城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一四年一月五日              関根弘興牧師
               ヨハネ一六章一七節ー三三節

ヨハネの福音書連続説教52
    「勇敢であれ!」

17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」と言った。19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。25 これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。27 それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。28 わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」29 弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。30 いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」 31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。 32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(新改訳聖書)


 今日から、またヨハネの福音書の連続説教を再開します。まず、今までの復習をしましょう。
 イエス様は、十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に最後の食卓に着き、ご自分の愛を弟子たちに余すところなく示されました。弟子たちは、いつも「この中で誰が一番偉いのか」と議論しているような者たちでしたが、イエス様は、そんな弟子たち一人一人の足を洗い、ご自分の愛と互いに愛し合うことの大切さを身をもって示されたのです。
 それと同時に、イエス様は、「わたしが行くところにあなたがたは来ることはできない」と言われました。約三年間イエス様と共に生活してきた弟子たちは、その言葉に大きなショックを受けました。ペテロは、「いいえ、たとえ火の中、水の中、どこにでもあなたについていきます!」と言いましたが、イエス様は、そのペテロに「あなたは鶏が鳴くまでに三回わたしを知らないと言うだろう」と言われたのです。
 弟子たちは、「これからイエス様と一緒にいられなくなるのか」と意気消沈しました。しかし、その弟子たちに、イエス様は、いろいろな約束を語ってくださいました。「あなたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい」「私を信じる者は、私が行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」「わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたは枝です。あなたがたがわたしにとどまるなら、多くの実を結ぶことができます」「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになります」と約束してくださいました。また、「もはやあなたがたをしもべとは呼びません。友と呼びます」と言われたのです。
 しかし、イエス様は、「あなたがたは世から憎まれ、迫害をされるだろう。ユダヤ人の会堂からも追放されるだろう」とも言われました。つまり、イエス様が一緒におられる間は、迫害はもっぱらイエス様ご自身に集中していきます。しかし、イエス様がいなくなれば、今度は弟子たちが迫害の的になると言われたわけです。
 さすがの弟子たちも、イエス様の言われていることがもはや理解できなくなり、再び悲しみが襲ってきました。イエス様は、そんな弟子たちの心をご存じで、「あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっていますね」と言われ、困惑した弟子たちに、「安心しなさい。わたしが去ったあと、今度は、一人一人にもう一人の助け主が遣わされる。だから、わたしが去って行くことはあなたがたにとって益なのです」と言われたのです。
 けれども、そのあと、また、「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と言われたものですから、弟子たちは、いったいイエス様が言われたことは、どういうことなのだろう、と首をかしげてしまいました。
 今日の箇所は、その続きです。イエス様は、戸惑っている弟子たちに、さらに詳しくお語りになりました。その内容を学んで生きましょう。

1 悲しみが喜びに変わる

 まず、イエス様は、ご自分にこれから起こることを出産にたとえてお話しになりました。出産の苦しみには激しい痛みが伴います。しかし、その激しい苦痛はやがて喜びに変わるわけですね。生まれた赤ちゃんを見る喜びで、苦痛は過去のものとなってしまいます。
 イエス様は、このたとえを通して大切なことを教えてくださっています。
 イエス様は、これから逮捕され、激しい苦しみに遭い、遂には十字架につけられるわけです。十字架につけられ、苦しみながら死んでいくイエス様を見て、20節で「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです」と言われているとおりのことが起こりました。マルコ16章10節には、「マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた」と記されていますから、弟子たちはイエス様の死を嘆き悲しんだのです。
 しかし、その後、イエス様は復活し、弟子たちの前に現れてくださいました。その時、弟子たちの悲しみは、喜びに変えられたのです。
 出産の苦しみの後に新しいいのちが誕生して大きな喜びがあるように、イエス様の十字架による嘆き悲しみは、イエス様の復活によって大きな喜びに変わるのです。イエス様の復活によって、十字架は、罪の赦しと救いと新しい人生をもたらす愛と恵みのしるしであることが示されるからです。ですから、イエス様は、22節でこう言われました。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」 
 旧約聖書にも、そのことについて預言されている箇所がいろいろあります。たとえば、詩篇30篇11節には、こう記されています。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」また、イザヤ35章10節には、こう書かれています。「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」
イエス様が十字架につけられたことによる弟子たちの大きな嘆き悲しみは、イエス様の復活の事実の前で逃げ去っていくのです。私たちの人生においても、同じことがおこります。私たちは嘆き悲しみを避けて通ることは出来ません。しかし、十字架につけられ、復活されたイエス様が私たちと共にいてくださるので、悲しみが喜びに変えられ、希望をもって歩むことが出来るのです。 

