城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年九月二二日              関根弘興牧師
                ヨハネ一三章一八節ー三〇節

ヨハネの福音書連続説教43
  「主よ。それはだれですか」

 18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
 21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」22 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。24 そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」25 その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」28 席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。29 ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。30 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。(新改訳聖書)


 前回は、イエス様が弟子たちの足を洗われたことの意味をご一緒に考えました。
 その出来事が起こったのは、過越の祭りが間近に迫り、イエス様が弟子たちと一緒に最後の食事をされていたときでした。イエス様は、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、弟子たちの足をお洗いになったのです。弟子たちは、どうしてイエス様がそんなことをなさるのかわかりませんでした。すると、イエス様は、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」と言われたのです。イエス様が弟子たちの足を洗ってくださるというのは、イエス様が十字架で流される血によって一人一人の罪を洗い流してくださることを象徴的に表すものでした。弟子たちは、実際にイエス様が十字架にかかり、死んで葬られ、三日目によみがえられた後に、やっとその意味がわかるようになったのです。
 ただ、その場ですぐに理解できたこともありました。それは、イエス様ご自身が「しもべ」となって足を洗ってくださったように、弟子である自分たちも互いに「しもべ」の心を持って仕え合って生きることが大切だということです。
 弟子たちは、約三年間、イエス様と共に生活をしてきました。しかし、彼らがいつも関心を持ち議論していたのは、「この中で誰が一番偉いのだろうか」ということでした。最後の晩餐の席においてすら、弟子たちは、そういう議論をしていたのです。彼らは、イエス様といつも共にいたのに、イエス様の心をほとんど理解していなかったのです。
 しかし、イエス様は、そんな弟子たちの足を洗ってくださいました。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。つまり、自分が偉くなって他の人を仕えさせようとするのではなく、イエス様が模範を示してくださったように、一人一人が「しもべの心」を持って、謙遜に、互いに仕え合いながら生きることが大切だと教えられたのです。

そして、今日の箇所に続くのですが、弟子たちの中には、もう一つ問題がありました。それは、自分たちの中にイエス様を裏切る者がいるということでした。それは、イスカリオテのユダのことなのですが、今日は、このユダに対してイエス様がどのように接しておられたかということを通して、イエス様の愛を考えていきましょう。

1 イエス様の預言

 イエス様は、十二弟子をお選びになった後、弟子の中のひとりが裏切ることを何度か預言なさっていました。
 たとえば、ヨハネ6章70節で、イエス様は、「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です」と言っておられます。また、前回の13章10節ー11節では、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」と言われています。
 そして、今日の13章18節では、「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです」と言われていますね。
 この聖書の言葉は、詩篇41篇9節の「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」という言葉の引用です。この詩篇41篇の背景は、第二サムエル記15章に書かれている出来事だといわれています。
 イスラエルのダビデ王の時代に、ダビデ王の息子アブシャロムの謀反によってクーデターが起こり、ダビデ王はエルサレムを追われることになりました。その時、ダビデ王が信頼していたアヒトフェルという議官が、ダビデ王を裏切って息子のアブシャロムのほうについてしまったのです。信頼していた議官から裏切られたその時のダビデ王の心情が「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた」という詩篇の一節として記されているのです。そして、その詩篇の言葉は、実は、後の時代のユダの裏切りを預言している言葉でもあったというのです。
 考えてみてください。イエス様は、弟子たち一人一人の足をお洗いになりましたね。足を洗っていただくときに、弟子たちは皆、かかとを上げたわけですが、ユダだけは、「裏切る」という意味で「かかとを上げる」という結果になってしまったわけです。

 イエス様は以前からユダが裏切ることを知っておられ、何度も預言されていました。それで、こんな疑問を持つ方がいます。「ユダが裏切ることは、ずっと前から神様が定めていたことじゃないんですか。それなら、ユダの責任じゃないでしょう。そのように定めた神様は、ひどい神様じゃないですか」とか、「ユダの裏切りがなかったら、イエス様は十字架にかけられないから、私たちの罪を贖うというイエス様の目的が達成されなかったでしょう? ユダの裏切りは必要だったということですよね。それなのに、ユダが責められるのは、おかしくないですか」というのです。しかし、決してそうではありません。

