城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一一月三日             関根弘興牧師
               ヨハネ一四章二一節ー三一節

ハネの福音書連続説教47
    「わたしが与える平安」

 21 「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」 22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか。」23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
 25 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。28 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。29 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。30 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。31 しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。(新改訳聖書)

 今日の箇所は、イエス様が最後の晩餐の席で語られた説教の続きです。
 食事をしている時、イエス様は、弟子たちに「この中にわたしを裏切る者がいる」と言われました。また「あなたがたは、これ以上わたしについてくることはできない」とも言われました。それまですべてを捨ててイエス様に従ってきた弟子たちは、なんだかイエス様に見捨てられてしまったかのような思いを持ったのではないでしょうか。心が騒ぐのは当然ですね。
 しかし、イエス様は、心騒がせている弟子たちに、14章から「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と語り始められたのです。そして、「わたしは、あなたがたのために永遠の住まいを備え、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と約束してくださいました。
 また、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」と約束してくださったのです。イエス様の行うわざとは何でしょう。それは、愛のわざです。救いのわざです。癒やしのわざです。弟子たちは、イエス様のことばを聞いて戸惑ったに違いありません。イエス様の行うわざを行っていくことが本当に可能なのでしょうか。そこで、イエス様は、弟子たちがそのような大きなわざを行うことができるようになるために、三つのことを保証してくださいました。
 第一は、イエス様の名によって祈り求めるなら、イエス様がそれをしてくださるということでした。私たちの祈りには、イエス様の名義という確かな保証があるというのです。
 第二は「もうひとりの助け主」が与えられる、という保証です。「助け主」と訳されている言葉は、ギリシヤ語で「パラクレートス」と言います。「パラクレートス」というのは、「私たちのかたわらにいて呼びかけてくださる方」という意味があるのです。ですから、「慰め主」「弁護士」「ヘルパー」「友」とも訳されるのですね。
 そして、「もうひとりの」助け主というのですから、まず、その前に来られた助け主がいるということですね。それは、イエス様です。イエス様は、最後の晩餐の後、十字架について死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえり、弟子たちの見ている前で天に昇っていかれました。その天において、今、イエス様は、まことの弁護士として私たちのためにとりなしをしてくださっていると聖書に書かれています。イエス様は、いつも私たちを助けてくださる方なのです。
 そして、イエス様が昇天された後に、「もうひとりの助け主」が与えられました。聖霊です。イエス様を信じる一人一人の内に聖霊が宿ってくださるのです。イエス様が天に昇られた後、聖霊に満たされた弟子たちは、聖霊に導かれ励まされて全世界に福音を宣べ伝えていくようになりました。そして、多くの人々が救われ、各地に教会が生まれていったのです。
 ですから、私たちには、神様の御前でたえず私たちのためにとりなしをしてくださっているイエス様がおられ、また、私たちの内に住んでいつも共にいて支え導いてくださる聖霊がおられるのです。つまり、天においても地においても私たちを弁護し、助け、支え、慰め、導いてくださる「助け主」がいてくださるということなのです。
 第三の保証は、イエス様が私たちのもとに戻って来られ、私たちと共にいてくださる、ということでした。それは、イエス様が十字架で死ぬけれども復活してくださるという意味でもありますし、この世の終わりに天から下ってこられて最終的な正しい裁きをしてくださるという意味でもありますし、また、今の生活の中で私たちと共にいてくださるという意味でもあります。私たちの神様は、父、子、聖霊の三位一体の神様ですから、聖霊が私たちの内に住んでおられるということは、父なる神様もイエス様も私たちの内におられ、いつも共にいてくださるということだからです。
 
