城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年八月二五日             関根弘興牧師
                ヨハネ一二章二〇節ー三六節

ヨハネの福音書連続説教40
    「一粒の麦」

20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。(新改訳聖書)


先週は、イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城され、群衆がしゅろの枝を手に取り、「ホサナ!」と叫びながらイエス様を迎えたという出来事を読みました。ちょうど過越祭りが間近に迫っている時でしたので、エルサレムは、人、人、人であふれかえっていました。
他の福音書に書かれているのですが、イエス様は、エルサレムに入るとすぐに、神殿の外庭にあたる「異邦人の庭」と呼ばれる場所に行かれました。そこには、神殿専用の通貨に両替する両替商たちや、神殿に捧げるいけにえの動物を売る商売人たちがあふれていました。彼らは、法外な手数料や代金を取って儲けていたのです。イエス様は、その両替人や商売人たちの台をひっくりかえし、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」と言われました。
この出来事を見た人たちは、さぞ驚いたことでしょう。この場所は、異邦人の庭でしたから、ユダヤ人以外の人たちもたくさんいたはずです。イエス様が「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われるのを聞いて、そこにいた異邦人の巡礼者たちは、「このイエスという男は、なにやらすごいことを言う奴だぞ」と思ったに違いありません。
 さて、ヨハネの福音書には、イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城された後に神殿から両替人たちを追い出されたという出来事は、記録されていません。(同じような出来事が2章に書かれていますが、ヨハネが意図を持って順番を入れ替えて記録したのではないかという説や、同じような出来事がイエス様の公生涯の初めと終わりに二回起こったのではないかという説があります。)その代わりに、ここで、その出来事を見ていたであろうギリシヤ人たちがイエス様に面会を求めて来たことが書かれているのです。ギリシヤ人たちは、「神殿は、すべての民の祈りの家だ」と主張なさったイエス様の話を、もっと聞きたいと願ったのでしょう。
 このギリシヤ人たちは、どんな人たちだったのでしょうか。過越祭りにエルサレムに行くのですから、ユダヤ教に回心したギリシヤ人であったかもしれません。あるいは、いろいろなことを探求する旅をしているギリシヤ人だったかもしれません。ギリシヤ人たちは、ヘレニズム文化の担い手で、探求心が旺盛でした。当時、観光旅行をする民などほとんどいませんでした。いるとすればギリシヤ人くらいだと言われたのです。ギリシヤ人は、目新しいものを求めて旅をしました。真理を探求するために、様々な哲学や宗教の教師のもとを渡り歩く者もいました。イエス様のもとに来たギリシヤ人たちも、そのように何かを探求する人たちだったのかもしれません。
 そのギリシヤ人たちが、イエス様の弟子であるピリポのところに来て、イエス様に面会を求めました。それで、ピリポはアンデレと一緒にイエス様のもとに行って、そのことを伝えたのです。

