城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一二月一日             関根弘興牧師
             ヨハネ一五章一八節ー一六章四節

ヨハネの福音書連続説教50
    「苦難と励まし」

 18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。20 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。21 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。23 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。24 もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。25 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
 1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。3 彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。4 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。(新改訳聖書)


前回は、イエス様がお語りになった「ぶどうの木」のたとえから、枝である私たちがイエス様という幹につながっていることの大切さを学びました。そして、イエス様につながっているというのは、イエス様の豊かな約束のことばをとどめることであり、また、イエス様の愛の中にとどまり、互いに愛し合っていくことである、ということを学びましたね。
 そして、イエス様は、私たち一人一人に「あなたは、わたしの友だ」と言ってくださるのです。イエス様の友とは、どういう意味でしょうか。まず、イエス様は、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われました。イエス様は、友のためならいのちを捨ててもかまわないというほどの大きな愛をもって私たちを愛してくださっているということです。そしてまた、イエス様は、私たちを友として信頼し、父なる神様から聞いたことをすべて包み隠さず語り、導き、諭してくださるというのです。いのちがけで愛する存在、また、信頼できる存在として、イエス様は私たちを「友」と呼んでくださるのです。
 また、イエス様は、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」とも言われました。「あなたは、自分の努力やがんばりや修行によって選ばれたのではない。わたしがあなたを選んだのであり、それは、あなたが豊かな実を実らせることができるためなのだ」と言われるのです。
 では、私たちは、どんな実を実らせることができるのかというと、まず、福音の実です。私たちクリスチャンたちを通して、全世界に福音が伝えられていき、それによって、多くのクリスチャンが生まれ、教会が生まれていくのです。それは、今も続いています。今でも世界中で実が結ばれ続けているのです。私たち一人一人が出来るのは、ほんの小さいことかも知れません。しかし、イエス様は、「あなたがたがわたしの名によって求めるものは何でも、父があなた方にお与えになる」と約束してくださいました。一人一人の祈りに答えて、また、私たちが共に心を合わせて祈る願いに答えて、神様は豊かな実を結ばせてくださるのです。
 それから、私たちの内には、品性の実が結ばれていきます。ガラテヤ5章22ー23節には、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書かれています。イエス様の愛にとどまり続けていくとき、そういう品性の実が結ばれていくのです。 愛、喜び、平安・・・、そういう実は一夜にしてはできませんね。私たちは、キリストにとどまり続けながら、一生涯かけて豊かな実を実らせていくのです。
 そして、私たちの口には、賛美の実が実ります。 第一テサロニケ5章16-18節 には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と書かれています。 神様が私たちに望んでおられるのは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することなのです。クリスチャン・ライフの最大の特徴の一つは、賛美です。私たちは、どんな状況にあっても「主に感謝します。主をほめたためます!」と告白し、くちびるに賛美の果実を実らせていくのです。

1 迫害

 しかし、今日の箇所は、あまり歓迎したくない箇所ですね。なぜなら、イエス様が「あなたがたは、世から憎まれ、迫害を受ける」と言われたからです。クリスチャンとして生きていくときに、苦難や困難があることを、イエス様は、友である私たちにはっきりと語っておられるのです。イエス様は、ただ耳障りの良いことだけを言って、「わたしに従ってきなさい」とは言われません。「バラ色の生活が待っているから、わたしを信じなさい」とも言われませんでした。逆に、イエス様に従っていくとき、憎まれ、迫害されることがあると言われたのです。
 このヨハネの福音書が書かれた当時は、すでにクリスチャンに対して激しい迫害が始まっていました。パウロは、首を切られて殉教しましたし、ペテロは、逆さ十字架につけられて殉教するというような状況でした。迫害によって信仰を捨てる者も少なくありませんでした。ですから、迫害の中にあったクリスチャンたちは、もう一度、イエス様の語られたことばを思い起こす必要があったのです。
 イエス様は、16章4節で「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来ればわたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです」と言われましたね。「その時が来れば」とは、実際に迫害が起こる時のことです。ヨハネが福音書を書いた当時は、まさに「その時」であり、イエス様の言葉を一人一人がもう一度はっきりと思い出すべき時だったのです。
 また、16章1節で、イエス様は、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」とも言われました。
 「つまずく」というと、普通、何か石ころなどにつまずいて転んでしまう状態を考えますが、この言葉は、ギリシヤ語では「スキャンダロス」と言います。それは、もともとは「わなにかかる」という意味です。動物がわなにかかってしまったらどうなりますか、殺されてしまうわけですね。それと同じように、クリスチャンがこの迫害の中でつまずいて、信仰を放棄してしまうことがないように、とイエス様はここでお語りになっているわけです。
 キリスト教会の初期の頃の歴史を見ると、ローマ皇帝によって迫害が繰り返されてきました。皇帝ネロは、ローマの大火災が起こったとき、それをクリスチャンのせいだとして迫害を行いました。一世紀の末に登場したドミチアヌス帝は、「ローマ皇帝は、ローマ精神の具現者であるゆえに、神である」と言い始めました。そして、年に一度、皇帝の像に香をたき、「皇帝は主である」と言明しなければならないと決めたのです。しかし、クリスチャンは、イエス・キリストだけを主として、その命令に従わなかったため、迫害されていきました。この皇帝の時代に、ヨハネはパトモス島に流刑になっています。また、その後に出てきたトラヤヌス帝の治世では、クリスチャンは、何もしなくても、ただクリスチャンであるという理由だけで、棄教しないかぎり、処刑することが認められるようになったのです。そして、迫害は、首都ローマだけでなく、地方にも広がっていきました。
私たちは、礼拝でいつも「主の祈り」を祈りますね。その最後の言葉は何ですか。「国と力と栄えとは、かぎりなく汝のものなればなり。アーメン」ですね。この祈りの中の「汝」とは誰のことですか。ローマ皇帝ですか。いいえ、天地を創造された神様ご自身ですね。ローマ帝国時代のクリスチャンたちは、礼拝の中で、いのちがけで主の祈りを祈ったわけです。
それでは、どうして世は、クリスチャンを迫害するのでしょう。イエス様は、その理由を説明しておられます。

