城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一一月二四日             関根弘興牧師
                 ヨハネ一五章七節ー一七節

ヨハネの福音書連続説教49
    「友なるイエス様」

7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。(新改訳聖書)

 前回は、イエス様がお語りになった「ぶどうの木」のたとえを学びました。イエス様と私たちの結びつきについてご一緒に考えたわけです。
 イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」、また、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われました。イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝、そして、父なる神様は農夫だというのです。
 枝は、幹に継ぎ合わされていなければ、決して実を結ぶことはできませんね。私たちも同じです。私たちは、枝にすぎないのです。イエス様という幹につながっていなければ、枯れてしまうわけです。イエス様のこの言葉を言い換えるなら、私たちの罪が赦され、永遠のいのちをもって生きていくためには、百パーセント、イエス様からの恵みに頼る以外にない、ということなのです。皆さん、枝にとって最も大切なことは、幹につながっているかどうかということです。イエス様というまことのぶどうの木につながっているとき、私たちは、実を結ぶことができるのです。

 今日の箇所から、イエス様にとどまるというのは、具体的にどういうことなのか、そして、私たちが結んでいく実とは何なのかということを考えていきましょう。

1 イエス様にとどまるとは

@イエス様のことばをとどめる

 これは前回もお話ししましたが、イエス様にとどまるとは、7節にあるように、イエス様のことばが私たちの中にとどまることです。では、イエス様のことばがわたしたちの中にとどまるとは、どういうことでしょうか。イエス様は、私たちに救いの約束のことば、平安を与える約束のことば、暗闇に光をもたらすことばを与えてくださいました。イエス様のことばは、無から有を生み出すことばです。死んでいた者を生き返らせることばであり、嵐の湖で「恐れるな、わたしだ。しっかりしなさい」と言われたように、私たちを励まし、いやし、慰めてくださることばです。
 私たちがイエス様を信じて生きるというのは、ただ闇雲に「イエス様を信じます」といい続けることではなく、イエス様が語られた言葉を受け取って、そのことばを信頼し生きていくことなのです。イエス様のことばを自分の内にとどめること、それがイエス様にとどまることなのです。

Aイエス様の愛の中にとどまる

イエス様は、また、9節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。
 イエス様にとどまるとは、イエス様の愛の中にとどまることです。怒りの中にとどまるのではありません。厳しい戒律の中にとどまるのでもありません。罪と呪いの中にとどまるのでもありません。憎しみの中にとどまるのでもありません。投げやりの人生の中に、むなしさの中にとどまるのでもありません。私たちは、イエス様の愛の中にとどまるのです。
 イエス様は、私たちのありのままを受け入れ、理解し、赦し、慰め、励ましてくださいます。時には叱られることもあるでしょう。しかし、イエス様は、いつも変わらぬ愛をもって接してくださるのです。
 私たちは、時々、「私はこのままではイエス様に愛される価値がない」とか、「私はイエス様の教えに従うことができないから愛していただけない」とか、「イエス様に愛されるためにはもっとがんばって従っていかなくてはならない」とか思ってしまうことがありますね。
 しかし、そういう時に大切なのは、イエス様は、私がどんな状態であっても愛し続けてくださっているということを思い起こすことです。イエス様がこんな私をも愛してくださっている、イエス様なら、こんな私をも導き成長させてくださることができる、イエス様におまかせしていれば大丈夫、イエス様がすべてのことを働かせて益にしてくださる、そのことを改めて確認するのです。自分の尺度で自分を評価したり、自分で自分を成長させなければとがんばるのではなく、いつもイエス様の愛を思い起こし、イエス様にゆだねていくこと、それがイエス様の愛にとどまることです。それを、いつも覚えていきたいですね。
 そして、イエス様は、10節で「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」とも言われました。イエス様の戒めとは何ですか。それは、17節にあるように「互いに愛し合いなさい」ということです。
 私たちは、自分の力では、互いに愛し合うことは出来ませんね。けれども、イエス様の愛の中にとどまっているなら、互いに愛し合う者とされていくのです。なぜなら、イエス様が自分を愛してくださっていることを知ると、そのイエス様の愛に応えて、イエス様の喜ぶ生き方がしたいと心から思えるようになるからです。また、イエス様が自分だけでなく他の人々もありのままで愛しておられることがわかってくるからです。
 そして、私たちは、互いに愛し合うことを通して、さらにイエス様の愛を知っていくことができるのです。