2 祈りの喜びが与えられる

 次に、イエス様は、23節-24節で、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。イエス様のお名前によって祈り求めていくときに、祈りの答えを得ながら、喜びに満たされていくようになるというのですね。
 これは、祈りを通して、イエス様が今も生きておられることを味わい、知ることが出来るということです。この一年、私たちは祈り中で主イエス様の現実を味わっていきたいですね。「求めなさい、そうすれば与えられる」ということを実際に味わいながら歩んでいきたいですね。祈りは、私たちが喜びに満ちあふれる者となるために神様が与えてくださったすばらしい恵みのツールです。
 しかし、次に、26節-27節で、イエス様は不思議なことを言われました。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」と。
 ここで、イエス様は、「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言っておられますが、皆さんは、「あれっ?ちょっと変だぞ」と思いませんか。
 今までこの福音書から教えられていたのは、イエス様が十字架につけられ、葬られ、三日目に復活され、天に昇り、み父の御前で私たちのために絶えず弁護してくださっている、とりなしてくださっているということでした。
 そのことは、聖書の他の箇所にも記されています。
 たとえば、ローマ8章34節には、こう書かれています。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
 また、第一ヨハネ2章1節には、こう書かれています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」
 ヘブル7章25節にもこう書かれています。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
 イエス様は、私たちのために、父なる神の御前でいつも祈ってくださっています。ところが、今日の箇所では、イエス様は、「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言われていますね。これは、どういうことなのでしょうか。
 イエス様がここで、「あなたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言われたのは、「もうあなたの代わりに祈るのはやめる」と冷たく突き放されたわけではありません。そうではなく、「もうあなたを赤ちゃん扱いしないよ」ということなのです。皆さん、赤ちゃんは、スーパーに行って買い物が出来ますか?「これください」と頼むことができますか?無理ですね。赤ちゃんは自分では何にも出来ないので、誰かが代わってやらなければならないわけですね。
 しかし、イエス様は、弟子たちにこう言われたわけです。「わたしが十字架につき、三日目に復活し、天に昇り、もう一人の助け主である聖霊があなたがたの内に宿られるとき、あなた方は、もはや赤ちゃんのように何もできないのではなく、一人前の神の子として、自分で父なる神様の御前に出て祈ることができるのだよ」と。
 イエス様は、もちろん、いつも私たちために父の御前でとりなしてくださっています。しかし、最初は恐れおののいていた弟子たちが、復活のイエス様にお会いし、聖霊を与えられてからは、誰かに代わってやってもらわなければ何もできない赤ちゃんような者ではなく、しっかりと立ち上がって大胆にイエス様の名によって父なる神様に求めて歩むことが出来るようになる、ということなのです。

3 勇敢であれ

 そして、イエス様は、この章の最後にすばらしいメッセージをお語りになりました。
 16章33節に書かれています。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 イエス様が、弟子たちにお話になった目的は、弟子たちが「平安」を持つためだというのです。
 「平安」とは何でしょう。
 聖書は、神様と私たちとの関係がずれてしまったために本当の平安を持つことができなくなったことを教えています。
 人は自分勝手な道を選んだために神様との関係がずれてしまい罪ある者となってしまいました。完全に義なる神様は、罪ある者に対して、正しいさばきをする方です。罪のあるままでは人は神様にさばかれる存在であり、神様の前で平安を得ることはできません。
 しかし、イエス様は、一人一人が平安を持つことが出来るようになるために来てくださいました。イエス様が、人の罪をすべて背負って十字架でさばきを受けてくださったので、私たちは、神様の前で罪のない者と認められ、神様と親しい関係を持つことが出来るようになったのです。イエス様の十字架によって罪赦された私たちは、安心して神様の御前に出て、何のわだかまりもなく、「アバ、父よ(おとうちゃん)」と叫び求めること出来るようになりました。イエス様が神様と私たちの間の架け橋となり、ずれていた関係を修復してくださったのです。
 そして、罪を赦された一人一人が、良心の呵責から解放され、赦されていないのではないかという不安や恐れから解放され、神様によって赦され愛されているという心からの安心を得ることが出来る、そして、それを毎日の生活で味わうことが出来るのです。それが、イエス様がもたらしてくださる「平安」です。
イエス様は、私たち一人一人に、「安心しなさい」と呼びかけてくださっていると、私は強く確信しています。「あなたに平安を与えるために、わたしは来たのだ。さあ安心しなさい」と。「あなたがたは、世にあっては患難があるだろう、しかし、安心しなさい」と。
 さらに、イエス様は、「勇敢でありなさい」とも語ってくださっています。本当に安心できたときに、勇気が湧いてきます。赦され、愛されているという安心があると、問題に立ち向かう勇気が出てくるのです。
 そして、イエス様は、「わたしはすでに世に勝ったのです」と言われました。世とは、「神様なしの秩序」ということですね。神様なしの秩序で動いている世の中にあっても、私たちから、イエス様の愛、いのち、赦しを奪い去ることができるものは何もないということです。イエス様がすでに世に勝ってくださったので、そのイエス様につながる私たち一人一人も、世に勝つ者として歩むことが出来るのです。
このことについて、聖書の約束を読みましょう。
 まず、第一ヨハネ5章4-5節です。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
 また、ローマ8章31-37節にはこう書かれています。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」