城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年八月四日             関根弘興牧師
                ヨハネ一一章四七節ー五七節

ヨハネの福音書連続説教37
   「ひとりの人が民にかわって」

47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。(新改訳聖書)

 今日は、イエス様が、ベタニヤに住むマルタとマリヤの兄弟ラザロを生き返らせた出来事の続きです。
少し前回のことを振り返ってみたいのですが、イエス様がベタニヤの村に着いたとき、すでにラザロが墓に葬られてから四日目もたっていました。マルタもマリヤも、兄弟ラザロが死んでしまったことに大きなショックを受け、悲しみの中にいました。そして、イエス様に「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いましたね。
 すると、イエス様は、マルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。マルタは、それを聞いて、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。マルタは、この世の終わりの日に死んだ者が復活するという信仰は持っていたのですが、イエス様が今の実際の日常生活の中でも死者をよみがえらせる力を持っておられることを理解していなかったのです。
 イエス様は、続けて、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」と言われました。そして、多く人たちがラザロの死を悼み、泣いている姿をご覧になり、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られたのです。この「霊の憤りを覚え」という言葉は、もともとは「馬が鼻をぶるぶるっと鳴らして怒る動作」を表す言葉です。非常に激しい感情の動きを表す言葉です。また、「心の動揺を感じ」というのは、「身震いする、自分自身を震わせる」という言葉です。イエス様は、何に対して、それほどまでに霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられたのでしょうか。それは、人を悲しませる「死」そのものに対してでした。死がもたらすものに対してイエス様は憤りを感ぜずにいられなかったのだと思います。なぜなら、死は、それまでの暖かい交わりを奪い、関係を断ち切ります。悲しみをもたらし、すべての希望を奪い去っていくからです。イエス様は、このすべてを奪い破壊する死に対して憤りを持たれたのです。 そして、この憤られるイエス様の姿の中に、イエス様が何のために来られたかということが明確に示されていると思います。前回も紹介しましたが、ヘブル人への手紙2章14節には、こう書かれています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」イエス様は、ラザロの病気の知らせをお聞きになったとき、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」と言われましたね。すべてを奪い去ってしまう死によってすべてが終わるなら、そこに希望はありません。しかし、イエス様は、死の力に対して憤り、死に対抗し、死を打ち破るために来られたのです。そして、死の恐怖につながれて奴隷となっていた私たちを解放し、いのちを与えるために来てくださったのです。
 そのことを現すしるしとして、イエス様は、死後四日も経っているラザロを生き返らせるという奇跡を行われました。そして、この出来事を目撃した多くの人々がイエス様を信じたのです。
また、この出来事は、当時の宗教指導者たちにも伝えられてました。すると、47節にあるように、緊急の議会が招集されました。
 この「議会」のことは、新約聖書にたびたび出てきます。「議会」とは「サンヘドリン」という言葉で、ユダヤの最高議会のことです。議長を務めるのは、大祭司です。そして、祭司、律法学者、民の長老たちから選ばれた七十人の議員によって構成されています。律法学者と民の長老たちの多くは、パリサイ派と呼ばれるグループに属する人たちでした。ですから、47節に「祭司長とパリサイ人たちは議会を招集し」とありますが、この「祭司長とパリサイ人たち」とは、サンヘドリンの議員たちのことです。最高議会ですから、優秀な人たちが集められていたのでしょう。
 さて、今回の緊急議会の議題は何かと言いいますと、「イエスに対して、われわれはどのような対策を講じるべきか」ということでした。47節に「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに」とあるように、自分たちがイエスに対して何もしていない、何の手も打つことができないでいるという無策にいらだちを覚えているわけですね。
でも、不思議だと思いませんか。イエス様は、何か、悪いことをしたでしょうか。イエス様は、人々を癒し、慰め、教え、希望のメッセージを語っておられました。そして、死人を生き返らせることまでしたわけですから、素晴らしい方が来てくださったと、喜びと感動をもって迎えられてもいいはずです。
 しかし、彼らは、
 しかし、当時のユダヤ社会の特権階級であったサンヘドリンの議員たちは、イエス様の働きが人々から注目されればされるほど、大きな恐れをいただくようになったのです。

