城城キリスト教会 礼拝説教    
二〇一三年一二月八日             関根弘興牧師
             ヨハネ一六章五節ー一六章一六節

ヨハネの福音書連続説教51
    「真理の御霊」

5 「しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。6 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」
(新改訳聖書)

 アドベントの第二週を迎えました。今日もヨハネの福音書からご一緒に考えていきましょう。
 イエス様は、十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に食卓に着き、ひとりひとりの足を洗い、ご自分の愛を弟子たちに余すところなく示されました。弟子たちは、それまで「この中で誰が一番偉いのか」といつも議論しているような者たちでした。そんな弟子たちに、ご自分の愛と互いに愛し合うことの大切さを身をもって示されたのです。
 しかし、それと同時に、イエス様は、弟子たちに「わたしが行くところにあなたがたは来ることはできない」と言われました。約三年間一緒に生活してきた弟子たちには大きなショックを受けました。ペテロは、「いいえ、たとえ火の中、水の中、どこにでもあなたについていきます!」と言いましたが、イエス様は、そのペテロに「あなたは鶏が鳴くまでに三回わたしを知らないというだろう」と言われたのです。
 弟子たちは、「これからイエス様と一緒にいられなくなるのか」と意気消沈していました。しかし、その弟子たちに、イエス様は、いろいろな約束を語ってくださいました。「あなたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい」「私を信じる者は、私が行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」「わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたは枝です。あなたがたがわたしにとどまるなら、多くの実を結ぶことができます」「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになります」と言われました。また、「もはやあなたがたをしもべとは呼ばない、友と呼ぶ」と約束してくださったのです。
 ただ、それとともに、先週お話したように、イエス様は、「あなたがたは世から憎まれ、迫害をされるだろう。会堂からも追放されるだろう」と言われました。つまり、イエス様が一緒におられる間は、迫害はもっぱらイエス様ご自身に集中していきます。しかし、イエス様がいなくなれば、今度は弟子たちが迫害の的になると言われたわけです。
 さすがの弟子たちも、イエス様の言われていることがもはや理解できなくなり、再び悲しみが襲ってきました。
 そこで、イエス様は、今日の箇所の5節でこう言われました。「しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。」
先ほどまでは、弟子たちの中には「イエス様、あなたはこれからどこへ行くつもりなんですか」と尋ねた者もいましたが、世から憎まれるとか迫害されるとか聞かされたら、もう「イエス様あなたはどこに行くのですか」と尋ねる気持ちも起こらなくなってしまったというわけです。
 イエス様は、弟子たち心をご存じで、6節で「あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」と言われていますね。そんな悲しみいっぱいの困惑した弟子たちに、イエス様は、今までも何度も語っておられる約束を、改めてお語りになったのです。それは、一人一人にもう一人の助け主が遣わされるという約束です。これが、今日の中心的なメッセージです。

1 聖霊が来られる

 イエス様は、7節で、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」とお語りになりました。
 どうして、イエス様が去って行くことが益なのでしょう。イエス様が去って行くことは、弟子たちにはマイナスにしか見えないわけです。それがどうして益なのでしょう。
 イエス様は神であられる方ですが、今から約二千年前に人としてこの地上に来てくださいました。それがクリスマスです。なぜ人として来られたかというと、私たちに神様がどんな方であるかを目に見える姿で示すためであり、私たちが人としてどのように生きていけばいいのか模範を示すためであり、また、私たちの代わりに罪の罰をすべて引き受けてくださり、罪の赦し、救い、永遠のいのちを与えてくださるためでした。
 ただ、イエス様は、私たちと同じ肉体をもって来られたので、人としての制限もお受けになりました。一度に一つの場所にしかいられないということです。もしイエス様がエルサレムにおられたら、同時に別の場所にもいるということは不可能ですね。ですから、人として肉体をもったままのイエス様は、いつでもどこでも私たち一人一人と共にいてくださるということはできないのです。イエス様は「わたしは、あなたを離れず、あなたを捨てない」「わたしは、いつもあなたとともにいる」と約束されましたが、人としておられるままなら、この約束は決して成就することはありません。
 たとえば、イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われましたね。そこで、「よし、イエス様に会いに行こう」と出かけていくわけですが、まず、イエス様のおられる場所に行くまでが大変ですね。時間もお金もかかるでしょう。そして、やっと着いたと思ったら、今度は、大群衆がイエス様に面会する順番待ちの列を作っているわけです。整理券をもらうと、番号は一億五千九百八十七万八千番です。いったいどれだけ待てば会えるのでしょうか。疲れをいやしていただくために会いに行ったのに、待っている間にかえって疲れ切って死んでしまうかもしれませんね。
 だから、イエス様は「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」と言われたのです。イエス様が天に昇られることによって、今度は、もうひとりの助け主である聖霊が遣わされるからです。聖霊は、霊ですから、いつでもどこでもいることができます。信じる一人一人の内に宿ることができます。ですから、私たちは、聖霊が内にいてくださることによって、「神様が私と共におられる」ということを確信して歩むことが出来るのです。
 一方、イエス様は、「わたしは去って行く」と言われましたが、それは、十字架につけられ、葬られ、死からよみがえり、天に昇り、神の右の座に着座されるということです。
 第一ヨハネ2章1節には、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」と記されています。イエス様は、私たちのもとを去って、天に昇り、父なる神の前で私たち一人一人のために弁護してくださっているのです。
 ですから、私たちのために、天においてはイエス様が弁護してくださっており、この地上においては聖霊なる神様が共にいて助け導いてくださるのです。ですから、いつでもどこでも、私たちは守られ、助けられ、弁護されつつ歩むことが出来るということなんです。だから、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」とイエス様は言われるのです。
 それでは、私たちのために遣わされるもう一人の助け主である真理の御霊は、どのような働きをされるのでしょうか。