 そのような素晴らしい保証を与えてくださったイエス様は、次に21節でこう言われました。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」つまり、「わたしを愛する人に、わたし自身を現す」と言われたわけですね。
 すると、イエス様を裏切るために出て行ったイスカリオテのユダではない、もう一人のユダという弟子がイエス様にこう言いました。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか」と。「イエス様、私たちだけでなく、世の人々にもっとご自分のことを現していった方がいいのではないですか」というわけですね。
 しかし、それは、イエス様の方法ではありませんでした。イエス様は、ただやみくもに世の人々にご自身を現そうとはなさいません。そうではなくて、イエス様は、まずイエス様を愛する一人一人にご自身を現し、その人々の生涯を通してご自身の愛や恵みを示されるのです。そして、そのイエス様のすばらしさを知った一人一人によってイエス様の福音が伝えられていく、それがイエス様の方法なのです。
 では、「イエス様を愛する人」とは、どのような人なのでしょうか。イエス様は、23節で「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」と言われています。ですから、「イエス様を愛する人」とは、「イエス様のことばを守る人」ということになりますね。
 「守る」ということには、二つの面があります。一つは、「どんなことがあっても大切に自分の中に保っている、握り続けている」ということです。人が何を言おうが、イエス様のことばをしっかりと握り続けていく、信頼し続けていくのです。
 そして、もう一つの面は、「従う」ということです。イエス様が、私たちにお与えになった戒めは何だったでしょうか。イエス様は、13章34節でこう言っておられましたね。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。このイエス様のことばに従っていくことが、イエス様のことばを守るということです。「互いに愛し合いなさい」というイエス様のことばに従っていく人、それが「イエス様のことばを守る人」であり、「イエス様を愛する人」だというのです。
 でも、私たちは、「互いに愛しなさい」と言われてもできない愛のない弱い者だと思わされることがしばしばありませんか。そして「人を愛することのできない私は、イエス様を愛する者と言われる資格がない」と思ってしまうかも知れません。そんな時、私たちは、「守る」という言葉のもう一つの面、つまり、イエス様のことばをしっかりと保ち続け、告白することが大切なのです。「あなたは愛される価値がない」という声が聞こえてくるかもしれません。しかし、イエス様は、「わたしはあなたを愛している」「わたしはいつもあなたとともにいる」と言われます。困難の中で疲れ切ってしまう時があるかもしれません。しかし、イエス様は、「あなたが疲れた時、重荷を負っている時は、あなたを休ませる」と言われます。不安や恐れでいっぱいになってしまうことがあるかもしれません。でも、イエス様は、「わたしは、良い羊飼いです。あなたはわたしの羊なのだから、決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手からあなたを奪い去るようなことはない」と言われます。こうしたイエス様のことばをいつも心に保ち、信頼し続けていくのです。イエス様を愛するとは、イエス様のことばを守り生きていくことです。これは、一生涯を通して学んでいくことですね。
 さて、そんなイエス様を愛する一人一人に、イエス様は、今日の箇所で、どんなことを約束してくださっているでしょうか。

1 ともに住んでくださる

 まず、23節で イエス様はこう言われました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」
「ともに住む」というのは、別の言葉に訳すと、「一緒に住み込む、同居する」という意味です。つまり、父なる神様とイエス様とが一緒に住み込んでくださるというわけですね。
 また、この「住む」と訳されていることばは、「住まいを造る」とも訳せる言葉なんです。父なる神様とイエス様が、そしてもちろん聖霊なる神様も共におられる訳ですが、この三位一体の神様が、私たちのところに来て、私たちのために住まいを造ってくださるというのですね。
 私たちは、そう聞いても、あまりピンとこないかも知れませんね。でも、旧約聖書を読むと、これが考えられないような素晴らしい約束だということがわかります。
 旧約の時代、ヘブル語で「住む」という意味の言葉から派生し「神様の臨在」を現す言葉として、また「神の名を住まわせる場所」という意味で「シェキーナー(神様の住まい、栄光)」という概念が生まれました。
 たとえば、モーセが出エジプトを敢行し、神様の指示によって「会見の天幕」を造りました。移動式の神殿のようなものですね。それが完成したとき、「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」(出エジプト40・34)とあります。この栄光の雲があらわれ、神様がそこに臨在してくださっている、このことを「シェキーナー」と言ったのです。
 また、ソロモン王がエルサレムに神殿を建て、奉献式が行われたとき、「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである」(1列8・10-11)とあります。これも、栄光に満ちた神様が共に住んでくださっているということで、「シェキーナー」と言う言葉で表したのです。
 その後、イエスラエルの国が南北に分裂し、ついにはバビロニヤ帝国の攻撃で滅び、神殿は破壊され、人々は捕虜となって連れて行かれてしまいましたが、70年以上の歳月を経て、捕囚から解放された人々が再びエルサレムに戻り、神殿を再建しました。しかし、再建された神殿には、栄光の雲が現れることがなかったのです。シェキナーの栄光を見ることがありませんでした。そこで、ユダヤの人たちは、「救い主であるキリスト(メシヤ)が来るときに、シェキナーの栄光が現れるだろう」と待ち望んでいたのです。
 こうした背景があるので、今ここでイエス様は、ユダヤ人にすればびっくり仰天のことをおっしゃったわけです。「わたしを愛する人のところに父なる神とわたしが行って、その人の内にシェキーナーを造ろう」と言われたからです。目に見える幕屋や神殿ではなく、一人一人の内に主が住んでくださり、主の栄光で満たしてくださる、一人一人の心の中に本当の礼拝の場が造られる、ということをイエス様は約束してくださったわけです。ですから、パウロは、第一コリント3・16でこう言っています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」イエス様を愛する一人一人が神の神殿、神の栄光が現れる場所として造り変えられるのです。