2 「わたしの友」

イエス様は、14節で「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。
 イエス様が命じられることは何でしょう。それは、イエス様の愛の中にとどまり、互いに愛し合うということですね。それを行うなら、私たちは、イエス様に「あなたはわたしの友だ」と言っていただけるのです。
 皆さん、「友」というと、どのようなイメージを持ちますか。なんとなく仲のいい人というような感覚かも知れませんね。しかし、ここでイエス様が言っておられる「友」いう言葉には、もっと深い意味があるのです。


@いのちを捨てるほどに大切な存在

 まず、13節でイエス様は、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言っておられますね。イエス様は、友のためならいのちを捨ててもかまわないというほどの大きな愛をもって私たちを愛してくださっているということなのです。
 ヨハネがこの福音書を記したときには、すでにクリスチャンたちの数も増え、教会もいろいろな所にできていました。クリスチャンは自分を「主イエスのしもべ」と呼んでいました。特に、パウロは、手紙の中で「しもべ」という言葉をたくさん使っています。もちろん、私たちは皆、主のしもべであることに違いありません。しかし、ヨハネは、イエス様のことばをここに記して、「私たちは、イエス様のしもべであるだけでなく、イエス様の友でもあるのだ。イエス様は、私たちのためならいのちを捨てることもいとわないほどに、私たちを大切な友として愛してくださっているのだ」ということを伝えたかったのでしょう。

A信頼できる存在

次に、15節で、イエス様は、こう言われました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
 しもべは、ご主人から「この仕事をしなさい」と言われたら理由を問うことなどしません。絶対服従なわけですね。理由はわからなくても、命じられた仕事を行うわけです。しかし、友は違います。何かをしてと頼まれて、理由がわからなければ、「どうして?」と尋ねます。相手が何かを隠していたら、「水くさいな。なぜ打ち明けてくれないの?」と言いますね。自分の考えや計画や目的を、友だからこそ打ち明けるのですね。
 旧約聖書を見ると、イスラエルの国を統一したダビデ王の側近の中には、「王の友」と呼ばれる人がいました。フシャイという人です。また、ソロモン王には、ザブデという名前の「王の友」がいました。つまり、王の身近で「王の友」としての役目を果たす人がいたわけですね。この「王の友」は、いつでもアポなしで王様の部屋に入ることが許されました。どんな大臣や家来よりも先に王様と語る権利を持った者が「王の友」と呼ばれたのです。それほどに王に信頼され、王と親しく語り合うことができたわけです。
 そして、旧約聖書には、「神の友」と呼ばれる人物が一人いました。イスラエル民族の父祖であるアブラハムです。
 創世記18章には、こんな出来事が書かれています。アブラハムの甥であるロトが住んでいるソドムの町は、悪と暴虐に満ちていました。神様は、ソドムがどれほどひどい状態になっているかを調べさせるために、三人の使いを遣わしました。(そのうちの一人は、受肉以前のイエス様ご自身だったとも言われています。) その三人が、ソドムに行く前にアブラハムの所に立ち寄るのですね。アブラハムは彼らを歓迎し、もてなしました。
 その時、創世記18章17節にこう記されています。「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。』」つまり、神様は、ソドムの町があまりにもひどい状態なってしまったので、この町を滅ぼそうと考えておられましたが、「それをアブラハムに隠しておくべきだろうか。いや、アブラハムにだけは話しておこう」と思われたというのです。そして、親しい友に語るように、ご自分の計画をアブラハムに打ち明けられた、というのです。
 イエス様は、15節で、「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と言われましたね。イエス様は、私たちを友と認めてくださり、私たちに、救いについて、永遠のいのちについて、歩むべき道について、神様のご計画の大切な内容をすべて語ってくださるのです。いつも私たちに必要なことを語りかけ、教え、慰め、励ましてくださるのです。
 もし、神様のみこころや聖書の真理が、一部の限られた人にしか示されないとするなら、どうでしょう。私たちは、イエス様の友とは言えなくなりますね。そして、一部の人だけが、まるで教祖のような存在となっていくでしょう。
 でも、感謝でありませんか。イエス様の愛の中にとどまる私たち一人一人を、イエス様は「わたしの友」と呼んでくださるのです。そして、「わたしは、あなたに隠し立てすることなど何もない。あなたはわたしの友だから」と言ってくださるのです。
 皆さん、イエス様は、私たちを深く信頼してくださっているのです。信頼関係が無ければ、知っていることを全部言うことなどありません。でも、イエス様は、「父から聞いたことをみな、あなたに知らせる」と言ってくださるのです。

