城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年八月一八日             関根弘興牧師
                ヨハネ一二章一二節ー一九節

ヨハネの福音書連続説教39
    「ホサナ!」

12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」(新改訳聖書)

前回は、イエス様が過越の祭りの六日前にベタニヤに行かれたときの出来事を読みました。
 ベタニヤでは、イエス様のために晩餐会が開かれました。そこには、イエス様が死からよみがえらせたラザロ、そして、ラザロの姉妹のマルタとマリヤもいました。
 その時、マリヤが、高価なナルドの香油をイエス様に注ぎ、髪の毛でイエス様のみ足をぬぐい始めたのです。香りは部屋中に満ちていきました。しかし、弟子の一人であるイスカリオテのユダは、「なんてもったい。それを売れば、三百デナリにもなるではないか。その金で、たくさんの貧しい人に施しができたのに」と批判し始めました。
 すると、イエス様は、こう言われました。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」と。イエス様は、「マリヤは、わたしの葬りの日のために香油を注いでくれたのだ」と言われたのです。イエス様は、ご自分が十字架にかかる日が近づいていることを知っておられました。
 そして、今日の箇所から、イエス様の十字架、埋葬、復活までの一週間の様子が記録されているのです。

 まず、今日の箇所の最初の12節に「その翌日」とありますね。前回学んだように、イエス様は過越の祭りの六日前にベタニヤに行かれました。そして、その日に開かれた晩餐会の時、マリヤがイエス様にナルドの香油を注いだのです。それは、土曜日でした。その翌日ということですから、今日の出来事があったのは、日曜日ということになります。日曜日に、イエス様は、ろばの子に乗ってエルサレムに入城され、人々はしゅろの木の枝を取って出迎えたのです。そして、その週の金曜日にイエス様は十字架につけられることになります。それで、イエス様が十字架につけられた週を受難週と呼び、その受難週の始まる日曜日、つまり、イエス様がエルサレムに入城された日を記念する日曜日を、「しゅろの日曜日」(パームサンデー)と呼ぶようになりました。
 
 イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入られたこの日には、大勢の人が過越の祭りのためにエルサレムに集まってきていました。
 この過越の祭りの起源は、神様が、かつて、エジプトで苦しい奴隷生活を送っていたイスラエルの民を救い出してくださった出来事の中にあります。
 神様は、エジプトで苦しんでいるイスラエルの民の叫びを聞いて、モーセという人物を選び、エジプトの王のもとに遣わしました。モーセは、イスラエルの民をエジプトから出て行かせてほしいと王に要望したのですが、エジプトの王がやすやすと貴重な奴隷を解放するはずがありません。頑なに拒み続けました。すると神様は、次々にエジプトに災いを下されたのです。水が血に変わったり、カエルやブヨやイナゴが大発生したり、疫病や暗闇が襲ったり、次々に大きな災害が起こりました。そして、最後の十番目に、エジプト中の初子が、人の初子から家畜の初子に至るまですべて死んでしまうという災いが下ったのです。
 ただ、イスラエルの民にまで災いが及ばないように、神様は、前もってイスラエルの民に一つのことを命じられました。羊をほふって、その血を自分の家の門柱と鴨居に塗りなさいという命令でした。そして、こう言われたのです。「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」つまり、羊の血が塗ってある家は、神様が過ぎ越してくださり、災いを及ぼさないと約束してくださったのです。
 その命令にしたがって羊の血を塗ったイスラエルの民は守られましたが、血を塗らなかったエジプト人の初子はすべて一夜にして死んでしまいました。エジプトの王の初子から家畜の初子までが死んでしまったのです。全エジプトに激しい泣き叫びが起こりました。さすがのエジプト王もこの出来事に恐れをなし、イスラエルの民がエジプトを出て行くことを許可しました。そして、イスラエルの民は全員無事にエジプトを脱出することができたのです。
 この有名な出来事、つまり、神様が羊の血を塗った家を過ぎ越して災いから救ってくださったという出来事を記念として、イスラエル人は過越の祭りを行ってきました。そして、イエス様は、この過越の祭りの時に、私たちの救いのための小羊として十字架につかれるわけです。
 この祭りの時には、ユダヤに住む成人男子はほとんど参加したそうです。また、世界中に散ったユダヤ人たちは、一生に一度でいいからエルサレムの過越の祭りに参加したいと願っていました。当時の記録によれば、神殿に捧げられた小羊の数は、なんと二十六万五千頭に達したそうです。また、約二百六十万人がエルサレムに来たという記録があります。これは少し大げさな数字だとも言われていますが、とにかくエルサレムの中も郊外も人、人、人であふれかえっていたわけです。
 そんな祭りの時期に、イエス様がエルサレムに来られました。イエス様は、それまでに、イスラエル全土を歩いて多くの人を癒してこられました。おまけに、エルサレム近郊のベタニヤでは、死んだラザロを生き返らせましたね。ですから、イエス様のうわさは急速に広がり、イエス様のもとには、大勢の人が押し寄せてきました。ユダヤ当局者は、イエス様を捕らえるために、居所がわかったら知らせるようにというおふれを出していましたが、人々のあまりの熱狂ぶりに、むやみに手を出せない状況になっていたのです。
そして、ついにイエス様がエルサレムに近づき、都に入ろうとすると、さらに大勢の群衆が集まってきました。13節には、群衆が「しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った」とありますね。「あのイエスがエルサレムに来るぞ」ということがエルサレムの中にいた人たちにも知らされ、わざわざエルサレムから出迎えに出てきたというわけですね。どれほどの人数になったことでしょう。群衆は大歓声を上げて、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と叫び、イエス様を迎えたのです。