2 聖霊が助けてくださる
 
次にイエス様が約束してくださっていることは、26節に書かれています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
 この時、弟子たちは、「これから自分たちだけでどうすればいいのだろう」と思っていたことでしょう。信仰生活は、決して自分の頑張りや努力だけで保っていけるものではありません。しかし、助け主なる聖霊が、いつも私たちと共にいて、教え導き、必要なみことばを思い起こさせ、私たちの信仰生活を支えてくださるというのです。
 でも、それを極端に解釈してしまう人がいます。「聖霊がすべてのことを教えてくれるなら、もう聖書を読むことも必要ない。説教の準備も必要ない。その時、聖霊が教えてくれることを語ろう!」と考える人がいるんですね。でも、それでは、聖書は必要ないということになってしまいますね。
 皆さん、誤解しないでください。聖霊は、聖書を通して私たちを教え導いてくださるのです。聖霊が聖書に書かれていない新しい教えを教えることは決してありません。ですから、私たちは聖書を読み、聖書からのメッセージを聞くのです。しかし、その読んだ聖書の箇所が、語られた説教が、どうして私たちの心に届き、受け入れられていくのでしょう。背後に、聖霊なる神様の導きと助けがあるからなのです。
 また、聖霊はイエス様が話したすべてのことを思い起こさせてくださると書かれていますが、これは、どういうことでしょうか。「イエス様のことばを忘れてしまっても、聖霊がまた思い出せてくれる」ということでしょうか。もちろん、それもあるでしょう。でも、ここで「思い起こさせる」とは、もっと日常的なことです。私たちは、イエス様の約束のことばを忘れてはいないのだけれど、そのことばが実際の生活の中でピンと来ないということがありませんか。しかし、聖霊は、私たちの生活の中で、イエス様のことばを実感させ、本当にその通りだとうなずくことができるように働いてくださるのです。ですから、聖書を読むことは大切です。みことばを心にたくさん蓄えることは大切です。小山田先生が、九月に説教をしてくださったときに、この点を詳しくお話しくださいましたね。私たちの読み蓄えた聖書のことばが、聖霊の働きによって実際の生活の中で生きて働くものになり、私たちの人生を支え導いてくれるわけですから、なんと心強いことでしょう。

3 平安を残してくださる

 それから、イエス様は、27節でこう約束してくださいました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
「平安」と訳されている言葉は、ヘブル語では「シャローム」といいます。ユダヤ人は挨拶の時にこの「シャローム」という言葉をよく使います。「こんにちは」「さようなら」は、すべて「シャローム」と言うのです。
 イエス様は、これから十字架につけられるために弟子たちから去って行かれるので、「さようなら」の意味で「シャローム」と言われたのかと思う方もいるかも知れませんね。しかし、そうではありません。イエス様が与える「シャローム」「平安」は、挨拶程度の社交儀礼ではないのです。
 イエス様は、「わたしがあなたがたに与える平安は、世が与える平安とは違う」と言われました。では、イエス様が与えてくださる平安とは、どのようなものかと言いますと、先ほどお話ししましたように、三位一体の神様が私たちに内に住んでくださり、いつもともにおられるということからくる平安なのです。これほど大きな平安が他にあるでしょうか。ですから、私たちは、心騒したり、恐れることはないのです。

 さて、イエス様は、28節でこう言われました。「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。」
 イエス様が十字架で死に、復活し、天に昇られる時が近づいてきました。しかし、それは、決して悲しむべきことではなく、かえって、喜ぶべきことなのです。
 イエス様は、「父はわたしよりも偉大な方だからです」と言われましたが、これは、ご自分を世に遣わされた父なる神様への敬意の表現です。イエス様は、父なる神様と同じ本質を持っておられる方ですが、神のあり方を捨て、へりくだって、私たちと同じような人となって来てくださったのです。そして、人のすべての罪を背負って十字架についてくださるのです。
 しかし、イエス様が十字架につかれるのは、この世を支配する者がイエス様より強いので抵抗できずにしかたなく十字架につけられる、というのではありません。イエス様は、神なる方ですから、この世の支配者よりはるかに大きな力をもっておられます。しかし、神様は、イエス様が私たちの身代わりに十字架につけられ、罪の贖いを成し遂げ、すべての人に救いをもたらす、というご計画を立てておられました。イエス様は、その神様のご計画に従順に従って十字架につかれるのです。それは、決して敗北ではなく、罪と死の力を打ち破り、復活し、救いを完成し、栄光の天に帰られることへとつながっていくのです。また、それによって、聖霊がわたしたちのもとに来てくださり、聖書に記されているすべての約束が、イエス様を愛する一人一人に実現していくようになるのです。
 そして、イエス様は、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」と言われました。イエス様ご自身にとっては、これから十字架の苦しみに向かって出かけていく覚悟を示す言葉でしょう。また、弟子たちにとっては、いつまでも人となられたイエス様のそばにとどまっているのではなく、これからイエス様の十字架の苦しみに直面するために出て行かなくてはならないということです。しかし、その後には、イエス様の復活、昇天、そして、聖霊が与えられるという素晴らしい経験が待っているのです。