3 イエス様の選び

 さて、次に、16節で、イエス様はこう言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
 選挙のことを考えてください。どんな立派な人でも、選ばれなければ議員になれませんね。自分から立候補は出来ても、選ばれなければただの人です。ですから、選ばれるように必死で選挙運動をするわけですね。
 しかし、イエス様は、「あなたが選ばれたのは、あなたの努力やがんばりや修行によるのではない。わたしがあなたを選んだのだ」と言われるのです。
 それを聞いて、「では、イエス様に選ばれない人もいるのですか」と考える人がいるかも知れません。いいえ、イエス様は、私たちすべてを選び、招いておられるのです。
 マタイ11章28節でイエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と招いておられます。ですから、イエス様の招待状は、すべての人に配られているのです。
 こんな文書を読んだことがあります。「この世の求人広告は、『有名校卒業 有資格 品行方正 学術優秀 容姿端麗 身元確実 思想堅固』。イエスキリストの求人広告は、『学歴不問 性別年齢資格不問 前歴前科賞罰不問 国籍人種家柄不問 赦罪安心 聖霊能力付与 永世天国復活保証 難行苦行律法不要 要信仰 即採用』」
 イエス様は、私たち皆を選んでくださっているのです。ただし、選ばれた私たちは、「選ばれて感謝です。これからよろしくお願いします」という意思表示が必要ですね。イエス様の選びに応じること、それが信仰なのです。

4 選びの目的

では、イエス様は、なぜ私たちを選んでくださるのでしょうか。16節の後半にこう書かれていますね。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
 イエス様が私たちをお選びになったのは、私たちが実を結び、その実が残るためだというのです。では、どんな実が結ばれていくのでしょうか。
 
@福音の実

 第一は、私たちと通して、全世界に福音が伝えられていくということです。それによって、多くのクリスチャンが生まれ、教会が生まれていくのです。
 コロサイ1章6節には「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」とあります。私たちが今こうして礼拝をささげているのは、イエス様に選ばれた人々が私たちのもとに福音を届けてくれたからです。そして、今も世界中で実が結ばれ続けています。私たち一人一人が出来るのは、ほんの小さいことかも知れません。しかし、イエス様は、「あなたがたがわたしの名によって求めるものは何でも、父があなた方にお与えになる」と約束してくださいました。一人一人の祈りに答えて、また、私たちが共に心を合わせて祈る願いに答えて、神様は豊かな実を結ばせてくださるのです。

A品性の実

次に、エペソ5章9節には、「・・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」と書かれています。また、ガラテヤ5章22ー23節には、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書かれています。
つまり、イエス様の愛にとどまりつつ歩む人々の中に、品性の実が結ばれていくというのです。 愛、喜び、平安・・・、そういう実は一夜にしてはできませんね。私たちは、キリストにとどまり続けながら、一生涯かけて豊かな実を実らせていくのです。

B賛美の実

 第三に、賛美の実が結ばれていきます。
 ヘブル13章15節には、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」とあります。
賛美は、くちびるの果実だというのですね。
第一テサロニケ5章16-18節 には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と書かれています。 神様が私たちに望んでおられるのは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することなのです。
 クリスチャンライフの特徴は何ですか。賛美なんです。私たちは、どんな状況にあっても「主に感謝します。主をほめたためます!」と告白していくのです。
 先週は、讃美礼拝を行いました。心から神様をほめたたえ賛美できるのは素晴らしいことですね。
 イエス様の愛にとどまり、イエス様の友として生かされていることを喜び賛美しながら、今週も歩んでいきましょう。山キリスト教会 礼拝説教