 このイエス様のエルサレム入城の出来事は、四つの福音書のすべてに記されています。ですから、イエス様の生涯の中でも、大変有名な出来事であり、大切な出来事であるわけです。では、
この出来事は、私たちにどのようなことを教えてくれるのでしょうか。

1 しゅろの木の枝

まず、人々がしゅろの木の枝を持ってイエス様を出迎えたことについて考えてみましょう。
 少し前に学んだヨハネ10章で、ユダヤ人たちが、イエス様を取り囲んで「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と詰め寄ってきたことがありましたね。それは、ちょうど「宮きよめの祭り」の時でした。
 宮きよめの祭りは、紀元前二世紀にイスラエルがシリヤによって占領され、大切な神殿がシリヤ王によってめちゃくちゃにされてしまった時に、祭司の家系のマカベアという人が立ち上がって、神殿を奪還し、神殿をきよめたという歴史的な出来事がきっかけとなって始まった祭りです。人々は、この出来事を喜び、しゅろの枝をかざして、詩篇118篇25節、26節の言葉を引用して、「ホサナ。主の御名によって来る人に、祝福があるように」と叫びながら、神様に賛美と感謝をささげたのです。
 ですから、ユダヤの社会では、しゅろの枝をかざして賛美をささげるという光景は、自分たちの国の独立戦争に勝利した姿を思い出させるものでもあったわけです。
 今日の箇所で、人々は、イエス様が、自分たちを支配しているローマ政府を打ち倒し、ユダヤ人の王国を再建し、世界を征服するというような軍事的、政治的な救い主ではないかと期待していました。ですから、昔、エルサレムをシリヤの支配から解放したマカベアを迎えたときと同じように、しゅろの枝をかかげ、同じ詩篇の言葉を叫びながらイエス様を迎えたわけです。イエス様こそ、ローマの支配を打ち破り、勝利と解放をもたらしてくださる方だ、と期待していたのです。
 皆さん、想像できますか? イエス様と一緒にエルサレムに入ってきた弟子たちは、きっと得意満面だったことでしょう。「我らの先生も、ついに、こんなすばらしい歓迎を受けるようになった」「今まではこんな風に歓迎されたことはなかったが、ついに先生が王になる時がきたぞ」、そんな思いをもっていたのではないかと思います。

2 ろばに乗る王

 しかし、イエス様は、人々の期待とは、別の思いを持っておられました。
 他の福音書に詳しく書かれているのですが、イエス様は、エルサレムに入る直前、弟子たちにこう言われました。「向こうの村に行って、ろばの子を連れてきなさい」「先生、ろばでなく、馬の間違いじゃないですか?」「いや、ろばの子を連れてきなさい。」弟子たちが、ろばの子を連れてくると、イエス様は、そのろばの子に乗って、エルサレムに入って行かれました。つまり、イエス様は、わざわざご自分で選んで、ろばの子に乗られたのです。
 ヨハネは、イエス様がろばの子に乗られたことの意味を、旧約聖書のセカリヤ書の言葉を引用して、「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って」と書かれているとおりであった、と記しています。これは、ゼカリヤ書9章9節の救い主に関する預言の引用なんです。 
 ゼカリヤ書には、こう書かれています。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」つまり、ゼカリヤは、「これから救いを与えるために来られる王は、柔和な方で、ろばの子に乗って来られる」と預言したのです。
 イエス様が来られたのは、群衆が考えているように、戦いによってユダヤに政治的勝利をもたらすためではありませんでした。もし、そうなら、さっそうと軍馬に乗って来られたことでしょう。
 ろばの子に乗るというのは、平和を示すしるしでもありました。つまり、イエス様は、平和をもたらす王として来られたのです。間違った期待を抱いて歓喜の叫びを上げる群衆の前で、イエス様は、子ろばに乗ることによって、ご自分の来られた意味を示されたのです。
 もし、イエス様がここで、軍馬にまたがり、群衆に「さあ今こそ立ち上がるときだ。立て。そして、私に続け!」と叫び始めたら、人数が通常の何倍にもふくれあがった祭りの時ですから、すぐに人々は熱狂し、多くが暴徒化していったことでしょう。そうなれば、総督ピラトの官邸になだれ込み、ローマ兵を追い出し、ヘロデ王の官邸に火をつけ、大暴動が起きたかもしれません。11章の後半に書かれている大祭司カヤパの心配が現実のものとなっていったかもしれませんね。
 不平と不満が鬱積していた群衆は、力強いリーダーの「立ちあがれ!」のひとことを待っていたかもしれません。ユダヤ当局者に「世はあげてあの人のあとについて行ってしまった」と言わしめるほど、人々は「このイエスが何かをしてくれるのではないか」という期待を持っていたからです。
 しかし、イエス様は、いつまでたっても、「さあ立ち上がれ、武器を取れ、ローマ政府を倒すぞ」とかけ声をかけることはなさいませんでした。なぜなら、それは、イエス様が来られた目的ではなかったからです。