@クリスチャンは、この世のものではないから

 15章18ー19節でイエス様は、こう言われました。「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」
 ここで言う「世」とは、どういう意味でしょうか。
 ヨハネ福音書では、「世」という言葉がいろいろな意味で使われています。たとえば、3章16節には、「神は実にそのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」と書かれていますが、この「神様が世を愛された」という「世」とは、この世に住む一人一人のことです。
 しかし、今日の箇所の「あなたがは世のものではなく」という「世」とは、「神様なしの秩序」という意味なのです。クリスチャンは、イエス様によって選び出され、「神様なしの秩序」から「神様ありの秩序」の中に移された者なのです。ですから、クリスチャンは世にとっては異質で受け入れがたい存在になるのだ、とイエス様は言われたわけです。
当時のローマ帝国にはおいては、「皇帝は主である」と告白することが求められました。しかし、クリスチャンは、「イエスは主である」と告白していったわけです。ですから、クリスチャンは、国家に対して陰謀を企てる者、謀反者、反逆者と見なされていきました。権力者が最も恐れるのは、民のひるまない勇気です。多くのクリスチャンたちが、「皇帝は主である」と告白する代わりに「イエスこそ主である」と告白し、殉教していきました。その姿は、ローマ帝国の大きな脅威となっていったのです。

A世の人々が、誤った信仰に熱心だから

 迫害のもう一つの理由は、16章2節に書かれています。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」
 迫害する側が「自分は神様の目から見て正しいことをしているのだ」と思い込んでしまうというわけですね。
 「人々はあなたがたを会堂か追放するでしょう」というのは、どういうことかといいますと、「会堂」とは、ユダヤ人たちのコミュニティーセンターのような場所です。そして、安息日に集まって聖書の朗読や礼拝が行わる場所です。ですから、「会堂から追放する」とは、ユダヤ人社会から締め出される、「村八分」にされるということなのです。ユダヤ人の宗教指導者たちは、自分たちこそ神に熱心に仕えているのだと思い込んでいました。ですから、自分たちの教えに逆らい、自分たちの現実の姿を厳しく批判するイエス・キリストを信じる人々を神に逆らうものとして激しく迫害したのです。
 あのパウロの前半の生涯はまさにそうでした。彼は、熱心なユダヤ教の信徒で、厳格に律法を学び実践した人でした。そして、彼は、青年のリーダーでもあり、ユダヤ教の当局者から厚い信任をうけていました。彼は、当時、急速に増えていったクリスチャンたちを見て、イエスを憎むようになりました。それは、クリスチャンたちがイエスを主であり、神なる方であると告白していたからです。パウロには、それは神に対する冒涜だと思われました。そこで、パウロは、クリスチャンを根絶やしにするために迫害していったのです。パウロは、そうすることによって、自分が「神様に奉仕している」と思っていましたから、神に熱心に仕えたいと思うあまり、その迫害はエスカレートしていきました。彼は、自分の生涯を回顧し、こう言っています。「以前は、私自身もナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました」と。
 イエス様は、5章18節で「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」と言っておられますが、クリスチャンが憎まれるのは、イエス様ご自身が憎まれることでもあるということです。
 パウロは、クリスチャンを迫害するためにダマスコに向かう途中、まばゆい光に打たれて倒れました。そして、天から声が聞こえました。「あなたはなぜわたしを迫害するのか」と。
パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」という答えがあったのです。
 イエス様は、「あなたがたはこれから憎まれたり、迫害されたりするけれど、それは、わたしが憎まれ、迫害されているのと同じなのだ」と言われているのです。

