城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年九月八日              関根弘興牧師
                ヨハネ一三章一節ー一七節

ヨハネの福音書連続説教42
   「愛を示されたイエス」

1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
 12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。(新改訳聖書)

今日から、13章に入りました。
 前回の12章までは、イエス様の七つのしるしを中心とした出来事と、イエス様が多くの人々にお語りになった内容が記されていました。しかし、今日の13章からは、イエス様が目に見える奇跡的なみわざを行われたり、一般の群衆にお語りになる記事は出てきません。13章から17章までは、イエス様が十字架を目前にして最後に弟子たちに語られた大切な教えと父なる神への祈りが記されています。そして、その後の18章からは、十字架と復活の出来事が記されているのです。
 また、12章までは「光」と「いのち」という言葉がよく出てきましたが、13章からは「愛」という言葉かキーワードになってきます。13章1節に「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」とありますね。
 イエス様が弟子たちに愛を示された、その具体的な出来事の一つとして、今日の箇所には、イエス様が弟子たちの足を洗われたことが記されています。そして、これから読みすすめていく中で余すところなく示されるイエス様の愛が、ここに集っている私たち一人一人にも注がれていることを知っていただきたいと思うのです。 

 さて、イエス様は、過越の祭りが間近に迫ったとき、ろばの子に乗ってエルサレムに入って行かれました。すると、人々は、「ホサナ!祝福あれ!」とイエス様を熱烈歓迎しました。当時の人たちは、ローマ政府を倒す政治的、軍事的なリーダーを求めていました。イエス様こそ、そういうリーダーになってくださる方ではないかと期待していたのです。しかし、イエス様は、熱狂的な群衆に「立ち上がって、武器を取れ」とは言われませんでした。イエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来ました」と言われ、続けてこう言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」イエス様が栄光を受ける時とは、ご自分の命を捨てる時であり、それによって、人々が豊かないのちを得ることができるのだと言われたわけです。
 そして、今日の13章の最初で、イエス様は、そのご自分の時が来たことを知られたので、その愛を残るところなく示されたというのです。
 考えて見てください。弟子たちは、イエス様と約三年間生活を共にしてきました。いつもイエス様のみわざを間近で見、イエス様の言葉を聞き続けてきたのです。しかし、イスカリオテのユダはわずかな金でイエス様を裏切ろうとしていました。他の弟子たちはどうでしょう。ルカ22章24節以降を見ると、彼らは、このイエス様との最後の食事の時ですら、互いに議論を始めていたことがわかります。どんな議論だと思いますか。「この中で、誰が一番偉いだろうか」という議論だったのです。弟子たちが一番好きなテーマは、「だれがこの中で一番偉いのだろう」ということでした。彼らはイエス様と行動を共にしながらも、自分のことしか考えないような者たちでした。しかし、この弱い、何を考えているのかわからないような弟子たちこそ、イエス様が愛された弟子たちだったのです。

1 残るところなく示されるイエス様の愛

その弟子たちにイエス様は、愛を示されました。1節にある「その愛を残るところなく示された」という言葉は、別の訳し方では、「最後まで愛を示された」とも訳せる言葉です。イエス様が「時が来た」といわれるその内容は、最後まで愛を示す時でもあるわけです。それはご自分のいのちを捨ててまで示される愛です。皆さん、「愛」とはいったいなんでしょう。愛には、少なくとも次の七つの要素が含まれていると考えることができます。
  @理解する
  A思いやる
  B受け入れる
  C最善を期待する
  D戒める(忠告する)
  E与える
  F犠牲を厭わない
イエス様が、「愛を余すところなく示された」というとき、そこには、こういうことがすべて含まれているのです。
 イエス様は「夕食の席から立ち上がって」弟子たちの足を洗い始められました。普通、宴会の席に招待された客が足を洗ってもらうのは、その家に入る時です。そして、足を洗うのは、奴隷の仕事です。サンダルばきで外を歩いたために汚れた足を奴隷に洗わせるわけです。ここに集まった弟子たちも、奴隷に洗ってもらったかどうかはわかりませんが、すでに足を洗ってから食卓に着いているはずです。しかし、イエス様は食事をしている最中にわざわざ立ち上がり、上着を脱ぎ、腰をかがめて弟子たちの足を洗い始められたのです。
 ある人が、これを読んで、こんなことを言っていました。「きっと、弟子の中に、ものすごく足の臭い奴がいてさ、イエス様もさすがに食事をする気にならなかったんだよ。だから、しょうがなく足を洗い始めたのさ。でも一人だけ洗うんじゃ、その人を傷つけるから、みんなの足を洗ったんじゃない?」なかなか深い洞察力?いや、違いますよ。イエス様は、愛を示すためにこのことをなさり、そして、弟子たちに対して大切なことを伝えようとしておられたのです。 

