城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年九月二九日              関根弘興牧師
              ヨハネ一三章三一節ー一四章一節

ヨハネの福音書連続説教44
    「心を騒がせるな」

31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(新改訳聖書)


先週は、イエス様の弟子のひとりのイスカリオテのユダがイエス様を裏切るという箇所を読みました。
 最後の晩餐の時、イエス様は「わたしがパン切れを浸して与える者がわたしを裏切る」と言われ、そして、ユダにパン切れを渡されました。すると、ユダはすぐにそこから出て行ってしまいました。しかし、そこにいた弟子たちは誰も、ユダがイエス様を裏切るということに気づきませんでした。なぜなら、イエス様は、ユダに対して、他の弟子たちと同じように、信頼と愛を示し続けられたからです。それに、ユダを名指しで責めることもなさいませんでした。イエス様は、「裏切ろうとする思いを捨てて、わたしにとどまりなさい」ということを、ユダだけがわかる方法で語りかけておられたのです。しかし、ユダにしてみれば、自分がイエス様を裏切るということがイエス様に見抜かれてしまったわけですから、すぐに裏切りを実行しなければ手遅れになってしまう、と考えたはずです。そこで、彼は、すぐにユダヤ当局者の所に行ってイエスを引き渡すための算段を始めたわけです。
 そこで、今日の31節にあるように、ユダが出て行ったとき、イエス様は、「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」と言われたのです。イエス様が「栄光を受ける」とは、どういうことでしょうか。それは、何度もお話ししているように、十字架につけられることです。イエス様は、ユダが出て行ったとき、この十字架への道が確実になったことを知られました。十字架は、極悪人を処刑する方法であり、恥と呪いの象徴のようなものです。しかし、罪のないイエス様が、私たちすべての罪を背負って十字架にかかり、私たちが受けるべき罰を一身に受けてくださったのです。つまり、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださることによって、私たちの罪はすべて赦されるのです。イエス様の栄光とは、この十字架の栄光なのですね。
イエス様は、その十字架にかかる時が来たことを知り、ユダヤ同局者たちに捕らえられる前に、弟子たちに長いお話をなさいました。それが14章から16章に記されています。これは、弟子たちへの告別説教でした。そして、その告別説教の主なテーマが、今日の13章30節から38節に示されているのです。

 第一のテーマは、「イエス様が、どこに行こうとしておられるのか」ということです。33節でイエス様が「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言われたので、36節でペテロが「主よ。どこにおいでになるのですか」と質問しました。それについて、イエス様は、14章以降で詳しくお語りになっています。
 第二のテーマは、「互いに愛し合いなさい」ということです。これは、これからの大切なテーマです。イエス様は、34節でこう言っておられます。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。そして、14章以降の告別説教の中でも、「互いに愛し合う」ことの大切さを繰り返し語っておられます。なぜなら神様が愛そのもののお方だからです。イエス様は、弟子たちがこの「互いに愛し合いなさい」という戒めに生きることを何よりも望んでおられるのです。そして、35節に書かれているように、もし私たちが互いに愛し合うなら、世のすべての人が「あの人たちが愛し合うことができるのは、イエス・キリストの弟子だからだ」と認めるようになるというのです。イエス様を人々に伝えるために一番大切なことは、まず、私たちが互いに愛し合うことなのですね。
 第三のテーマは、36節でイエス様が「わたしが行くところに、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」と言われていますが、それは、どういう意味かということです。弟子たちは、今は、しばらくの間イエス様と離れなければならない、しかし、後になるとイエス様について行くことができるというのですが、このことについても、イエス様は14章以降でお語りになっています。

 ということで、14章から、イエス様の長い告別説教が始まるわけですが、今日は、まず、その告別説教の冒頭に語られた14章1節の言葉について考えたいと思います。なぜなら、この言葉を本当に理解し受け入れることによって、イエス様が何を行おうとされているのか、イエス様がどのような目的で来られたのか、また、私たちがどのような態度で歩んでいけばいいのか、ということがわかってくるからです。
 すこし状況を整理しておきましょう。イエス様は、この晩餐の席で、「わたしを裏切る者がいる」と言われましたね。弟子たちは「誰がイエス様を裏切るのだろう」と心穏やかでありませんでした。また、イエス様は、筆頭弟子のペテロには何と言われたでしょう。ペテロが「イエス様、あなたのためなら、いのちも捨てます。どこまでもあなたについて行きます!」と強い決意を示すと、イエス様は、「ペテロよ、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたのです。 弟子たちにしてみれば、すべてを捨ててイエス様に従って、今までついてきたのに、「あなたがたは、これ以上わたしについてくることはできない」と言われたのですから、心中穏やかではないはずです。なんだかイエス様に見捨てられてしまったかのような思いを持った弟子もいたでしょう。心が騒ぐのは当然ですね。
 しかし、そんな弟子たちに対して、イエス様は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われたのです。