2 聖霊は、世にその誤りを認めさせる

 まず、8節にはこう書かれています。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
 ここで、「世にその誤りを認めさせる」とありますね。この言葉は、口語訳聖書では、「世の人の目を開くであろう」となっています。また共同訳聖書では、「世の誤りを明らかにする」と訳されています。聖霊の働きは、罪について、義について、さばきについて、世の人々の目を開き、自分たちが間違っていたということを明らかに示してくださるものだということです。では、聖霊は、「罪について」「義について」「さばきについて」、それぞれどのようなことを明らかにしてくださるのでしょうか。

@罪ついて

まず、9節で「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」と記されています。この「信じない」という言葉は、「信じようとしない」という意味です。イエス様の福音を聞いても頑なに拒否する生き方です。その信じようとしないこと自体が罪であると認めさせる働きが、聖霊の働きだというわけです。
 使徒の働き2章を読むと、とても不思議なことが書かれています。
 イエス様が約束された通りに、弟子たち一人一人に聖霊が下り、弟子たちは、聖霊に満たされて、大胆にイエス様が救い主であることを宣べ伝えていくようになりました。
 ペテロがエルサレムにいる何千人もの人たちの前で説教を始めると、どんなことが起こったでしょうか。聖書には、こう書かれています。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。』」そして、その日、三千人が洗礼を受けたというのです。それまでイエス様をあざけり聞く耳を持とうとしなかった人たちが、ペテロの説教に心を刺され、悔い改めて歩むことの大切さに気づいていったのです。どうしてそんなことが起こるのですか。それは、イエス様が言われたように、聖霊が世の人々の目を開いて、罪について明らかに示してくださるからなのです。

A義について

 次に、10節には「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」と書かれています。これは、どういう意味でしょうか。
 ここで言われている「義」とは、「イエス・キリストの義」ということです。つまり、イエス・キリストが正真正銘の義なる正しい方であるということを聖霊は一人一人の目を開いて教えてくださる、ということです。
 イエス様は、「あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」と言われていますが、そのこととイエス様が義なる方であることとは、どんな関係があるのでしょうか。
 当時の社会では、十字架につけられる者は、呪われた者であり、罪人の中でも特に罪の深い者であると考えられていました。義とは正反対の者と見なされていたのです。
 しかし、イエス様は、十字架につけられた後、復活し、天に昇り、神の右の座につかれます。イエス様が「あなたがたは、もはやわたしを見なくなる」と言われたのは、そのことです。不義なる者は、神の前に出ることなど出来ません。まして神の右の座につくなどありえないことです。しかし、イエス様は、完全に義なる方として、神の右に座すことができる方なのです。
 世の人々は、十字架についたイエス様を、罪人の一人に過ぎない、罪ある人間の一人にすぎないと考えました。しかし、聖霊は、イエス様が神の御子であり、完全に義なる方であるということをはっきりと示してくださるというのです。

Bさばきについて

 それから、11節には「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」と書かれています。
 「この世」とは、「神様なしの秩序」という意味です。この神様なしの世界を支配している者がいる、と聖書は教えています。それは、サタンのことです。しかし、サタンは、すでにさばかれたのだ、ということを聖霊は教えてくださるというわけです。
 サタンの最終的な武器は「死」です。しかし、イエス様は、十字架で世の人々の罪を背負い呪われた者となって死なれましたが、三日目に復活されました。つまり、イエス様は、サタンの最大の武器である死を打ち破ってくださったのです。それは、サタンの敗北が決定的になったことを意味しています。
 聖霊は、イエス様が死を打ち破ってくださったので、私たちも死を乗り越えた永遠のいのちが与えられるということを教えてくださるのです。私たちは、落ち込み、疲れ、心配し、悩むことが多いですね。しかし、聖霊は、そんな私たちを励まし、助けを与え、導いてくださるのです。