1 人の子が栄光を受ける時

 その時でした。イエス様は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言われたのです。
今までヨハネの福音書を読んできて気づかれたと思いますが、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」とたびたび語られましたね。
 たとえば、カナの結婚式に招かれたとき、葡萄酒がなくなって心配する母マリヤに向かって、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。
 また、仮庵の祭りの時に、イエス様の弟たちが「お兄さん、あなたが救い主なら、エルサレムに行って公に自分を示せばいいではありませんか」と言いましたが、その時も、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。
 ですから、ヨハネの福音書を読んでいる人は、「一体いつイエス様の時が来るのだろう」と思いながら読み進めていくわけです。
 そして、ついに、今日の箇所で、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」とイエス様は言われました。いよいよイエス様の生涯のクライマックスの時が来たというわけです。
 ところで、この「人の子」という表現は、旧約聖書のダニエル書に出てきます。ダニエルは、幻を見ました。「人の子のような方が天の雲に乗って来られ、永遠の主権を持って治める王となられる」という幻です。それまでは、獣のような王たちしか登場してこなかったのに、最後に、人の子のような柔和な輝かしい栄光に満ちた王が来てくださるというのです。
 そのダニエル書の内容をよく知っているユダヤ人たちが「人の子が栄光を受けるときが来た」という言葉を聞くと、皆、「人の子の姿をした栄光に満ちた王が来られ、世界を支配するようになる」というイメージを持つわけです。弟子たちも、イエス様の言葉を聞いて、「いよいよイエス様が王になって世界を支配される時が来た。ついに出陣の時が来た。さあ、ローマを倒すぞ」というような思いを持ったことでしょう。
 しかし、イエス様は、続けてこう言われました。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます」と。
 イエス様が栄光を受けるというのは、この世の戦いに勝利して世界の王になることを意味しているのではありませんでした。それとはまったく違って、ご自分がいのちを捨てることによって豊かな実を結ぶことが、栄光を受けるということなのだと言われたのです。つまり、イエス様がすべての人の身代わりとなって十字架についていのちを捨てることによって、人々に豊かないのちを与えることができる、それが、イエス様が受ける栄光だというのです。
ですから、イエス様が栄光を受ける時とは、十字架で苦しみを受ける時を意味していました。
 イエス様は、27節でこう言っておられます。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」と。これは、十字架の苦しみを前にしたイエス様の苦悩の言葉です。
 他の福音書には、イエス様が十字架を目前にして、ゲッセマネの園で祈られた姿が記されています。イエス様は、罪のない方なのに、人々の罪をすべて背負って十字架の苦しみをお受けになるのです。それは、まさに苦き杯を飲むことにほかなりません。イエス様は、ゲッセマネの園で、深く恐れもだえ始め、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言い、こう祈られました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
 ヨハネの福音書には、このゲッセマネの祈りは記されていませんが、その代わりに、27節にイエス様の苦悩の言葉が記されているのです。イエス様が栄光をお受けになる時には、私たちの想像を絶する大きな苦難がそこにあるのです。イエス様でさえ、「この杯を取りのけてください」と願われるほどの苦しみです。けれども、ゲッセマネの園で、イエス様は最後には、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られました。十字架の道に進むことが神様のみこころなら、それに従おうと決意しておられたのです。また、今日の箇所でも「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」と言っておられます。ご自分がすべての人の罪を背負って十字架にかかるために来たことを明確に自覚しておられたのです。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。」イエス様の十字架は、人々に赦しを与え、新しい人生へ導き、豊かな実を与えるものとなっていくのです。
 では、私たちにとって、豊かな実をつけていく生き方とは、どのような生き方なのでしょう。

2 自分のいのちを愛する者と憎む者

 イエス様は、続けてこう言われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」と。どういう意味でしょうか。
 ここで、「愛する」とか「憎む」という言葉が使われていますが、私たちが日常で使うのとは違う意味で使われているので、誤解しないように注意が必要です。
 たとえば、二つのものがあって、どちらか一つを選んだとします。すると、選ばれた方は「愛された」、選ばれなかった方は「憎まれた」という言い方をするのです。ここに、とても良いウクレレが二本あって、私は、どちらも好きなのですが、もしどちらか一つを選んだ場合、私は選んだ方を「愛し」、選ばなかった方を「憎んだ」ということになるのです。
 ルカ14章26節で、イエス様はこう言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」と。この言葉を聞いて、「大丈夫です、私は両親も兄弟も大嫌いで憎んでいますから」と言われた方がいますが、それは大間違いです。イエス様も家族も愛し大切にしなければならないけれど、まず、イエス様を主とあがめ信頼し生きることを優先すべきなんですよ、ということを教えているわけです。イエス様を最優先にして生きていくとき、結果として、家族も愛することができるようになるからです。

@「自分のいのちを愛する」とは

 では、「自分のいのちを愛する」とは、どういうことでしょうか。
 このイエス様の言葉は、ギリシャ人たちが面会を求めてきた時に語られましたね。ギリシャ人の特徴はなんでしょう。それは、「自分の生きる道を追求する」ことだと言えると思います。ギリシャ人は、どうすれば自分が生きるか、どうすれば自分を表現できるか、どうすれば自分が立派になれるか、つまり、自己表現、自己を生かすこと、それが彼らのテーマです。ですから、ギリシャの彫刻を見ても、男は筋骨たくましく、女はビーナスのように美しく、そういうことを追求していくわけです。もちろん、その追求の結果、人間に関する多くの知識を獲得することができます。しかし、私たちが、自分を追求するあまり、自分が、自分が、自分が、と自分ばかりを追い求めていく姿に陥っていくなら、かえって人間が本来あるべき姿が失われてしまう、とイエス様は教えているわけです。
 イエス様は「自分のいのちを愛するものはそれを失う」と言われました。自分のことだけを考えて、自分だけを優先して生きる者は、結局、大切なものを失うのだ、というのです。