1 議員たちの恐れ

 彼らは、何を恐れていたのでしょうか。48節で「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」と言っていますね。つまり、「イエスを野放しにしていたら、民はみなイエスの信奉者となり、その結果、大変な暴動が起こるかもしれない。そうすると、この地を支配しているローマが軍隊を派遣し、私たちの土地を奪い、さらには神殿も破壊し、私たちのこの大切な最高議会の権威さえも奪われてしまいかねない」ということを恐れていたわけです。このままイエスを放置していたら、自分たちの特権、権力、利権、そうしたものが失われてしまうから、何とかして方策を考えなければ、という発想なんですね。
 人間は、時々、強い思いこみの中で、物事の成り行きを勝手に決めつけてしまうことがあります。彼らは、「イエスを野放しにしていたら、信奉者がふえ、暴動がおこり、自分たちの特権が失われてしまう」という図式を考えました。本当は、別の見方もできたはずです。「イエスの働きがさらに広がっていったら、幸せに生活できる人が増え、平和がおとずれる」と考えてもいいはずでした。どうして、彼らは、そのように考えることができなかったのでしょうか。
 彼らは、物事を客観的に見て正しく判断し正義を行うことよりも、自分たちの既得権益を守ることにこだわっていました。神様に従っているといいながら、実際は、虚栄と偽善に満ちた生活をしていました。そんな彼らを、イエス様は厳しく批判なさっていましたから、彼らは、とにかくイエスが憎い、何とか亡き者にしたい、そのための大義名分を何でもいいからでっち上げようとしていたのです。彼らの心の中の欲望と恐れが、イエスへの憎しみ、イエスを亡き者にしたいという思いを生み出していたのです。
 彼らだけではありません。人は皆、自分の利益や権利や立場を守りたいという自己中心的な欲望を持ち、自分に不利な言動をする人たちを恐れ、そういう人たちを抹殺したいという思いを持ってしまう傾向があるのではないでしょうか。
 ローマ帝国の時代に、教会は激しい迫害を経験しました。迫害する側は、「クリスチャンが増えると、皇帝を神とあがめない者たちが増えて、社会の秩序を乱す」という理屈で迫害するのですが、その根底には、やはり、自分の利益や権利を守りたいという欲望や、それが脅かされるのではないかという恐れがあったのです。

2 大祭司カヤパの提案

 さて、彼らの心配に対して、議会の議長役をしていた大祭司カヤパが言い出しました。「あなたがたは全然何もわかっていない。」これは、横柄な物言いですね。優秀な人々が集まっている議会の議員たちに向かって、「あなたがたは、全然何もわかっていない。しかし、私は、わかっている」と言わんばかりの見下した態度です。
 では、カヤパはいったい何をわかっているというのでしょう。
 彼は、50節でこう言っていますね。「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
つまり、カヤパは、ここで、一つのことを提案しているわけです。それは、「自分たちの国が守られ、神殿が奪われず、自分たちの特権も奪われないためには、イエス一人に死んでもらって、自分たちの国がローマによって滅ぼされることのないようにすること、これかしか道はないだろう。そして、これが最も得する道なのだ。諸君は、このことがわからないのか!」ということです。
大祭司カヤパは、イエスとは、どのような人物なのか、どのようなことを言ったり行ったりしているのか、暴動を起こすような者なのか、そのようなことは何一つ検証もしないで、自分たちが最も損をしないで得する道は何かという判断だけで動いているのです。
しかし、この提案は議会の賛同を受け、53節にあるように、その日、イエスを殺すための計画が立てられ、すぐに実行に移されました。彼らは、まず、57節にあるように、「イエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令」を出したのです。
 イエス様は、ラザロを生き返らせるというみわざを行われたことがきっかけとなり、「お尋ね者」になってしまったわけです。

3 聖書の真理

 カヤパは、自分勝手な思いから、「イエスを民の代わりに死なせるのが得策だ」と言いました。
 しかし、この福音書を書いたヨハネは、51ー52節で、「ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」と解説しています。カヤパは、自分勝手な思いで語ったのですが、自分でも気づかないで神様のご計画の内容を預言をしていたのだというのです。
旧約聖書の時代から、大祭司は神殿に仕える者として働いていました。大祭司には、神様と人との仲介をする役割がありました。神様の前で民の罪のとりなしをするとともに、神様のみ声を聞いて人々に伝える預言者のような働きもしていたのです。ですから、大祭司が語ることばの中には、神様からの預言が示されている場合があったわけです。
 神様に誠実に仕える大祭司なら、神様の言葉を聞き分けて、自分が神様の言葉を預言しているという自覚を持って語ることができたでしょう。しかし、カヤパは、ただ自分たちの利益を守るためにイエスを殺そうと言ったのでした。それなのに、神様は、そのカヤパの言葉をも用いて、イエス様がすべての人の代わりに十字架についていのちをお捨てになるというご計画を示してくださったのです。
 カヤパは、議員たちに「あなたがたは、全然何もわかっていない」と言いましたが、カヤパ自身も自分が預言をしていることをわかっていませんでした。聖書は、「カヤパよ。おまえこそ、自分が言っていることが全然わかっていない。お前の考えて語っていることと、神様の意図とは全く違っているのだ」と語っているわけです。そして、議員たちがカヤパの言葉に賛同してイエス様を殺す計画を立てた結果、イエス様がすべての人のために十字架について救いを完成してくださる、という神様のご計画が成就していくことになるのです。
神様は、ご自分のみわざを行われるときに、神に逆らう者たちをも用いられます。たとえば、旧約聖書で、イスラエルの民が神様に逆らったとき、神様は、外国の軍隊にイスラエルを攻撃させました。外国の軍隊は、自分たちが神様のみこころによって動かされていることをまったく知らず、自分たちの欲望のままに攻撃し、自分たちが強いからイスラエルに勝つことができたと思い上がっていましたが、実は、神様がイスラエルに警告を与え、悔い改めて神様に立ち返らせるために用いられたにすぎなかったのです。
 そのように、神様は、私たちの目には悪いと見えるものや私たちに敵対してくる人々をも用いて、みこころを実現することがおできになるのです。ですから、私たちは、どんな状況にあってもすべてを支配しておられる神様を信頼して生きていくことができるのです。
 では、大祭司カヤパが自分で知らずに語った預言の内容についてもう少し詳しく考えていきましょう。

