城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一〇月六日              関根弘興牧師
                 ヨハネ一四章一節ー一一節

ヨハネの福音書連続説教45
    「道、真理、いのち」

 1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(新改訳聖書)

 イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちに、「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」と言われました。そして、ペテロに対しても、「ペテロよ、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われました。また、イエス様は、「あなたがたは、これ以上わたしについてくることはできない」とも言われました。弟子たちは、それまで、すべてを捨ててイエス様に従ってきました。それなのに、イエス様に、「裏切る者がいる」と言われたり「もうついてくることはできない」と言われて、心中穏やかでなかったはずです。イエス様に見捨てられてしまったかのような思いを持った弟子もいたでしょう。心が騒ぐのは当然ですね。そんな中で、イエス様は、14章1節で「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われたのです。
 先週は、この1節について、ご一緒に考えましたね。イエス様が言われた「心を騒がせる」とは、どういうことかといいますと、ただ「今日は、午後から雨になりそうで心配だ」とか「今日は、あの人の態度がいつもと違うぞ。ちょっと心配だな」というようなその時々の気持ちの揺れのことではなく、人間がどうしても解決することができない罪と死、また、超自然的な悪の力に対して対決するときの緊張感、心の動揺を表しているのです。
 つまり、イエス様が弟子たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言われるのは、「わたしがこれから死と罪の力に対決し、必ず勝利するから、あなたがたは、このことに対して心を騒がせることはないのだ」という意味が込められているわけです。イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。私たちはただ、すばらしい救いの計画をたててくださっている父なる神様と、その計画を実現してくださるイエス様に信頼していけばいいということなのです。
 そして、イエス様は、今日の箇所で、どうして私たちが「心を騒がせる」必要がないのか、その理由を語っておられます。

1 「父の家には、住まいがたくさんあります」

まず、2節でイエス様は、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」と言われました。
 これを読んで、「住まいがたくさんあるなら、天国では、大部屋ではなく、個室で生活できるんでしょうね」と考える人がいるかもしれません。また、「この地上の生き方によって、天国でどんな住まいが与えられるか決まるのだ」と考える人もいます。住まいのランク付けがされているというんですね。一人一人がその行いによって豪邸と長屋住まいに分かれてしまうなんて、もはやそれは天国ではなくなってしまいそうですね。
でも、イエス様が言われたのは、そういう意味ではなくて、天国には私たちが入れるだけの十分な場所があるということなのです。天国に入場制限があって「あなたは入れません。お断り」ということはないから、安心しなさいということです。
 当時のユダヤの社会には、「天の住まいは正しい人への報いである」という信仰がありました。ですから、正しくない人は、天に住むことができず、さすらいの旅をしなければならない、というふうに考えられていたわけです。しかし、イエス様は弟子たちに、「父の家には、住まいがたくさんあるから、大丈夫。あなたたちも皆、正しい人に約束されている天の住まいに入れるから、心配することはありません」と言われたのです。
 でも、弟子たちの姿を見る限り、彼らが「正しい」とは言えないような面もたくさんありました。自分が一番偉くなりたいと思っていたり、自分勝手な思い込みで行動することもありました。イエス様という方について勘違いしているところもありましたし、イエス様の言葉がよく理解できていないこともよくありましたね。そして、弟子たちは、この後、イエス様が捕らえられたときに、みんな逃げ去ってしまうのです。ところが、イエス様は、そんな弱さも欠点もある弟子たちをご存じの上で、「大丈夫。父の家には住まいがたくさんあるのだから」と言われたわけです。

2 「わたしは場所を備えに行くのです」

さて、次に、イエス様は、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」と言われました。すると、ひとつの疑問がわいてきますね。イエス様は、「父の家には住まいがたくさんとあります」と言われたのに、どうして、これから場所を備えに行かなければならないのでしょうか。まだ、天の住まいは、準備されていないということなのでしょうか?
 このイエス様の言葉は、ユダヤの背景に生きる人々にとっては、驚くべき言葉でした。なぜなら、「正しい人が報いとして与えられる天の住まい」は、以前からあったのではなく、イエス様が場所を備えてくださったときに初めて住まいとして完成するのだと言われたからです。
 では、イエス様が場所を備えるとは、どういうことなのでしょうか。
私たちは、自分自身のことを省みて、「自分は父の家に住むのにふさわしい者なのだろうか?」と考えてしまいますね。神様のみもとに行くのにふさわしい者、天の住まいに憩うのにふさわしい者とは誰かといえば、正しい人であるはずです。でも、自分の心を正直に見たら、「わたしは正しい」と言える人は誰もいないでしょう。私たちは皆、本来は、天に住むのにふさわしい者ではないのです。
 でも、イエス様は、「あなたがたのためにわたしは、場所を備えにいくのです」と言われました。それは、この後に起こる出来事、すなわち十字架と復活を通して場所を備えてくださるということなのです。イエス様が私たちの罪を背負い、十字架にかかってくださったことによって、私たちは、罪のない者と認められ、神様と正しい関係を持つことができるようになり、天の住まいに入るのにふさわしい者とされるのです。つまり、イエス様の十字架は、私たちの天の住まいを備え、私たちをその住まいに入るにふさわしい者としてくださるためでもあったのです。

