城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一一月一〇日             関根弘興牧師
                  ヨハネ一五章一節ー七節

ヨハネの福音書連続説教48
    「まことのぶどうの木」

1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(新改訳聖書)


イエス様は、最後の晩餐の席で、弟子たちに、「あなたがたは心騒がせてはなりません。」言われました。そして、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」(14章12節)と約束されたのです。それは、これから弟子たちによってイエス様の福音が全世界に伝えられていくようになるということでした。どうしてそれが可能になるのでしょうか。それは、イエス様が十字架と復活の後に天に昇り、もう一人の助け主である聖霊を遣わしてくださるからです。聖霊が信じる一人一人のうちに宿ってくださる、それは、父なる神と御子イエス・キリストも宿ってくださるということでもあります。ですから、イエス様は、「わたしは、いつもあなたがたとともにいる」と約束してくださいました。また、「わたしの名前によって祈り求めれば、わたしはそれをしよう」とも約束してくださったのです。そして、聖霊は、イエス様の約束の言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。ですから、私たちは、恐れることなく、イエス様の恵みを受けつつ進んでいくことができるのです。

 さて、今日は、このイエス様と一人一人との結びつき、最近は「絆」という言葉が使われますが、イエス様と私たちとの大切な「絆」について、ご一緒の考えていきましょう。
 今日の箇所でイエス様は、1節で「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」と言い、5節では「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われました。イエス様がぶどうの木、私たちがその枝、そして、父なる神様が農夫にたとえられているのですね。
 ぶどうは、ユダヤ人たちには大変なじみ深い果実です。
 詩篇80篇8ー11節には、こう記されています。「あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。あなたがそのために、地を切り開かれたので、ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。山々もその影におおわれ、神の杉の木もその大枝におおわれました。ぶどうの木はその枝を海にまで、若枝をあの川にまで伸ばしました。」 神様がエジプトからぶどうの木を携え出して約束の地に植えてくださったので、そのぶどうの木は豊かに成長した、というのです。これは、昔、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの人々を神様がモーセによってエジプトから脱出させ、約束の地へ導いてくださったことを意味しているわけですね。つまり、詩篇の作者は、イスラエルの人々を「ぶどうの木」になぞらえたわけです。
 このように、旧約の時代にイスラエルの民の象徴として「ぶどう」が使われていました。ですから、イスラエルの人々は、自分たちこそ神の選びのぶどうだと誇っていたのです。
 しかし、旧約聖書を読んでいくと、その神様の植えたぶどうであるはずのイスラエルの人たちの姿が、どうもあまりよく描かれていないのですね。
たとえば、イザヤ書5章1節には、こう書かれています。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」
 また、エレミヤ書2章21節には、こう書かれています。「わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」
 神様は、良いぶどうを植えて一所懸命世話をして、甘いぶどうのなるのを期待するのですが、酸っぱくて使い物にならない、質の悪いふどうしかできなかったというわけです。つまり、一人一人が本来神様によって良いものとして造られたのに、みな神様を無視して自分勝手な道に向かってしまった、その人生は、まるで酸っぱいぶどうのようなものだ、というわけです。その姿をイザヤもエレミヤも厳しく指摘したのです。
 一方、イエス様の時代には、エルサレムの神殿の門には、黄金造りのぶどうが飾られていました。人々は、そのぶどうの飾りに付け加えるために、さらに金のぶどうの房や枝をささげていきました。当時のユダヤ人たちは皆、旧約聖書の内容をよく知っていましたから、一所懸命、神殿詣でをして、戒めを守って、自分たちは、けっして酸っぱい悪いぶどうではない、自分たちこそ「良いぶどうの木」「良いぶどう園」として神に認められているのだと自負していたわけです。
 しかし、イエス様は、そういうユダヤ人たちに対して、「あなたがたも、昔、イザヤやエレミヤが指摘した姿とちっとも変わっていない」と厳しく言われたのです。「あなたがたは、自分がよいぶどうの木だと思っているが、良い実を結んでいないではないか。あなたがたが結んでいるのは、悪い実ばかりではないか」と特にユダヤの指導者たちには、はっきり言われたのです。
 そして、イエス様は、なんとあの弟子たちに、「あなたがたこそ、良い実を結ぶぶどうの枝なのだ」と告げられたのです。
 では、そのことについて、詳しく学んでいきましょう。