3 エルサレム入城の意味

 16節を見ると、「初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した」と説明されていますね。
 今日の出来事の意味を、弟子たちも初めはわからなかったのだというのです。「イエス様は、どうして、熱狂した群衆と一緒にローマ打倒を宣言しないのだろう。なぜ、時が来た、行動を起こせ!と叫ばないのだろう」と思っていたのかもしれません。トマスなどは、エルサレムに向かうとき、「われわれもイエス様と一緒に死のうではないか」と言っていたほどだったのですから、静かに進んで行かれるイエス様の姿を理解することができなかったでしょう。
イエス様の華々しいエルサレム入城の姿の中に示された本当の意味を弟子たちが理解できたのは、イエス様が栄光を受けられてからでした。
 「イエス様が栄光を受ける」という表現は、ヨハネの福音書の中によく出てきます。それは、イエス様が私たちの罪のために十字架についてくださり、三日目に復活されるということを意味する表現です。イエス様は、十字架と復活によって栄光をお受けになりました。十字架と復活こそ、イエス様の栄光そのものなのです。ですから、イエス様の十字架と復活を通して今日の出来事を見るとわかってくることがあるというのです。いったい、何がわかるのでしょうか。
 一つは、先ほどお話しましたように、イエス様がろばの子に乗られた意味です。イエス様は、軍事的な王としてではなく平和の王として来られたということです。弟子たちは、イエス様が十字架と復活を経験して初めて、イエス様がこの世の王となるために来られたのではなく、人々を罪と死の束縛から解放し、赦しと永遠のいのちと揺るぎのない平和を与えるために来てくださったことを理解することができたのです。
 また、群衆は、大声で「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」と叫びました。「ホサナ」とは、もともとは「私たちを救ってください」という意味の言葉です。それが、日本で言えば「万歳」のような歓呼の叫びとして使われるようになっていました。しかし、イエス様の十字架と復活を通してこの出来事を見ると、人々がイエス様に向かって「ホサナ!主よ救ってください」と叫び求め、その叫びに答えて救いを成就するためにイエス様が来てくださったことが見えてくるのです。「主よ、救ってください」という私たちの叫びに答えて、イエス様は、十字架と復活によって、救いを与えてくださったのです。
ヨハネは、ゼカリヤ書を引用して、「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って」と記していますが、実は、ゼカリヤ書には「恐れるな」という言葉は出てきません。ヨハネが、わざわざ旧約聖書の他の箇所にたびたび出てくる「恐れるな」という言葉を付け加えたのです。なぜでしょうか。
 ヨハネは、「王なる方が来たのだから、もはや恐れる必要はない」と言っているわけですね。イエス様が来られたから恐れなくていいのだというのです。なぜなら、イエス様が十字架と復活によって、罪と死の力を打ち破ってくださるからです。イエス様が王となり、すべてを支配し、守ってくださるので、私たちを害するものは何もないからです。
 パウロは、第一コリント15章55節でこう記しています。「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」 イエス様は、罪と死という人間の奥底にある根本的な恐れの問題を解決してくださいました。だから、ヨハネは、「恐れるな」と記したのです。私たちは、王なるイエス様を信頼し、恐れることなく、平和の中に憩うことができるのです。

イエス様が、エルサレムに入城なさったとき、群衆も弟子たちもイエス様が王として来られた意味をよく理解できないまま、喜びをもって迎えました。
 でも、今、私たちは、イエス様の十字架と復活を通して、イエス様が罪を赦し、死を打ち破り、永遠のいのちを与えるために来てくださった救い主であり、私たちの人生を最善に導いてくださる王として来てくださったことを知っています。そのことを告白し、心からの感謝と喜びを持って、イエス様を歓迎しましょう。
 私たち一人一人が「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。私たちの王に」と賛美しつつ、心からイエス様を歓迎して、この週も歩んでいきましょう。