3 「あなたがたをわたしのもとに迎えます」

 さて、イエス様は、次に、3節でこう言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と。これは、どういう意味でしょうか。イエス様が私たちをみもとに迎えてくださる、ということには、いくつかの意味が含まれています。

@私たちが地上での生涯を終える時に

 一つは、私たちがこの世の生涯を終える時に、天の住まいに迎え入れられるという意味です。第二コリント5章1節でパウロは、こう書いています。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」人生の終末において、イエス様は私たちを永遠の天の住まいに迎えてくださるのです。ですから、キリスト教の葬儀は、天を仰ぎ、天の住まいに迎えられることを賛美する時となるのです。

Aこの世の終わりの時に

 二つ目は、この世の終わりの時に、イエス様が栄光のうちに来られ、信じる人々をご自分のもとに引き上げてくださるという意味です。これは、一人一人の人生の終末ではなく、この世界全体の終末においての約束です。
 パウロは、第一テサロニケ4章16節から、こう書いています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」と約束されています。
 イエス様は、十字架で死に、復活し、天に昇られましたが、世の終わりに再び来られると聖書に書かれています。このイエス様が再び来られることを「再臨」と言います。イエス様は、この天地が滅び去る終わりの時に再び来られ、信じる人々を皆、迎えてくださるのです。

B今の生活の中で

 さて、イエス様が私たちをみもとに迎えてくださるというのは、個人の人生の終わりやこの世の終わりの時だけではありません。イエス様は、今の生活の中で、私たちを迎えてくださるのです。イエス様を求め、イエス様のもとに行く人は皆、イエス様が迎えてくださるのです。イエス様を信頼して生きるというのは、イエス様の愛と恵みの中に迎え入れられて、その中で生きていくことができるということです。
 ヨハネ15章で、イエス様は、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」と言っておられます。イエス様は、私たちをみもとに招き、迎え入れ、「わたしにとどまっていなさい。そうすれば、多くの実を結ぶことができます」と言われるのです。
 私たちは自分の生き方がわからなくなることがあります。どの道を行けばよいのかわからず、迷い、苦しむことがあります。そんな私たちをイエス様は迎えてくださり、共に人生を歩み、励まし、導いてくださるのです。

 ですから、人生の終末においても、この世の終わりにおいても、また、今生かされているこの時においても、イエス様は、私たちを迎えてくださいます。そして、「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と言われるのです。つまり、「天の住まい」とは、永遠の天の住まいを表すとともに、今、イエス様が私たちと共にいてくださるこの場所をも表す言葉なのです。
 先日、「発達障害とその子らしさ」という本を読みましたが、その中に大変興味深いことが書かれていました。自立のための前提条件について説明している箇所で、「家庭にいるという状態は無条件だ」と書かれていたのです。自分の家の中では、自分が存在する理由を問われることはありません。自分について説明する必要もありません。無条件でいられる場所、それが家庭です。しかし、社会に出たらどうでしょう。仕事に就いたらどうでしょう。決して無条件ではありませんね。競争があり、主張しなければならないこともあり、厳しい評価にさらされることがあるわけです。その社会で自立して生きるためには、家は無条件の場所でなければならない、と書かれていたのです。その通りだと思いますね。
 聖書の申命記33章27節に「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に」と書かれています。「神様が私たちの住む家になってくださる」というのです。つまり、神様のみもとにいる時、私たちは、無条件で受け入れられ、愛されているという安堵感を感じることができるのです。ですから、詩篇23篇6節に「わたしはいつまでも主の家に住まいましょう」と書かれているように、神の愛を知る人々は、いつまでも主の家に住みたいと願うのです。
 イエス様は、「父の家には住まいがたくさんあります。わたしはそこに場所を備え、あなたがたを迎えます」と約束されました。そして、「わたしのいるところに、あなたがたもおらせる」と言われたのです。イエス様が、備えてくださる家は、無条件の場所です。自分のありのままが受け入れられる場所です。私たちが人生を歩む上で、まずそういう場所を持つことが大切なのです。「私には無条件でいられる場所がある」という確信があるとき、勇気を持ってそれぞれの生活の場に出ていくことができるからです。