@イエス様の死の目的

51節に「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」とありますね。
 カヤパは、「自分たちユダヤ民族を守るためにイエスに死んでもらう」と考えたのですが、聖書は、「イエス様は、ユダヤの民だけでなく、散らされている神の子たちのためにも死ぬことになっているのだ」と語っているわけです。イエス様は、ユダヤ人だけでなく、全世界の人々が滅びることのないように身代わりに死んでくださるというのです。
 また、「一つに集めるため」と書かれていますが、イエス様を信じて救いを受け取った一人一人は、集められて一つになるというのです。
 イエス様は、10章で「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われました。そして、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」と言われました。羊である私たちを一つに集めるためにもイエス様は、死のうとしておられるというのです。
 今日は、聖餐式があります。聖餐式は、「主の死」つまり、「イエス様の十字架の死」を知らせる公の礼典です。聖餐式は、十字架によって私たちの罪が赦されたことを感謝する時です。また、イエス様がいのちをかけるほどに私たちを愛してくださっていることを覚える時です。また、イエス様によって私たちが一つとされていることを覚える時でもあるのです。十字架でさかれたイエス様のからだの象徴であるパンを共に食し、十字架で流されたイエス様の血の象徴であるぶどう液を共に飲むことによって、一人一人が結び合わされ、イエス様のからだである教会が形作られていくのです。イエス様の死は、私たちが違いを超えて、互いに認め合い一つとされていくための者であることを改めて覚えましょう。もちろん、物理的に一つ所に集まることができないこともあります。しかし、一つに集められ、共に一つとされている共同体としての意識を持ってクリスチャン・ライフを送っていきましょう。

Aイエス様の十字架は、目に見える神殿を不要にする

 カヤパは、「イエスを殺すことが、神殿を守り、特権を失わない最善の方策だ」と主張しました。しかし、皮肉なことに、イエス様が十字架につかれることによって、彼らが守ってきた神殿は、もはや不要なものになってしまうのです。
 イエス様が十字架にかかる前は、人々は神殿で罪の赦しのために動物のいけにえをささげなければなりませんでした。動物のいけにえは不完全なものですから、人の罪を完全にあがなうことはできません。ですから、人々は繰り返し神殿に来ては動物のいけにえをささげげ続けなければなりませんでした。神殿で人々からいけにえを受け取って神様の前にささげる祭司たちには大きな特権や利益があったわけです。
 しかし、神の御子であるイエス様が、ご自身をいけにえとして、ただ一度、十字架上でおささげになることにより、私たちのすべての罪の贖いが完成しました。ですから、もはや神殿にいっていけにえをささげる必要がなくなってしまったのです。また、罪赦された人々は、神殿に行かなくても、いつでもどこでも自由に神様の前に出て、自由に神様に祈ることができますから、神殿という場所も仲介者の役割をする祭司も必要なくなりました。また、神様ご自身が一人一人に語りかけ、みこころを示してくださるので、もはや、律法学者やパリサイ人たちの決めた戒めに縛られる必要もなくなるのです。結局、ユダヤ議会は、自分たちの権益を守るためにイエス様を殺そうとしましたが、その結果、かえって自分たちの権益を失う結果になったのです。
 さらに皮肉なことに、紀元七十年にエルサレム神殿はローマ軍の手によって徹底的に破壊されてしまいました。
 自分たちの得になることだけを考え、相手をまったく顧みない高慢な人生は、決して良い結果を生み出すことはありません。自分たちが得すると思って行動しても、結局、すべてを失うことになってしまうのです。

 さて、「お尋ね者」になったイエス様は、しばらくユダヤ地方から離れておられましたが、過越の祭りが近づいてきました。この祭りの時には、多くの人がエルサレムに上ってくるので、エルサレムの人口は十倍から二十倍にも膨れあがるそうです。神殿に集まってきた人々は、イエス様のうわさ話でもちきりでした。ユダヤ当局からは「イエスの居場所を知っている者は届け出るように」との命令が出ているわけですから、イエス様がエルサレムにお入りになれば、いよいよ逮捕と死刑が現実のものとなるということをヨハネは記しているわけです。
 そうした不穏な情勢の中で、イエス様は、ラザロを生き返らせたベタニヤに再び行かれた後、いよいよ「ひとりの人が民に代わって身代わりの死を遂げる」ために、エルサレムへと、まっすぐに進んで行かれることになるのです。