1 イエス様は、まことのぶどうの木

 まず、イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木です」と言われました。
 わざわざ「まことの」という言葉が付けられていますね。最近、誤表示が問題になっていますが、この「まこと」という言葉は、「偽物ではなく本物」という意味です。また、「類似品ではなく純正」という意味もあるのです。
 ヨハネがこの福音書を書いている時代には、いろいろなキリストもどきというような存在が出てきました。自分がキリストだと自称する偽物や自分がキリストのようになりたいという類似品のような人たちが現れてきたわけですね。また、イエス様ではなく自分が中心になりたい、イエス様ではなく自分がグループの頭になりたいと思う人たちも出てきたのです。
この福音書を書いたヨハネは、手紙も書いていますが、ヨハネの手紙第三9ー11節には、こんなことが書かれているんです。
「かしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません」と。ヨハネの時代にも、グループの中心でないと気が済まないという人物がいたのですね。
 しかし、ヨハネは、この福音書を通して、イエス様こそ「まことのぶどうの木」であり、私たちの中心となるべき方であり、私たちがつながっているべき方なのだとはっきりと伝えているわけです。
 今日も、私たちは、イエス様こそまことの救い主であり、人生の土台であり、すべての根源となられる方であることを忘れないようにしましょう。教会の組織も、伝統も、牧師も、役員も、決して「ぶどうの木の本体」になることはできないのです。もし、イエス様以外のものが本体になるとしたら、そのぶどう園は、神のぶどう園ではなくなってしまいます。私たちがいつもつながっていなければならない幹は、イエス様ご自身なのです。

2 父なる神様は、農夫

 次に、イエス様は「わたしの父は農夫です」と言われました。父なる神様が農夫だというのです。
 ぶどう園と聞くと、私たちは、普通は、山梨県などにあるようなたくさんのぶどうが棚からぶら下がっている光景を想像しますね。しかし、聖書の舞台となっているぶどう園は、そうではありません。日本のような棚作りと違い、枝をそのまま地面に這わせて栽培することが多いそうです。ぶどうの木を育てるのは手間のかかる大変な作業です。農夫は、荒れ地から石を取り除き、土地を改良し、ぶどうを植え、手入れをしながら育てていくわけですが、特に、夏の暑い盛りに行う収穫作業は、大変なのだそうです。ぶどうの栽培は、農夫の腕にかかっているわけですね。
 イエス様は、父なる神様が、その大変な作業を行う農夫となってくださっていると言われたのです。
 イエス様は、以前、ヨハネの福音書5章17節で、「わたしの父は今に至るまで働いておられます」と言われました。神様は、大切にぶどうを育てる農夫のように、私たちを育てるために働いてくださっているということですね。
パウロは、第一コリント3章6節でこう記しています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」と。
 信仰に生きるとは、すばらしい農夫である神様が私たち一人一人を成長させてくださることを期待し、神様に委ねつつ生きることでもあるのです。神様は、最善の世話をしてくださる最高の農夫です。私たちは、この方によって手入れをされながら、実を実らせることが出来るのです。

3 私たちは、枝

枝は、幹に継ぎ合わされていなければ、決して実を結ぶことはできません。生き続けることもできません。枯れていくだけです。
 どんなにすばらしいコンピューターでも、電源がきちんとコンセントに差し込まれていなければ動きませんね。また、手が「体から離れて一人で生きていきたい!」と生意気なことを言ったらどうでしょう。手だけで行動することはできませんね。それどころか、体から切り離したら、手はすぐに死んでしまいます。
 私たちも同じです。私たちは、枝にすぎないのです。イエス様という幹につながっていなければ、枯れて死んでいくだけです。どんなに素晴らしい才能を持っていても、イエス様のいのちの流れがなければ、本来の力を発揮することはできません。 だから、イエス様はこう言われました。「あなたがたは、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と。
 こういう言葉を聞いて反発を感じる方がいるかもしれません。「私は、自分の力でいろいろなことができる。何もすることができないなんて、言い過ぎじゃないか」と。もちろん、信仰があるなしにかかわらず社会の中で素晴らしい功績を挙げている人はたくさんいますね。でも、イエス様が「わたしを離れては、あなたがたは何もするこができない」と言われたのは、そういう意味ではないのです。
 イエス様の言葉を言い換えるなら、私たちが罪が赦され、新しくされ、永遠のいのちをもって神様と正しい関係を保ちながら生きていくことは、自分の力では出来ない、百パーセントイエス様からの恵みに頼る以外にない、ということなのです。
 皆さん、枝にとって最も大切なことは、幹につながっているかどうかということです。イエス様というまことのぶどうの木につながっていなければ、私たちは、決して本当の救いの良い実を結ぶことは出来ません。しかし、イエス様につながっていくとくき、多くの実を結ぶことができるというのです。
それでは、イエス様という幹につながっている、つまり、イエス様にとどまるとは、どういうことなのでしょうか。今日の箇所では、二つのことが言われています。

