城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年八月一一日             関根弘興牧師
                 ヨハネ一二章一節ー一一節

ヨハネの福音書連続説教38
    「ナルドの香油」

1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。(新改訳聖書)


 今日の箇所には、ユダヤの大きな祭りの一つである過越の祭りの六日前の出来事が記されています。
 先週、お話ししましたように、イエス様は、ベタニヤに住むラザロを生き返らせるという奇跡をなさいました。すると、そのことは、すぐにエルサレムの祭司長や長老たちの耳に入り、彼らは、緊急の議会を招集したのです。彼らは、「イエスをこのまま野放しにしていたら、民はみなイエスの信奉者となり、その結果、大変な暴動が起こるかもしれない。そうすると、この地を支配しているローマが軍隊を派遣し、私たちの土地を奪い、さらには神殿も破壊し、私たちのこの大切な最高議会の権威さえも奪われてしまいかねない」と恐れたわけです。そして議会は、イエスを殺す計画を決議し、イエスの居所を知っている者は届け出なければならないという命令を出しました。
 そこで、イエス様は、いったん荒野に近いエフライムの町に退いて、しばらく滞在しておられましたが、過越の祭りの六日前に、再びベタニヤに来られたのです。ベタニヤはエルサレムのすぐ近くの村です。人々は、ラザロをよみがえらせたイエス様のために晩餐会を開いて迎えました。
 その晩餐会には、生き返ったラザロもいましたし、マルタもマリヤもいました。姉のマルタは、ここでも一生懸命給仕し、もてなしに気を配っていたようですね。一方、マリヤは、どうでしょう。マリヤは、非常に高価な香油をとり、イエス様の足に塗り、自分の髪の毛でぬぐいはじめたのです。マルコの福音書14章を見ると、マリヤはイエス様の頭にも香油を注いだとありますから体全体に香油が注がれていったのでしょう。
 この出来事は、とても有名ですね。礼拝の時に時々歌う讃美歌三九一番には、「ナルドの壺ならねど、ささげまつる我が愛」という歌詞がありますね。今日は、この有名な箇所から、ご一緒に学んでいきましょう。

 あるビジネス書の中に、こんなことが書かれていました。
 成功するための秘訣は、三無主義を実行することだというのです。一つは、「無理をなくせ」ということ。これは、努力を怠るということではなく、生活のリズムを保って心身共にリラックスしていきなさい、ということです。二番目は、「ムラをなくせ」です。これは、何事にも安定していること、精神的にも仕事においてもムラがないようにするというわけですね。そして、三番目は、「無駄を無くせ」です。すべて無駄と思えることを取り除いて合理的に生きよう、というわけです。
 なかなかビジネス書らしい内容ですが、しかし、すべて合理的に割り切って物事を進めていくことは、仕事の上では大切かもしれませんが、人生においては、すべてを割り切ることはできませんね。無駄をなくすということは、大切ではありますが、しかし、一見無駄と思えることの中で、実は大切なことを教えられることがよくあるのです。私たちは、あまりにも合理的に物事を見、判断していくと、なんだかとても冷たい機械のような存在になってしまうこともあるのではないかと思いますね。
 聖書の中には、一見無駄と思われることを勧めている箇所があります。たとえば、伝道者の書11章1節には、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になってそれを見いだそう」と書かれています。パンを水の上に投げるなんて、喜びそうなのは、お堀の鯉くらいですよね。なんだかとてももったいない、無駄なことをするような気がします。しかし、聖書には、「ずっと後の日になってそれを見いだす」と書かれているのです。
また使徒20章35節で パウロは、「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたのだから、それを忘れずに行いなさい」と言っています。普通は、与えるよりも受けた方が得だと思いますよね。ところが、聖書は、反対に、受けるよりも与えるほうがもっと豊かになるのだと教えているのです。私たちは、与えることは無駄だ、損だ、と考えてしまいがちですが、無駄だと思われることをしなさいというのです。

