタはすぐにイエス様を迎えに行きました。マルタは、兄弟ラザロが死んでしまったことに大きなショックを感じていたことでしょう。「もっと早くイエス様に使いを送ればよかった」と後悔していたかもしれません。「ラザロのためにもっと何かできたのではないか」と自分を責めていたかもしれません。そんなマルタは、イエス様に開口一番こう言います。21節と22節です。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」マルタの気持ちは、よくわかると思いませんか。「イエス様がここにおられたら、ラザロはきっと助かったはずだ。死ななくですんだのに」と私たちも思うのではないでしょうか。「イエス様、どうしてここにいてくださらなかったのですか!」という恨みがましい言葉が今にもマルタの口から出てきそうですね。
 ラザロが危篤状態になった時、マルタとマリヤは、イエス様に使いを送って、「あなたの愛しておられる者が病気です」と言わせました。イエス様はラザロを愛しておられるのだから、何もしてくださらないはずがない、ラザロが病気であることを知れば、イエス様は、きっと助けに来てくださるだろうと期待していたのでしょう。マルタは、イエス様が最善のことをしてくださる、と頭ではわかっていたのです。
 でも、実際に、ラザロが死んでしまうと、「あなたがいてくだされば、こんなことにはならなかったのに」という思いが湧いてきました。マルタは、ラザロがまだ死んでいないうちは「イエス様が来てくだされば大丈夫だ」と信じていたのでしょうが、しかし、死んでしまった今となっては、イエス様が来ても、どうすることもできないと思っていたのですね。現実の死に対するイエス様の力を過小評価していたのです。
 すると、イエス様は、マルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。マルタは、それを聞いて、すぐに「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。マルタは、この世の終わりの日に死んだ者が復活するという信仰は持っていたのですね。けれども、イエス様が今の実際の日常生活の中でも死者をよみがえらせる力を持っておられることを理解していなかったのです。
 すると、イエス様は、さらに続けて、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」と言われました。
 でも、マルタは、イエス様の言葉の意味を十分に理解できずに、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と答えたのです。イエス様は、今現在のことを言われているのに、マルタは、なにか遠い将来に起こることのように感じていたようです。
 家の中で悲しんでいた妹のマリヤも、イエス様に対して、マルタと同じような反応をしました。
 つまり、この姉妹は、イエス様がいてくれたら大丈夫だという信仰は持っていましたし、人が終わりの日によみがえるということも、また、イエス様が神の子キリストであることも信じていたのですが、それを今、目の前にある問題と結び付けることができなかったのです。
 私たちも、イエス様が神の御子であり、救い主であり、すばらしいみわざを行ってくださる方であり、私たちのために最善のタイミングで最善のことを行ってくださる方であることを信じていますが、しかし、頭で理解していても、実際の悲しみや嘆きに直面したときに、信仰が生かされないということが時々ありますね。私たちは、聖書の語ることを理解し、受け入れ、そして、礼拝を捧げつつ歩んでいるのですが、「イエス様を信じて生きていても、実際の生活は、何も変わらないのではないだろうか。イエス様がいても、この目の前の問題は解決できないのではないだろうか」、そんな思いを持ってしまうことがあるのです。頭ではわかっているのだけれど、それが、実際の生活に生かされてこないということは、信仰生活の中で誰もが直面するとまどいの一つだと思います。
 しかし、イエス様は、私たちの実際の生活の中で、具体的に私たちを励まし、支え、潤し、助けてくださる方なのです。それを期待し、経験していくことが、信仰に生きるということなのですね。イエス様は、遠い将来のいつ起こるかわからないことを約束するために来られたのではありません。「今」のあなたを変え、導き、恵みのことばをもってこの瞬間瞬間を支えてくださる方なのです。
 イエス様は、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」と言われました。イエス様というお方の中には、いのちが満ちあふれています。このいのちの主であるイエス様を信じて生きるということは、死という解決不可能に見えたものさえも乗り越えることができるいのちを持って生きるということなのです。
 イエス様は、10章28節で「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」と言われました。イエス様を信じ生きることは、永遠のいのちの中に生きていると言うことです。それは遠い未来に天のみ国に住まうためのいのちということだけでなく、今、この瞬間を支えているいのちであり、そのいのちに生きる一人一人は決して滅びることがないとイエス様は約束されているのです。
 「このことを信じますか」と、イエス様は今、私たちにも問われているのです。