@イエス様のことばをとどめること

 まず、イエス様は、7節で「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と言っておられます。つまり、イエス様のことばを私たちのうちにとどめることが、イエス様にとどまることにつながるのです。先週学んだように、イエス様のことばを、自分に与えられた約束として握りしめ守っていくこと、そして、その約束の言葉を信頼して生きていくことを習慣づけるのです。
 キリストにとどまるとは、ただの感情や劇的体験によるのではありません。聖書のことばを自分のものとして受け取り、反復しながら、信頼し、吸収していくのです。
 イエス様は、「あなたの罪は赦されました」と言われます。このことばをとどまらせたらどうでしょう。赦されたことへの感謝と賛美が湧いてくるのです。また、自分の罪の姿を見て、落ち込んだとき、イエス様の十字架を思い、「あなたの罪は赦された」というイエス様のことばを思い起こして、主が赦してくださったのだから、もう一度主を見上げて歩んでいこうとする勇気が与えられるのです。
 また、自分や人を愛せないときに「わたしはあなたを愛している」という主のことばを思い、主が愛してくださっている自分自身を受け入れ、主が愛しておられる人々を愛する心が生まれてくるのです。
思い煩いに心が沈むときがあります。でも「わたしがいつもあなたとともにいる」というイエス様のことばを信頼して、すべての思い煩いをゆだねていくことができるのです。

Aイエス様のきよさの中にとどまること

 イエス様にとどまるということのもう一つの意味は、イエス様のきよさの中にとどまることです。
 イエス様は、2節で「実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、父が刈り込みをなさる」と言われました。この「刈り込みをする」と訳されていますが、別の訳では「手入れをする」「きれいにする」となっています。もともとこのことばの本来の意味は、「きよめる」という言葉なんですね。つまり、私たちは、きよめられる必要があるということですね。
 「刈り込み」というと、なんだか痛くてつらい経験を指すかのようなイメージがありますね。刈り込みなのだから、余分で不要な枝は切り落とされてしまうのではないか、だから、立派なクリスチャンでない自分は、不要な枝と見なされて切り落とされてしまうのではないか、と思ってしまう人もいます。でも、それは誤解です。
 2節を注意して読むと、イエス様は、「実を結ばない枝」と「実を結ぶ枝」について言っておられますね。「実を結ばない枝は、取り除かれてしまう」けれど、「実を結ぶ枝は、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをされる、つまり、きよめられる」というのです。
 この実を結ぶ、結ばないは、自分の力で実を結べるか、結べないかという話ではありません。先ほどお話ししたように、実を結ぶかどうかは、イエス様につながっているかどうかで決まるのです。
 イスカリオテのユダは、イエス様の愛に接し、何度も悔い改めのチャンスを与えられながらも、イエス様のもとにとどまることをせずに裏切りの道へと向かっていきます。そのユダの裏切りをご存じだったイエス様は、最後の晩餐のときに弟子たちに向かって「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」と言われました。つまり、イエス様は、「ユダは、きよくない」と言われたわけです。どいうことかと言いますと、イエス様から離れていくことを選択するなら、イエス様によってきよくしていただくことができない、その結果として、父なる神様に取り除かれてしまうことになる、というわけです。それで、6節では、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」とイエス様が言われていますね。
 しかし、イエス様は、イエス様のもとにとどまっている弟子たち一人一人に対して、3節にあるように、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と言われるのです。
 イエス様のもとにとどまる人は皆、イエス様の十字架と復活という事実を通して、罪が赦され、義と認められ、神の前にきよい者として歩むことができるのです。そして、きよいと認められた人々の内に、聖霊が住んでくださり、「神がいつも私たちと共にいてくださる」という約束が実現するのです。その聖霊は、私たちの内をきよめつづけ、多くの実を結ぶことができるようにしてくださるのです。
 つまり、イエス様にとどまるとは、イエス様を救い主と信じ、イエス様の十字架による罪の赦しを受け入れてきよい者と認められること、そして、内に住んでくださる聖霊によってきよめられ続けていくことなのです。
 神様は、完全にきよい方ですから、私たちの罪の問題が解決されないうちは、私たちの内に住むことはおできになりません。でも、私たちは、自分の努力や頑張りによって罪の問題を解決してきよくなることなど決してできませんね。しかし、イエス様が本来きよくない私たちをきよい者にしてくださったので、私たちの内に神様が住んでくださるという素晴らしい約束が実現したのです。
 そして、私たちが「きよくされる」というのは、「神様の専用品とされる」ということを意味しています。私たちは、神様の専用品として、神様のご用のために用いられるすばらしい存在となったのです。ですから、さらに磨かれていくために刈り込みがあるのです。聖書のことばを通して、さらに磨かれ、成長し、豊かな実を結ぶことが出来る者とされていくのです。ですから、神様によって刈り込まれるというのは、私たちの成長のために素晴らしいことなのですね。

今日お話しした「実を結ぶ」とか「イエス様にとどまる」ということについては、次回も続けて学んでいくことにしましょう。