イエス様は、なぜ詩篇41篇を引用されたのでしょう。それは、ユダがダビデを裏切ったアヒトフェルのような姿であったからなのです。アヒトフェルという人は、人気が急落したダビデに付くよりも、人々の心をしっかり捕まている将来性抜群で見た目にもハンサムなアブシャロムに鞍替えするほうが得策と考えて、ダビデの信頼を裏切りました。
 それでは、ユダはどうでしょう。ユダは、最初、イエス様に喜んでついて行ったはずです。でも、仲間から預かった財布から少しずつ着服するようになりました。自分の欲望をコントロールすることができなかったのです。それに、イエス様のこれからのことを考えたとき、どうも雲行きが怪しくなってきたと思ったのでしょう。イエス様は、最初は華々しい姿に見えたのに、今では、ユダヤ当局から「お尋ね者」として狙われるようになっていました。また、王や政治的リーダーになってローマ政府を打倒してくれるのかと思っていたのに、その気配はまったくありません。それどころか、「一粒の麦は死ななければ、一粒のままです」とか「互いに仕え合いなさい」とか言っているだけです。それで、ユダの心は、だんだんイエス様から離れていったのでしょう。これ以上イエス様についていっても、何の得にもならないと思ったのではないでしょうか。
 結局、ユダは、自分の意志で選択し、決断してイエス様を裏切ったのです。神様は、それを前もって予知しておられました。けれども、神様がユダの裏切りを定めたのではなく、ユダが自分の意志で裏切ったのです。神様は、ユダが裏切ることを望んではおられなかったでしょう。ユダがイエス様に従い続けることができたら、大いに喜ばれたはずです。もし、ユダが裏切らなければ、イエス様は、別の方法で十字架につくことになったでしょう。
旧約聖書のエゼキエル書33章11節で、神様は、こう言っておられます。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。・・・なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」
 また、第二ペテロ3章9節には、「主は、・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と書かれています。
 神様は、すべての人が滅びることなく、救われて永遠のいのちを持って生きることを願っておられます。それは、ユダも例外ではありません。イエス様は、ユダが裏切ることを知っておられましたが、それでも他の弟子たちと同じようにユダに対しても愛を十分に示されました。
 「裏切る」というのは、自分を愛してくれ、大切にしてくれ、信頼してくれる相手に背を向けることです。イエス様が豊かな愛を注いでくださっているのに、愛をもって呼びかけてくださっているのに、ユダは、それを無視し、その結果として、裏切る道へと進んでいったのです。

2 ユダに示された愛

 それでは、イエス様は、ユダに対してどのように愛をしめされたのでしょうか。
 まず、イエス様は、自分を裏切ろうとしているユダの足もお洗いになりました。
 また、イエス様は、「この中にわたしを裏切る者がいる」と言われましたが、決してはっきり名指しすることはありませんでした。ですから、弟子たちは、イエス様がだれのことを言われたのかわからずに、当惑して、互いに顔を見合わせてしまったのです。
 すると、ペテロが、イエス様が愛しておられた弟子(おそらく、この福音書の著者ヨハネだと思われます)に、「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい」と、合図を送りました。そこで、イエス様の右側の席に着いていたこの弟子は、「イエス様、いったいそれはだれですか」と尋ねたのですね。
 すると、イエス様は、「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」と言われ、パン切れを浸し、それを取り、ユダにお与えになったのです。
 こう書いてあると、「イエス様は、この弟子にユダが裏切ることをはっきり示しているではないか」と思われるかもしれませんね。でも、その続きを読むと、弟子たちはだれも、イエス様を裏切るのがユダであることはわかっていないのです。もし、イエス様がユダにパン切れをお与えになったことで、裏切り者がユダだとはっきりわかったのなら、短気なペテロは、剣を持っていましたから、ユダに切りつけたかもしれませんね。でも、だれもわからなかったのです。わかっているのはユダだけです。
ところで、イエス様は、ユダにパン切れを浸してお与えになりましたが、それにはどういう意味があるのでしょうか。
 もし、私たちが食事の時にパン切れを浸したものを「どうぞ」と差し出されたら、「余計なお世話」と思うかもしれませんね。しかし、当時、この行為は、お客に対する最高の好意、まさに「おもてなし」を意味していたのです。ですから、この時、ユダは、イエス様から最高のおもてなしを受けているというふうにまわりからは見えるわけです。
 それから、この最後の晩餐のときの弟子たちの席順はどうだったのでしょう。当時ユダヤの人々は、通常は、左側を下にして、寝そべるようにして食事をしていました。
 まず、イエス様が愛しておられた弟子は、イエス様の右側にいました。席に着いたまま「主よ。それはだれですか」と尋ねた、とありますから、イエス様の方を振り向いて、イエス様の胸によりかかるような体勢で質問したはずです。最後の晩餐をテーマにした絵画の多くがイエス様に寄りかかっているこの弟子の姿を描いています。
 一方ペテロは、イエス様から少し離れたところにいたので、その弟子に合図をして質問させたのでしょう。
 では、ユダはどうでしょうか。イエス様は、パン切れをユダにお与えになりましたが、ユダはおそらくイエス様のすぐ左側に位置していたのだろうと考えられています。もしそうなら、主人の左側の席というのは、大事な客が座る席でしたから、イエス様はユダを尊重しておられたということになりますね。
 ですから、不思議なことに、他の弟子たちは、ユダが裏切ることを最後の最後まで気づきませんでした。それどころか、ユダがイエス様を裏切るために出て行った時でさえ、祭りのための入用なものを買うためか、貧しい人々に施すために出かけたのだろうと思っていたのです。
 この時の出来事は、マタイ26章21節ー25節にも書かれていますが、マタイは、イエス様とユダの間で交わされた会話を記しています。
 イエス様が、「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです」と言われ、ユダが「まさか私のことではないでしょう」と尋ねると、イエス様は「いや、そうだ」と答えられたというのです。イエス様はここでユダを名指ししているではないか!と思われるかもしれません。しかし、この「いや、そうだ」という言葉は、直訳すると、「あなたが言った」という言葉なんですね。つまり、「あなたの心が言っていることをよく聞いてみなさい」「胸に手を当てて考えてみなさい」というような意味なんですね。つまり、ユダの自省を促してる言葉なのです。ユダに、自分を見つめ直し、方向を変える機会を与えようとしている言葉です。
 イエス様は、ユダに対しても、他の弟子たちに対してと同様に愛をもって接しておられました。ユダを名指しで非難したり裁いたりすることはなさいませんでした。そして、ユダだけにわかる方法で、心の向き変えて立ち返るチャンスを何度も何度もお与えになっていたのです。