2 洗足の意味

 イエス様がここで、わざわざ食事の間に、弟子たちの足を洗われたということは、もちろん、イエス様がしもべとして来てくださったということも示しているわけですが、それとともに、イエス様の来られた大切な目的が象徴的に示されているのです。それは、イエス様がペテロに言われた二つの言葉の中に表されています。

(1)「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

 一つは、8節の「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」という言葉です。
 イエス様は、弟子たちの足を洗うために上着を脱ぎ、足を洗い、そして、上着を着たと書かれていますね。わざわざ、上着を脱ぎ、そして着た、と記されているのです。聖書の中では、「上着を脱ぐ」という表現が「死」を意味し、「着る」ということが「よみがえる」という意味で使われることがあります。たとえば、第二コリントの5章2節には、「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです」と書かれています。
 イエス様が食事の間に足を洗われたというのは、実は、イエス様の死と復活によって、罪のきよめと赦しがもたらされることを示しているのです。イエス様が、弟子たち一人一人の足を洗われた水は、イエス様が十字架で流してくださる血を暗示しており、そのイエス様の十字架の血潮こそ、すべての罪を洗いきよめるものであることを、聖書は私たちに教えているのです。
 ですから、イエス様に足を洗っていただくことを拒否することは、イエス様の血によって罪をきよめていただくことを拒否することになります。それは、イエス様が来られた目的、つまり、私たちの罪のために十字架についてくださるという目的を退けことになるわけです。ですから、イエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われたのです。つまり、イエス様に罪をきよめていただかなければ、イエス様との関わりを持つことはできないということです。私たちとイエス様の関わりは、何によって始まるのでしょうか。実は、もっとも汚い足に象徴される、私たちの罪をイエス様によって洗っていただくことから始まるのだということなんです。
 イエス様は、「わたしは、失われた人を捜し出して救うために来た」と言われましたね。また、「わたしは罪人を招くために来た」とも言われました。また、バプテスマのヨハネは、イエス様に見て、こう言いました。「世の罪を取り除く神の小羊」と。
 皆さん、お互いの人間関係を考えてみてください。普通は、汚い部分とは関わりたくないものです。自分の汚い部分は隠したいものですね。しかし、イエス様は、私たちのありのまま、本当の姿をご覧になり、最も汚い部分にご自分の方から手を差し伸べて関わりを持ってくださる方なんです。

(2)「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」

 つぎに、8節で、ペテロが、「先生、足だけてなく手も頭も洗ってください」と願うと、イエス様はこう言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」と。この言葉には、大切な二つの意味が示されています。

@イエス様の罪の赦しは完全である

 実は、写本の中には、このイエス様の言葉の中の「足以外は」という言葉が書かれているものと書かれていないものがあります。つまり、「水浴した者は、洗う必要がありません」と書かれている写本もあるのです。
 ですから、このイエス様の言葉の第一の大切な意味は何かと言いますと、イエス様が足を洗ってくださる、つまり、イエス様が十字架で流す血潮によって私たちのすべての罪を洗いきよめてくださるというのは、一回限りの完全なものであるということです。イエス様は何回も十字架にかかる必要はありません。ただ一度十字架にかかることによって、私たちのすべての罪の問題を完全に解決することがおできになったのです。また、私たちが一度イエス様を信じて受け取った罪の赦しと救いは、決して失われることのない完全なものであるということなのです。