4 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

 イエス様は、素晴らしい約束をしてくださいました。しかし、弟子たちは、それがよく理解できませんでした。イエス様に「わたしの行く道はあなたがたも知っています」と言われても、よくわかりません。
 そこで、弟子の一人のトマスがこんな質問をするんです。
「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
 トマスがこう質問する気持ちは理解できると思いませんか。「『父の家には住まいがたくさんある』とか『場所を備えに行く』とか言われても、何のことなのか、よくわからない。いったいイエス様はどこに行ってしまうのだろう。これから何をするつもりなのだろう。私たちには、想像もつかない」、こんな思いだったのでしょう。
 トマスは、「どうして、その道が私たちにわかりましょう 」と言っていますが、これは、人間の本質を突いている質問であると思います。「道」というのは、人の生き方や作法などにも使われる表現ですね。つまり、トマスの質問は、「人間がどんなに努力して生き方を探り修行を重ねたとしても、天へと続く道はいったいどこにあるのか、どんな生き方をすれば天の住まいというゴールに行けるのか、自分の力でどれほど追求してもわからない」ということでもあると思うのです。
 それに対して、イエス様は、6節の大変有名な言葉をお語りになりました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」イエス様は、はっきりと「わたしが道である」と言われたのです。つまり、私たちの生き方や努力や修行によって天の住まいに入ることはできない、イエス様という道を通らなければ、天の住まいに入ることはできない、イエス様こそ天の住まいへの道だと言われたのです。
 そして、道であるイエス様は、ご自分こそ真理であり、いのちであると宣言されました。もし、道が、真理ではなく、まやかしや偽りであったらどうでしょう。その道を進んだら、迷路や袋小路に迷い込んでしまうでしょう。しかし、イエス様は、ご自分が真理でありいのちであると言われました。イエス様こそ真理といのちの道なのです。
このように考えたらいいと思います。私たちの人生は、天国を目指す旅のようなものですね。でも、どうでしょう。たとえば、「城山教会は、どこですか」と尋ねられたとき、「小田原駅の西口を出て左に行って、突き当たりを左に曲がって、青橋を通り過ぎて、突き当たったら右に曲がって、それから、すぐにまた右に曲がって・・・」、聞いている人は、何だかわからなくなってしまいますね。駅からわずか八百メートルの場所でも行き方を説明するは大変です。でも、決して迷わない方法があります。それは、私が駅に迎えに行って、その人と一緒に教会まで来ることです。すると、この方は、途中の景色を楽しみ、お城を眺めながら教会まで来ることができます。どちらに曲がるかなどは決して心配しません。なぜなら、私が道となって教会まで一緒に来るわけですから。
 天国へ向かう人生の旅も同じです。私たちが道順を説明されて一所懸命歩いていっても迷ってしまうし、本当に到着できるだろうかといつも「心騒がせる」と思いますね。
 でも、道であるイエス様が迎えてくださり、いつも共にいて、天の住まいまで導いてくださるのです。だから、私たちは、自分で道筋がわからなくても大丈夫、イエス様と一緒であるということだけで十分なのです。
 イエス様は、「わたしはあなたを捨てて孤児にはしません」、また、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束してくださっています。ですから、安心してイエス様にお任せすることができるのです。
 
4 わたしを見た者は、父を見たのです

 皆さん、「聖書は、よくわからない」と言って嘆くことはありません。大丈夫です。弟子たちもよくわからなかったのです。ただ、弟子たちは、大切なことを知っていました。それは、「わからないことがあったら、イエス様に質問すればいい」ということです。弟子たちは、イエス様に率直にいろいろな質問をしました。そして、それによってイエス様から大切な教えを受けることができたのです。
 今日の箇所でも、トマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」と質問すると、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」という大切な教えを語ってくださいました。
 また、イエス様が「あなたがたはすでに父を見たのです」と言われると、その意味がよく理解できなかったピリポは、すぐにこうお願いしました。「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と。すると、イエス様は驚くべきことを言われました。「わたしを見た者は、父を見たのです」と。 イエス様は、8章でも語っておられましたが、ここで、もう一度、はっきりと、「父なる神とわたしは同等、同質の存在なのだ」と語られたのです。神が人となって私たちのもとに来て、ご自身を表してくださった、それがイエス・キリストです。 1章18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と書かれているとおりです。イエス様は、父なる神と同一の本質を持つお方であり、道、真理、いのちそのものであるお方です。だからこそ、父の家に場所を備え、私たちをそこに住むのにふさわしい者に変えてくださり、迎え入れてくださるのです。
私たちは心騒ぐことの多い時代に生きていますが、イエス様は、今日も一人一人に「心を騒がしてはなりません。なぜなら、道であり真理でありいのちであるわたしがあなたと共に歩んでいるのだから」と語りかけてくださるのです。