城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年九月一日              関根弘興牧師
              ヨハネ一二章三六節bー五〇節

ヨハネの福音書連続説教41
   「世を救うために」

 36b イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
 44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」(新改訳聖書)


先週は、イエス様がエルサレムに入られた後、ギリシヤ人が、イエス様に面会を求めて来た箇所を読みました。
 その時、イエス様は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言われたのです。いよいよ、イエス様の生涯のクライマックスの時が来たというのです。そして、イエス様は、続けてこう言われました。「一粒の麦がもし地に落ちてしななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます」と。
 イエス様が栄光を受けるというのは、この世の戦いに勝利して世界の王になることではありませんでした。ご自分がいのちを捨てることによって豊かな実を結ぶこと、それが、イエス様が栄光を受けることの意味だというのです。つまり、イエス様がすべての人の身代わりとなって十字架上にかかり、いのちを捨てることによって、人々に豊かないのちを与えることができる、それが、イエス様が受ける栄光だというのです。
 また、イエス様は、そこにいた人たちに、「光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と言われました。やみの中を歩くとは、自分の人生がどこに向かっていくのかわからない、歩むべき道がわからない、ということです。イエス様は、そんな一人一人に、光がある間に光を信じなさい、と言われました。この光とは、もちろん、イエス様のことです。イエス様は、世の光であり、永遠の光なる方です。人生の目的を示し、歩むべき道を照らしてくださる方なのです。
 しかし、人々は、イエス様がエルサレムに来られたときには、しゅろの枝を持って熱烈に歓迎しましたが、イエス様の様子を見ているうちに、「このイエスは、ローマの圧政を打ち破り、私たちを解放してくれるわけではなさそうだ。私たちが期待していた王とは違うようだ」と考え始めたようです。
 そこで、イエス様は、これらのことをお話になった後、立ち去って、彼らから身を隠されたのです。
ヨハネの福音書では、これ以降、イエス様が群衆の前でお語りになる記事は出てきません。この後、人々の前に姿を現されるのは、十字架につけられる時なのです。

 そこで、今日の箇所の前半部分の36節後半から43節までは、これまでのイエス様のみわざや教えに対する人々の反応がまとめて書かれています。そして、後半の44節からは、イエス様が今までに語られた大切な内容を、ヨハネが総まとめにして記したのではないかと思われます。44節にまず、「イエスは大声で言われた」と書かれていますが、その前にイエス様は人々から身を隠して去っていかれたのですから、もはやイエス様のまわりに群衆はいないはずですね。群衆がいないのに「大声で言われた」というのはおかしいではないか、と考える人もいるのですが、この「大声で言われた」という表現は、「これから語ることは非常に大切なことですよ」ということを暗示していると考えられます。つまり、ヨハネがイエス様が語られた大切な教えをここでまとめて記したのでしょう。
 では、今日の箇所の二つの部分、イエス様に対する人々の反応、とイエス様の語られた大切な教えについて、詳しく見ていきましょう。

1 人々の反応

@イエスを信じなかった

 さて、イエス様は、これまでに多くのしるしを行い、たくさんの素晴らしい言葉を語って来られましたが、当時の人々の反応は、どうだったでしょうか。37節に「彼らはイエスを信じなかった」と書かれていますね。
 ヨハネは、その人々の姿について、旧約聖書のイザヤ書の言葉を引用して説明しています。
39節ー41節に、こう書いてありますね。「彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。『主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。』 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」

 ここでヨハネは、「人々が信じない理由は、イザヤがすでに預言しているのだ」と述べているわけです。そして、「その理由とは、神様が、人々の目を盲目にされ、心をかたくなにされたからなのだ」と記しているのです。
 こういう箇所を読むと、「なんだ、神様は意地悪だな。勝手に人々の心をかたくなにしておいて、『あなたがたは信じない』と文句を言うなんて。冗談じゃないよ」と思う方もいるでしょうね。神様が、ずっと昔のイザヤ書の時代から、「人々の心をかたくなにして信じないようにする」と計画し、予告しておられたのなら、人々がイエス様を信じられなくても当たり前じゃないか、と考えてしまいますね。
 けれども、それは、聖書の書き方なのです。神様は、私たちに、自分の意志で信じる、信じないの選択をする自由を与えてくださっています。私たちは、誰でも自分で信じようと思えば信じることができます。決して、神様の定めた変更不可能な運命や宿命に支配されているわけではありません。けれども、聖書は、すべてを治め支配しておられる神様の視点から記しているので、「人々が自分の意志で信じない」ことを、「神が彼らの心をかたくなにした」というふうに表現するのです。
人々は、目の前でイエス様が多くのしるしを行われるのを見ても、信じようとしませんでした。信じようとする気がない、欲しない、願わなかった、ということです。
 また、42節には、「指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった」と書かれていますが、この箇所の「イエスを信じる」というのは、「イエスが特別な方であることを認める」というような意味で、つまり、イエス様をある程度は認めながらも、自分の救い主として積極的に信じ従うことはしない人々がいたということなのです。
 ヨハネの福音書には、「イエスを信じた」という表現が、「表面的にイエス様を認めた」程度の意味で使われていることが時々あります。たとえば、2章23節ー24節には、こう書かれていましたね。「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである」と書かれています。ここで人々が「イエス様のしるしを見て信じた」というのは、「この方は、すごいことができる方だ」と信じたという程度の表面的なものでした。イエス様が救い主であることを心から信じて従っていく、という本当の信頼の姿ではなかったのです。
 ですから、今日の箇所でも、イエス様に敵意を持っている人たちもいれば、イエス様をある程度は認めながらも、積極的にイエス様を信頼して生きていこうとはしない人たちもいたということなのです。