A信じる人々をきよめ続けてくださる

 では、「足以外は」という言葉が付け加えられた写本があるのはなぜでしょうか。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません」ということは、「足は洗う必要がある」ということですね。
 実は、ヨハネがこの福音書を記した頃に、教会の中に一つの問題が起こってきました。それは、イエス様によって完全に救われたのだから、クリスチャンは罪を全く犯さなくなるという誤解が出てきたのです。しかし、実際にはどうでしょう。クリスチャンになってから、一度も罪を犯したことがない人がいるでしょうか。イエス様が与える救いは完全です。でも、だから、クリスチャンはもう罪を犯さない、問題は起こらないと考えられますか。
 私たちは、イエス様の十字架のあがないのゆえに、すべての罪が赦され、神様の前で義なるもの、きよい者と認められました。しかし、まだ完成されているのではありません。私たちは、キリストと同じ姿に変えられるという約束が与えられ、それが必ず実現するという保証もされていますが、今の時点で、それが完全に実現しているわけではありません。今の私たちは、キリストのように変えられている途中の状態なのです。ですから、まだ弱さのゆえに過ちを犯したり、罪に捕らわれたりすることがあるのも事実です。外出した人のサンダルばきの足が汚れるように、この世に生きる私たちの足も汚れることがあるのです。だから、その都度、私たちは、イエス様が私たちを赦し、きよめてくださることを確認しつつ歩んでいく必要があるのです。 イエス様は、十字架によって、私たちの過去の罪だけでなく、これから犯すであろう罪もすべて赦される道を開いてくださいました。
 第一ヨハネ1章10節には、こう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」自分の罪に気づいたとき、それを神様の前で言い表すなら、イエス様は、弟子たちの足を洗ってくださったように、私たちをすべての悪からきよめてくださるのです。そのことをいつも確認しつつ歩んでいきましょう。

 さて、いままでお話ししてきた「足を洗う」という意味について、まとめてみましょう。今日の箇所では、「足を洗う」という言葉は二つの意味で使われています。イエス様は、私たちとご自分との大切な二つの関わりを「足を洗う」ということの中で示してくださっているのです。
 まず最初の意味の「足を洗う」とは、私たちの罪を洗いきよめてくださり、赦してくださる主の一方的な完全な赦しを表しています。そういう意味で、一度洗われたものは、全身がきよいのです。しかし、その一方で、私たちは、この地上の生活の中で、足を汚すことがあるわけです。クリスチャンであっても過ちをおかしますし、時々、神様に背を向けてしまうようなときもあるのです。だから、イエス様に、その都度「足を洗って」いただくのです。クリスチャン生活は、継続的なイエス様の赦しの恵みの中に生きることでもあるのです。

3 互いに足を洗い合うとは
 
 さて、イエス様は、その大きな深い愛によってなされた「足を洗う」姿を通して、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と教えられました。
 このイエス様の教えに基づいて、四世紀以降、「洗足木曜日」と呼ばれる習慣ができました。受難週の木曜日(今回の出来事が起こった最後の晩餐は、木曜日であったと考えられています)に、教会の主教や国王が下級の僧侶や貧者の足を洗うという儀式をするのです。しかし、もちろんイエス様は、ただそのような儀式を行えと言われたわけではありません。また、文字通りに「足」を洗いなさいと言われたわけでもありません。では、「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」とは、どういう意味でしょうか。

@しもべの心をもって仕え合う

 足を洗う仕事は、奴隷の仕事の中でも最も卑しい仕事と見なされていました。それを、主であり師であるイエス様がなさったのですから、私たちも高慢やプライドを捨てて謙虚にしもべとして仕え合うのは当然のことです。私たちは、自分の評価を高めるために仕えるのではありません。主が私たちを愛するがゆえに足を洗ってくださったように、私たちも互いに仕え合うべきなのです。

A互いの弱さを認め、それを補い合いながら愛に生きる

 イエス様は弟子たちを愛しておられたがゆえに、足を洗うことによって、御自分の愛を示されました。イエス様は、私たちの最も汚れた部分に触れて、きよめてくださるのです。私たちは、時々、互いの弱さを見て失望するかもしれません。つまずくかもしれません。でも、主は、互いの弱さを補う愛を私たちに求めておられるのです。それは、一方通行でなく、お互いに補い合う愛です。イエス様は、「互いに足を洗い合いなさい。互いに愛し合いなさい」と言われます。私たちは与えると同時に受ける者でもあるのです。「互いに」ということが大切なのです。

 イエス様は「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」と言われました。イエス様は、ご自分は何もせずに私たちに命令だけを与える方ではありません。まず御自分が身をもって模範を示し、ご自分から進んで私たちのために十字架の苦しみを味わってくださったのです。そのイエス様の十字架の血潮こそ、私たちの罪を赦しきよめるものです。
 第一ヨハネ4章11節で、ヨハネはこう書いています。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
 そして、イエス・キリストによって示された神様の愛に生かされ、そして、お互いが愛し合っていくとき、イエス様は、すばらしい約束を与えてくださっています。17節です。「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」と。
 祝福された生涯とは、イエス様の十字架の愛に生かされ、愛に生きていく生涯です。イエス様が、私たちの躓きを、弱さを、汚れをご存じで、受け入れ、きよめ続けてくださることを覚えつつ、祝福された生涯を送らせていただきましょう。