1 「心を騒がせる」とは

 実は、イエス様ご自身が「心を騒がせられた」という出来事がヨハネ福音書には三回記録されています。
 最初は、11章です。あのベテニヤに住むラザロが死んでしまい、人々が悲しみの中にいるのをご覧になった時でした。イエス様は「心の動揺を感じられた」とありましたね。
 そして、次は、12章です。イエス様は、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」と語られました。それは、ご自分が十字架につく時が迫っているときでした。その十字架の苦しみを受け入れようとするとき、イエス様は「今わたしの心は騒いでいる」と言われました。
 そして、三番目は、13章です。ユダの裏切りを予告なさった時に、「霊の激動を感じ」られたと書かれています。
 これらの箇所を見ると、イエス様が心を騒がせられたのは、いったいどういう時だったでしょうか。
 それは、人々を苦しめ、悲しみをもたらす死の力に立ち向かおうとされる時でした。また、私たちを不自由にしている罪を引き受けるための十字架の苦しみが目前に迫った時でした。
 実は、14章1節で言われている「心が騒ぐ」という表現も、ただ「今日は、午後から雨になりそうで心配だ」とか「今日はあの人の態度がいつもと違うぞ。ちょっと心配だな」というようなその時の気持ちの揺れを表現するものではなく、人間がどうしても解決することができない罪と死、また超自然的な悪の力に対して対決することの緊張感を表しているのです。
 つまり、イエス様がここで「あなたがたは心を騒がせるな」と言われているのは、「わたしは、これから死の力、悪魔の力に対して対決する。そのためにわたしは霊の激動を覚えている。しかし、わたしは、必ず死と悪魔の力を打ち破って勝利するのだから、あなたがたは心を騒がしてはならない」と言う意味があるわけです。イエス様がすべてのものに勝利してくださるのだから、私たちは、そのイエス様に信頼するとき、心強く生きることができるのです。

2 「心を騒がせる」ことの結果

 ところが、私たちは、毎日のようにいろいろなことに思い煩ったり心配したりしてしまいますね。生きているかぎり、心配や思い煩いはついてまわるかもしれませんね。しかし、心の動揺や思い煩いや心配は、私たちに少なくとも三つのことを引き起こしていきます。

@消極的な方向に向かわせる

 まず、思い煩い、心が騒いでいるとき、私たちは消極的になります。私は、理数系がどうも性分に合わなくて本当に嫌いでした。ですから、数学の試験が近くなると、「この試験、赤点を取ったらどうしよう。進級できなかったらどうしよう」とあれこれ悩むのです。勉強しないで、一生懸命悩んでいるわけです。そして、結局、「私は、数学は苦手だ」と結論を出して、あきらめてしまうわけですね。そして、試験の結果は見事にそのことを証明してくれるわけです。思い煩いは、人を消極的にします。萎縮して、できることもできなくなってしまうのです。
 
A精神的、肉体的に打撃を与える

 二番目に、思い煩いや心配は、精神的にも肉体的にも打撃を与えます。思い煩うのが楽しいとか、思い煩って健康になったという人はいませんね。思い煩って胃を悪くする人は多いでしょうが、思い煩って病気がなおったという人の話は聞いたことがありません。心騒がせて元気になりました、という人がいますか。誰もいません。でも、わかってはいるけれど、人生に、思い煩いはいつもついてまわってきます。そして、精神的な打撃を与え、時には、肉体にも打撃を与え、健全な生活を損なっていくのです。

B正しい判断ができなくさせる

 三番目に、思い煩いや心配は正しい判断力を失わせます。これが一番問題です。
 実は、思い煩いや心配の原因というのは、あってないようなものが非常に多いのです。なぜかというと、自分で勝手にシナリオを書いて悩んでいるケースが多いからです。「もしかしたら、あの人はこう思ったかも知れない、いや、そう思ったに違いない。このような結果になったのは、自分がこのようにしたからだ・・・」などど延々と勝手なシナリオを書き続けていくのです。
 ある男性が入院しました。最初は大部屋だったのですが、個室に移されました。個室に移ったとたん、彼は心配し始めました。「個室に移ったということは、私の病気が非常に悪いということだ。これでもっと狭い箱に入る日が近づいてきた」と考えたのです。ところが、何のことはない、家族が「大部屋ではうるさいだろう」と気を利かせただけだったのです。
 人は、自分勝手なシナリオを書き、それによって思い煩うことが多いのです。自分勝手な判断が先行するわけです。そういう中では、決して良い判断、正しい判断をすることはできません。このように、心配や思い煩いは、私たちに様々な問題を引き起こしていきます。

3 「心を騒がせない」ためには

 しかし、イエス様は、動揺している弟子たちに、「心を騒がしてはなりません」とお命じになりました。なぜなら、イエス様がすでに、私たちにとっての最も大きな問題に対決してくださったからです。イエス様は、私たちの人生を損なうものに対して、死に対して、罪に対して、いのちをかけて立ち向かい、十字架につき、復活され、勝利を収められました。だからイエス様は私たちに「心を騒がせることはない」と言ってくださっているのです。
 皆さん、私たちがいくらがんばって悪魔や死の力に対決しようとしても勝つことはできません。自分でがんばって永遠の問題を解決するぞ、と意気込んでも無理な話です。しかし、イエス様が私たちに代わって、それを成し遂げてくださいました。ですから、私たちのなすべきことはなんでしょう。イエス様が14章1節で言われていますね。「神を信じ、わたしを信じなさい」と。つまり、神様を信じ、イエス様を信頼して生きていくことです。
 イエス様は、私たちが解決することが出来ない、立ち向かうことが出来ない力に対して勝利してくださいました。ですから、私たちの毎日の生活の中に起こるさまざまな問題に対しても、イエス様は「心配するな。思い煩うな」と語ってくださっているのです。
 先日、ティム・ジョンソン宣教師が説教してくださいましたが、その時の説教箇所、マタイの福音書6章で、イエス様は、こう言っておられますね。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。・・・だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」と。
 また、パウロは、ピリピ4章6節ー7節にこう記しています。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 また、ペテロは、Tペテロ5章7節で、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いています。
 どうでしょう。今、心を騒がせている問題がありますか。もしあるなら、聖書に書かれているように、その思い煩いを神に知っていただき、必要な助けを祈り求めながら、いっさいを神にゆだねていきましょう。神が私たちのことを心配してくださるからと約束されているのですから。
 イエス様は、今日も私たちに語っておられるからです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。人のすべての考えにまさる平安を与えてくださる神様を信頼して、今週も歩んでいきましょう。