A「自分のいのちを憎む」とは

では、「自分のいのちを憎む」とは、どういうことでしょうか。それは、決して「自分を嫌いになりなさい」とか「自分を粗末に扱いなさい」とか「自分のことはどうでもいいのです」などというような意味ではありません。生きることを放棄することでもありませんし、自分の弱さを嘆いたり、自己卑下することでもありません。
 26節でイエス様は、こう言われました。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」
 つまり、「自分のいのちを憎む」とは、自分中心の生き方をやめて、イエス・キリストに従い仕える生き方をすることなのです。
イエス様ご自身が、まず、仕える生き方の模範を示してくださいました。私たちの罪を背負い、十字架でご自分のいのちを捨てることによって、私たちに赦しといのちの道を開いてくださったのです。マルコ10章45節で、イエス様は、こう言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」また、ペテロは、第一ペテロ2章21節でこう書いています。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」
 神様がまず私たちを愛し、イエス様を救い主として与えてくださり、そのイエス様が、私たちのためにいのちを捨てるほどの愛の姿を模範として示してくださったのです。
 ですから、私たちは、自分、自分、自分という自分のことしか考えない世界に生きるのではなく、赦され、愛されていることを覚え、イエス様に仕え、イエス様のように生きる者とされていきたいですね。
 
3 「イエス様に仕える」とは

 では、「イエス様に仕える」とは、具体的にどういうことなのでしょう。日常から離れて宗教的な何かのおつとめをすることなのでしょうか。そうではありません。
 マタイの福音書25章34節-40節には、この世の終わりにイエス様が王座につかれる時、すべての人が主の前に集められて、右と左に分けられる時の光景が説明されています。その時、主は、右にいる人々に向かって、こう言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、主は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
 つまり、私たちが、誠実を持って生きていくとき、意識することなし、結果的にイエス様に仕えることになるというのです。イエス様に仕えるとは、イエス様の恵みに生かされながら、互いに仕え合って生きることです。互いのために祈り、配慮し、必要なことを誠実に行っていくことが、結果として、イエス様に仕えることへとつながっていくのです。イエス様を愛し仕えることと隣人を愛し互いに仕え合うこととは、切り離せないものなのです。そして、こうした生き方は、豊かな実を結ぶ人生を生み出していくのです。

4 光がある間に

さて、イエス様が、これらのことを語ってから、「父よ。御名の栄光を現してください」と祈られると、天から声が聞こえました。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」という声です。
 福音書には、イエス様がこれまでにも様々の素晴らしいみわざをなさったことが記されています。病を癒し、嵐を鎮め、五千人を養い、死人をよみがえらせました。それらはどれも、イエス様の栄光を現すものでした。しかし、イエス様の栄光が現されるクライマックスは、十字架と復活です。イエス様は、32節で「わたしが地上から上げられるなら」と言っておられますが、それは、ご自分が十字架につかれること、また、復活した後、昇天なさることを意味しています。その時が近づいてきました。
 そこで、イエス様は、そこにいた人たちに、「光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と言われました。
 やみの中を歩くとは、自分の人生が、どこに向かっていくのかわからない、歩むべき道がわからない、ということです。イエス様は、そんな一人一人に、光がある間に、光を信じなさい、と言われました。その光とは、もちろん、イエス様のことです。イエス様は、世の光であり、永遠の光なる方です。人生の目的と歩むべき道を照らしてくださる方です。そして、光を信じる人々は、自分自身が光の子どもとなって輝くようになるのです。
 しかし、今日の箇所の最後に象徴的な言葉があります。「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された」と書かれているのです。これは、見たくても見えない、聞きたくても聞けない時が来るということを暗示しているかのような描写です。「いつか信じる」と先延ばししていないで、光がある間に光を信じることが大切なのです。光なるイエス様を信じ受け入れて生きてることは、光の中を歩む人生の始りでもあるのです。私たちは、ずっとやみの中にとどまっている必要はありません。光なる方を受け入れ、この方の光に照らされて歩んでいきましょう。