3 すでに夜であった

 しかし、ユダは、イエス様の愛のまなざしを避けるかのように、裏切りの行動に進んでいきました。ユダは、イエス様の愛の呼びかけに答えようとしませんでした。逆に、悪魔に心を支配させることを受け入れていったのです。聖書は、「サタンがユダに入った」と記していますね。
 日本語でも「魔が差した」という言葉がありますが、それは、「悪魔が心に入り込んだかのように誤った行動や判断をしてしまう」という意味です。どういう時に使うかというと、悪いことをした人が、「私は通常は善人なんですが、そのときだけ悪魔にそそのかされて悪人になってしまったんです。だから、赦してください」と言う意味で使うわけです。つまり、悪いことをしたのは自分の責任ではない、悪魔のせいだ、といって、責任逃れをしているわけです。
今日の箇所で「サタンがユダに入った」と書いてあるので、日本語の「魔が差した」と同じように、「悪いのは、ユダではなくて、サタンなのではないか」と思う方がいるかもしれませんね。でも、そうではありません。
 ユダは、自分の方向を変えようとはしませんでした。イエス様の愛の呼びかけを無視し、結局、自分の心のおもむくまま進んでいったのです。しかし、それは、悪魔に心を売ってしまうような生き方を選び取っていく結果となってしまったのです。
 イエス様は、ユダに「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。そして、30節でユダが外に出て行ったとき、「すでに夜であった」と書かれています。これは、大変象徴的な表現ですね。この食事が夕食であることは何度も言われていましたから、すでに夜だということは誰もがわかっているわけです。ですから、この時間に出て行ったら「夜」であることは当たり前なのに、ヨハネはわざわざ「夜」という言葉を使っているんです。
つまり、ヨハネは、ユダのようにイエス様を拒み、悪魔を心に迎え入れるような生き方は、「夜」に象徴される「闇」の中を彷徨う結果になってしまうということを暗示しているわけです。
 思い出してください。1章には、イエス様がすべての人を照らすまことの光としてきてくださったことが書かれていました。そして、3章19節ー20節「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」と書かれています。ユダは、光よりもやみを愛し、光から離れていったのです。

さて、私たちは、どうでしょう。だれもユダを責めることなどできません。私たちは、時には、イエス様を理解できず、また、人生に襲う様々な試練や困難の中で、「こんなはずではなかった」「イエス様を信頼しているのに、どうしてこんなことが起こったのか」というような不条理や理解できない痛みや悲しみを持つかもしれません。私たちの心は、変わりやすく弱いのです。あのペテロでさえ、イエス様が捕らえられた後、イエス様を「知らない」と三度も否定してしまったほどです。
 しかし、皆さん、イエス様は、決してユダを名指しで責めることはなさいませんでした。ユダだけにわかるように、何度も何度も、方向を変えて歩めるように機会を与えてくださいました。 
 イエス様は、今日ここにいる私たち一人一人に対しても同じように、してくださいます。私たちの汚い足を洗い、愛のまなざしを注ぎ続けてくださっているのです。ですから、私たちは、イエス様の傍らでイエス様の胸によりかかり、イエス様に尋ねた者のようでありたいですね。どんなことでもイエス様に打ち明け、重荷をゆだね、疑問があるときには、正直にイエス様に尋ねながら歩むのです。
 イエス様から離れて「夜」に向かう生涯でなく、イエス様の懐に憩い導かれる生涯とさせていただきましょう。
イザヤ40章11節には、こう書かれています。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」