B世の人々が神様を知らないから

 次に、16章3節で、イエス様は、「彼らが、こういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです」と言われました。それは、世の人々が父なる神様は、イエス様を知らないのは、知らされなかったからではありません。彼らは、意志的に知ろうとしなかったのです。
 今日から、アドベント(待降節)ですね。イエス様がお生まれになったとき、それを心から喜び礼拝したのは、ほんのわずかな人たちでした。羊飼いたちと当方の博士たちです。当時の社会からはさげすまれていたあの羊飼いたちと、東方の博士たちでした。自分たちは神の選びの民と考えていたユダヤ人から見れば、羊飼いは卑しい人々であり、当方の博士は異邦人にすぎません。神様についてなんの知識も持たない者たちと思われていたのです。しかし、最初に救い主イエス様を知ることができたのは、そういう人たちでした。
 一方、ユダヤ人たちは、どうだったでしょうか。ヨハネ1章10節〜11節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と書かれています。ユダヤ人たちは、自分たちは神様のことをよく知っている、選ばれた民だと自負していました。しかし、神のひとり子が来られたとき、見向きもせず、受け入れようともせず、玄関の扉を開けようともしなかったのです。
 そして、ユダヤ人だけでなく、神を知ろうとしない人々の間には、謝った噂や誤解が広まっていきました。
 たとえば、この福音書が記された当時、ローマ皇帝を礼拝しないクリスチャンたちは、無神論者だと批判されました。また、聖餐式のパンを「キリストのからだ」、ぶどう酒を「キリストの血」と呼んでいたので、「クリスチャンは、人の肉を食べ、血を飲んでいるらしい、なんとおぞましいことか」という噂が立てられました。また、互いに兄弟姉妹と呼び合っているので、近親相姦の噂も立てられました。何かの災害が起こると、クリスチャンのせいで神々が怒って罰を下したのだと考える人たちも出てきました。事ある毎にクリスチャンのせいにされていくのです。雨が降らないと、飢饉があると、伝染病が流行すると、人々はすぐに「無神論者をやっつけろ。クリスチャンをライオンの前に引きずり出せ」と叫んだのです。また、指導者たちは、この世の終わりに神の正しい裁きがあるという教えに、激しい敵意をいだいたのです。
 皆さん、イエス様は、イエス様を愛する一人一人に、聖書の言葉を通してご自分を現してくださいます。ですから、心から神様を求める人は誰でも、神様を知ることができるのです。
 しかし、残念ながら、心を閉ざし、神様を知ろうとしない人々がいます。その人々によって迫害や困難が起こるのは、避けられないと、イエス様は、言われるのです。

2 イエス様の励まし

そう言われると、「私は、迫害に耐えられない、どうしよう」と恐れを感じる方もおられるかもしれませんね。
 でも、聖書の言葉をとどめ歩んでいくのです。第一コリント10章13節には、こう約束されています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」すべてを支配しておられる神様は、私たちの弱さをよくご存じですから、私たちを耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません。そして、かならず、脱出の道も備えてくださるというのです。そして、神なるイエス様が「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。世の終わりまでいつもあなたがたともにいる」と約束してくださっているのです。
 また、イエス様は、今日の箇所で、そういう困難な時こそ、あかしの時になると言われています。15章26ー27節にこう書かれていますね。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」
信じる一人一人には、もう一人の助け主である真理の御霊が与えられます。この「助け主」とは、「傍らで語りかけてくださる方」と言う意味であり、弁護士のようにいつも私たちを弁護し、支えてくださるのです。クリスチャンとして生きていくとき、困難があるし、根拠のないうわさを立てられることもあるでしょう。迫害もあるかもしれません。けれども、聖霊は、私たちにイエス様の言葉を思い起こさせ、教え、励ましてくださるのです。そして、そうした中で一人一人がイエス様をあかしする者にされていくというのです。
パウロもそうでした。イエス様と出会ってからは、幾多の困難に遭いながらもイエス様をあかししていく者となっていきました。捕らえられましたが、それによって、かえって議会や総督や王の前で大胆にイエス様が救い主であることを証言する機会が与えられたのです。
 イエス様は、私たちを選び、実を結ぶ者としてくださいます。その実は、困難や試練を通して豊かに結ばれていくのです。福音の実は、迫害を通して、かえって世界中に広まって行きましたし、私たちの内側にも、艱難や試練を通して練られた品性の実が結ばれていくのです。ですから、ヤコブはこう書いています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」また、パウロもこう言っています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」
 私たちは、今、当時のような厳しい迫害を受けることはありません。しかし、信仰の故に葛藤や困難に出くわすことがあるでしょう。そのとき、内に住んでくださるもうひとりの助け主なる聖霊が支えてくださり、イエス様こそ救い主であることをあかしする者としてくださることを信頼しつつ歩んでいきましょう。
 最後に、第二コリント4章8ー10節パウロの言葉をお読みします。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されてますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」