 イエス様は、真理の御霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世に明らかにされると言われました。人々がイエス様のもとに導かれ、心を開いて、イエス様を救い主として受け入れていく背後に、聖霊の働きがあるのです。私たちがイエス様を救い主として信じ、こうしてここに集まり、礼拝を献げ、クリスチャン生活を送っているその背後にも聖霊の働きがあるのです。私たちは、聖霊の働きによって、イエス様を信じ、赦しと恵みの中で、永遠を見つめながら生きていくことが出来るようになったのです。

3 聖霊は、私たちをすべての真理に導き入れてくださる

 13節で、イエス様は、こう言われました。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」と。
 この13節を読んで、いくつか誤解をする人がいます。
 一つは、「クリスチャンになると、何もしなくても、どんな分野の真理も聖霊が理解できるようにしてくれるから、学ぶ必要がない」という誤解です。しかし、そうではありません。私たちには、きちんとした学びが必要です、自分からたくさんの知識を学んでいこうとすることは大切です。しかし、私たちが学んでいく中で、聖霊は、一人一人の能力や才能を用いて真理に導いてくださるのです。そして、人生のあらゆる分野で、イエス様の心を思い起こさせて、イエス様の心を持って生きていけるように助けてくださるのです。
 もう一つの誤解は、「聖霊がやがて起ころうとしていることを示してくれるというのは、将来起こることを示してくれるのだろう。誰もが予言者になれるのだ。聖霊が示してくれるなら、聖書は読まなくてもいい」という誤解です。そして、聖書から聞こうとしないで、ただ神秘的なものを求め、自分勝手な思い込みを聖霊の声だと勘違いしてしまうこともあるのです。
 ときどき、神様から預言が与えられたと言われる方がいます。もちろんそういうこともあるでしょう。しかし、それが聖書からかけ離れ、まるで新しい真理かのように語られるなら、それは聖霊によるものではありません。またそうした内容を新しく聖書に付け加えたり、聖書のある部分を無視したり、聖書以外の権威を持ち出したりするなら、聖書の真理から離れていくことになってしまうのです。
 そのようなことにならないように、聖霊の働きについて大切なことを覚えておきましょう。

@聖霊の働きは、常に聖書と調和している

まず、聖霊の働きは、必ず聖書の内容と調和しているということを覚えておきましょう。
 聖霊は、私たちが聖書を読むときに、聖書に書かれている真理を理解することができるように助けてくださいます。また、聖書の言葉を用いて私たちを導き、励まし、精錬し、成長させてくださるのです。また、私たちは、聖書の言葉を蓄えることによって、良いものと悪いものを見分ける判断力も備わっていきますが、それも聖霊の働きによるのです。

A聖霊は、イエス・キリストの栄光を現す

 もう一つ覚えておきたいのは、14節にあるように、聖霊の働きの中心は、イエス・キリストの栄光を現すことだということです。神であられる方なのに、人となってくださった方、それがイエス様です。ですから、イエス様が神であることを否定したり、逆に、イエス様が本当に人となって来てくださったことを否定するのは、聖霊の働きではありません。
 13節に、聖霊は「やがて起ころうとしていること」を私たちに示すと書かれていますが、この「やがて起ころうとしていること」とは、何でしょうか。それは、ここでイエス様が弟子たちに語られた後に起こること、つまり、イエス様の十字架、復活、昇天の出来事を意味しているのです。
 神であられるのに人となって来られたイエス様が、私たちの代わりに十字架について罪の問題をすべて解決してくださり、復活によって死を打ち破り永遠のいのちをもたらしてくださり、昇天して聖霊を送り、いつも「神が私たちと共におられる」と確信して歩むことができるようにしてくださる、その救いの恵みのすばらしさを聖霊は示してくださいます。
 そして、聖霊は、常にすべての人にイエス・キリストを思い起こさせ、聖書を通してイエス様がまことの救い主であることを示し続けてくださいます。常にイエス様の栄光を現す働きをしておられるのです。

 このクリスマスの時期、私たちは一人でも多くの方がイエス様と出会い、イエス様の与える豊かないのちを受け取ることができるようにと願います。そのために、イエス様が約束されたように、聖霊が、家庭において、また、友人、身近な人々の中において豊かに働いてくださり、イエス様のすばらしさが明らかにされていくよう求めていきましょう。