 さて、今日の箇所でも、マリヤは、一見とても無駄なことをしているように思えませんか。
 マルコの福音書を見ると、マリヤは、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだと書かれています。つぼを割って入っていた香油を全部使い切ってしまったのですね。
 5節でユダがこの香油は三百デナリで売れると言っていますが、一デナリは一日分の給料に相当する額ですから、三百デナリは、三百日、つまり、約一年分の給料に匹敵する金額ですね。たった三百グラムで、一年分の給料と同じ値段だというのですから、とても高価なものです。ちなみに、有名な香水、シャネルの五番は、いくらぐらいするのだろうと思ってインターネットで調べてみましたが、通販サイトのアマゾンでは、五十ミリリットル入りが七千百三十円でした。ナルドの香油の足下にも及びませんね。
 マリヤは、なぜそんなに高価な香油をイエス様に注いだのでしょうか。兄弟ラザロを生き返らせてくださったことへのあふれる感謝があったでしょう。また、イエス様を心から歓迎したいという思いでいっぱいだったのでしょう。家は、その香りでいっぱいになりました。

 しかし、突然、その空気を吹き飛ばすような冷たい言葉がかけられました。それは、イスカリオテのユダの言葉でした。彼は、「これは、三百デナリで売れるじゃないか。これを売って貧しい人に施したほうがよっぽどいいじゃないか。それなのに、なんて無駄なことをするんだ」と言って、マリヤを諫め始めたのです。
 これは、一見もっともな意見のように思われます。倹約家の見本みたいな発言ですね。しかし、聖書は、彼の心を暴露しています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は、盗人であって、いつも金入れから盗んでいたのだ」と記しているのです。
 イスカリオテ・ユダというのは、「ケリヨテの人ユダ」という意味で、他の弟子と違って都会人で、少し合理的な男だったのかもしれません。計算が得意だったのでしょう。イエス様と弟子たち一行の財布を預かっていたようでした。しかし、ユダは、いつ頃からか財布から少しずつ盗んでいたようです。そして、うまくごまかせるだろうと考えていたのかもしれません。もしかしたら、この時、三百デナリくらい使い込んでいたのかもしれません。だから、ユダは、この香油を売れば穴埋めができたのにとでも思ったのかもしれませんね。
 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」というユダの言葉は、いかにも理にかなっているように聞こえますが、彼がこう言ったのは、自分の損得しか考えない利己的な思いが背後にあったのだというのです。

 さて、このナルドの香油の記事から、いくつかのことを考えていきましょう。

1 イエス様に感謝と愛を捧げることの大切さ

私たちが、まず最初に覚えたいことは、マリヤが高価な香油を注いだ姿です。そこには、心からの感謝と愛と献身の姿があります。
 クリスチャン・ライフの本質は、心からの礼拝の中にあると思います。今、木曜日の聖書を読む会では、黙示録を少しずつ読んでいるのですが、そこには、天における礼拝の姿が描かれています。その礼拝は、賛美に満ちあふれています。私たちも、共に集い、赦されていること、愛されていること、永遠のいいのちが与えられていることを感謝し、賛美し、礼拝をささげつつ生かされていくのです。そして、その感謝と賛美と愛は、ナルドの香油の香りが部屋中に満ちたように、私たちの生活を満たし、回りのすべての人に対して良き香りを放つものとなっていくのです。

2 「それは無駄だ」という声に対して

しかし、「イエス様を礼拝したって一銭も得にならないじゃないか。そんな無駄なことに時間を使うより、もっと役に立つことをしたほうがいい。礼拝するより、お金を儲けて貧しい人たちに施したほうがいいではないか」と言う人がいるかもしれません。ユダと同じようなことを言ってくるわけですね。
 もっともな意見のように聞こえますね。もちろん、教会全体としても、個人的にも、他の人々のために奉仕をすることはとても大切です。しかし、イエス様を礼拝し、賛美と感謝を捧げることは、もっと大切です。それは、決して無駄なことではありません。まずイエス様を礼拝し、感謝と賛美をささげていくときに、本当の愛のわざを行うことができるようになっていくのですから。ただ自分の頭で合理的に「これは無駄だ」と判断するのことは、神様のみこころからずれていくことになるのです。
 私の兄は、大学を卒業後、牧師になるために留学しました。その時、母の親類は言いました。「留学までして牧師になるなんて、もったいない!牧師になっても生活が保証されるわけでないし、社会的な地位を得ることもできないじゃないか。なんてもったいないことをするんだ」と。
 イエス様のために生きようとするとき、「無駄じゃないか、もったいない」と思ったりすることがあるものです。また、祈っていても結果が思わしくないと、祈ることすらも無駄なように思えてしまうことがあるかもしれません。私たちは、毎週礼拝に集いますが、わざわざ礼拝のために教会に行くことに何か意味があるのだろうかと感じてしまうことすらありますね。献金することも、奉仕することも、なんだか義務的になって、こんなことをしても無駄ではないかと思えてしまうことがあるのです。
 でも、主を愛するゆえになされ、捧げられる一つ一つの純粋な行為は、結果的に私たちの人生に豊かな香りをあふれさせていくことにつながるのです。
 私たちが、毎週の初めに、礼拝を通して、私たちのために十字架について死んでくださり、死から復活して豊かないのちを与えてくださるイエス様に対して、心からの感謝を賛美と愛をささげ、新たな出発をすることができるのは、なんと幸いなことでしょう。
 何かのわざをおこなう前に、まず、主への感謝と愛をもって礼拝を捧げることが大切なのです。それが無駄なことのように思えてしまうときがあるかもしれませんが、主のみ前で無駄になるものなど何一つないという確信の中で歩んでいきましょう。