2 イエス様の憤りと動揺

 さて、33節を見ると、多く人たちが泣いている姿をご覧になったイエス様は、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」たと書かれていますね。
 この「霊の憤りを覚え」という言葉は、もともとは「馬が鼻をぶるぶるっと鳴らして怒る動作」を表す言葉です。非常に激しい感情の動きを表す言葉です。また、「心の動揺を感じ」というのは、「身震いする、自分自身を震わせる」という言葉です。
 イエス様は、何に対して、それほどまでに霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられたのでしょうか。
 当時、葬儀の時に、大げさに嘆き悲しむ人たちがたくさんいました。イエス様は、そういう弔い客たちの偽善的態度に対して憤られた、ということでしょうか? そうではないと思います。人にとって、弔問に行くことは大切なことです。まわりの人が泣いてくれることによって、当事者も自由に悲しみを吐き出せる、という利点がありますね。泣く者と一緒に泣くことは、悲しみを癒すために大切なことです。一緒に涙を流すことの出来る仲間がいるということは、悲しみの中にある人にとって大きな助けとなるのです。ですから、イエス様がそれを非難したとは思いません。
 では、イエス様は、マルタとマリヤの不信仰に対して憤られたのでしょうか。しかし、マルタとマリヤに憤りを感じられるくらいなら、イエス様は、弟子たちのいい加減な姿に対して、毎日憤りを感じなければならなくなるでしょう。
 それでは、どうして、何に対して、イエス様は憤っておられたのでしょう。それは、人を悲しませる「死」そのものに対してだと思うのです。死がもたらすものに対してイエス様は憤りを感ぜずにいられなかったのだと思います。なぜなら、死は、それまでの暖かい交わりを奪い、関係を断ち切ります。悲しみをもたらし、すべての希望を奪い去っていくからです。
 イエス様は、このすべてを奪い、破壊する死に対して憤りを持たれたのではないかと思うのです。そして、この憤られる姿は、イエス様が何のために来られたかということを明確に私たちに示していると思うのです。
 ヘブル人への手紙2章14節には、こう書かれています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
イエス様は、ラザロの病気の知らせをお聞きになったとき、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」と言われまたね。すべてを奪い去ってしまう死によってすべてが終わるなら、そこに希望はありません。しかし、イエス様は、死の力に対して憤り、死に対抗し、死を打ち破るためにこられたのです。そして、死の恐怖につながれて奴隷となっていた私たちを解放し、いのちを与えるために来てくださったのです。

3 イエス様の涙

 イエス様は、マリヤたちが涙を流している姿をごらんになりました。そして、35節では、「イエスは涙を流された」と書かれています。イエス様は、泣く者と一緒に泣いてくださる方です。イエス様は、私たちの苦しみや弱さに同情できない方ではありません。私たちの悲しみをご存じで、共に涙を流してくださる方なのです。
 皆さん、泣くことは、不信仰とは違います。しばらく前に、あるクリスチャンの方の葬儀に参列したときのことでした。葬儀が始まる前に、牧師が「私たちは天国の希望がありますから、あまり悲しまないでください」と言われました。それを聞いて、私は、何と人の心もイエス様の心も知らない方だろうと思いました。この地上の別れは、さびしく辛いものです。皆さん、悲しい時には、たくさんの涙を流したらいいのです。主のみ前で大いに泣いたらいいのです。なぜなら、その涙をぬぐってくださる神様がおられるからです。
 イザヤ書25章8節には、こう書かれています。「神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。」
 また、ヨハネの黙示録21章4節には、神ご自身が「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と書かれています。
 ですから、神様の前で安心して泣きましょう。神様が私たちの涙をぬぐい取ってくださるのですから。

4 「ラザロよ、出てきなさい」

 さて、イエス様は、いよいよラザロの遺体が安置されている墓に近づいて行かれました。
 イエス様は、まず、父なる神様に感謝をお捧げになりました。父なる神様と御子イエス様が常に同じ思いをもってみわざを行っておられること、そして、イエス様が神様のもとから来た方であることを人々が信じるためでした。
 そして、イエス様は、「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。すると、なんとラザロは「手と足を長い布で巻かれたまま出て来た」と書いてありますね。実際にどのような姿だったのでしょうか。ちょっと奇妙な格好だったでしょうね。 私は、以前、ある夏のバイブルキャンプに参加したのですが、プログラムの中に、各グループが寸劇をする時間がありました。その時、あるグループがこのラザロのよみがえりの寸劇をしたのです。イエス様役の人が大声で「ラザロよ、出てきなさい」と言うと、トイレット・ペーパーをぐるぐる巻きにしたラザロが跳びはねるようにして出てきたんですね。実際のラザロもそんなふうに出てきたのかもしれません。
 死後四日も経っていたラザロがよみがえるという素晴らしい出来事を目撃した多くの人々がイエス様を信じました。
 でも、ラザロはその後、ずっと死なずに生き続けたわけではありません。最後は、死んでしまいました。しかし、この時、イエス様がラザロを生き返らせるという奇跡を行われたのは、イエス様が来られた大切な目的を示すためでした。それは、死の奴隷となっている人々を解放し、死に打ち勝つことのできるいのちを与えるために来られたということです。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。その約束は、イエス様が十字架つけられ、三日目に復活されることによって確かなものとなっていくのです。ラザロを生き返らせたイエス様は、これから、自らのいのちをかけて死を打ち破るために十字架への道へと進んでいかれることになります。ラザロになさった奇跡は、その出発点となる出来事だったのです。
 また、このラザロが生き返るという出来事の後、当時のユダヤの宗教指導者たちは、議会を招集して、本格的にイエス様を捕らえ、殺すための計画を立て始めました。それについては、来週詳しく学んでいきましょう。

 繰り返しますが、死はすべての終わりではありません。そして、死の解決はイエス様の約束の中にあります。マルタは「あなたがここにいてくださったら、ラザロは死ななかったでしょう」と言いましたね。十字架にかかり、三日目に復活されたイエス様は、今、ここに、私たちと共にいてくださいます。そして、イエス様は、私たち一人一人に言われるのです。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。
 今週、私たちはお互いの生活のただ中で、共にいてくださるイエス様を信じ、神様の栄光を見させていただきましょう。そして、感動と感謝をもってこの一週間を歩んでいきましょう。