A神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛した

 ヨハネは、彼らがイエス様を信じて従おうとしない理由を43節に、「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである」と記しています。
 彼らは周りの目をはばかって、イエス様を主と告白することをしませんでした。自分がイエス様を信じてしまうことによって波風が立ち、会堂から追放されてしまうことを恐れたのです。
 先週、学びましたように、神の栄光とは、人の子なるイエス様の栄光です。
 ヨハネは、41節で、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」と記していますね。イザヤは、新約聖書の時代より、七百年も前の預言者です。けれども、イザヤは、神様によって、将来のイエス様の栄光の姿を見ました。それは、イザヤ書53章に書かれているように、人々の罪と咎を背負って苦難を受けるしもべの姿でした。
 しかし、残念ながら、多く人たちは、この苦難のしもべであるイエス様の十字架を受け入れようとはしないのです。赦しの恵みがそこにあるのに、大きな愛が注がれているのに、残念ながら、多くの人は、その十字架によって表される神様の栄誉を受け入れようとしないのですね。
 ピリピ人3章18節で、 パウロはこう言っています。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」と。
 ヨハネがこの福音書を記したときも、同じような状況がありました。イエス様を救い主と認めず、敵対する人々がたくさんいました。イエスを主と告白する人々には、会堂から追放されたり、迫害を受けるという困難も襲ってきました。
 ピリピ1章29節には、こう書かれています。「 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」
 クリスチャンとして歩むときに、すべてがバラ色ではなく、困難や苦しみもあることを聖書は教えています。
 けれども、心配しないでください。第一コリント10章13節には、こう書かれています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」神様は、私たちが耐えるだけの試練しかお与えになりません。しかも、必ず脱出の道も備えてくださいます。
 また、ローマ8章28節には、「 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書かれています。信仰を持って生きるときに、時には波風が立つかもしれません。しかし、主は、決してそのことをマイナスにされる方ではなく、益と変えてくださるお方なのです。
 信仰に生きるということは、ほんの少しばかりの勇気と冒険心が必要です。私たちは、いろいろなことを恐れてしまいがちですが、聖書に書かれている約束を信じて、進んでいくときに、神様の豊かな恵みを味わうことができるのです。

2 イエス様が語られた大切なこと

 ヨハネは、12章の締めくくりに、イエス様が語られた大切な教えを要約して記しています。四つのことを考えていきましょう。

@「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」(44節-45節)

 イエス様は、8章で「わたしと父とはひとつです」と言われましたね。イエス様と父なる神様はひとつです。イエス様を信じることは、父なる神様を信じることです。イエス様を見ることは、父なる神様を見ることです。ですから、もし私たちが「神様がよくわからない」と思うなら、イエス様を見ればいいのです。聖書を通して、イエス様がどのようなお方であるかを見るとき、父なる神様がどのような方なのかもわかってくるのです。

A「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(46節-47節)

このイエス様の言葉と同じ内容が、3章16節から17節に書かれていました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 イエス様が来られた目的は、世をさばくためではなく、世を救うためです。暗闇を照らすまことの光なる方として来てくださいました。

B 「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(48節)

この48節の言葉と同じ内容も、ヨハネ3章18節から19節に書かれていますね。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。」
 イエス様は、さばくために来られたのではありません。しかし、永遠のいのち与えることのできるイエス様、世の光であるイエス様を受け入れないならば、いのちも光も受けることができません。差し出されたものを、要りませんと拒否するなら、どうして約束のものを手に入れることができるでしょう。自らさばきを招いていることになるのです。

C「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」(49節ー50節)

 これは、イエス様の言葉は父なる神様の言葉そのものであり、父なる神様とイエス様の思いと心は完全な一致の中にあるということですね。これと同じ内容が、7章16節から17節でも語られていました。

 さて、今日は、神様の栄誉より人の栄誉を求めるあまり、イエス様を信じ生きることを躊躇してしまう人たちがいることを学びました。そんな弱さをみんな持っていると思います。だから、イエス様により頼みながら、イエス様の約束を信頼しながら生きていくのです。
 そして、繰り返しますが、聖書は決して宿命論を教えているわけではありません。私たちは、自分の意志で選び取りながら生きていくことができます。自分でイエス様を信じ従う道に踏み出していくことができるのです。
 そして、クリスチャン一人一人は、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられた罪の赦しと死を打ち破る永遠のいのちの中に歩んでいることを覚えてください。時には、波風が吹くこともあるでしょう。しかし、私たちは、しっかりと、「イエスは主です」と告白しながら歩んでいきましょう。
 そして、イエス様が大声で語られた言葉を思い起こしてください。
 イエス様は、父なる神と一つのお方です。イエス様を見れば、父なる神様がわかります。また、イエス様は、私たちをさばくためではなく、救うために来られました。世の光として、暗闇を取り除いてくださる方として来られたのです。このイエス様が与えてくださる素晴らしい恵みを拒否することは、どれほどの損失でしょうか。イエス様は、父なる神様との完全な調和のの中におられる方ですから、そのイエス様を信じ生きるなら、私たちの人生にも調和が生まれるのです。
 確かに、この世にあっては、艱難があります。悲しみも苦しみもあります。しかし、勇敢でありなさい、とイエス様は語られます。試練の時に必ず脱出の道を備えてくださる恵みの主、十字架のみわざを成し遂げ、復活して今も共にいてくださる主の大きなみ腕の中に憩い、歩んでいきましょう。