3 「イエス様の無駄」がある

 あれは無駄だ、これも無駄だ、と損得の計算ばかりしている人は、本当の愛によって行動することができません。
 もちろんどんな浪費もかまわないのだと言っているのではありません。考えてください。イエス様の姿の中には、一見無駄と思えることがたくさんあります。ご自分に対して、すぐに手のひらを返してしまうような人々のために癒しを行い、恵みのことばを語り、歩まれました。ある時は、五千人にパンと魚を分け与えられましたが、余ったパン切れが十二のかごにいっぱいになったというのですから、なんと無駄なことか、と思う人もいるかもしれません。また、イエス様は、わざわざユダヤ人が嫌っていたサマリヤ地方に向かい、その井戸端でサマリヤの女と語り合う時間を持たれました。ユダヤ人にとっては、それは、まったく時間の浪費で馬鹿げたこととしか見えなかったでしょう。エリコの町に行かれたときは、あのザアカイという嫌われ者の家に行かれましたね。町の人々から見たら、なんと無駄なことをしているのかと思われたことでしょう。
 そして、イエス様は、私たちのために何をしてくださったでしょうか。ヨハネの1章にあるように、この世はイエス様を受け入れず拒否したではありませんか。にもかかわらず、イエス様は、私たち一人一人の罪の赦しのために、なんとご自分が身代わりとなって十字架についてくださったのです。イエス様は、ご自分に背を向け、罵倒する人々のために十字架で血を流してくださったのです。なんと無駄なことか、と思いますね。しかし、イエス様のこの無駄死にと思われた十字架の死が、人々の罪を赦し、神様の豊かな愛を示す出来事となったのです。イエス様が、罪人である私たちのためにご自分の尊いいのちを捨てるというのは、最大の無駄ともいえることではありませんか。しかし、そのことを通して、私たちに素晴らしい神様の愛が示されたのです。
 
4 イエス様の葬りの日のためのもの

 さて、マリヤが香油を注いだとき、イエス様は、7節で、「マリヤは、わたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」と言われました。
 実際には、マリヤは、自分ではそんなつもりで香油を注いだのではないだろうと思います。ただ単純に、兄弟ラザロを生き返らせてくださったことへの感謝と心からの愛と歓迎のしるしとして香油を注いだのではないでしょうか。
 しかし、イエス様は、これは「葬りの日」のためのものだと、言われました。とても不思議な表現ですね。当時、死んで葬られるときに香油を注ぐことは、一般的に行われていました。しかし、イエス様はまだ生きておられるわけですから、まだ葬りの準備は早いですね。しかし、イエス様は、マリヤが香油を注いだのは、「わたしの葬りの日」のためのものだと言われたのです。
 11章で、イエス様が、ラザロを生き返らせてくださったときに、イエス様は、マルタとマリヤにこう言われましたね。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」と。つまり、イエス様にとっては、死とか葬りは、朽ち果ててすべてが失われてしまうということではなく、復活へと続くものであるということです。イエス様にとっては、葬りの日は、復活につながるのものなのです。
 マリヤは、イエス様が言われたことを理解することができなかったことでしょう。しかし、マリヤのこの行為が、イエス様の十字架の死と復活を暗示し、決して、イエス様は葬られたまま終わりではない、生けるお方であるということを示す行為となっていったのです。

 そして、この後、イエス様は、いよいよエルサレムに入って行かれることになります。次回から、十字架にかかるまでの最後の一週間、イエス様が何を語り、何をなさったかを学んでいくことにしましょう。